第一章 ある老夫婦とひきこもりの物語
第一章
山脈は、燃えるような紅葉でおおわれていた。
赤や黄色や橙と緑の織り成す美しい木々が鮮やかに敷き詰められていた。
その様子は、まるで鮮やかなじゅうたんのように見えた。その紅葉が、稜線の向こう側までまるで燃えるようにずっと続いていた。
その中を、一台のゴンドラが、秋風に吹かれながら、ゆっくりと登っていく。
一之瀬幸三は、妻の静子と一緒に、このゴンドラに揺られていた。
今日は、鈴鹿山脈の一つ、御在所岳にやってきたのだ。この御在所岳は、近鉄湯の山線の終着駅の湯の山温泉駅から近くにある。駅から登山道までのアクセスも良い。名古屋方面や大阪方面からも、登山客が多く訪れる。幸三は、三重県四日市市に住んでいるので、ここは気軽に来られる場所なのである。今回は、ロープウェイを利用して、御在所岳山頂を目指していた。
ゴンドラの窓からは、ときおり険しい岩や、どうやっても登るのが難しそうなところも見えたのだが、そんなところにも登山客がいた。
その登山客を見ながら、幸三はつぶやいた。
「ああ、裕二がひきこもりじゃなくてあれぐらいだったら……」
と。
それを聞いた静子は、何も言わず黙っていた。
やがてゴンドラは、山上公園駅に到着した。
ドアが開き、アナウンスに促されるままに、ゴンドラから二人は降りた。
それから、階段を登り、山上駅の外に出た。
そこはひんやりとした寒さに包まれていた。
山上駅から御在所岳の頂上付近までリフトもあるが、それには乗らず、徒歩で頂上を目指したのである。
山上駅から頂上付近までは徒歩十分ほどの舗装された快適な道が続く。今日は、十月の行楽日和とあってか、平日にかかわらず、人が来ていた。
雲一つない、吸い込まれるような青い空が広がっていた。
来ている人も、若い夫婦連れやカップルもいるが、圧倒的に多いのは、中高年の姿であった。
抜けるような青空が二人の上に広がり、頂上付近へ向かってまるで高原のような風景が広がっているのが見えた。
舗装された道路のわきに石碑がある。石碑には、この地方の名士や歴史に関する事が書かれている。
やがて、道路は終点に近づき、そこからはほんの少しだけ、茂みになっている階段を上っていくのだった。
その階段を、一歩一歩踏みしめながら、幸三と静子は登った。
幸三にとって階段は意外にきつく、息が切れそうな感じがした。
ふと後ろを振り向くと、静子もきついと感じているようで、息を切らしていた。
茂みを抜けると、石畳で覆われた山頂が現れる。
山頂付近には、大勢の人たちがいた。
「着いたぞ」
幸三がそういうと、静子は、
「うん」
と、だけ言った。
頂上には、「御在所岳頂上 一等三角点」と書かれている頂上を示す一等三角点がある。
その周辺を、円形にポールとチェーンで囲まれており、その下にベンチが取り囲むように置かれていた。
「とりあえず、座ろう」
「……」
静子は沈んだ表情をしていた。
「そうだ、母さん、裕二の昼飯どうするんだ?」
「……昨日のカレーの残りが置いてあるわ……」
「そうか」
「……」
そんな会話をしながら、幸三は一人息子の裕二のことを考えていた。
裕二は……自宅に今日もいる。昨日も。その前も、そのずっと前から。そして明日も、そしてその次の日も自室に籠って、寝ているか、漫画を読むかゲームをして日々を過ごすのだろう。
もう、裕二が引きこもって、三十二年の歳月が過ぎた。
三十二年……こんなに長くなるとは、夢にも思わなかった。
……高校一年生の夏休み明け、それまで普通に通学していた裕二が、突然、登校拒否を起こしたのだ。
「……今日は学校に行きたくないんだ」
思えば三十二年前の一九八九年(平成元年)九月一日金曜日の朝、その一言ですべては始まった。
時代は、バブル絶頂の頃である。「ジャパン・アズ・ナンバーワン」と言われて、日本全土の地価で、アメリカ全体が買えるといわれた頃のことだ。
日本はバブル経済の真っ盛りで、東京ジュリアナの「お立ち台」の上で肩パットを入れた若い女性が踊り狂い、日本経済に向かうところ敵なしの時代でもあった。日経平均株価はこの年の年末、史上最高を記録する。
――この国にもそんな時代が、あった……。もう、三十年以上も経ったのか……。
ふと、そんな事を思い出した。
――考えたら、俺も若かった……。まだ四十代で、毎日、営業に走り回っていた。土曜も日曜も得意先と接待ゴルフばかりで、家でゆっくりしていた記憶がほとんどない。……裕二の事も、子育てはすべて静子にやらせて、自分が関わったことは、あまりなかったような気がする……特に、裕二が幼い頃は。
ふと、自身の手の甲を見る。
その甲には、無数の皺が刻み込まれていた。
――俺も、老けた。
そして、静子の顔を見た。
静子の顔にも、深い皺が刻み込まれており、その頬は垂れ下がっていた。
――こいつも、歳を取るはずだよな……若い頃は綺麗だったのに。
「……この山も、若い頃一緒に来たよな、母さん」
「……そうね。知り合った頃だったかしら」
「そうだよ。よく覚えているよ。俺が、母さんを誘ったんだ」
「そうだったわね」
「ねえ」
静子が幸三に、言った。
「なんだい?」
「……珍しいわね。あなたが私を外に連れ出そうとするなんて」
「……」
「……私がいつも裕二の事が心配で家にいるからかしら?」
「……そうだ。母さん、あいつはどうにもならないよ」
「そんなこと……」
静子は明らかに不服そうな表情を浮かべた。
「……高校一年の夏休みから、あいつは学校に行かなくなった。そして、しばらくして学校をやめてしまったじゃないか」
「それは、学校と合わなかったからじゃない? 裕二は志望校に行けなかったしクラスの人間関係にも悩んでいたようだったし……」
「そういう問題じゃないだろう。社会じゃそれでは通用しない」
「そうかも知れないけれど、裕二はまだ子供だったのよ」
静子は、本能的に息子をかばった。
「だけど、どうして学校をやめてしまった後も、働こうとしなかったんだ?」
幸三は、知らず知らずのうちに語気が強くなっていたのに自分でも気が付いた。
「……それは」
「……やっぱり、よそう。こんなところに来てまでそんな話は」
「……」
「……今日は、ちょっとゆっくりと山でも見て、俺たちも気分転換しよう。そのために来たんだから」
「そうね」
「お昼にでも、しないか? お前、おにぎりを持ってきただろう?」
「ちょっと早いんじゃない? まだ十時だけど……」
「まあいいじゃないか」
そう言うと、静子はリュックサックの中から、袋を取り出した。
その中には、おにぎりが、四個入っていた。
「やっぱり、あちらに行かない?」
と、静子が言った。
「そうだな、ここは邪魔になるかも知れない」
二人は、頂上付近ではなく少し離れたところにあった手ごろなベンチに移動して、そこで昼食を取ることにしたのだった。
「……最近、かなり涼しくなってきたな」
「そうね。今年は、暑が厳しかったけれど一気に冷えたわ。ここは寒いぐらいね」
「ああ」
そう言いながら、幸三は静子が作ってきたお茶を、水筒のコップに入れて飲んだ。
「はい」
と言いながら、静子はおにぎりの一つを幸三に渡した。
幸三は、
「ありがとう」
と、言いながらラップを取って、おにぎりをほおばった。
塩味の効いたご飯に、鮭が入れてあった。
いつもながら、静子の作るおにぎりは最高だ。
「おいしいな」
「よかったわ」
そう言いながら静子もおにぎりを食べた。秋風の中に、冬の気配を感じた。
「……実はいろいろ考えていることがあるんだ」
「何?」
「……裕二を、NPOに任せてみようか」
「え?」
静子はきょとんした顔をしている。
「どういうことよ?」
「……実は、ひきこもりを外に引き出してくれるNPO法人があるらしい」
「そうなの?」
「ああ。この前、テレビで見た。名前は忘れたが」
「でも……どうやって?」
「……ひきこもりを就労支援施設に入所させて、そこで団体行動や集団生活に慣れさせる。そして職業訓練を施して、就業につなげていくらしい」
「でも、そんなのうまくいくかしら?」
「わからない。でも、今までこの三十二年、何もうまくいかなかったじゃないか」
「……でも、何回か裕二だってアルバイトには行ったじゃない」
「たった一日で辞めたのばかりだったじゃないか。しかも、それも二十五ぐらいまでに何回かあっただけだ。それからはずっと働かないで家にいるだけだ。毎日、ゲームばかりしているし」
「でも、仕方がないじゃない。あの子には働くなんて無理なんじゃないかしら」
「そういう問題じゃない。俺は、あいつがこのままではこの先、どうやって生きていくのか心配で仕方がないんだ」
「貯金もあるでしょう? あなたの退職金もまだあるし。私もできるだけ働くし、家もあるじゃない」
「そういう悠長な話をしていていいのか? 老後、いったいどれぐらいお金がいると思っているんだ?」
「そんなこと、私もわかっているわよ。どうやったら部屋から出てくるっていうのよ?」
「……だから、業者を頼んだらどうだ、って言っているんだ」
「……業者、ね。それ、本当に信用できるの?」
「わからん。だが、一度連絡してみようと思っているんだ」
「そんなの簡単にうまくいくかしら? 私はそうは思わないわ」
「しかし、このままではあいつはずっと家に引きこもってゲームをしているだけだ。いつも昼ごろ起きてきて、昼飯を部屋で食べて、食べ終わったら部屋の外に置いてあって……トイレと風呂ぐらいしか出てこないじゃないか」
「確かにそうだけれど」
「だろ? このままじゃあいつも駄目になる。もうすぐ五十だよ? 今でもどこも雇ってくれないかもしれないけれど、五十になったら本当に社会復帰なんてできなくなってしまう」
「……今でも、もうどこも雇ってくれないよ。あの子は、私たちが面倒見るしかないじゃない、現実には」
「そうかも知れんが、それでいいのか?」
「……でもどうしようもないじゃない」
「だから、NPOに頼もうと言っているんだよ」
「……私は、NPOに頼むのは反対だわ」
「どうして?」
「どうせ、お金もかかるんじゃない?」
「……たぶんそれなりにいるだろうな」
「……それに、いくらプロのNPOだって、あの子がちゃんと言う事を聞くかしら? 今まで、何をしても駄目だったじゃない」
「……まあ、確かにそうだな」
幸三は、次のおにぎりを頬張った。梅干しが入れてあった。酸味が効いておいしく感じられた。
「もう少し、考えてみる」
結論をそう言うと、幸三はふと、空を見上げた。
青い空が、そこにはあった。
澄み切った秋の空は、見ているだけで吸い込まれそうな感じがした。
そして、鈴鹿山脈の山々が燃えるような紅葉に包まれているのが見えた。
――ここは、こんなにもきれいな風景なのに……。
……我が家とは、別世界だ。
周囲では登山客が楽しそうに弁当を広げて談笑している。
この山頂に広がる世界は別世界のように美しいというのに……。
なぜ、自宅の玄関をあけて一歩中に入れば、陰鬱な暗澹たる空間が広がっているのだろうか。
そう思うと、幸三は暗い気持ちになった。