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稜線  作者: 竹取裕基
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第九章

第九章




 それから、四か月たった。

日々は平和に過ぎた。月に一度、「ひだまり通信」という機関紙が届いた。機関紙と言っても立派なものではなく、A4サイズの紙が三枚ほどの、明らかにパソコンで作成した質素なものであったが、寮生たちの生活ぶりや、就労の様子、学習会での様子だとか、みんなで一緒に近くの山でハイキングをした様子だとか、寮生の体験談だとか、「ひだまりのいえ」OBで、退所後、就職に成功して社会復帰した人が「職場体験記」を寄稿していたりしていた。

 静子も、裕二を心配する毎日から精神的に解放されたのか、最近では近所の老人会で絵画教室に参加して、絵画教室での交流を楽しむようになった。新しい友達もできて、楽しそうである。

 また、幸三自身も、現役時代夢中になっていたゴルフを、最近復活させた。かつての同僚でゴルフ仲間でもあったメンバーを集めて、時々コースを回るようになったのだ。

 不思議なもので、ゴルフをしていると、若かったころの自分に還れるような気がするのであった。

 最近の裕二の様子は、「ひだまり通信」とは別に、個別に送られてくる「寮生記録」に書かれていた。最近では、少ないながらも友人もできて、作業所へ週三回、作業に出ていくようになったとの事だ。だんだんと作業所へ行く日数を、増やしていく予定だとの事である。

 入所してしばらくは、暴言を吐いたり終日部屋に閉じこもったりしていたそうだが、最近ではそのようなことはなく、所内での生活を楽しんでいるという。

 この前、夫婦で久しぶりに旅行に行った。行先は、道後温泉である。道後温泉は、愛媛県松山市にある名湯である。日本三古湯の一つと呼ばれている。また、夏目漱石の有名な小説「坊ちゃん」にも出てくる温泉だ。松山駅から、路面電車に乗って、道後温泉本館に行き、「霊の湯」「神の湯」などにつかり、二階の休憩室でゆっくりとしていると、まるで別世界にいるような気持になれた。

 裕二で長年悩んできたのだが、その悩みがまるで解決されたような気がしてきたのだ。

 ――三百万円を払った時には正直、悩んだが、なんだかんだ言っていい方向に向かっているような気がする。

 そう思える日々が、続いていたのである。

 そんな平和な日々のある日のこと。

 ふと、ある日の夕方。

 テレビを見て、くつろいでいると、自宅の玄関にある電話のベルが鳴ったのである。

 昨今では、固定電話にかけてくるのは、オレオレ詐欺か、悪質なセールスマンが多いので、電話に出ずにいると、留守番電話が作動した。

「ただいま、留守にしております。ピーという発信音の後に、二十秒以内でご用件をお伝えください……」

 無機質な女の音声が、響き渡った。

 ――どうせ、どこかのセールスマンがしゃべるんだろう。

 案の定、かかってきた電話の相手は、株式を売りつけようとしている証券会社のセールスマンであった。

 ――くだらない電話だ。出なくて正解だ。

 そう思った。

 そう思った矢先の事である。

 今度は、スマホが鳴り始めた。

 スマホの操作にあまり慣れていない幸三は、面倒くさいと思いながらも、スマホを見た。

 「ひだまりのいえ」からである。

 ――いったい、何だろう?

「もしもし。一之瀬ですが?」

 声の相手は、山田だ。

「……裕二さんの行方が解らなくなりました」

「え?」

「……今朝の点呼の際にはいたのですが、昼食の際にはいなくなっており、寮生や職員も総出で探したのですが、見つかりません」

「そんな……」

 幸三は絶句した。

「一応、警察署にも届け出ましたが、行方がどうしてもつかめないのです……昨日までは普通に過ごされていたので、我々も驚いています」

「……それは困りましたね」

「ええ、おうちの方にも裕二さんから連絡はありませんか?」

「いえ、ないですね」

「そうですか、わかりました。ご迷惑をおかけしました」

「こちらこそ」

 通話が切れた。

 裕二が、行方をくらましたのだ!

 ――いったい、どこへ行ったのだ?

「静子!」

 幸三が、大声を出した。

「おーい、静子!」

 静子の返事はない。

 庭にでもいるのだろう。

 ガラス戸をあけて、庭に降りた。

 案の定、庭で洗濯物を取り込んでいる様子であった。

「なによ」

 静子が洗濯かごを持ちながら、こちらに歩いてきた。

「大変だ、ちょっと来てくれ」

「もう……なによ」

 面倒くさそうに静子が洗濯かごを部屋に置くと、そこから入ってきた。

「大変だよ、裕二がいなくなったんだ」

「え?」

「施設から、いなくなったらしい」

「そんな……施設ではそれなりにやっていたんじゃないの?」

「そう思うんだけれど……昨日までは、普通に過ごしていたらしい。朝の点呼の時間にはいたのが、今日の昼食時にいないことがわかって大騒ぎになったらしいんだ」

「そんな……急にいなくなるなんて」

 静子も驚きを隠せない様子だ。

「何があったのかしら?」

「わからん。施設の方から、こちらに連絡はないか? って、問い合わせがあった」

「ないわね、確かに」

「ああ。それにしても、困ったものだ」

「とりあえず、警察には言ったのかしら?」

「施設の方でも、警察には届け出を出したと言っていた」

「じゃあ、大丈夫じゃないかな」

 静子は、少し安心したような風にも見えたが、その表情には、やはり裕二の事を心配している心が強く表れていた。

「とりあえず、様子を見るしかないな。あいつも、連絡してくるかもしれないし、ひょっとしたらこちらに来るかもしれないぞ」

「そんなお金あるかしら?」

「電話を掛けるぐらいの金はあるだろう」

「そうだといいけれど」

 そう言うと、静子はまた心配そうな目で、窓の外をみた。

 





 それから一週間がたった。

 結局、裕二から連絡はなく、「ひだまりのいえ」からは連絡があったが、やはり見つからないという話であり、家に帰っていないかと尋ねる電話であった。

 警察にも言ってある、という話だったが、幸三も近所の警察を訪れて、改めて行方不明届を出して捜索を依頼してきた。

「しかしね、お父さん。裕二さんも、もう大人ですからね、事件性もなく、自分の意志で行方をくらましたとなると、警察も正直なところ、探せないものなのですよ」

 対応に応じた警官は、面倒くさそうにそう言いながら書類に記入していた。

 実際のところ、事件性でもない限り、警察が本腰を入れて探してくれるとは思えなかった。

 日本で、行方不明になる人は、年間十万人以上いると、どこかで聞いたことがある。

 もしそうならば、裕二が行方不明になったとしても、十万人もいる行方不明者のたった一人だ。それも事件性が感じられないとするならば、実際には警察は探さないだろう。

 ――裕二は、今頃どこで何をしているのだろうか?

 幸三は、そう思うとだんだん心配になってきた。

 もしかしたら、どこかの橋の下で震えているのではないだろうか、どこかの駅の通路の片隅で、段ボールの上で寝転がっているのだろうか? それとも、もうどこかで死んでしまったのではないだろうか?

 そんな最悪の状況をふと、考えてしまうとますます不安が増してきた。

 ――もう、一週間だ。普通なら連絡の一つぐらい、あってもいいじゃないか。

 そう思うと、ますます不安が増してくるのであった。

 ――家にいても、不安が増してくるだけだ。

 どこかへ、行こう。

「ちょっと、出かけてくる」

 そう言って、車に乗り込んだ。

 エンジンをかけて、夕闇のなか、走り出した。

 気がついたら、また海に来ていた。

 千代崎海岸だ。

 すでに人はおらず、海は夜の闇に覆われていた。

 堤防で車を止め、パワーウィンドウを下ろすと、暗い海の波のうねりが聞こえてきた。

 車から、降りて堤防を越えて砂浜を歩いてみた。

 遠くの街の灯りや、堤防を照らす街灯がうっすらと砂浜を照らしている。

 だけど、黒い夜の海が、そこにはあった。

 暗い、夜の海が、そこにはあったのだ。

 絶望的に暗い夜の海を見ていると、まるで幸三は自分自身の人生を見ているような気がしてきた。 

 いたたまれない気分になって、あわててその場を立ち去った。

 





 自宅に帰ると、あわてて静子が玄関に飛んできた。

「お父さん、テレビ見て!」

 急いでリビングに行くと、なんと「ひだまりのいえ」の事がニュースでやっている。

 事務長が、「ひだまりのいえ」の金、二千万円を横領して逃げたらしく、「ひだまりのいえ」が警察に被害届を出したのだそうだ。ほかにも余罪がありそうだという。

 以前、ニュースでひきこもりを連れ出す様子も流されて、恵子や山田が説得したり、ひきこもりと口論になっている様子も流れていた。

「事務長って、あの山田さんじゃないか」

 幸三が、テレビの画面を見ながら呆然と言った。

「山田さんって、そんなことをしそうな人には見えなかったのに……」

 静子も驚いていた。

「人間って、解らないものだな」

 幸三はそうつぶやいた。

「それにしても、裕二はいったいどうしているのだろう……」

「……わからない。何もないといいけれど」

「ああ」

「そろそろ家に連絡でもあるといいのに……」

 静子がそう言いながら、テレビを見ていた。




 その翌日の朝の事である。

 突如、自宅にかかってきた電話に、幸三は驚愕した。

 なんと、裕二が、横浜で逮捕されたのである。

 裕二が所持していた免許証から、身元が割れた。

「こちらは、神奈川県警港北警察署刑事課の大沢と申します。……本日未明、一之瀬裕二名義の免許証を所持する被疑者を逮捕したのですが、お宅のご子息で間違いありませんね?」

 幸三は、絶句した。

「え、ええ。裕二です。息子の。間違いありませんが、いったい何をしたのですか?」

「……駅前のコンビニで、万引きした容疑で身柄を確保しました」

 ――万引きとは! なんと恥ずかしいことをやってくれたんだ!

 思わず怒りが湧いてきた。

「何でそんなことを!」

「……一応、事情を聞きましたが、所持金が二十円しかなく、空腹のあまりおにぎりを三個万引きした、との事です。身柄引き受け人となっていただくため、こちらまで来られますか?」

「わかりました。あの、ご迷惑をおかけして本当に申し訳ありませんでした」

「わかりました。いつごろ、来られますか?」

「昼ぐらいになるかも知れないのですがよろしいですか?」

「わかりました。お待ちしております」

 そこで、電話が切れた。

「静子、大変なことになった」

「え、どうしたの?」

 静子は、トレーにコーヒーカップを二つ載せて持ってきたところだった。

「……裕二が、見つかった」

「え!」

 一瞬、うれしそうな表情を浮かべた。

「だがな、万引きで逮捕されたんだ、横浜で」

「何てことなの……」

「俺は、腹が立って仕方がない……本当に恥ずかしい奴だ……でも……生きていたんだ」

 幸三は、そういうと、怒りと安心感がまぜこぜになったような複雑な感情をどう表わしたらいいのかわからなくなった。

「横浜の港北警察署から電話がかかってきて、裕二の身柄を引き取ってくれ、との事だ。今すぐ横浜に行かねばならん」

「わかったわ、すぐ支度するわ」

 幸三と、静子は、あわてて用意をした。






 ……その足で近鉄四日市駅まで車を飛ばし、そこから近鉄で名古屋駅に行き、新幹線に飛び乗った。

 新横浜駅に着いたのは、午後一時半ぐらいになっていた。そこから徒歩で十分ほどのところに、港北警察署はある。

 四階建ての大きな警察署だ。

 幸三と静子は、受付に事情を話すと、二階につれて行かれた。そこの控室で待たされていると、しばらくして、両脇を刑事に抱えられた裕二が出てきた。

 髪は少し伸び、そして

少しやせた感じがしていた。ジーンズをはき、薄汚れたジャンパーを着ていた。

 裕二は、能面のように黙りこくっていた。

 そんな裕二を、見るなり幸三が激しく叱った。

「お前は何と言う事をやってくれたんだ! 恥ずかしいとは思わないのか!」

 静子が止めるのも聞かずに、幸三は怒鳴り続けた。

「施設から脱走するわ、万引きはするは、お前はいったい何をやっているんだ! お前をあの施設に入れるのにいくらかかったと思っているんだ! それもこれもすべてお前が悪いんじゃないか!」

 裕二は黙っている。

「一之瀬さん、こんなところでそんな話をしないでください。とりあえず、身柄引き受け人になっていただけますね?」

 刑事に、たしなめられ、幸三は頭を下げた。

「すみませんでした。お恥ずかしいところを見せてしまいました」

 幸三は、深々と頭を下げたが、裕二はまるで能面のような表情をしていた。

 




 手続きを終えて、裕二の身柄を引き取り、港北警察署を後にした。

 新横浜から新幹線に乗り込んでも、裕二は黙ったままだった。

 静子が何かを話しかけても、「うん」とか、「ちがう」といった、片言の返事をするだけで、ほとんど黙っていた。そんな裕二に、静子も、ほとんどしゃべらなくなった。

 幸三は、怒りのあまり、ずっと黙り込んでいた。

 





 ……家に帰ると、夕方になっていた。簡単な夕食を食べた後、裕二は黙ってまた二階の自分の部屋に籠ってしまった。

 幸三が説教してやろうと思ったが、静子に止められた。

「今日は、やめておこう」

「……しかし」

「今言っても、あまり効果ないと思う」

「……わかった。施設には電話するか?」

「……今日は、やめておこうよ」

「……」

「……生きて帰ってきただけでも、良かったんじゃない?」

「生きて?」

「……どこかで事故にあったり、自殺していた可能性もあるわよ。それに比べたら」

「まあそうだが……」

「……あの施設も、問題のありそうな所じゃないかしら」

「確かに事務長が、金を横領しているようなところだ……」

「施設そのものが、信用できないんじゃない?」

「かも知れないな」

 そんな会話をしているうちに、夜も更けていった。


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