意識の断片
「俺、気づいてしまったんだ」
突然、血相を変えて俺の家を訪ねてきたオカモトを見て、何事かと思った。そんなに急を要する内容なのか、彼は着の身着のままで、ろくに寝癖も直さず、髭も剃り残しがあるというよりはほとんど剃ってない状態に近かった。
「まあ、落ち着けよ。そんな息を荒立てていたらできる話も出来んだろうに」
俺はオカモトを宥めながらリビングに通し、茶を注いだ。廊下から見て右に置かれた長方形のテーブルと、きれいに並べた前後二つずつ、合わせて四つの椅子の内、オカモトは上座の左という一番手前の席に座り、いまだなお肩をこわばらせている。俺はお盆で運んだ二つの湯呑みの一つをオカモトの前に置き、残った湯呑みを載せたまま下座に対面する形で座った。
「それで、一体どうしたんだ」
俺が尋ねると、オカモトは何とも歯がゆそうに話し出した。
「ああ、いきなりなんて馬鹿な話をするんだと思うかもしれないが真面目に聞いて欲しい。何と言おうか。うん、そうだな。まずはあれを話そうか」
オカモトは自分に言い聞かせるように何度も頷きながら、多少の沈黙があり、ようやく話を続けた。
「お前も子供の頃に生や死だとか、有や無だとか、自分だ他人だとか、空や宇宙だとか、この世の理だとか、色んな事を考えて漠然と恐怖して、夜も眠れなくなったことがあっただろう。俺が今まさにその状態に陥っているんだがな。考えれば考えるほど恐怖は増していき、自分では解決できないと思ったんだ。それでお前にこの恐怖を取り除いてほしいとここまで来たんだ」
オカモトの話は身に覚えがある。しかし、いい年をした大人が今さら何をと思い、危うく口から出かけたが、彼の形相はあまりに常軌を逸していて、目を見開いて真面目に話すものだから、すんでのところで飲み込んだ。
「それでその恐怖というのは何なんだ」
「ああ、そうだな。アニメってあるだろあれを思い浮かべて欲しいんだが」
「は?」
オカモトの話題が突然変わったため、素っ頓狂な声を上げてしまった。さっきの話とアニメにどう繋がりがあるのかは全く見当もつかないが、聞かないことには話は進まない。
「アニメって、アニメーションとかでいいんだよな」
「ああ、問題ない。あれってつまりさ、ずっと継続してるように見えるけど実はそうじゃなくて、何枚も絵を書いてパラパラ漫画のように流しているだけなんだよな。一つの断片が連続していることで繋がりが意味を持つわけで、一つの断片だけがあってもそこに意味はないんだ。人間、いやこの世のすべてがそれと同じなんじゃないかと思えてきて、俺にはそれが怖くて怖くてしょうがないんだ。つまりはさ、今ここにいる俺と、未来の、いや、さっきとは別の今の俺は同一人物のようで全くの別人なんじゃないかって。そう考えると今の俺はどこのどいつで何のために生きているんだ。未来の俺がいい思いをしても俺にはそれを享受できないし、過去の俺が問題を今の俺に回してくることもあるだろう。だとすると今の俺の存在価値って何なんだ」
オカモトは話を終えると、まるで世界の終わりを嘆くかのように頭を抱えた。
彼の言い分は言うほど滅茶苦茶ではなかったが、同時に突拍子もない話だと思った。もしかしたら精神を病んでいるのかもしれないし、いたって健康かもしれない。精神科にかかることを勧めようかとも思ったが、そんなことをしたら俺たちの友情に亀裂が入ることは必至だった。せっかく俺を頼ってきたオカモトを病人扱いするなど残酷なことは避けるべきだった。
とにもかくにも、オカモトがいつまでもここで嘆いているのでは家でくつろぐこともままならないので、どうにかして諭すことにした。
「ものは考えようだぞ。逆に言えば、お前が連続する時間の中の独立した一人であるならば、お前は過去の嫌な記憶にも自分には関係ないことだと割り切ることができるし、それこそお前だって未来の自分に問題を先送りにできるじゃないか。何も悩むことなんてないさ」
オカモトは顔をあげ、はっとした表情を浮かべた。
「それもそうだな。こんなに考え込んでも分からなくて、あまりの恐怖に悩まされたというのに、お前のその言葉だけで目が覚めた気がするよ。すごいすっきりした。こんな馬鹿みたいな話真面目に聞いてくれてありがとうな。いつまでも邪魔してたら悪いから今日はもう帰るよ」
そう言うと、オカモトはさっきまでの様子が嘘のように家を出ていった。とても深刻そうだったので、あまりの簡単さに拍子抜けしたが、何はともあれ俺はこの休日を有意義に過ごせそうだった。
それにしても、オカモトの話は突拍子もなくはあったが、妙なリアリティーと説得力があった。そんな考えが頭をよぎったのは部屋の掃除をしているときであった。あんな話を聞いた後だからか、部屋に俺一人なのも相まって、まるで世界から自分一人だけが取り残されたような、そこはかとない孤独感を感じた。
突如として、掃除機の音や、部屋の照明が止まったような印象を受けた。いや、止まったという表現には齟齬があり、実際には音はするし、光もある。そうではなく、まるでオカモトの言う連続した断片の一つを取り出したような、言うなれば音のする写真を撮って、それを眺めてる気分だった。更に言うならば、自分を客観的に眺めているかのような感覚に襲われていた。
不意に、視界が暗転し、頭の奥に直接声が響いてきた。声はぼやけて聞き取るのは困難だったが、なんとか言葉として認識できた声からは、「お前のせいだ」だの、「道連れにしてやる」だの、たくさんの恨み節が聞こえてくる。そのおぞましさに背筋が凍った。
声から逃れようと耳を塞ぐと、今度は暗闇からぼんやりと人体の輪郭が浮かび上がり、だんだんと色味を帯びて、ついにはそれが若い頃や老いた後の自分だと分かった。彼らは俺を指差して糾弾している。
「お前があのときやっていれば」
「お前だけがいい思いをするのは不平等だ」
耳を塞いでも頭の中に直接響いてくるので意味がなかった。過去や未来の俺はじりじりと俺に近寄ってくる。中には殺気だった俺もいて包丁を持ちながら言葉とも取れない怒号を発している。
自分に殺されるなんて冗談じゃない。そう思った。
「分かった。俺が悪かったから助けてくれ」
俺は半ば泣き叫ぶような形で懇願する。だが、俺はそんなこと意にも介していなかった。
「うるさい、死ね」
俺が包丁を振り上げ、もう駄目だと思い、目をつむった。
恐る恐る目を開けると、そこは見慣れた自分の部屋だった。ふと時計を見ると、あれから一分と経っていなかった。
気付けば俺は膨大な汗をかいていて、とても喉が渇いていた。掃除機も止めずに台所へと向かった。水を汲もうとすると、シンクには使った覚えのない包丁が置かれていて、手に取ると刃の先から根元までべったりと赤い血に塗れている。それを見て、呼び起こされるように腹部に鈍い痛みを感じて、視線を落とすと、ぼたり、ぼたりと腹の大きな傷口から血が垂れ流されていた。