第三章
第三章
……午前二時。
ふと、目が覚めた。
幸三は、トイレに起きたのである。
かつては、二階に夫婦の寝室があったのだが、最近は体力がめっきり落ちた妻の事を考えて、夫婦はリビングの隣の和室で布団を並べて、寝ていた。
若かった頃は、ダブルベットでふたり、一晩に何度も愛し合ったりしたものだが、最近では、そんな事もまったくなくなった。
最後に静子を抱いたのは、いったい、いつの事だっただろうか……もうお互い七十代、心は通い合えても、体を重ねあう気にはなかなかなれなかった。
それよりも……。
あいつは、まだ起きているのだろうか?
ふと、幸三はそんな事を考えたのである。
トイレを済ませた後、キッチンに行ってみた。
冷蔵庫を開けてみる。
中にあったジュースのパックが、一つ消えていた。
よく見ると、昨日近所のケーキ屋で買ったシュークリーム二個が丸ごと消えていた。
幸三たちが寝静まってから、裕二がこっそりと階下に降りてきて、食べてしまったに違いない。
――俺が静子と食おうと思って買ったのに。あいつは……毎日働かないくせに……。
軽い怒りを覚えた。
しかし、ここでそんな事を問題にしていても仕方がない、と考え直した。
幸三は、二階の様子が、気になったのであった。
裕二が、いま、いったい何をしているのか見てみたい気がしたのだ。
足音を忍ばせて、階段をのぼった。
二階の廊下の床に、ドアの隙間から光が漏れていた。
裕二の部屋からだ。
何やら、音がしている。
どうやら、ゲームの音らしい。
深夜になると、ゲームに興じているようだ。
しかも、ポテトチップスを食べているらしい音まで聞こえてきた。
――どれ、ちょっと様子を見てやるか。
裕二の部屋のドアの前に立った。
ドアを二回、ノックしてやった。
ポテトチップスを食べる音が、消えた。
「おい、裕二」
返事はない。
「入るぞ」
鍵がかかっていた。
「おい、鍵を開けるんだ」
返事はない。
「おい、返事ぐらいしたらどうなんだ」
まだ返事はない。
「……」
幸三も黙ってしまった。
しかし、このまま階下に引き下がるのもしゃくな気がしてきた。
「裕二、お前、冷蔵庫の中のシュークリームを勝手に食べただろう?」
裕二の返事はなかった。
「返事ぐらいしたらどうなんだ?」
相変わらず、返事はない。
だんだんと腹が立ってきた。
「なぜ、黙っているんだ?」
「……」
「……勝手に冷蔵庫の中の、シュークリームを食べたのは確かだろう?」
「……」
「……返事ぐらいしろよ」
「……」
「……普通は、こういう場合は『食べてもいい?』って、聞いてから食べるものだ。お前はそれぐらいの常識も解らないのか? いい歳をして。いったい、いま自分が何歳かわかっているのか? そんな風だからお前は社会で通用しないんだ」
まだ返事はなかった。
裕二は、気に食わないと鍵をかけて返事をしないのが常であった。
「もういい。お前なんかに俺は何も期待していないからな。毎日、仕事もしないで親に食わせてもらって、昼まで寝ていて、夜はゲームばかり。大の男が、それで恥ずかしいとは思わないのか? いいか、俺がお前の歳には……」
幸三がそこまで言った時のことである。
「父さんには、俺の気持ちなんて解らないんだ!」
突如、裕二が大声をだした。
「なんだと!」
幸三も思わず、声を荒げた。
「ふざけるな! この家を建てたのはいったい誰だ! お前をここまで食わせてやったのはいったい誰だ! お前が毎日遊んでいる間も、俺も母さんも一生懸命になって働いていたんだぞ! 何もわかって居ないのはお前のほうじゃないか! ふざけるな!」
ゲームの音も止んだ。
ベッドに体を乱暴に投げ出す音がして、静かになった。
――つい、むきになってしまった……。
我ながら、情けない。
それにしても、もうすぐ裕二も五十に手が届く歳だというのに……。
働きもせず、昼夜逆転して、親の年金を頼りに暮らして、夜通しゲームばかりやって、結婚どころか彼女もおらず、そもそも就職すらできずに……この部屋でずっとひきこもっているだけの生活をしている……。
俺の教育が、間違っていたのだろうか。
……たぶんそうに違いない。
……そもそも、裕二が高校一年生の夏休みの終わりに、登校拒否を起こした時、無理にでも学校に行かせていればよかった。
自分が、頑固で偏狭な父に反発して育った経験から、つい「寛大で物わかりのいい父親」を演じたくて、子供の苦悩を理解したふりをしてしまったのではないだろうか……。
あの時、本当は体当たりでぶつかって、無理矢理にでも学校に行かせていれば、こんな事にならなかったのかも知れない。
ふと、そんな考えが幸三の頭に浮かんだ。
――そうは言っても、いまさらもうすべてが遅い。
裕二は四十七歳になって未だに職歴がない。三十の頃からずっと部屋に引きこもっているから社会性などゼロに近い。高校も中退しているから学歴は中卒だし、そもそも職歴が全くないという時点でアウトだろう。いまさら、アルバイトですらどこも雇ってくれないに違いない。長年、ひきこもりをしていた人間を雇うほど、世間は甘くはないのだ。
どうせ、社会に出るなんて、できるはずがない。
このまま、この部屋で朽ち果てていくしか仕方がないのだろう。
そして、そんな裕二を見ながら、俺も静子も、死んでいくのだろう、きっと。
このままでは。
社会に出れらなくても、巨額の遺産があるならば、一生生きていけるだろうが、あいにくサラリーマンであった幸三には、そんな巨額の遺産を残せるはずもなかった。
あるのは、この今にも壊れそうな木造二階建ての我が家だけだ。
それですら、幸三や静子の死後、年金が止められてしまったら、あっという間に手放さねばならなくなるだろう。
貯金もそれほどあるとは言えない。妻の静子に任せてあるから正確な額は知らないが、数百万円といったところだろう。
夫婦合わせて、年金は、ひと月あたり二十三万円ぐらいだ。
月収二十三万円あるのだから、今すぐ困るということはない。
だが、幸三も静子も、たぶん、裕二よりも先にこの世を去るだろう。
そうなったときに、裕二がどう生きていくのだろうか、それが気がかりで仕方がなかった。
裕二は両親が死んでも働こうとしないだろうし、仮に働きたいと思ったとしても、たぶん無理なような気もする。
しかし、せめてアルバイト程度の仕事を少しでもできるようになってくれれば……裕二も何とか生きていけるのではないだろうか?
そんな気がしたのだ。
……閉ざされている裕二の部屋の扉を見て、幸三は重い気分で階下に降りた。




