母親の私
楽しい話ではありません。
私には可愛い真由という子供がいる。
同じ会社に勤めていた、憧れだった井澤 憲二郎さんとの子だ。
憲二郎さんは既婚者だったけれど、奥様を事故でなくし、幼子を抱えて途方に暮れていた。だから私はここがチャンスと憲二郎さんに近寄った。憲二郎さんと美晴ちゃんの世話を毎日押しかけてしていた。
子供には母親が必要でしょう。貴方も男であるなら新しい奥様も。それに、美晴ちゃんの兄弟だって!
そう憲二郎さんに言っていた。
いつからだったか、憲二郎さんとの体の関係が始まった。やがて私に憲二郎さんとの新しい命が宿ったことを伝えると、憲二郎さんは迷わずに結婚しようと言ってくれた。
私は「内野 佐世子」から「「井澤 佐世子」となり、妻になり母親になった。
翌年、早産で真由が生まれた。未熟児で、保育器から出られない真由。抱くことができない真由。いろいろなチューブに繋がれている真由。
どうして?
美晴は元気で過ごしているのに、どうして真由だけがこんな姿なの?
私は真由が元気になるように毎日祈り、毎日病院に通った。
真由は体重も増えて口からミルクも飲めるようになった。とうとう退院だ。でも、免疫が弱く、すぐに体調を崩してしまう。ミルクも戻してしまう。病院に通う日々は続いた。
「ママ」
美晴が私の服を引っ張る。
確か、学校では手足口病が流行っているってプリントが届いていた。
「だめ! 私に触ったら、真由に病気が移るでしょう!?」
そう怒鳴ると、美晴は悲しそうな顔をしながら私から手を離した。
美晴は危険だ。真由に近づけたら、どこから病気を移してしまうかわからない。
だから、なるべく真由と接触しないように気を付けた。病院に行く時も、美晴は家に置いて行った。
美晴の誕生日パーティー?
そんなの開いたら、小さな子供が押しかけて来る。どこから菌がやってくるかわからないじゃないから開催できるわけない。
それに真由の誕生日に美晴はいらない。真由の前で『美晴も誕生日祝って欲しい』って言われたら困るもの。
美晴が中学生になると、写真の中の江美さんに似てきていることに気づいた。
憲二郎が手帳に江美さんの写真を潜ませていることを私は知っている。美晴ちゃんが江美さんに似てきて、憲二郎さんが嬉しそうに見ていることにも気づいてしまった。
だめよ、憲二郎さん。美晴じゃなくて私たちを見てよ!
「お母さん」
美晴が私に話しかけてくる。言葉の言えない頃は素直に可愛いと思ってた。この子なら、私はちゃんと育てられると。
でも今は顔を見るのもいや。江美さんにしか思えないから。
だから私は美晴を突き放す。
私の子供は真由だけだもの。
最近美晴の帰りが遅いのはきっと私への当て付け。家にいたくない、もっと構ってという意思表示。でも、そんな子供じみたことに、私が気づかないとでも?
私は真由と憲二郎さんに美晴は部活で忙しいの、といえば二人はすぐに信じてくれた。
ほら、美晴よりも私の方が二人に信用されているのよ!
中学生になった真由が、学校の勉強についていけないと嘆いていた。
だから私は家庭教師として『彼』にきてもらった。親戚の中でも優秀で、真由の初恋の彼、野路 誠吾さん。
彼は真由に優しく親切だった。二人並ぶ姿はまるで恋人同志のよう。
「二人はお似合いね」
私がそういえば、真由ははにかみ、誠吾さんは『いえそんな』と笑っていた。
誠吾さんもそんなに悪い気はしていないようだし、真由の気持ちが届けばいいのだけど。
真由の17歳の誕生日。
楽しく祝っていたら、美晴が帰ってきて家を出るという。
「これからは家族三人で…ああ、ごめんなさい。四人ですね。仲よくやっていってください。ここにわたしの居場所はないので、これからは自活します」
何を言っているのこの子は。そんな簡単に家を出られたら、今度親戚が集まった時に何を言われるか。
あの集まりは噂の宝庫だ。
少しでも油断したら真由の耳に美晴が江美さんの子だと知られてしまうくらい、口さがない集団だ。だから真由をいつも私のそばに置いていた。
そんな人たちに美晴が出て行ったと知られたら、きっと私が美晴をいじめたからだと思われる。
「自活? あなたにそんなことできるわけないでしょう! 毎日遊び歩いているくせに」
「ええ、お金を稼ぐために毎日バイトをしていましたから、確かに帰る時間は遅かったですね」
「どうしてこの家を出ることが真由へのプレゼントになるの?」
「さっきも言ったでしょう? ここにわたしの居場所はないの。この家は全てがあなた中心。 第一、あなたみたいにわたしの誕生日パーティーをこの家でしたこと今までに有った?」
美晴の言葉に、真由と憲二郎さんが私を見た。
美晴の誕生日をこの家で祝わなくても良いと毎年言っていたのは私だからだ。
「それは、だって、お姉ちゃんの誕生日パーティーはお友だちが毎年祝ってくれてるから、家でやる必要ないってママが…」
「あなたはそれをそのまま信じてたのね」
真由と憲二郎さんの私を見る目に不信の色が入る。
「わたしはもう3ケ月前に成人していますから、これからは何とかやっていきます。大学のお金もこの先は自分で払います。成人前までの金銭面の負担は未成年の権利とさせていただきます。今までご協力ありがとうございました」
「美晴!」
憲二郎さんが美晴を呼び止める。でも、美晴のその背中が語っている。
何を言っても無駄だと。
「ここを出てどこへいくつもりだ?」
「教える義務はありません。今までわたしに興味の一つも持たなかったじゃないですか。あなたはわたしの小中高のクラス担任の名前、わたしのバイト先、友達の名前、ああついでに言うならわたしの部屋の色。どれか一つでも御存知ですか? わたしに今まで興味がなかったんですから、これからわたしがどこで何をしていても構わないでしょう。少なくとも、犯罪者になって迷惑をかけることはありませんので、安心してください」
「確かに君は法学部だから、犯罪者とは対極になるだろうけど」
誠吾さんが美晴に答えた。
私は美晴がどの学部に行ったのか、誰にも話していないのに。
美晴ちゃん、法学部ってすごいね。
なんて、あの集まりの中で言われようものなら、真由が可哀想じゃない。真由が美晴と比べられてしまうじゃない。だから黙っていたのに。
なのになんで? 誠吾さんが知っているの? 家庭教師と来ている間、美晴と話している素振りなんてどこにもなかったはず。
「とにかくご迷惑はかけませんので。わたしのことは今まで通り放っていていただければ良いだけのことです」
「そんなことできるわけないでしょう。あなたみたいな常識知らずの子供が…」
そう。常識知らずだわ。
誰のおかげでそこまで大きく育ったと思っているの?
「なぜ反対されているのかわかりません。わたしはあなたの子供ではないでしょう。わたしがこの家からいなくなれば清々して喜ぶかと思ったんですが」
「なんで、それを…」
美晴の言葉に驚く憲二郎さんと真由。
私はやっぱり知っていたのね、としか思えない。
憲二郎さんと再婚するときに江美さんのことは秘密にしておこうと決めていたけれど、あの親戚たちだ。間違いなく美晴の前でも遠慮なく私達の話をしていたのだろう。
真由は初めて知った事実に戸惑っている。
「わたしがこの家族の一員ではない、ということは10年前から知っています。成人したから世間への建前で私を育てる必要はない、と言っているんです。では、お元気で」
十年前から美晴は私の子ではないと知っていた。それを知っていたなら、私もいろいろと美晴や憲二郎さんに遠慮することなかったのに。なんて美晴は意地の悪い子だったのだろう。
言い合いを経て、美晴はこの家を出て行った。
その結果に狼狽している憲二郎さん。
「出ていったものは仕方ないわ」
だって、止めようがないもの。あの子は『家族』じゃないんだから。
あの親戚たちの口は面倒だけれど、なんとかなるでしょ。私たちが美晴を追い出したわけじゃないのだし。
「憲二郎さん。あの子は頭が良くて強い子だから一人でも大丈夫よ。これからは私たち3人で…そうね、あの子の言うように誠吾さんも…」
「申し訳ないのですが」
私の言葉を遮る誠吾さん。
「僕がここに来ていたのは、美晴ちゃんが心配だったからです。その美晴ちゃんがこの家にいないのなら、ここに来る理由はありません。家庭教師は辞めさせていただきます」
「なに、言ってるの?お兄ちゃん」
思いもよらぬ発言をはっきりと言い切る誠吾さんに驚きすぎて、言葉に詰まる真由。
本当、彼は何を言っているの?
「親戚中が美晴ちゃんを心配してました。いつもあなたたちの中に入れず、孤立していたのは誰の目にも明らかでしたからね」
「違う! 違うよ、お姉ちゃんが真由たちのこと嫌ってたからだよ!」
そうよ。あの子が私たちを避けていたのに、孤立していたなんて言われるなんて。あの人たちは本当に興味本位の噂好きばかり!
「何で美晴ちゃんが君たちのことを嫌うようになったのか、本当に君はわからないんだね」
真由を見て、誠吾さんが遺憾に堪えないといわんばかりの表情をする。
私にもわからないわ。だって私がしたことは全て真由ためにしてきたことよ。姉なら妹のためにいろいろと我慢して当たり前じゃない。
「でも、お、お兄ちゃん、真由のこと可愛い、っていつも言ってくれてた、でしょ? ま、真由のこと、す、好きなんでしょ?」
「君は可愛いよ。でも、僕が好きなのは昔から美晴ちゃんだ」
「そ、んな…」
そんな馬鹿な。いつも眺めていた二人の姿。仲睦まじく、恋人のようでお似合いで。
なのに、彼は美晴が好きだというの? 真由よりも美晴なんかが上だというの? そんなことあり得ないっ!
「待って……」
「今までありがとうございました。これで失礼します」
混乱、悲観している私たちを置いて、誠吾さんは出ていった。
真由は茫然としている。憲二郎さんは悲痛な面持ちで黙り込んでしまっている。
笑い声などもはや上がるはずもない。
私の可愛い真由の誕生日に起こった、悪夢のような出来事―――
その後、真由から笑顔が消えた。成績も落ちていく一方。
誠吾さんは言った通りこの家に来なくなった。連絡を取ろうにも携帯は繋がらないし、メールアドレスも変更されていた。野路の家に問い合わせても『誠吾の居場所など知らない』の一点張り。
このままでは真由が可哀想。あまりにも可哀想すぎる。
憲二郎さんは私と接するときにどことなくぎこちなくなっている。
真由も私を見る時も視線を逸らすことが多くなった。
幸せな『家族』だったのに、どうしてこんなことになってしまったの?
全てはあの子、美晴のせいだ―――
お読みいただき、ありがとうございました。