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稜線  作者: 竹取裕基
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第五章

第五章



 その日の夜の事。

「俺は、絶対いやだ!」

 二階から突然、裕二の大声が聞こえてきた。

 リビングでコーヒーを飲んでいた幸三は、腕時計を見た。

 午後九時を少し回ったところだ。

 ……幸三が直接、裕二に施設の事を話しても、反発するだけだから、日ごろ裕二が気軽に話ができる静子が言ったほうがいいだろう、と静子に裕二に施設の事を言わせたのであった。

 何やら静子が言い聞かせるように、言っているのが聞こえる。

 しかし、よく聞き取れない。

「嫌だ! どうして俺が施設なんかに行かなければいけないんだよ! 俺はこの家から出たくないんだ! 俺は嫌だと言ったら嫌なんだ! どうして俺が出て行かなきゃいけないのだ! 俺が何か、悪い事でもした? 俺は、静かにこの家で暮らしているだけじゃないか! もう母さんも俺の事は放っておいてくれよ!」

 しばらくして、裕二の部屋のドアが乱暴にしまる音がした。

 ――やっぱりダメだったか。

 幸三は、ため息をついて天井を見た。

 天井からぶら下がっている蛍光灯のあかりが、やけに無機質で冷たい光に見えた。

 静子の言うことも、聞かないようだな……。

 やがて、静子が階下に降りてきた。片手には、裕二が付き返したらしい施設のパンフレットを持っていた。

「どうだった?」

 結果は解っているのに、幸三はそう聞いた。

「……ダメだったわ」

「やっぱりダメか」

「うん。一応、パンフレットを見せて、『こういう場所があるから行ってみない?』って感じで言ってみたんだけれどね」

「やっぱり嫌がっているのか?」

「うん。『俺は絶対にこの家から出ない!』って言っているの」

「しかし、あのまま部屋にこもりっきりじゃどうしようもないだろう」

「でも、裕二は『俺は何も悪いことをしていないのにどうしてこの家を追い出されなければならないんだ』と言って、納得していないのよ。こんな状態で家を出すなんて無理だと思う」

 静子はそう言って、ため息をついた。

「確かになかなか難しいだろう。だけどね……『俺は何も悪いことをしていない』と、あいつは言う。しかし、働かずに何もしない事が、実は悪いことなのだということにどうしてあいつは気が付かないのだろう? 裕二が働かないから、その生活費はすべて俺たちが出さないとダメなのだが、それを恥ずかしいとか間違っているとか全く思わないのがすでに悪いと俺は思うぞ。裕二がまだ小さい子供なら仕方がないが、もうあいつは五十に手が届きそうな年齢じゃないか。もう世間的には立派な大人だ。俺たち親の役目は、あいつを成人まで育てることであって一生食わせることではない。あいつはそれがわかっていないのが情けない。普通なら、もうとっくに結婚して子供もいる年齢じゃないか。結婚していなかったとしても、ちゃんと働いて生きていてくれていたらどんなに楽なことか」

 そこまで言うと、幸三は大きなため息をついた。

 すでに冷めたコーヒーカップを空にして、ふたたび、ため息をついた。

「そんなことを言っても、あの子はあの子よ。どうしようもないこともあるわ」

「お前はよく、そう割り切れるな」

 あきれた表情を浮かべて幸三は言ってしまったらしく、静子が少し嫌な顔をした。

「割り切ってなんかいないけれど……どうしようもないじゃない」

「……でも、何とかあいつを、少しでも良くしたい。せめて、家から出て、ちょっとしたアルバイトぐらいできるようにしてやりたいんだ」

「そうね、それができたら確かにいいとは思う」

「……近々、またあの施設を見に行こう」

「そうね」

「とりあえず、またあの施設の桜木さんに電話して聞いてみるつもりだ」

「わかったわ」

「……とりあえず、桜木さんと話をして、あの施設を実際に見学して、そこに入っている利用者とも話をしてから、考えようと思う」

「……そうね」

 そう言いながら、静子は内心、気乗りがしない様子であった。

「ちょっと出かけてくる」

「こんな時間に? どこへ行くの?」

「……とりあえず、海にでも行ってくるよ」

「……また千代崎?」

「ああ。お前も行かないか?」

「私はいいわよ。いろいろやらなければならないことがあるし」

「そうか、わかった」

 幸三は、玄関を出て、車に乗り込んだ。

 ――海でも見に行こう。

 そう決めたのだ。

 






 ……千代崎海岸は、鈴鹿市の東部にあり伊勢湾に面している。ときおり、釣り客がいる程度であまり人出はない。

 海岸の近くに車を停めた幸三は、車の中で音楽を聴きながら夜の海を眺めていた。

 真っ暗な夜の海は不気味で、外に出ていこうという気分にはなれなかった。

 夜の海を見ていると、今の自分たちの置かれた境遇を象徴しているように思えたのである。

 「出口のない海」

 昔、見た事のある映画のタイトルの名前が、幸三の頭の中でリフレインした。

 そう、まさに今の俺たちの家は、「出口のない海」のようなものだ。

 それも、絶望感の漂う夜の海のような感じである。

 幸三は、とにかく翌朝になったら、桜木に電話を入れようと決意した。

 





 その翌日、幸三は「ひだまりのいえ」に電話をした。

「あら、この前の……」

 受話器の向こう側で、明るい恵子の声が響いた。

「お電話をお待ちしていましたよ」

 そう言って声を弾ませた。

「実は、息子の事で……」

「ああ、裕二さんとおっしゃいましたね」

 ――裕二の事をこの人は覚えてくれていたのか。

「それで、一度お宅の施設を見学したいと思うのです」

「なるほど。ぜひ、ご覧になってください。いつでも結構ですよ」

「わかりました。いつがよろしいかと……」

「平日でしたら、いつでも結構ですので」

「じゃあ、来週の木曜の朝の十時とか、大丈夫ですか?」

「ええ、もちろん。お待ちしています。裕二さんもいらっしゃるのかしら?」

「……裕二はたぶん来ませんので、妻とお邪魔したいと……」

「わかりました。お待ちしております」

「では」

 ……幸三は、そう言うと受話器を置いた。

 来週の木曜日、か。

 とりあえず、準備しておく必要があるな……。

 妻にも言って、準備させよう。

 裕二はどうせ、行こうとは言わないだろうから。

 東京の町田市、か。

 遠いが仕方がない。

 とりあえず、桜木と会って話をしない事には何も始まらないだろう。

 どんな人間なのか、信頼できる人なのか、信頼できる施設なのか。

 やはり、自分の目で見てみる必要はある。

 それからでもいいのだ、裕二を施設に送るのかどうかを決めるのは。もし裕二がどうしても行かないのなら、施設に預けることはできないだろうが、桜木はひきこもり問題の専門家のようだし、各種の社会福祉関係の資格を持っているからきっとこの分野でも専門家なのだろう、いいアドバイスをもらうことができるかもしれないのだ。

 



 一週間後。

「あら、お待ちしていましたわ、さあ、どうぞ」

 にこやかに話しかける桜木に勧められるままに、幸三と静子は応接室に案内された。

 応接室と言っても、普通の部屋にソファーとテレビが置いてあり、壁に絵をかけてあるだけの質素なつくりだ。

「失礼します」

 ドアがノックされ、紺のスーツを着た若い二十代の女性が、お盆にお茶を載せて現れた。

「どうぞ」

 にっこりと笑ってお茶と菓子を置いて、ふたたび頭を下げて退室した。

「あの子も、元ひきこもりなんです」

 そう言うと、桜木は、お茶と菓子をすすめた。

「そうなのですか?」

「ええ。彼女、かなり荒れていましてね。昼夜逆転し部屋に閉じこもってよく家庭内で暴れたりしていたそうです。こちらの施設に来た時も、本当に大変でした」

 そういいながら、恵子は笑顔を浮かべた。

「どんなふうに、ですか?」

 横から静子が聞いた。

「そうですね……初めの日は、大声で『ここから出せ! 家に帰らせて!』とか大声で絶叫して大変でした。食事も取らずに、お盆をひっくり返したり、暴れたりと手の付けられない状態でしたのよ」

「……そんな風には見えないです」

 思わず幸三はそう言った。

「ええ。それが……だんだんとここにいるうちに、なじんできたんです」

「そんな簡単になじんだのですか?」

「もちろん、そう簡単にはいきませんでした。でも、ここで規則正しい生活をして、日々を生活しているうちに、先輩の姿を見ることになります」

「先輩というと?」

「うちでは、『みらい』という自助グループがあるんです。つまり、『ひだまりのいえ』の寮生たちが、うちでは利用者の事を寮生と呼んでいるんですが、立ち上げ当初に寮生たちが自発的に作った自助グループでして、ここでのカンファレンスが、効果を上げているんです」

「カンファレンスとは?」

「平たく言えば、勉強会とでも言いますか、座談会のようなもの、と思っていただくとイメージしやすいと思います。寮生たちが、自分たち自身の過去のつらい体験、どうしてひきこもりになってしまったのか、またひきこもりから脱出するにはどうしていけばいいのか、まずは他者の発言への批判を禁じ、安心して自分の考えや経験を自由に語ることから始めていくのです」

「へえ~まるでどこかの断酒会みたいじゃないですか」

「そうです。意図したわけじゃないのですが、結果的に断酒会のような感じになってしまったのです」

 そう言うと、愉快そうに恵子は笑った。

「しかし、そのカンファレンスや、寮生たちの自助グループが、そんなに効果があるのですか?」

「はい。やはり自分自身のつらい体験……それは主に幼少時における学校でのいじめ体験だとか、両親の不和、機能不全家族にときおりみられる病的な家族間の相互依存関係などを包み隠さずに話すこと……これを自己開示、と言います、をする事によって、『つらい体験をしているのは自分一人だけじゃないのだ、自分には仲間がいるのだ』と、知ることができるのです。

 これが、寮生たちに秘められている力……困難や逆境にもくじけない、社会でもうまくやっていける勇気を……思い出させる力があるのです。ちなみに、これを専門用語で「エンパワーメント」と言うのです」

 幸三にとっては、話の後半は、ちょっと理解しがたかったが、どうやら自助グループによるカンファレンスによって寮生たちが信頼関係を構築して、だんだんと社会生活になじめるようになってくるのだろう、というイメージはつかめた。

「……とにかく、お宅の施設では、規則正しい生活をして、そしてカンファレンスをする、それだけなのですか?」

「いいえ。規則正しい生活や自助グループによるカンファレンスや勉強会などは、ほんの一部の活動にしかすぎません。回復のカギとして、実際には、就労支援が大きな力を持っています。まずは、『ひだまりのいえ』で規則正しい生活を身につけて、自助グループを通じて友人を作る体験をする、友人ができなかったとしても自分だけが一人ではない、自分のように学校や社会になじめずに苦しんでいる人はこの世の中にいっぱいいるのだという事を知るだけでも大きな力となるのです。その上でだんだんと元気が出てきたら、私どもが経営しているカフェや、パン工房、作業所などに、本人の希望や適性を考慮して、配属して就労支援を行っていくのです」

「なるほど、社会に出る前に、社会での労働に耐えられるだけの訓練をする、といった感じなのでしょうか?」

「それに近いと思います。たとえば、専門学校などでは、学校でその専門分野の仕事を授業で教えたりしますよね? また、実習などを行ったりしますよね? ああいう感じだと思っていただければよいと思います」

 そこまで言うと、恵子はまた静かに微笑した。

 その微笑は、自信に満ちていた。

「……それで、この施設を出て、社会に復帰した人はどれぐらいいるのですか?」

 幸三は、お茶を一口飲んでから、恵子に聞いてみた。

「そうですね、去年の退所者は、五十三人でしたが、このうち五人が正社員として雇用されていますし、アルバイトやパートなどの非正規雇用も含めると、四十三人が社会に戻ることができました。後の十人は、残念ながら年齢的なことや職歴の問題から仕事に就けなかった人の数ですが、それでも生活態度は大いに改善し、暴言、暴力、リストカットなどの自傷行為や昼夜逆転などはなくなり、部屋から出られなかった人も、電車に乗って買い物に行けるようにまで回復した人がほとんどです」

「全員が、就職できる、社会に復帰できる、というわけではないのですか?」

 幸三は、そう尋ねてみた。

「はい。残念ながら、全員が社会復帰できたわけではありません。しかし、就職できなかった寮生も日常生活で目覚ましい改善が見られたのは事実です。たとえば、一般の大学でも、高校でも、卒業生がすべて就職できるわけではないじゃないですか。でも、そこで学んだこと、体験したことはどこかで人生に役に立つはずです」

「なるほど……どうだ、静子、ちょっと見学させてもらおうか?」

「そうね。どういうところか、見学させてもらいたいわね」

 静子も同意した。

「早速ですが、ご案内しますわ」

 恵子は顔を綻ばせて、立ち上がった。

 ちょうどその時、ドアをノックする音がした。

「どうぞ」

 恵子がそういうと、そこには五十代のスーツの男が一人立っていた。

「寮長、あ、一之瀬様でございますね、初めまして。山田と申します」

 丁寧な物腰で、男は名刺を差し出した。

 そこには、「事務長 山田次郎」と書かれている。

 山田は、幸三たちに最敬礼した。

「山田さん、一之瀬さんを一緒にご案内してくれるかしら?」

 恵子が笑顔でそう山田に命じると、

「わかりました」

 と、快活に答える。

「いや、こちらこそ。さ、ご案内いたします」

 恵子と一之瀬に案内されて、「ひだまりのいえ」を見学して歩いた。

 「ひだまりのいえ」は、軽量鉄骨で作られた二階建ての棟が二つある。敷地面積に対して建物の占める割合が大きいので、あまり余裕はないが、それでもちょっとした体操を行ったり、サッカーやキャッチボールはできそうな感じであった。

 東京の郊外の町田市とはいえ、町田市都心ではこのような建物を作ることはできなかっただろう。ここは、町田市でもかなり郊外の地区なのだ。

「結構広いところですね」

 幸三がそういいながら、見回した。

「はい。もともとは小学校だった敷地を、半分うちが買いましてね」

 山田が答える。

「ほう。廃校ですか?」

「はい。それで、そこに今の施設を建てたわけです」

「なるほど」

「それだけではなく、ほかにもカフェとか作業所も経営しております」

「そうですか」

「夏になると、夏祭りなども開催するのですよ」

「学校みたいですね」

「まあ、それに近い面もあります」

 そんな会話をしながら、施設の中を歩く。

 施設の中は、小奇麗な病院のような作りとなっていた。

「ここが、寮生の居室です」

 そう見せられた部屋は、一〇四号室と書かれていた。広さは、一般的な部屋で六畳一間ぐらいである。机と、テレビ、そしてベッドが置かれていた。

「結構きれいな部屋じゃないですか」

「みなさん、そうおっしゃいます」

「ところで、これは一人ひとり、部屋を与えられているのですか?」

「はい。やはりプライバシー重視の昨今の事情を鑑みて、一人部屋となっています」

「でも、それではひきこもってしまう人もいるんじゃないかしら?」

 静子が横からそう聞いた。

「いいえ。全室、鍵は施錠しないことになっていますから、必要に応じ、スタッフや寮生たちが声掛けをしますから、そのようなことはございません。しかし、特に問題のない場合は、各部屋にはみだりにスタッフが入ることはありません」

「一応、個人のプライバシーを尊重しているわけですね」

 幸三が、そう言うと、「ええ」と、山田はうなずいた。

「やはり、一日の中でひとりになれる空間は必要ですわ」

 横から恵子がそう言った。

「あちらをご覧ください」

 山田が指差した先には、広いフロアーとなっており、そこには大画面テレビ、畳のコーナー、そして数多くの机と厨房らしき設備が見えた。

「あちらが、食堂となっております。寮生自ら厨房で料理を作るのです」

「なるほど、寮生が料理を自ら作るんですか?」

「はい。これも就労支援の一環となっております」

 ――そうか、いろいろと作業をさせることによって働くことに慣れさせていくのだな。

 幸三はそう思った。

 ……それにしても、「ひだまりのいえ」は、尞だからもっと寮生の姿を見かけてもいいような気がするが、あまり人が歩いていないのはやはり仕事に行っているからだろうか?

 幸三が見ている限り、数人の寮生らしき若者とすれ違っただけだ。みな、会釈して通り過ぎただけで何も会話がなかった。

「そういえば、あまり人がいませんね」

「今は、就労支援に行っている人が多いですからね。カフェや作業所に行っている寮生が多いですが、夕方になると一気に帰ってきて人であふれかえる感じになりますよ」

 と、山田は言った。

 幸三と静子は、施設内を見学してから、再び応接室に戻ってきた。

「どうでしたか?」

 にこやかに恵子がそう話しかける。

「……ここで、裕二もよくなればいいのですがね……」

 幸三は、そう言った。

「ここに来ると、長年引きこもっていた人も数か月で見違えるように活発になりますよ。やはり、集団生活にだんだんと適応できるようになってきますから。ここで友達を作って退所後も連絡を取り合っている元寮生たちもたくさんいますよ」

「ほう」

「どうだ、静子。裕二をここに入れてみないか?」

「……あの子が来るかしら。いい施設なのはわかったけれど、あの子が嫌がるようだったらダメじゃない?」

「確かにそうだ、問題はそこだ」

「ちょっと今すぐ、入れるとは決められないわ」

「ああ」

 夫婦の会話がひと段落してから、

「ところで」

 と、幸三は切り出した。

「ここの施設がいいのは解りましたが、費用はいくらぐらいいるのです?」

 すると、恵子は微笑を浮かべながら山田に命じた。

「そうですね、山田さん、費用の事を説明してくださる?」

「はい、わかりました」

 代わりに山田が説明し始めた。

 山田が、書類を出した。

「こちらを」

 その書類には、必要な費用が書かれていた。

 内訳は次の通りであった。

 入所費:二十万円

 寮費:月額十五万円

 食費:一万円

 特別支援費:支援の内容に応じて別途加算

「……特別支援費? 何ですかこれは?」

「こちらは、特別な支援を要する場合に限って加算される費用です。通常は必要ありませんので、ふだんは入所費と、寮費、そして食費が主にかかってくる費用と言えます」

 山田はそう答えた。

「しかし、特別支援費、というのが気になりますね」

 幸三が疑問を投げかけた。

「たとえば、どんな場合に必要になるのです?」

「何か病気があるとか、精神疾患があり、特別なケアを要する場合とか、自傷行為などがひどくて自殺の可能性がある場合などは、特別な部屋……静養室と呼んでいますが……そちらに居住してもらう可能性もあります。また、暴力的で手の付けられないお子様を、親御さんがどうしても施設のほうへ連れて行ってほしいと懇願された場合に、緊急避難的に施設のほうへお連れするために特別な支援を行う場合があるのです。こういう場合は、その実態に応じて、必要経費および特別経費として加算させていただくことになっています」

「そう言った場合もあるのですか?」

「はい。時々ありますね」

「……つまり、言葉は悪いが、嫌がっている子供を『連行する』時とか、あるのですか?」

「そんな、『連行』だなんて……そんなひどいことはしておりませんわ」

 横から恵子が言った。

「いや、失礼。そんなつもりではないのですが」

 幸三はあわてて打ち消した。

「私どもは、原則『説得の上』、お連れすることにしているのです」

 山田は、そう説明した。

「やはり説得が一番大切ですから」

 恵子はそういうと、微笑を浮かべた。

 ――説得、できる相手ならいいのだが、いつもそうとは限らないだろう……。説得が通用しない場合だったらどうするのか? やはり実力行使しているのだろうか?

 幸三はそう思ったのであった。

「それにしても、入所費と別に、毎月十六万円必要になってきますね。これは結構高いんじゃないですか?」

 疑問を投げかけてみた。

「いいえ。ほかに調べていただくとわかると思いますが、同じような施設での費用は、三か月で五百万円など、結構高額な施設が多いです。私どもの施設は、格安で運営させていただいております。これも営利を目的としないからできるわけでして……」

「営利を目的にしないと?」

「はい。NPO法人でやらせていただいておりますから。主に寄付金や国からの補助金や交付金で運営されているのですよ」

「なるほど」

「……ちょっと契約は、家に帰ってから検討したほうがいいのじゃないかしら」

 静子がそう言ったので、幸三も家に帰ってから検討しようと思い始めた。

「少し、考える時間が欲しいので、家に持ち帰って検討したいと思うのですが」

「わかりました。契約書をお渡ししますので、またご検討ください」

 山田はそう言って、封筒に入れた契約書を渡してくれた。

「お待ちしておりますわ」

 恵子はにこやかに笑いながら、幸三と静子を玄関まで送ってくれた。

「これから、どうされるのです?」

「今日のうちに、新幹線で、帰ります」

「よかったら、これをどうぞ。うちの寮生たちが作ったパンですわ」

 紙袋を差し出した。

「ありがとうございます」

 中を見ると、おいしそうなメロンパン、あんぱん、ジャムパンが一つずつ入っていた。

「山田さん、駅まで送って差し上げて」

 恵子がそう命じると、山田が車を回してきた。

「どうぞ」

 幸三と静子が後部座席に乗り込むと、恵子は窓際まで来て、最敬礼した。

「今日はありがとうございました」

 丁寧にお辞儀をしている恵子にお辞儀をすると、車が走り出した。

 振り向くと、角を曲がり車が走り去るまで、ずっと恵子は頭を下げているのが見えた。



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