04話:殺し屋の夜が訪れる
意識がはっきりしはじめたというのに、夢を見たような記憶がまったくない。
それは僕がぐっすりした眠ったからだろうか?
ノンレム睡眠に入っている間は、人は深い眠りに入って夢を見ないと聞いたことがある。
……違う。僕はけっして快眠などしていなかった。
記憶にある限り、僕は睡眠していなかった。気絶という表現が正しいのだろうか。
眠気にしては唐突だった。貧血で倒れたことは未経験だったが、果たしてこれがそうなのか?
意識の切り替えが、床に落とした意識を拾い上げたかのように簡単に動作されたように感じる。
暗闇に落ちた僕の自我が、浮かび上がるように蘇ってくる……。
不思議なことに、何よりも先駆けてまず思考がクリアになった。
OK。たしか僕は何かの弾みで倒れこんだ。体は大丈夫か?
……痛いところはない。肺も順調に動いてるし呼吸も問題なさそうだ。
ただ気がかりなことに、体が鉛のように重い。
錆びた扉をこじ開けるように、僕は重々しいまぶたをなんとか開く……。
照明の切れた暗い部屋が見えた。
カーテンからわずかに漏れる街灯の光で、壁張りのアニメポスターが視界に入る。
見慣れた景色を遮るように、薄暗がりの中にひとりの人影が立っていた。
そして、はっきりわかった。ここは僕の部屋で、誰かが僕を見下ろしている。
「おはよう、寝ぼすけさん」
知らない男の声だ。喉が焼けているのか、ひどくしわがれた声だ。
男の姿は全体的に黒色だったが、大きくてカクカクしたふたつの白い目が見えた。
光の宿らない黒い瞳の四白眼。瞬き一つもない、無機質な視線を向けられている。
「ねぇ。起きてるかい?」
金縛りにあったかのように体が言うことを全く受けつけてくれない。
芋虫みたいに床に這いつくばる僕に、男は覗き込むように顔を近づけた。
男はあまりにも変な目つきをしていたのだが、顔が近づいたことでその違和感の正体に気が付いた。男は、両目の上下のまぶたを切り落としていたのだった。それはお世辞にも綺麗な切断面ではなくちぎられているように喪失しているので、白目で際立ってカクカクしてみえるのだ。僕は悲鳴もあげられず、声にならないうめき声をあげるしかできなかった。
「いやぁ、どうやらまだ寝ぼけているみたいだねぇ。クックック」
なんとか肩や肘を支えに起き上がろうとするが、力が入らなくて倒れてしまった。
僕をあざ笑うように、男は形容しがたい不快な笑い声を漏らしながら立ち上がる。
『カラスが笑ったような声』という表現がなぜか僕の脳裏をよぎった。
カチャリ、と音がした。
僕はひどく嫌な予感がして、動けないなりに素早く目を動かして視点を合わせた。
男の手にはわずかな光で浮かび上がる拳銃が握られていた。
「まだ起き上がれないかな? 今から君の妹を殺してくるから、ここで、もう少しおとなしくして待っているんだよ」
クックックと低く笑いながら、男は静かな足音を立てて部屋の扉を開けて出て行った。
扉は律儀にガチャリと閉じられた。
向かい先はリビングだ……、と思いながら僕は混乱した。
僕には妹なんていない。
家族はお母さんとお父さんのふたりだけだ。
妹に見えそうな人なんてこの家に……!?
……待てッッ!!!!
その先にはお母さんがいる!!!!
(うォぉぉぉォォおおおおおおおおぉォオオォオオ!!!!!!)
体に力を目一杯込めるのに、まるで見えない力に押さえ込まれているように動かない、動けない。
なぜ!?? どうして体が動かないんだッ……!!
お母さん……妹に間違えるか…?! お母さん、そんなに若くねぇよ……!!!!
頭がひどく混乱する一方で、四肢の骨を折る覚悟で全身全霊で力を込める。
どうして、妹って……! 母さん……! 動けよ、カラダァああああ!!
『ダァンッ』
……まさか。
『ダァンッ……ダァッンダァンッ……』
聞き違いようのない音。
四発の銃声を聞いて、僕の力はどこかへと抜けていった。
『今夜は吾郎の好きなハンバーグよ』『大学合格、おめでとう!』
『女の子に振られたぐらいで自信をなくさなくていいの。私は誇らしくなるぐらい、吾郎は見えない努力家さんなんだから』
『お父さん、早く帰ってきてほしいわね』『ゲームばっかり、してちゃダメよ』
これが……、走馬灯なのか?
(ううぅ、うぅっうっうぅぅぅ)
間に合わなかった……。
動かない体が憎い。使えないこの腕、この体を引きちぎってやりたい……!!
「ぁあアアぁああああァアアアア……!!!」
突然、弾けるように体が動いた。
呪縛は急に完全に解けたようで、僕は妙な立ち上がり方をしたために転んで壁に激突した。
まるでスイッチで電源を取り戻したような唐突さ。僕は思わず両手の指が五本とも曲がることを確認して、確認して……。
いったい、何が起きたのか。
お母さんは生きているのか。
急速に動悸が高鳴った心を落ち着かせながら、立ち上がろうとしてまた失敗した。
腰が抜けたとは、このことなのか。ええい、こんな時に……!
気持ちだけが先走って、僕はもたもたしながら家具を支えに立ち上がった。
アドレナリンが溜まった意識に反して、足がわなわなと震える。
体はひどく正直で、恐怖心は徐々に意識にまで浸透し始めた。
さっきの男は銃を持っていた。
僕はどうやって対抗すればいいのか?
とにかく時間がない。
武器にも盾にもなるかわからないが、僕は急いで読みかけのジャンプを手にとった。
ちくしょう、なんで最近のジャンプは薄いんだ……!
僕たちが住んでるマンションは3DKだ。
僕の部屋の扉を開ければ正面にキッチンと繋がったリビングがあり、キッチンを向いて左手にバルコニー、右手に廊下が繋がっている。
廊下に入ると突き当たりに玄関が見え、左手に部屋が二つ続いている。手前側の部屋が親の寝室だ。
親の寝室に向かう道中にキッチンがある。そこで武器を調達してから親の部屋に向かえるじゃないか。
そう考えてドアノブに手を伸ばしたところで、僕はふと冷静になった。
(もし男がリビングにいたら……?)
その場合、僕は逃げ場を失う。
ドアノブを握る手がこわばった。
このまま自室の窓から逃げた方がいいのか?
いや、母さんを見殺しになんかできない。
ガチャリと、僕は恐る恐る扉を開いた。
リビングの照明はやはり消されているらしく、青い月明かりが窓から漏れ出すように差し込んでいた。
僕は急いでリビングを横断し正面方向のキッチンへと……キッチンへと……?
(ここはッ……僕の家じゃないッ……?!)
正面はキッチンではなく、大きな窓枠があった。
月明かりは左手ではなく正面の窓から差し込んでいた。
左手にあるはずのバルコニーは、下階に繋がっている階段になっている。廊下があるはずの右手奥の壁には知らない扉が設置されていた。
(僕の家じゃない……!)
後ろを振り返ると、そこは僕の部屋があった。
薄明かりに照らされているが、青い月光ではなく白い街灯の明かりで浮かび上がっている。
まるで異世界に迷い込んだようだ。
そして、僕は頭に雷が落ちたような衝撃を受けた。
僕はこの部屋を知らないが見たことがある。
そしてひどく不快なことにも、僕はあのギザ目の男も知っていないが見たことがある。
『今から君の妹を殺してくるから』
それならば、もしかして『妹』というのは……?
万が一、僕の仮説が正しければ、この月明かりの部屋に彼女がいる。
この知らない部屋の中央に置いてあるテーブルの影に、彼女は横たわっているはずだ……。
一歩踏み出すと、死角となっていたテーブルの陰から小さな手の平が見えた。
さらに一歩足を踏み出すと……細い手首、白く艶やかな腕、そして……鮮血を流した少女、レナの亡骸があった。
「うぅ……っ!」
僕は自室に駆け込んで扉を閉じた。
勢いに任せてタンスを押し込み、扉を完全に封じるとベッドの中に潜り込んだ。
これは、夢だ、夢だ。
夢に違いない。
「そうか、僕はまだ目が覚めていなかったんだ……はは、ははは」
体がひどく冷たい。ぶるぶる震える全身をかばうように、両足を屈めて両手を回して体を温める。
さながらベッドの中で、子宮に入る赤ん坊のような体勢だ。体育座りとは少し異なる、あまりの恐怖に萎縮する姿勢。
「ゲームのやりすぎかな……参ったよ……」
あの月明かりの部屋。
横たわる少女の死体。
ギザギザ目の黒い男。
あれらはすべて『ドゥルガー』のゲームの中にあったものだった。
主人公は深夜に家を襲撃され、大きなギザギザ目をした殺し屋に妹を殺される。
そして、その復讐のために殺し屋を追跡する、というゲームのあらすじ。
これが夢なら、すべてのつじつまが合う。
僕はゲームのやりすぎで、悪い影響を受けた夢をにうなされているんだ。
目が覚めればきっとすべてが元どおりになる……。
「……はずなのに、なんなんだ、この現実感」
悪寒で汗ばんだ体が苦しい。
上がりきった動悸がブレーキをなくしたかのように止まらないんだ。
夢から覚めるために目を閉じるのに、寝つきなんて当然のように悪く眠くならない。
もし、自分の頰をつねったらどうなるんだ?
……痛いのか? いや、痛くなかったら逆に……?
頬をつまもうとする指が震える。
ドアノブが回り、扉が開こうとする音が聞こえた。
「あれぇ、おかしいなぁ。子供部屋に鍵なんかかかってなかったはずだよぉ?」
しわがれた声、殺し屋の声だ。返事をしてはいけない。
あの男は夢の中の住人。僕とは違う、まやかしの存在なのだから。
「開けてくれない? 開けてくれないの? ねぇ、遊ぼうよぉ」
扉をなおも開こうとするが、タンスの重みでなんとか耐えているようだ。
僕は目をぎゅっと閉じ、耳を塞いだ。早く、夢から覚めて、夢から覚めて、夢から覚めて……。
ガタンガタンと扉を開けようとする音が静まった。
「仕方ないね。じゃあ出直してくるよ」
男は寂しそうに言うと、コツンコツンと足音が遠のいて行った。
まるで時間から切り離されてしまったように、僕は静かな部屋に取り残された。
部屋で唯一の音は、自分の荒い息音と心臓の音。いつまで耐えればこの夢から覚めるんだ?
あれかどれくらいの時間がたったのか。
また扉を開こうとする音が聞こえて、僕は心臓が飛び出しそうになった。
「吾郎? 起きてる? 大丈夫?」
優しい女の人の声。
「おかあさん……?!」
「吾郎、どうしたの? 扉が開かないわよ、何か起きたの?」
扉越しに語りかけてくる親しい声。
間違いない、お母さんの声だ。
「お母さん……! すぐ開けるよッ!!!」
ついに、ついに悪夢から脱出できたのか……!
僕はベッドから飛び出して、ドアの前の邪魔なタンスを押しのけた。
ドアを開けると、リビングがある! キッチンがある!
左手にあるバルコニーから差す光も街灯の白色!
寝間着姿のお母さんもいるッ……!
「おかあさん……」
「ちょっと、大きな声出してどうしたの? 目が涙目になっているじゃない」
大げさな顔して心配そうにしているお母さん。
全部、何もかも元どおりになった。
部屋も、外も、お母さんも日常の状態に戻った!
……なのに。
なのに、どうして。
お母さんに近づいて僕は気がついた。
一体、どうして!
「……どうして、お前がいるんだよォォ……!!!」
お母さんの後ろに、まるで当然のように。
日常に溶け込むようにギザ目の男が笑みを浮かべて立っていた。