第八章
第八章
それから、一週間後。
秋も深まり、いよいよ冬に一歩、足を踏み入れた季節になった、ある晴れた日の午後の事であった。
リビングでテレビを見ていた幸三が、ふと漏らしたのである。
「あいつ、どうしているかな?」
ふと、裕二の事が気がかりになった。
裕二が緊急保護されて以来、何度か「ひだまりのいえ」に電話をかけた。
しかし、そのたびに恵子は、
「元気にされていますよ」
と、言うだけであった。
実際に会ってみたいと申し出ると、
「今は大切な時期ですので、親御さんとの接触は極力控えていただいております」
と、言うだけで詳しい状態を教えてくれなかった。
――ちょっとぐらい、状況を教えてくれてもいいじゃないか。
そんな不満がわいてきていたのである。
それにしても、裕二が緊急保護されていくときに絶叫していた様子が、いまだに脳裏に残っていた。
――はたして手錠までかけて、連れて行くことが正しかったのだろうか?
そんな疑問も、ときおりわいてきていたのである。
「ちょっと、お父さん!」
息せき切って、静子がリビングにやってきた。
「なんだ、どうした?」
「これ、見てよ!」
「ん?」
静子がそういって差し出したものは……。
「特別支援費お支払いのおねがい」
と書かれた手紙であった。
差出人は、「ひだまりのいえ」事務局となっている。
内容を読んで幸三は心臓が止まるほど驚いた。
「……このたび、お支払いのご案内をさせていただきました理由は、今月十日にお支払いとなっておりました特別支援費(緊急保護に関する費用)が、まだお支払いになっておりません。つきましては……」
と文面が続いている。
「……つきましては、来月十日までに、事務局あてに銀行振り込みしていただきますようお願いします」
その特別支援費の費用は、三百万円であった。
これに、緊急保護に要した費用が実費で加算され、実際には三百五万円の請求となっていた。
「なんだ、これは!」
思わず幸三は大声を出して驚いた。
「三百万円なんて! ふざけるな!」
文面には、まだ続きがあった。
「……期日までにお支払いいただけない場合は、遅延損害金(年利15.5パーセント)上乗せの上、当法人の顧問弁護士による法的手段も検討させていただきます」
と続いている。
――法的手段とは……。
告訴するという意味か?
――とりあえず、電話しよう。
受話器を上げて、「ひだまりのいえ」に電話をした。
事務員の女が、恵子も山田も不在であると伝えてきた。
幸三は、帰り次第、後から電話をするように伝えて、電話を切った。
「三百万円なんて、あまりにもひどいじゃないか」
幸三は、興奮が収まりきれず自分の手が震えているのを感じた。
「そうね、いくらなんでもあまりにもひどい」
「そう言えば、あの契約書はどうした?」
「あの時の?」
「ああ」
「持ってくるわ」
静子が持ってきたその契約書は、「特別支援承諾書」と書かれている文字のほかは、ルーペでも使わない限り、読めないような小さな字でびっしりと書かれていた。
「なんて書いてあるんだ」
見た感じは、読めない。
老眼のひどい幸三には、ちょっと読めそうになかった。
代わりに静子が、ルーペを使いながら丹念に読んだ。
「え! そんな!」
静子が大声を出した。
「どうしたんだ!」
「ここに、こう書いてあるわ」
静子が指差した先を、ルーペを使って読んでみようとしたが、よく読めない。
「読んでみてくれ」
「えっと……『特別支援における緊急保護費は、三百万円とする。これに実費が加算される』って、書いてある」
「なんだと! ほかに何か書いていないか?」
「ほかには……『また、入所契約日より起算して一か年以内の解約は、違約金一千万円とする』って、書いてある!」
そう言うと、静子は絶句した。
幸三も絶句した。
契約解除すると違約金一千万円……。
そんな馬鹿な。
しかし、この前の恵子との会話を思い出した。その際、恵子が言っていたように業者によっては、三か月で五百万円というところもあるらしい。高額なのが相場なのかも知れない……しかしそれにしても、高すぎる気がした。
それに、違約金一千万円とは、明らかに法外な気もする。
その時、リビングにある電話が鳴った。
静子が受話器を取った。
「はい、一之瀬ですけれど……はい、主人に代わります」
静子が、黙って受話器を差し出した。
「ひだまりのいえ」からだろう。
「もしもし、一之瀬ですが? 山田さん、え? 顧問弁護士の井上さんに代わる? はい、あ、もしもし……え? え? そんな事って……」
最初こそ語気が荒かった幸三は、顧問弁護士の井上と会話し始めると、だんだんと、ときおり困惑したような声を出して会話をしていた。
その様子を、静子が心配そうな顔で傍らから見つめていた。
十五分ほど話した後、幸三が受話器を置いた。
「……この前、『緊急保護』の時に書かされた契約書ではなくて、最初に書いた契約書に書いてある、っていうんだ。静子、この前の契約書って、まだあるか?」
「あるわよ。持ってくるわ」
静子が、二階へ行き、封筒を一つ、持ってきた。
その中に、この前の契約書の「控え」が入っていたのだ。
……ルーペを使いながら、契約書を隅から隅まで読んでみた。
確かに、「特別支援に関する費用」の項目に、『緊急保護』の欄があり、その費用は三百万円と書かれていた。
また、契約解除に関する違約金だが、よく読んだところ、『双方の合意なき一方的な解約』とされており、「原則一か年」となっているのだが、事情によりその期間は三か月まで短縮される、と書かれている。
「どうだった?」
「確かに、緊急保護をすると、三百万円となっている。また、違約金だが、原則一か年となっているが事情により三か月まで短縮されるとは書いてあるんだ」
「そうなの……で、電話はどうだったの?」
「最初は、山田だったんだが、そのうち顧問弁護士の井上という男が出て、三百万円を支払わないと、刑法の詐欺罪で告訴する可能性がある、と言っていた。契約書にサインした以上、支払う義務がある。それを支払わないと場合によっては詐欺罪に相当する……と言いやがった。……契約書を交わした以上、守ってもらわねば困る、こちらも契約に従って支援をしているのだから……とか言っていた」
幸三は、肩を落としていた。
――小さな文字で書いてあったとはいえ、見落としてサインしたのは俺のミスか。
それにしても……。
「ただ、違約金一千万円の件だが、実際には三か月以内の解約が相当すると言っていた」
「そうなの……」
「どちらにせよ、三百万円は支払わなければならないらしい」
「……三百万円も……」
「ああ。いいよ、俺の口座から払うから心配するな。家の金には手を付けたくないからな」
「……」
「それより、ねえ」
静子が言った。
「なんだ」
「裕二はどうなの? ちゃんとやっているのかしら?」
「ああ、裕二は元気だと言っていた。最近では、昼夜逆転が直ってきたそうだ」
「それならいいけれど」
「……なんだかすっきりしないが……三百万円は支払うしかなさそうだ。今日、振り込んでくるよ」
幸三は、そう言うと、肩を落とした。
「わかったわ」
静子も、声を落とした。
その二週間後の昼ごろ。
郵便受けに一通の封筒が配達された。
その手紙には、差出人が「一之瀬裕二」と書かれていた。
郵便受けで封筒を見つけた幸三は、あわててそれを静子のもとへ持って行った。
「裕二から手紙が来たぞ!」
「本当に?」
静子も興奮が冷めやらない様子だ。
震える手で、封を切った。
中には、白い便箋が二枚、入っていた。
それを読んでみた。
「前略 こんにちは。裕二です。この前は、心配かけてすみませんでした。こちらの量につれてこられたときは、正直お父さんやお母さんを恨みましたが、最近はだんだんとこの生活にも慣れてきました……昼夜逆転も最近は治ってきて、朝は六時に起きる生活になりました。まだ、就労支援は受けていませんが、代わりに学習会に参加していろいろと勉強しています。お父さんも、お母さんもお体に気を付けて頑張ってください 裕二より」
と、書かれていた。
「裕二の字だわ」
静子が、うれしそうに言った。
「ああ。間違いない」
「少しは、生活態度もよくなってきているのね」
「そのようだな」
「……三百万円は高かったけれど、よかったかも知れないわね」
「確かに。決して安いわけじゃなかったが、価値はあったかも知れない」
「裕二も、そのうち作業所とか行けるようになるかしら」
「そうなるといいね」
「だんだんと、働くことができるようになってくれたら……」
「ああ。少しでもいいんだ。じぶんの力で働く力がついてくればいいと思う」
幸三が、はっと思いついた。
裕二に手紙を出そう。
「静子。裕二に何か、手紙を出してやったらどうだ?」
「そうね。どんな内容がいいかしら?」
「そうだな……『頑張ってね』とか、『体に気をつけてね』みたいな感じになるだろうけれど、とにかく出してやったほうがあいつも喜ぶぞ」
「わかったわ。また書いて出すわ」
そう言って、静子は、便箋と老眼鏡を持ってきた。
そして、手紙を書き始めたのだ。
――とりあえず、裕二も少しずつ、よくなってくれたらいい。
幸三はそう思った。
「拝啓。 裕二へ。この前はごめんね。ああいう展開になるとは思っていなかったから。でも、あなたのためを思ってやったことなのです。そちらでの生活はどうですか? 慣れない事ばかりで大変だと思いますが、頑張ってやってください。こちらは、お父さんも私も元気にやっております。また手紙を書きます。 かしこ」
と、静子は便箋に書いた。
「……ちゃんとやっているかな、本当に」
ひとり言のように静子は言った。
「ああ、どうだろう? でもさっきの弁護士も昼夜逆転は治ってきたと少し言っていたし、さっきの手紙の中にもそう書いてあったからたぶん本当なのだろう。とりあえず、様子を見ていくしかないよ」
「そうね」
「それにしても……家の中が穏やかな気がしないか?」
「裕二が施設に行ってから?」
「ああ」
「……そんな気もするわね」
「……『三百万円の平和』、か」
ふと、ひとり言を言った。
三百万円と引き換えに、家の静けさを取り戻したような気がしたのだ。
もちろん、今までずっと、裕二が毎日暴れていたわけではない。
しかし、『出口の見えない海』をさまよっているような気分がずっとしていた。
幸三は、認知症老人を抱える家庭が、認知症老人を老人ホームに入所させたらたぶんこんな気分になるのだろうか、と、ふと思った。
「お前も、趣味の絵画をやってみたらどうだ?」
幸三は、突然、静子にそう言った。
「……そうね、絵を書くなんて、ずっと長い間、忘れていたような気がする……」
「近所の老人会でも、絵画のコースもあったような気がしたぞ」
「そうね。確かこの前の回覧板にも書いてあったわね」
「……俺たちも歳だ。あまり先も長くはない。人生を楽しまなくては」
「そうね。どこか、旅行でも行くってのは、どう?」
「ああ、それはいいな。近くでもいい、一泊二日でもいいから温泉旅館にでも止まってみるか」
「そうね。それがいいわ」
「俺、道後温泉に行きたいな。若いころ、一度行ったことがあるんだ」
「道後温泉って、確か四国の?」
「そう、それだよ。愛媛、だったかな? 確か」
「愛媛県だったと思う」
「そこへ行こう」
「いいわね」
「……新幹線で岡山まで行って、そこから電車を乗り換えて松山まで行って路面電車、だったような気がする」
「……とにかく遠いわね。四日市からだと、どれぐらいかかるかしら?」
「さあ、わからないが結構遠いだろう」
そんな会話をしながら、旅行の話など本当に久しぶりにすることを思い出した。
――裕二が家を出てから、夫婦の会話も穏やかなものになった気もする。
確かに、手錠をかけて連行するという荒っぽい「緊急保護」であったが、結果としてはよかったのかも知れない。
幸三は、そう思った。