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稜線  作者: 竹取裕基
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第二章

第二章




 ……御在所ロープウェイで麓に降りて、停めてあった車に乗り込んで、スーパーで食料品を買い込んで家に帰ってきたら、午後二時になっていた。

 築四十四年。あちらこちらガタがきている、この木造二階の小さな家が、幸三の城である。

 三十一歳の時に、無理してローンを組んで買った新築の家が、四十四年の風雨によって劣化して、門扉もさびており、コンクリートブロックも風化して割れてきている。

 車一台止められる小さなスペースに、幸三は車を停めて、エンジンを切った。

「……着いたな」

「ええ」

「……この家も、ガタがきているよな」

「そうね。玄関の柱もほら……」

 そうやって静子が指差した先には、玄関にある鉄の柱に錆が浮いているのが見えた。

 数年前に、ペンキを塗ったのだが、塗り方が悪かったのか、ところどころ塗装がはげ落ちてきており、錆が浮いてきていたのだ。

 おまけに、玄関の上にある屋根も崩れているところがあり、地震でも来たら一発で壊れるような気がした。

「……この家を建てた時の事、覚えているか?」

「覚えているわよ。五十二年の事だったわね」

 五十二年とは、昭和五十二年の事だ。

「あれから、もう四十四年も経つんだな」

「そうね」

「……玄関の柱も、もうボロボロになってしまった。時が経つのは早いな。この家を建てた時には、俺もお前も若かった」

「……本当ね。あっという間に時間だけが経ってしまった……」

「……ああ。この家を建てた頃は、裕二も小さかったよな」

「まだ三つだったわ。保育園に上がる前だった。いつも私の後をくっついて歩いていたわ」

「そうだな。あの頃は裕二も可愛かった。俺も若かったし、仕事にも燃えていた。俺もまだ三十一だった。係長になったころだったな、確か。悩んだけれど、この家を買ったんだ」

「あなた、心配していたわよね」

「どんな?」

「……私が『そろそろお家が欲しいわ』と言えば、『ローンが払えるかどうか心配だ』と言ってなかなか家を買おうとしなかったのよ。ちゃんとローンが払えるかどうか、家を買ってからも心配していたわよね」

「そうだったか、すっかり忘れていたよ」

 そう言うと、幸三は笑った。

「……あの頃が懐かしいわ。今でも思うの。あの時代に帰れたらいいのに……って」

「そうだな。あの頃が一番幸せだったような気がする。それに比べたらいまは……」

 そう言いかけて、幸三は口をつぐんだ。

 ――そう、いまは……。

 いったい、どこに「幸せ」があると言うのだろうか?

 ふと、そんな考えが脳裏に浮かんだ。

「降りるぞ」

「ええ」

 二人は車を降りた。

 車を降りて、幸三は家をまた見た。

 ……御在所岳の別世界の紅葉の美しい世界と、この朽ち果てつつある我が家との落差にため息が出そうな気分になった。

 小さな庭には、雑草がうっそうと茂り、陰鬱な雰囲気を醸し出していた。最近、静子も腰痛を訴えて草抜きをあまりしなくなったし、幸三自身も、すぐに疲れるようになり草抜きもつい怠ってしまっていた。

 鍵を開けて、ドアを開けた。

 ……静まりかえった家。

 腕時計を見た。

 午後二時だ。さすがに裕二も起きているだろう。

 玄関から、ふと長い廊下の先を見た。

 裕二の部屋は二階にある。

 廊下の先には、キッチンがある。

 購入した食料品を、冷蔵庫に入れたり棚にしまっていると、突然、ドン!と天井から音がした。

 ドン!

 ドン!

 ……全部で三回だ。

「裕二か……」

 ため息をついて、幸三はつぶやいた。

 何か面白くないことを思い出したりして、裕二が床を蹴ったのだろうか。

 それとも……?

 理由は解らないが、裕二の機嫌はよいとは言えないだろう。

「……家が壊れてしまうわ……」

 静子もつぶやいた。

「……困ったものだ」

 幸三は往年の事を思い出した。

 ……まだ幸三が若かった頃……それは幸三が五十代の頃だ……働こうとしない裕二と、取っ組み合いになった事があったのを思い出した。


 それは……幸三が五十代のある日のこと。もう二十年以上前の事だ。

「お前はいったい何を毎日やっているんだ! 仕事もしないで一日寝てばかりいて! 昼過ぎに起きてきたかと思うと、漫画を読んでいるか、ゲームをしているか、昼寝をしているだけじゃないか! 俺がお前の歳にはもうとっくに働いていたんだぞ!」

 その日、幸三は、裕二を叱った。

 ……二十五歳になっていた裕二は、高校は一年で中退してからアルバイトもろくに続かず、一日行ってはすぐに辞めたり、せっかくアルバイトに採用されても一日も行かずに無断欠勤して首になるといった事が続いていた。働いている期間よりも、家でゴロゴロと過ごしている期間のほうが多かった。二十五歳になった頃から、アルバイトですら探そうとしなくなり、ずっと自室で引きこもっていた。

 それを見かねて静子もパートを二つも掛け持ちしていた。家事の合間に昼はスーパーの店員、夜は宅急便の荷物の仕分けをしていたのだ。

 そんな裕二が終日、家でゴロゴロと過ごしているのを見ると、幸三はさすがに腹が立ってきたのであった。

「お前は母さんが二つも仕事を掛け持ちして頑張っているのに恥ずかしいと思わないのか!」

「俺だって毎日、一生懸命働いているんだぞ! お前は毎日、何をやっているんだ!」

 裕二を叱っても、ギロリと睨むか、黙ってふさぎ込んでいるか、部屋の戸をピシャリと閉じて中から鍵をかけることが多かったが、その時は違った。

裕二が怒って、取っ組み合いになった。

「うるせえ! じじい! こうなったのは誰のせいだと思っているんだ! お前の教育が悪かったから俺はこうなってしまったんだ! 俺の青春を返せ!」

 激高した裕二がそう言いながら、立ち向かってきたのだ。体力には自信のあった幸三ではあったが、やはり五十代である、二十代の息子に、力でかなうはずはなかった。

 一瞬で息子にねじ伏せられた。その時は、静子が間に入って裕二を止めた。裕二は不満そうだったが二階の自室に籠って事なきをえた。

 息子にねじ伏せられた屈辱に、幸三はしばらく怒りが収まらなかったが、静子が何度も止めたので我慢したのであった。

 ……その事をふと、思い出してしまったのであった。



 


 ドン!

 ドン!

 また、天井が響く音がした。

「いやだわ。また裕二が何か腹を立てたのかしら?」

 静子が心配そうにそう言った。

「……わからんが、今はそっとしておこう」

「そうね」

「しばらくしたら、収まるだろう」

「……だといいけれど」

 静子はそう言うと、大きなため息をついた。

「ねえ、あなた」

「なんだい?」

「……時々、私、嫌になるの」

「……」

「……ああやって暴れると」

「そうだな」

「……この家もあるとは言っても、古いし。貯金もいつまでもあるわけじゃないし。年金だって……」

「確かにそうだろう? だから言ったじゃないか。『NPOにでも任せてみたらどうだ?』って」

「でも、なんだか、他人に任せるのって信用ならないわ」

「そうは言っても、今まで三十年以上、何も変わらなかったじゃないか。試してみたらどうなんだ」

「……やっぱり気が進まない」

「俺、ひきこもりを出してくれる業者を調べてみようと思っている」

「……」

「たぶん、プロだから、俺たちではわからない、いい方法を知っているかもしれない」

「そうかしら……」

「検討ぐらいしてもいい気はする」

「……お茶でも入れるわ」

「ああ、すまないな」

 静子は、お盆に急須と湯呑を二つ乗せて、テーブルに置いた。

 二人分のお茶を入れて、一つを幸三に差し出した。

 静かに、お茶を飲んだ。

 しばらくして、天井からの音は、止んだ。裕二の足音すら聞こえなくなった。

 静かになったようだ。

「どうやら、少し静かになったようだな」

「そうね」

「……ちょっと様子を見に行くか?」

「そうね。どうしているかしら」

 二人は、階段をそっと登った。幸三が先に上り、静子が続いた。

 息遣いだけが、聞こえている。

 静子には少し負担がありそうな感じがして幸三は心配になった。

「だいじょうぶか?」

「うん」

 幸三が階段を登り、廊下をみた。

 突き当りに裕二の部屋がある。木の扉に、古いノブが目立って見えた。

 扉の外に、皿が置いてあった。皿には黄色いルーがこびりついていた。

 皿を持って行け、という事だろう。

 幸三が、そっとドアに近づいた。

 よく見ると、ドアはかすかに開いていた。

 音をたてないように、ドアを少し開けた。

 ……中はよく見えない。電気を消しており真っ暗だ。

 ――寝たのだろうか?

 幸三は、そっとドアを閉めた。

「どうやら、寝ているみたいだ」

「そうなの。わかった」

 静子がトレーを持って、一階に降りようとした。

「俺が持つ」

 幸三がトレーを静子の手から取り、それを持って降りた。

 静子に負担をかけたくなかったのだった。

 ゆっくりと、階段を下りてゆく静子の後を、トレーを持ちながら幸三は降りた。

 静子の足取りが、老婆がするようなゆっくりとした足取りであることに今更ながら気がついた。

 ……こいつもこんな歳になったのか……。

 二人は、一階に降りた。

 皿を静子が洗ってから、リビングに来た。

 幸三は、黙ってソファーに座り、テレビを見ていた。

「さっき、テレビでやっていたよ」

 幸三は、静子の方を向きながら、話し始めた。

「なにを?」

「……ひきこもりを出してくれる業者だよ。NPO法人だと言っていた」

「……NPOの?」

「ひきこもりの家に行って、いろいろと説得をしていた」

「どんな感じで?」

 静子の顔が少し曇っている。

「……その団体の代表の気の強そうなおばさんが、数人でひきこもりの人の家に乗り込んでいたんだ。最初はドア越しに、ひきこもりに話しかけていたんだが、無視されたり、ドアを蹴られたり罵声まで浴びせられて……」

「それで?」

「結局、その日は引き上げた」

「……だめじゃない」

「でも、次の日に……」

「次の日に?」

「ドアをそこの家の父親に開けさせた」

「それで?」

「その父親と母親と、おばさん達でひきこもりと対決していたんだ」

「そんなのやっても、無理でしょう?」

「最初は大暴れして大変だったが、一晩かけて説得して、その施設に行くことがきまった」「……それで、うまくいったの?」

「テレビでは、その後の様子も放送していて、最初はショックだったが、今では施設の職員にも、両親にも感謝しているって。毎日自立支援のために、そこのNPOが経営するカフェで働いているのだそうだ。楽しそうに仕事をしていたよ」

「……そんなものなのかな」

 静子は、まだ半信半疑の様子であった。

「俺は、ああいうところに頼んでみるのも悪くないんじゃないかって思った」

「……でも、それってうまくいったケースしか放送しないんじゃない? 失敗したこととか、逆効果だったケースもきっとあるはずだわ。そういうのって、施設側も隠すんじゃないかしら? あまり鵜呑みにはできないと思う」

 静子はやはり、その手の業者への胡散臭さを払拭できずにいるようであった。

「でもさ、そんなふうに言っていても、今までと同じだったら、これからも同じじゃないか?」

「そうかも知れないけれど……」

「考えてみろよ、俺たちも、もう歳だ。いつ死んでもおかしくない年齢なんだ。もう七十を超えているんだ……」

「……」

「それに、あいつももう、五十だよ? 本当ならもういっぱし働いていて結婚していて、大学生ぐらいの子供がいてもおかしくないはずだ。それがなんだ。毎日昼過ぎまで寝ていて、起きてきてやる事は、ゲームとネットぐらいじゃないか。自分の部屋からもほとんど出てこない。もちろん仕事を探そうなんてこれっぽっちも考えていない。俺たちの脛をかじって生きているだけじゃないか。あんな状態で、ずっとこれからも生きていけるわけがないのがどうして解らないんだ」

「だって、そう言っても仕方がないんじゃない。だって、あの子にとって社会で働くなんて無理じゃないのかしら? 高校一年生で学校もやめてしまったし、アルバイトだって一日か二日ぐらいしか続かなかったじゃない。その日に帰されたこともあるし。社会に適応するなんて、もう無理だよ。できないことを無理強いするなんて、残酷すぎるんじゃない?」

「……お前はすぐに、そう甘いことを言う。俺の若かった頃は、働かないなんて、絶対に親が許してくれなかったぞ? お前も解るだろう?」

「それはそうだけれど……」

「だから、手遅れにならないうちに、俺たちがこの世からいなくなる前に、あいつに生きていく方法を見つけてやるのが俺たちの仕事なんじゃないか?」

「……そんなの無理じゃない? それが出来たら、もうとっくの昔にうまくいっているわ。私も、あなたも、一生懸命あの子を社会に出そうとしてきたじゃない。時には厳しいことを言って叱ったり、励ましたり、一緒に頑張ってきたじゃない。それでもこうなのよ。もう、やれることはやったわ。これも運命と思って受け入れるしかないのよ」

「いや、だから俺は、一度検討してもいいんじゃないかと言っているんだよ。一度、話ぐらいでもきいてみる価値はあるんじゃないか?」

「……」

「さっき、見ていたら、このNPOは自立支援のためにカフェも経営していて、ここでも元ひきこもりの人が何人もいて、楽しそうにスタッフと働いていたぞ」

「……わかったわ。でも、まだNPOに頼むのは反対よ」

「とりあえず、この団体のホームページを調べてみて、資料か何かを送ってもらおうと思う」

「わかった」

 静子はそう返事をすると、キッチンに行き、家事を始めた。

 静子が皿を洗っている音を聞きながら、幸三は書斎へと足を向けた。

 実は、書斎と言っても、六畳ほどの和室で本棚と、小さな机にノートパソコン、プリンターが乗っている部屋に過ぎない。

 とりあえず、この団体だけじゃなくていろいろと自立支援の団体はあるだろうから、検索してみることにした。

 その中で、一番いいと思った団体にコンタクトを取ってみればいい。

 幸三はそう思ったのである。

 「ひきこもり 自立支援」

 と、打ち込んで検索してみた。

 検索してみると、様々な機関が出てきた。厚生労働省のホームページから、幸三が住んでいる地方の公共団体のホームページなどもあった。

 その中のリンク先を調べてみたら、様々な団体がある。

 どれがいいのか、実際のところはよくわからなかった。

 先ほど、テレビで紹介されていたNPO団体は、確か関東地方に拠点があったことは思い出せたのだが、なんという団体なのか、はっきり覚えていなかった。

 ただ、職員の男性と、そのNPO法人の代表らしい四十代の女性の姿だけが印象に残っている。

 テレビで、その女性代表は、優しそうな笑顔を浮かべて、根気よく何時間もひきこもりを説得していた。

 結局は、そのひきこもりの父親とひきこもりが、対峙して大騒ぎになっていたのだが、何とか説得して施設に行ったという話だったのだ。

 ――本当はここに頼みたいのだが、肝心の団体名が解らない……。

 検索にも疲れたので、パソコンの電源を落とした。

 ふと、書斎の本棚に目をやる。

 ……かつては、好きな作家の小説やビジネス書やノンフィクション物でぎっしりとしていた本棚が、いつの間にか登校拒否に関する本、ひきこもり支援に関する本、精神病に関する本、心理学の本などに占拠されていた。

 かつて読んだ好きな作家の本など、数えるほどしか書架には残っていなかった。

 幸三は、ため息をつくと、目を閉じた。



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