10 羆と呼ばれる男
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村を見おろす高台の大きな岩に、日がな一日、男は座っている。
全身に日光を浴び、世界を流れ巡る魔素をその身のうちに取り込みながら。
娼館と剣闘士養成所と奴隷鉱山しか知らない男にとって、高い山々と緑濃い森、拡がる田畑はいつまで見ても飽きない新鮮な景色だった。
いや、他の景色も知っているような・・・
大きな建物、たくさんの人々、花咲く庭園・・・
そんな見知らぬ風景が、脈絡もなく浮かんで消える。
「熊さーん」
下の方から子供の呼ぶ声がする。
チシャというやせっぽちの女の子。
「命の恩人」と彼が認識した相手。
走って来るその姿に、花冠をかぶった銀髪の少女の姿が重なって、男は軽く頭を振った。
まったく違う姿なのに。いや・・・
これも「守るべき相手」だからだ。
「大っきな熊さん」
もつれた金髪に広い背の大男を、チシャはそう呼んだ。
立ち上がると三メートルを優に超える、金褐色の毛並みを持つ巨大な羆は、この辺りでは最大の肉食獣だ。
まだ覚束ない動作でゆっくり動く大男は、河辺に坐り込み辛抱強く遡上する鮭を待つ、大きな金毛の羆を連想させた。
どこかユーモラスなその姿は、体内に強力な力と瞬発力を秘めている巨大な猛獣であることを忘れさせる。
「熊さぁーん!」
その言葉は、男が受け取った真の名と、どこか似通った響きを持っていた。
だから彼は、自分を受け入れたチシャと子供たちが、彼を大きな金毛羆、「バルー」と呼ぶことを受け入れたのだった。
一緒に村に戻ると、広場に数台の馬車が止まっている。
村長と話していた役人風の男と商人風の男の二人は、子供たちと現れた巨漢にぎょっとした。
何着もの古着を縫い合わせて作ってもらったつぎはぎの服をまとい、女の子の編んだ草冠をかぶり、肩車で一人、腕に一人ずつ子供をぶらさげた、金髪の大男。
もつれた金髪の間から覗くのは、異種族である証拠のとがった耳。
「ある日ふらりとやって来たんじゃが、おとなしい奴じゃよ」
村長が頭の横で指を回しながら言う。
「なんと危ない事をする。こいつは妖魔じゃないか」
役人が気色ばんだ。
「いやいや、見ろよ。あの傷跡。
妖魔なら、身体に傷は残さん。奴らの美学に反するそうじゃからな。
しかし、見事な身体だねぇ。歴戦の勇士って感じだよ」
商人風の男が言う。
そう。まるで普通の人間のように、男の負った傷の治りは遅く、傷跡は消えなくなっている。
次男に拷問され続け、衰弱した体に次々と深手を受けていった、あの日々。
損傷が回復力を上回った肉体は機能を切り替え、浅手の傷は放置して、命に係わる重傷を治癒する事だけに専念するようにしたのだ。その機能がまだ働き続けている。
傷跡を消すなどという些末な事は放棄し、重症にのみ、彼の持つ治癒力が全開するという身体に。
それが妖魔でない証拠となるとは、思ってもみない幸運だった。
「遠くから流れてきた異人か、その混血だろう。
まともな仕事も出来ぬうすのろじゃが、力だけはあるからの」
と軽く言った村長は、二人の男がすばやく目くばせを交わしたのに、気付かなかった。




