Cry to the Lost.
世界からある日、人の姿が消えた。
より正確に言うのなら全人口の90%が消失したらしい。これによって80億を越えていた人類は一気に8億ほどまでに激減することになる。
阿鼻叫喚の地獄絵図とはならなかった。そもそも叫喚する人々が消えてしまったのだから。
後に『大喪失』と呼ばれる現象。終ぞ人類は絶滅するその時までこの現象に対抗する手段を持ち得なかった。けれど、それはまた別の話。
全体の90%と言っても後から付け加えられた予測に過ぎず、どこかで消えた人数には偏りがあっても可笑しくはないのだ。
だって、私以外の人間が街から消えたりするのだから。
――AM08:00
朝、目を覚ますとスマホの画面に08:00と写っていた。
ボンヤリとそれを眺めた。ようやく理解したときには08:03となっていた。慌てて着替えて、母に文句の言葉を投げ掛けながら玄関に出た。
いってきます、と言ってから少し疑問に思った。いつもなら返ってくる母からの、いってらっしゃいの言葉がなかったからだ。
今になれば、そこでその意味を理解すべきだったのだろう。
しかし、そのときの私は遅刻のことで頭が一杯だったのだ。疑問を頭から振り払いバス停まで急いだ。
――AM09:00
「バス来ないし……」
時刻は既に起きてから一時間が過ぎていた。もう遅刻は確定した。
何故か来ないバスに見切りをつけて、学校へと歩き始めた。学校までの道のりは歩いて30分というところである。疲れるから出来ることならバスで行きたいのだが、来ないものはしょうがない。
「朝ごはん食べてないから余計に辛いなぁ」
それに空きっ腹を抱えているのだ。
こうなったら一時間の遅刻が二時間の遅刻になったところで変わりないだろうと寄り道することを決めた。
テッテコと歩きだして、コンビニにむかう。
どうせ遅刻するのだから一周して落ち着いた。
――AM09:40
何故か学校の側にはコンビニはないので遠回りしてきたのだが、店員の姿が見えずに余計に時間が掛かった。声をかけても出てこないとはどういうことなのか。もはや遅刻は確定していて諦めていたとしても、いくらでも待ってやる訳にもいかないのでレジにお金だけ置いて、店をあとにした。
コンビニで買ったサンドイッチをを頬張り、マンゴーのラッシーを啜りながら道を行く。スモークサーモンの塩気とマンゴーの甘さが絶妙にマッチしていてたまらない。
「店員の勤務態度がなっていないってつぶやいてやろうかと思ったけど、スモークサーモンが旨いから許そう。にしても、妙に静かなんだよねぇ……」
さっきから人っ子一人見当たらない。
あんまし群れることは好きじゃないけれど、朝から誰にも会っていないといい加減に寂しくなってしまう。
ポツリと一人だけ世界に取り残されたようで怖くなる。あんまりな考えにブルッと身を震わせる。
「誰か一人くらいは連絡してくれれば良いのに……。ああ、やめやめ! 学校行けば会えるでしょ」
少しだけ足を早めた。
――AM10:15
「……どうなってんだろ?」
あまりのことにカバンを落としたことに気づかないほど呆然としてしまう。
教室の、いや校舎のどこにも人の姿が見当たらないのだ。ここで遅刻したことで怒られない、と喜べるほど図太い神経はしていない。もしかしたらそんな神経をしていた方が良かったのかもしれない。
少なくとも今日は休日、祝日、代休のいずれにも当てはまらないはずだ。
「そうだ、スマホッ!」
慌ててスマホを確認するが何もない。
嫌な予感を抑えつけてネットに繋げる。
そこにあったのは『大喪失』の文字とそれに関する僅かな情報。
――さて、手始めに今の状況を纏めておこうと思う。
――本日未明、人間、というよりは生物の大多数であろう、が突然に消失した。理由は分からない。けれども、人が消えたことは確かであるのだ。少なくとも私の頭が狂ったのではないならば、だが……。
――まぁ、今そのことを言っても仕方がない。ひとまず分かっていることだけを記そう。
――人が消えた。分かっていることはそれですべてだ。
――もし、これを見て期待を覚えた人がいるのならすまない。だがしかし、本当にそれ以外のことは何も分からないのだ。どれだけの規模で、どれほどの人間が消えたのかも、そして、どれだけの人間が残っているのかも分からない。
――少なくとも私の周りでは知人友人も、両親も、そして愛する妻も娘も、あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
――すまない、取り乱した。もしこの状況をどうにかできる人がいるのなら助けてほしい。
――どうか、どうかこの地獄から助けてくれ。
――私は一度眠ろうと思う。目が覚めたときに妻が隣にいることを願いながら……。
膝から力が抜けて、崩れ落ちた。
廊下から伝わる冷たさだけが僅かにここが現実であることを示していた。
――AM12:30
どれだけの時間を座りこんだままで過ごしただろうか?
それほど時間は経っていないだろうけれど、不意に空腹をおぼえたお腹がきゅるるぅ、と情けない音を響かせた。
こんなことになってもお腹は減るんだと思うと自然と笑みが溢れた。
立ち上がり、全力で走り出した。
道なんか見なくても分かる。生まれてからずっと帰ってきた場所なのだから……。
高校では勉強して、友達とくだらない話して、友達と帰り道に寄り道しながら今日が終わらなければ良いと願った。
交差点の信号は変わるまで意外と時間がかかって何度もいらいらさせられた。
駄菓子屋のお婆ちゃんは少ないお小遣いをにぎり散々迷いながら選ぶと、優しい笑顔でおまけと言って飴玉をくれた。
勢いをつけすぎてこけてしまう。
擦りむいた手のひらと膝がじんじんと痛む。痛みで思わず涙が零れそうになる。
痛いのを我慢して立ち上がる。また走り出す。
柴犬のユータローは飼い主の佐藤さんと散歩に行けばはしゃいで怒られていた。お調子者だけれど誰にでもなつく可愛い奴だった。
近所の公園では幼馴染みのユリちゃんと一緒に遊んだ。ユリちゃんとは学校が離れても仲は良くて、今度の日曜に一緒に出掛けようと約束していた。
私の家は普通の一軒家だ。よく父がローンが大変だとぼやいていたが、けっして後悔している様子はなかった。
父はごく普通の会社員でどこにでもいそうな人だった。
母は実際の年齢よりも若く見えるけれど、ボンヤリとしてマイペースな人だった。父なんかは母を年を取るのが遅いぶん時間がゆっくりなのだと言っていた。
父にも母にも反抗することもあったけれど、良い人達であることは十分過ぎるほどに知っていた。
「お母さん!? お母さん!!? ねぇ、いるんでしょう? 誰でも良いから返事してよぉッ!」
応える声はなかった。
――AM16:55
いつもは少し手狭に感じる家のなかは随分とがらんどうな感じがしていた。
限界だった。抑え込んでいた感情は決壊したように溢れだした。
「うああああああッあああああああああぁあああああああああああっッぁぁああああああああああああああああああああああっあああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁっあああああああああああああああああああああああああああああああああああぁぁぁぁぁ…………」
迷子になった幼子のように不安と恐怖を抱えたままに親を、誰かの手を求めて泣いた。
――AM22:13
どうやら泣きつかれて眠ってしまったようだ。
どうせなら夢であってくれないか、とわずかに期待したがそう都合よくはない。相変わらず家はがらんどうなままだった。
笑おうが、怒ろうが、泣こうがお腹は減るし、眠くもなる。
とりあえずインスタントは偉大だということが分かった。
3分でできあがったラーメンはトンコツ味なのに無性にしょっぱくて、湯気で視界もぼやけて見えた。当然、眼鏡なんて掛けてないけれど、そういうことにした。
――AM23:01
シャワーを浴びて、汚れた制服も着替えて何となく人心地つけた気がした。
それでも油断すると涙が零れそうになる。
ぐるぐると回る洗濯機を前にしてしゃがみこむ。お母さんがいたら心配してくれるだろうか? もしかしたら笑われるかもしれない。それでも良いからお母さんに、お父さんに会いたかった。
「……お父さん、お母さん」
ガタガタと揺れる洗濯機の規則正しい震動が妙に心地好くて睡魔が襲ってくる。そこで頭から被ったままのバスタオルの存在を思い出し、髪を乾かさなきゃと思いながらも座りこんだまま眠りに落ちた。
……続くかもしれません