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稜線  作者: 竹取裕基
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第六章

第六章


 それから三日後。

 幸三は、契約書にサインしたのであった。

 恵子と会ってみて、何となくだがその人柄が信頼できる気がしたのが一番大きかった。実際に施設を見学してみて、悪くない印象を静子も持っていたので、話し合った結果、裕二を入所させようという話になったのだ。後は、契約書を恵子に送付して、そして手続きは完了となる。費用は、入所費が二十万円、そして寮費と食費が合わせて毎月十六万円、そして身の回りの品の差し入れなど別に費用が掛かってくるだろう。定年退職後の夫婦にとっては大金である。しかし、ほかにも業者を探してみたが、恵子の言うとおり高額な業者が多く、やはり頼れるのは恵子ぐらいと思えたので契約することにしたのだ。

 しかし、問題は、裕二が入所を承諾するか、である。

 ここが一番、難航しそうな気がした。

「何とかして裕二を説得してみよう。ダメだったら……」

「ダメだったら?」

 不安そうな顔を静子が浮かべた。

「……桜木さんに相談して、力になってもらおうか」

「でも、『特別支援費』を加算すると言っていたじゃない」

「……確かにそうだが、それも必要となってくるかもしれないな」

 そう言うと、幸三はふと窓の外をみた。

 晩秋の秋の空のもと、赤く熟れた実でたわわになった柿の木……それは隣の家の敷地に植えられていたものだが……が、目に入ったのだ。

 ――もう秋も深まってきている……。

 俺も、本来なら人生の秋を迎えているはずだが……今の自分をふりかえって、本当にあの柿の木のように実り豊かな『人生の秋』を迎えているといえるのだろうか?

 本来なら、もっと楽しい老後があったはずなのに。

 裕二も就職して結婚して、家庭を持ち、俺も静子も孫と遊んだり、楽しく話ができたかもしれないのだが、それも今となってはかなわぬ夢だ。

 それにひきかえ、今の現実は……。

 いつまでも部屋に引きこもって、終日ゲームをしているだけの息子。そして老いてゆく妻。

そして自分自身も老いつつあるこの日々の先には、ただ寂しい「死」だけが待つという現実があるだけではないか。

 裕二も、自分たちが死んだ後、自活できずに路上で朽ち果てるのかも知れない。

 ある日、どこかの路上で息を引き取り、まるでゴミのように火葬場で処理されてこの世から消え去っていくのかも知れない。

 俺も静子も裕二も死んだ後に残るのは、何だろうか?

 子孫もいないこの家に残るのは、一つの墓標だけか。

 それすらも長年の間には朽ち果てて消え去るに違いない。

 そう思うと、ため息をついた。



 翌朝。

 トーストとハムエッグを食べていた幸三に、そっと静子が言った。

「やっぱり、ダメだったわ」

「そうか」

 昨夜、静子が裕二を説得にかかったのだ。

 だが、ダメだったようであった。

「……どうしても、この家を出ていかない、どうしても出ていかなければならないなら、今すぐ死んでやるって言っていた」

「それは困ったな。裕二の部屋に、何か怪しいものはなかったか?」

「……見たところ、いつもと変わらなかったわ」

 ……それにしても、どうしたらいいのだろうか?

 説得に応じる、とは思えない。

 しかし、できれば無理強いするのではなくて、本人がある程度納得して施設に行かない事には、効果が薄いだろう。

 ……裕二が死ぬ、と言っているのも気になるが、自分が家を出たくないための口実に違いない。

「それにしても……困ったね」

「ああ」

「もう、このままそっとしておく?」

「しかし、契約書をもう送ってしまったし……」

「……私は、まだあまり気乗りがしない。あの子、やっぱり施設に行くなんて無理じゃないかしら」

「お前はすぐそうやって甘やかす。いいか、もう裕二は四十七歳なんだ。いつまでも小さな子供じゃない。……俺だって、あいつがきちんと就職できるとは思ってはいない。でも、一人で生きてけるように、何とかちょっとしたアルバイトぐらいはできるようになってほしいし、もしそれができないとしても、『まっとうな生活』をして欲しいだけだ。今みたいに、昼過ぎに起きてきて、ゲームばかりやっているようではどうしようもないじゃないか」

「……確かにそうだけれど……でも、本人が嫌だと言っているようじゃうまくはいかないのじゃないかな」

「……しかし、そんな事を言ってきてもう三十年以上過ぎたようなものだ。俺だって、あいつが学校に行きたくないといった時に、無理やり行かせていればよかったんだ。聞き分けのいい親父のふりをしたのが、間違いだった」

 そういってため息をついた。

「コーヒー、もう一杯いいか?」

「わかったわ」

「……」

 静子が入れてくれたブラックコーヒーを飲みながら、幸三は物思いにふけった。

 ――裕二も、子供の頃は可愛かったのに……。

 まだ裕二が二歳の頃。家族で上高地へドライブに行ったことがある。裕二は、しょっちゅう「ちっこ」「ちっこ」と言って、トイレをさせるのが大変であったことを思い出した。

 小学校に上がってからも、内向的で友人の少ない裕二を心配して、リトルリーグに入れたことがある。しかし、せっかく入団させたのに、三日で泣いて帰ってきた。監督に叱られたのが原因であった。「そんなことでどうするんだ!」と、厳しく叱ったのだが効果がなく、結局そのまま退団となった。

 ――そんなことも、あったな。

 ふと、幸三が穏やかな気持ちになった。

 その時である。

「俺は嫌だ! 俺は絶対に嫌だ! この家を出ていくなんて! もう死んでやる!」

 突然、二階から大声がした。

「うわあああああ!」

 ――なんだ!

「俺は嫌だ! 絶対に嫌だ! うわああああ!」

 裕二が絶叫しているらしい。

 その瞬間、幸三は怒りを感じた。

 ――毎日遊んでいるくせに何を言っているんだ!

 静子が止めるのも聞かずに、二階へと駆け上り、ドアの前に立ち、勢いよく開けようとした。

 しかし、鍵がかかっている。

「いい加減にしろ! 毎日仕事もせずに遊んでいるくせに! ふざけるな!」

 幸三の怒号が響き渡った!

「毎日、お前は何をしているんだ! 昼は寝ていて、夜はゲームか! 毎日毎日、そんな事ばかりして! 大の男が、まともに働かずに、遊んでばかりいて恥ずかしいとは思わないのか!」

 後から静子が、息せき切って二階へと上がってきた。

「お父さん、やめて!」

「うるさい! お前はいつもそう甘やかす! 俺がきちんとあいつに言ってやらないと、あいつには通用しないんだ!」

「お父さん!」

 静子がそう言って、必死で幸三を止めようとする。

 だが、幸三の怒りは収まらなかった。

 先ほどまで、裕二が小さいころの幸せな思い出に浸っていた分、それを一瞬でぶち壊すこの現実に、怒りを倍増させられたのだ。

「開けるんだ! お前はいったい、いつまでそうやってひきこもっているつもりなんだ!」

 幸三は、ドアを必死でこじ開けようと体当たりする。

「やめて! ドアが壊れてしまうわ!」

 静子が必死で止めようとしていた。

「うわあああ!」

 また部屋の向こう側から大声がした。


 ドン!


 突如、ドアにすごい衝撃を感じた。

 あわてて、幸三が引き下がった。


 ドン!


 再び、すさまじい音が響き渡った。

 ドアが、内側から破れたように真ん中に穴が開いたのだ!


 ドン!


 また凄まじい音がした!

 真ん中の穴がさらに広がり、そこから銀色の金属バットの先端が見えた。

「やめて!」

 静子が大声を出した。

 ――これはまずい!

 さすがに幸三も命の危険を感じた。

「うわあああ! じゃあどうすればいいんだ俺は!」

 裕二の絶叫が響き渡った。

「こうやって毎日、親父にもゴミ扱いされて俺はいったいなんなんだ!」


 ドン! ドン! ドン!


 またドアがバットで殴打されてさらに穴が広がった。

「やめて! 誰も裕二をゴミ扱いなんてしていないわよ!」

 静子が大声で泣きながら絶叫した。

「うるさい! 俺はいつもあんたらにゴミ扱いされてきて育ったんだ! 世間の連中も俺をゴミ扱いしやがって! それで最後はこうしてゴミのように捨てられるのか! ふざけるな!」


 ドン! ドン! ドン!


 さらにバットがドアに叩き付けられた。

「まずい、逃げよう!」

 静子を連れて、幸三は逃げ出した。

「うわああああ! みんな殺してやる!」

 裕二はさらにバットでドアを叩いているらしい。

 すさまじい音が響き渡っていた。

「もう、やめて!」

 静子の絶叫が響き渡った。








 ……急いで幸三は静子を車に乗せると、猛スピードで走り去った。

 このままでは、裕二に殺される。

 それが現実のものになろうとしているような気がしてきた。

 無我夢中で走り、朝明渓谷まで来た。

 人気のないところに車を停めた。

 静子は、ずっと泣いていた。

「……よく解っただろう。あいつはもう、昔の小さかったころの裕二じゃないんだ」

「……」

 車内に静子の嗚咽だけが響き渡っていた。

「お父さん……」

「なんだ」

「……警察を呼んだほうがいいのかも知れない」

「馬鹿言え。警察なんか呼んだら、近所中に知られてしまうじゃないか。恥だ」

「でも……あのままじゃ、私たちも殺されてしまうかもしれないわ」

「……確かに、裕二があんなに怒ってバットでドアを壊したのは初めてだ。……家に帰れば殺されるかもしれないな」

「じゃあ、どうすればいいの。このままじゃ……」

「……」

 幸三は頭をかかえて悩んだ。

 警察を呼ぶのは簡単だ。

 しかし、警察を呼べば、必然的に近所に知られてしまう。

 裕二が自宅に引きこもっていることもずっと隠してきたこの夫婦にとって、それは恐怖でしかなかった。

 それだけではない。

 裕二がドアを金属バットで破壊した事を、警察が問題視して逮捕などしたらどうなるのだ。

 裕二の愚行のせいで、今まで幸三が築き上げてきたすべての社会的信用も、一瞬にして崩れ去る。

 少なくとも、裕二が逮捕された、という事実は永遠に残る。

 そして、それが近所中に知れ渡ったら……それだけではなく、親戚だとか、幸三夫妻に関係のある人すべてに、その事実が知れ渡ったとしたら……。

 そう思うと、どうしても警察を呼ぶわけにはいかなかった。

「……とりあえず、今夜はビジネスホテルに泊まろう」

「……」

 静子は、泣き腫らした目を、朝明渓谷の山々にむけた。

 その眼は、まるで山の紅葉のように哀愁を帯びていた。

 



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