とりあえず国道をまっすぐ
俺の名前は遠藤悠歩。名古屋市内のとある出版社で働いている31歳である。うちの会社は創業30年ほどで、旅行や趣味の雑誌の出版をメインに、業界でもそこそこの実績をあげている。教育雑誌や小中高生対象の教材も扱ってはいるが、そっち方面では世間的にはドがつく程にマイナーなようだ。会社の隣にある本屋にすら並べられていなかったのは、自分の担当ではないとはいえ流石にショックではあった。
うちの会社の実務的な部署は企画部、編集部、営業部、広告部の四つ。俺は企画部に所属しているが、企画部とは名ばかりで、個性派揃いのアホ社員どもが思いつきで雑誌の原案を書きなぐり、到底企画書とは言えないような状態の紙きれを部長に即座に破り捨てられるという、とても非生産的な毎日を過ごしている。これだけ聞くともう全員クビにしちゃえよとか思われるかもしれない。俺だってそう思う。しかしながら面倒くさいことに、それら有象無象の中から、BIGなアイディアがひょっこり現れることもあるのだ。現在刊行している旅行雑誌「月刊・全国舐めまわ誌」は、日本全国のほとんど無名の土地の情報を、幅広く、これでもかというくらいに無駄に掘り下げて解説するという、なんともB級臭の漂う雑誌ではあるものの、2004年に創刊以来、何故か社内でも常にトップの売上を誇っている。需要というのは分からない。確か、今は編集部に移って編集長をやっている大伴さんが創った雑誌だったかな。ちなみに俺はその雑誌の現企画班の班長で、斬新なテーマやスポットを求めて日々苦悩する毎日である。
さて、
「何故ここに呼ばれたか、分かるね?遠藤くん」
「いえあの、申し訳ありませんが、心あたりが…」
むしろ俺が聞きたい。何故だ。何故俺はこんな所にいる。
どうにか今日の分の仕事をこなし、久しぶりにギリギリ定時に帰れるはずだった。そんな俺を呼び止めた部長に、渡されたのは1枚のメモ用紙。名古屋市内のとある場所の住所が書かれていた。会社から少し距離がある。詳細を尋ねようとするも、今すぐにそこに行けとなかば無理矢理タクシー代を掴まされ、何がなにやら分からないままに指示された場所に向かった。
着いた先は、ヤケに高級そうな割烹料亭だった。まったくもって先を予想できない展開に呆然とする俺を、中居さん的な人が店の中に案内する。
誰もいない個室で、俺は自分の置かれた状況を必死に考察し始めた。
昇進?まだ早い。
リストラ?社内でそんな噂は聞いていない。
部署異動?こんな所まで来てする話ではないだろう。
説教?それこそ会社でやるだろう。
駄目だった、検討もつかない。検討もつかないが、この状況がどうにも居心地の悪いものであることは確かだ。まず、俺の対面にこれから誰が座るのか、それすら分からない。誰々様のお連れ様ですね的な言葉が店側の人から聞こえたような気もするが、まったく思い出せない。ここに行けと指示した部長が来る可能性が1番高いが、あの人が自分を誘うなら、いつものあの個人経営の飲み屋に行くだろう。
もういい、とりあえずどんな形でもいいから、今の状況を転がしたい。進展が欲しい。そう思い始めた矢先、中庭側の閉じた障子が、静かに開いた。
かなりガタイのいい、壮齢の男が立っていた。
一目見ただけで、俺みたいな凡人とは格の違う、なにかオーラの様なものを感じる。
もちろん俺にこのような知り合いはおらず、一度でも見覚えのある容姿でもない。初対面なのは間違いないようで、向こうも俺の顔をしげしげと、興味深そうに見つめている。
ここで目をそらしてはいけない。向こうが俺に何の用があるのか分からない以上は、変にオドオドとした姿を見せるわけにはいかない。あくまでも堂々と(少なくとも怯えているようには見えないよう)、彼の目を見つめ返す。
今まで経験したことがない程の緊張感が数秒間、俺と男との間に鎮座した。
やがて男は、その厳格そうな口元を僅かに緩め、こう言った。
「あっ、ごめんなさい部屋間違えました」
「ア、イヤ、ダイジョウブッス」
「ごめんなさいねーどうもねー」
「ウッス、ソレジャマタ」
障子がしまった。
あまりにも予想外すぎて、思わず頭空っぽの大学生みたいな返事をしてしまったが、特に気にされる様子もなかった。ていうかそれじゃまたってなんだよもう恥ずかしい。醜態に一人赤面しながらも、妙なやり取りがあったおかげか、先程よりも心が落ち着いたように思う。
そのまま正座して待ち続けること数分。今度こそ、俺の待ち人であろう男が現れた。
歳は俺と同じくらいだろうか。中肉中背で眼鏡をかけ、別段高級そうでもないスーツを丁寧に着こなした、ごく普通のサラリーマンっぽい人物だった。もっと大物然とした人が来ることを予想していたため驚いたが、表には出さない。男は立ったまま、俺は座ったままで互いに会釈を交わす。相手は無言で俺の対面に移動し、同じように正座してから、ようやく一言、こう言い放った。
「遅れてすまんこ」
「ふぇぇ…」
またやってしまったが、今のは仕方ない。まさか初対面の人間にスーツ姿のおっさんが下ネタをぶっ込んでくるとは思わなかったからな。先方の顔を窺ったが、別段気にも止めていない様子だ。こちらも気にせずにいこう。
「初めまして、〇〇出版社の企画部に所属しております遠藤です。本日はよろしくお願いします」
まずは名刺を渡す。まあ、なんでこんな所に呼ばれたか分からない今、よろしくお願いしますもおかしいとは思うが。