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千坂はいなくなったので

 塾講師というアルバイトは、クソだ。

 千七百円でも安いと言われるほどの時給に、子供相手であることの気楽さ。ニコニコ笑って適当なことを話していれば金の入ってくる魔法の仕事だと。そう思ってる奴はメルヘンの世界の住人だろう。現実では、何事にも代償が付き纏うのだ。


 例えば、それは時間の不自由。

 なにせ、決まった時間に、決まった場所へ、決まった客が必ずやってくるのだ。シフトは当然凝り固まり、夏休みだって逞しい曜日感覚を維持することになる。

 たまに生徒が欠席したならば、それは補習となってカレンダーをさらに塗りつぶす。しかも、授業給と違い補習給は最低賃金。


 あるいは、それは行動の不自由。

 モンスターペアレントの跳梁跋扈する現代社会において、生徒との個人的接触は厳禁だ。いたずら心溢れるおバカたちに、俺達が近隣住民であると悟られてはならない。

 つまり、近所を歩いている時に野生の生徒とエンカウントなんてしないよう、時と場所を選ばなきゃあいけないのだ。休日のデパートが怖いなんて感覚、他の奴にはわかるまい。


 そして、これらの制限を全て受け入れたとして。その上で、努力を重ねたとして。


 PCモニターに映る無機質な合否発表が全てを無意味にしてしまうからこそ、塾講師はクソなのだ。


「俺はやれるだけのことをやったはずなのになぁ」


 あの日、ぼーっと家に帰った俺は、酒をかっくらっていた。祝杯として用意したはずのビールは、えずきそうなくらい苦かったのを覚えている。


「あいつ、泣きはらした真っ赤な目で俺を見るんだ。結果報告なんて電話でもいいって言っておいたのに、わざわざ校舎に来てさ。笑顔を作って、俺に言うんだよ。ありがとう、ゴメンなさいって」


 ビールの缶を握り潰す。何かひんやりと感触が伝って、どうもまだ飲み切っていなかったらしい。


「居心地が悪かったんだ。いたたまれなかったんだ。俺は来年も、こんな気持ちにならなきゃいけないのか?」


 返事はなく、空転する思考。全身にぼやぁっと溜まった熱が、脳をふやかしていく感覚。


「なぁ、千坂が謝ったってことはさ」


 思い返すたび、酒で記憶が飛ばない自分が恨めしくなる。


「千坂が、悪かったのかな」


「あら、冗談でも、そんなつまらないことが言えたのね。人好ひとよしくんは」


 俺の話をずっと黙って聞いていた美瑠が、すっと俺に差し込んだ言葉を忘れてしまえたなら。それはーー


 ◇◆◇


「……んせ、せんせー?」


 引き戸越しに、くぐもった女の声。


「あの、もうすぐ朝ご飯、できますよー」


 空腹をくすぐる暖かな匂い。ぱたぱたと離れていく気配。

 目をしばたかせると、薄手のカーテンを透かすぼやけた朝日を感じた。枕から頭を引き剥がし、寝汗にぺたつく髪を撫でつける。


 最悪の寝覚めだった。


 もう二年前なのに、普段思い出そうともしないのに、やけに鮮明な夢を見たものだ。じめじめとした苛立ちが、頭の中でとぐろを巻いているような不快さ。

 おかげで、すっかり暮らし慣れた自分の部屋を、汚いなんて感じてしまう。

 美瑠がろくに来なくなってから片付ける意味を失った寝室は、脱ぎっぱなしの服や大学の講義資料、塾で刷りすぎてしまったのを隠そうと持ち帰ったプリントで埋め尽くされて。今やちょっとしたゴミ屋敷だ。


「あー、くそ」


 スマホの画面を確認すると、朝八時。早過ぎだ。引き戸一枚隔てた向こうにいるアイツに、不満の念を送る。

 もし、あの悪夢に一つでもマシなことがあったとしたら、アイツの声で起きても別段驚かなかったことだろう。昨日の俺が後回しにした厄介ごとを、はっきりと覚えている。

 それをさっさと追い出すためにも、俺はえっちらおっちらと汚部屋を越えて、居間に出た。するとツンツンとした亜麻色のショートカットが振り返って、こちらを捉える。


「あっ、人好せんせ! おはようございます」

「……おはよう」


 果たして、千坂がそこに居た。

 二年前から変わらず、頭に響く高い声。思わず、顔をしかめた。


「あれ、せんせはもしかして、寝起きが悪いタイプですか?」

「そうじゃない。早すぎるんだよ」

「え、もう八時ですよ……? あ、いえ、すいません」


 揶揄うように言われて、実際機嫌は悪かったものだからちょっと声を低めてやると、千坂は慌てて取り繕う。そして、外面のために質素に整えた居間の中央、安物の丸テーブルに配膳をしていく。俺はそれを傍目にテーブルについた。


「ちょっとは落ち着いたんだな」

「えへ。昨日はお恥ずかしいところをお見せしました」


 ちろりと舌を見せ、俺の対面に座り込む様子は、かつて見慣れたものだ。

 そう。二年前、彼女の個別授業を担当していた時から、千坂は何一つ変わっていない。表情は多少大人びたのかもしれないが、猫みたいにキラキラした瞳はそのままだ。先生を『せんせ』と短く呼ぶところも変わらない、人懐こい千坂。


「ところでせんせ」

「なんだ」

「せんせ、イナゴの佃煮なんて食べるんですね。冷蔵庫に普通に入ってたから、きゃっ! ってなりましたよ。きゃっ! って」

「あぁ、あれは俺のじゃないぞ」


 なんなら、俺だってうわっ! ってなる。身振り手振りをして驚きを表現していた千坂も、「ですよねー」と苦笑する。苦笑して、訝しげに首を傾げた。


「じゃあ、何で置いてあるんですか」

「ん、あー、あれは……。この前、罰ゲームで押しつけられたんだ」

「えー、最悪ですね」


 瓶の中にぎゅうぎゅう詰めにされたバッタもどきの光景を思い出したのか、げんなりした顔をする。


「まぁ、それはいい」


 俺はその隙に話を切り替えた。


「朝飯、はやく食べないか」

「……いいじゃないですか。久しぶりなんですし、もう少しお話ししても」

「食べながらでもいいだろう」


 俺たちの間には、作りたてのほかほかとした空気がずっと漂っている。白米、味噌汁、目玉焼き。十二分の朝飯だ。

 それなのに、千坂が食べ始めようとしないのは、きっと部屋主である俺への遠慮などではなく。


「別に、お前が食べ終わらなくても、俺が食べ終えたら出てってもらうからな」

「……」


 朝飯を用意してもらう代わり、一晩だけこの家に置いてやる。昨晩、仕事を終えてこのアパートへ帰った俺を出迎えた家出少女、千坂との契約が、それだ。

 揃えて置かれた箸の前で、両手をもじもじとさせる千坂に追撃をかける。


「絶対に帰ってもらうからな。今回は、朝飯を用意したくない俺と、家に帰りたくないお前との利害が一致したってだけだ」

「……あはは、そうですよね。分かってます」


 彼女に向けていた視線を落とし、目玉焼きに箸をつけ始めると、千坂は絞り出すように返事をした。

 その弱々しい声に、昨晩の千坂の様子を思い出す。アパートの階段に座り込んで、明滅する蛍光灯に照らされた背中を。

 その髪の亜麻色を見て、「お前、千坂か」と声をかけると、肩をびくりと震わせて。顔を上げた千坂は、ぽろぽろと泣き出したのだ。結果、騒がれても面倒だと部屋に上げてしまったのだが。


「せんせ、変わりましたね」

「そうだよ。変えたんだ」


 もそもそと食べ進める千坂が、ぽつりと言う。何となく気が昂って、刺々しく答えた。結果、会話が途絶える。

 別に気にすることでもないかと食事を進めていると、千坂の制服の裾がちらちらと視界に映った。今時珍しい臙脂色は、私立桜ヶ丘女子の、彼女の第二志望校のシンボルカラー。夢見も相まって、朝から見るにはえぐい朱色だ。


「ねぇ、せんせ」


 沈黙に耐えかねたのか、千坂が口を開く。


「なんだよ」

「この目玉焼き、美味しいですよね」


 唐突に話が飛んだなと思いつつ、口の中の目玉焼きに意識を向けた。

 正直、目玉焼きなんて人でそう変わるものとは思わないが。素朴で捉え所のない白身の味を塩味が引き締め、胡椒がピリリとアクセント。


「あぁ、確かに美味い」

「ですよね。これ、お母さんに教わったんです」


 千坂のその答えを聞き、俺はふと、千坂の声に芯が戻っていることに気づく。顔を上げると、ちょうど目玉焼きを口に運ぶところ。

 千坂は、今までに見たこともないような、静かな笑みを浮かべていた。まるで、森の奥の波一つない湖面のようで。実感を噛みしめるように咀嚼する彼女は、高校二年生にしては大人びすぎていた。

 それだけに目が離せなくて、目玉焼きを嚥下した千坂と、まともに目があってしまう。


「人好先生、私をここにいさせてくれませんか」

「いや、だから」

「目玉焼きだけじゃなくて、他の料理も作れます。だから、朝ご飯もお昼ご飯も夜ご飯も、任せてください。掃除だってします」


 真っ直ぐに俺を見つめて、メリットを投げつけてくる。別に大したことを言うわけでもないのだが、なにより、千坂のこんな姿を初めて見るのだ。


「人好先生は、私を、千坂を覚えていました」

「いや、そりゃ、当たり前だろ」

「人好先生にとってはそうでも、私にはそうじゃないんです。人好先生は私にとって、最後の頼れる人なんです」


 もはや身を乗り出して言葉を重ねる千坂の切実は、胸に鋭く刺さる。


「だから、少しでいいんです。私をここに、居させてください」


 千坂が頭を下げた。

 俺はそのつむじを眺める。そして、塾講師としての自分と、その生活と、千坂を、頭の中の天秤に乗せ。


「なぁ、千坂」

「はい……」


 千坂が顔を上げ、その固まり切った表情を見て告げる。


「ダメだな。お前だけは、受け入れられない」


 人に近づきすぎると痛い目を見る。そう教えてくれた、お前だけは。

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