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応接間から軽い言い争いのような声が聞こえた。あの人と村人が揉めているようだ。私には関係ないと思いつつも、つい耳を傾けてしまう。
「ですから、このようなものを頂くわけには……」
「それは私が息子に渡したものだ。それを、より必要とする者のところで渡しただけのこと。どうか娘さんに返してやってくれ。それが私とそして息子の望みだ」
「……ですが」
「いいかね。私が良いと言っているのだ、それをなぜ娘さんから取り上げていらないと言っている者のところへ返すのかね?」
「……はい、ありがとうございます」
とぼとぼと赤い目をした男が応接間から執事に案内されて玄関へと向かっていった。
ふん。たしかあの人が、珍しい妖精の焼き菓子をダンフォースにあげていたわね。それを半年くらい前に仲良くなったワーライオンの娘にあげたのだろう。六歳にして好色とは相変わらず不気味な子だ。
ダンフォース……そう不気味な子だ。あれはきっと悪魔の子なのだろう。私の子供とはとても思えない。おそらくあの日死んだ子が私の子供で、あれはきっと、あのメアリの子供に違いない。
私は自分の部屋に戻った。私だけの世界。この冷たい屋敷で唯一、私の好きにできる世界。
私はフロリア・デン・ゲオルギエヴナ。今でもフロリア・マク・モーンではなく、ゲオルギエヴナだ。
貴族の子女の役割は良縁に嫁ぐこと。両家の繁栄のために交渉のカードとなること。それが役割。私もそうだ。あの人の名前を知ったのは結婚する三日前。あの人と会ったのは結婚する当日。初めて顔を見たその日のうちに、誰にも触れられたことのない身体を預ける。商売女だってもう少し慎みがあるのではないだろうか。少なくとも彼女たちは愛する人に身体を預ける自由くらいはあるのだから。
愛の無い結婚によって産まれたあのダンフォースは、私にとって不気味な子でしかなかった。
あの子は忘れているが、私は忘れもしない。あれはあの子がまだ、たったの二歳の時だった。奇妙なほど聞き分けの良かったダンフォースだが、それでも歩くのもまだ未熟な時だ。
あの子の甲高い悲鳴が聞こえ、私は何事かと自分の部屋を出て、階段下のホールを覗いた。
ダンフォースが必死に逃げていた。何から?
そこにいたのは無数のムカデだった。百匹なんてものじゃない。五メートル四方程度の蠢く絨毯だ。無数の赤黒い背中がカサカサと音を立て、その無数の背中から生白い脚が、まるで腐敗した果実に集る白い蛆のように赤黒いムカデの背の中を這いまわっている。そして真っ赤なムカデの頭と触覚が、その赤黒い絨毯の中から飛び出して、ウネウネと揺れ、耐え難い嫌悪感を見るものに感じさせずにはいられなかった。
「ひぃ……」
私は恐怖と気色の悪さで言葉を失った。あのムカデの大群はダンフォースを狙っている。二歳の幼児に何ができようか。ダンフォースはもうすぐあのムカデの大群にまみれて死ぬのだろう。
ダンフォースは私の息子だ。助けなくてはいけない。そう頭で分かっていても私は足を踏み出すどころか、恐怖で声も上げることができなかった。
そんな私をダンフォースが仰ぎ見た。ダンフォースは私の目をまっすぐに見つめてきた。
「あ……」
ダンフォースはきっと私に助けを求めるだろう、私はそれに応えなくてはいけない。無理だ。あんな怖ろしいムカデのかたまりのいる場所に降りて行くなんてとても耐えられない。
だが、ダンフォースは何も言わなかった。私から顔を背けると、ホール脇、階段の下にある武器庫へと向かっていった。武器庫といっても、あそこには大したものはないと聞いている。非常時にメイドたちが、せめて我が身は守れるようにと安物の武器と消耗品が収められているだけのはずだ。
それになにより、武器庫は行き止まり、あそこに逃げたら逃げ道はもう無い。僅かな隙間からも入ってくるであろうムカデの大群に、行き止まりの薄暗い武器庫で追い詰められる。想像するだけでも悪寒が走る。あそこに逃げこむのは自殺行為だ。可哀想なダンフォース、でも私は何もしてやれない。
予想に反して、ダンフォースはすぐに武器庫を飛び出した。持ちだしたのはマスケット銃と雷石だ。それでどうするつもりだろうか。そんなものでムカデの絨毯を残らず殺せるつもりなのだろうか。
考えるまでもない、ダンフォースは二歳なのだ。深い考えがあるわけがない。たまたま目についたものを取ったのだろう。助けないといけない。私が助けないといけない。
手にした武器で無意味に立ち向かうと思っていたダンフォースは、予想に反して武器を抱えたままムカデの絨毯にまっすぐ突っ込んでいった。ブチブチとムカデを踏み潰し、体液をまき散らしながら進む。だがダンフォースの細く小さい子供の足に何匹ものムカデが生白く、細く、そして無数にある脚を絡ませ、赤い牙と毒液をダンフォースの足に突き立てた。
「だ、誰か……」
私は弱々しく叫んだ。恐い! 恐い! 恐い!
ダンフォースは怯まなかった、玄関側にある水瓶へと這いまわるムカデの悪寒に耐えながら走った。そして手にしたマスケット銃を至近距離で水瓶に向けて撃った。
ガシャンと水瓶が割れ、中の水が撒き散らされた。その水を浴びてダンフォースは自分の体にまとわりついたムカデを引き剥がした。ムカデの大群も水に浮かんで、上手く進めなくなっている。
ダンフォースは壁のでっぱりにその小さい手をかけ、僅かに身体を床から浮かせたあと、手にした雷石をムカデの浮かぶ水たまりへ向けて投げた。
雷石は稲妻の元素の欠片だ。砕けた雷石は電撃をまき散らす。水たまりを伝って電撃はムカデ達に満遍なく行き渡った。
「……ふぅ」
ダンフォースはムカデが全滅したのを確認してから、私のことを再び見上げた。
私は苦しくなって目を背けた。なんて恐いのだろう。私はダンフォースが恐ろしかった。
BOACノベライズ第三十四回
贖いの日々(二)
「あの子は私の子ではありません」
ダンフォースの母であるフロリアから言い放たれた言葉に、ジェイクたちは今度は彼らが言葉を失った。
「それはどういうことなのですか?」
「あの子が生まれた時、同じ日にもう一人の子供が生まれたのです。使用人の子供でした。生まれたばかりの二人は同じ部屋に、それぞれのカゴに入れられて眠っていたのです」
フロリアはこれまで心のなかに秘めていた秘密を話すことに興奮と恐怖を感じているようだった。ブルブルとやせ細った腕が震えていた。ジェイクはその手にそっと自分の手を重ねた。
「大丈夫です。いくらでも待ちますから、ゆっくり、落ち着いて話して下さい。我々はあなたの味方です」
フロリアはポロポロと涙を流した。
「父が死に、家の存続のために私はモーン家に売られるように嫁ぎました。後ろ盾が必要だったのです。あの日、生まれ育った家を出てから、私に味方などいませんでした。あなた達がそう言ってくださるまで。夫も、息子だと名乗るあの男も、私の味方ではなかったのです」
フロリアは決心したようにモーン家の秘密を明かした。
「あの日、私が息子を産んだ日。一匹の毒蛇が、私の子供とダンフォースのいる部屋に忍び込んだのです。そして、蛇は私の息子を毒牙にかけ。殺してしまいました。駆けつけた私の夫が蛇を殺した時には、すでに私の息子は息をしていなかったのです。だから……ああ、だから……あの人は、そこで私の息子とダンフォースの名付けられることになる、あの男をすり替えたのです」
ジェイクたちは息を呑んだ。フロリアはただジェイクの腕にすがりつき涙を流した。
死んだ我が子に対して、我が子だと認めてあげることもできず、偽りの子を育てることがどれほどの苦痛だったか。それが、父を殺し、母を幽閉するような邪悪な子だとしたら。
ジェイクは思った。ダンフォースは環境によって育った悪党ではない、生まれついての悪党なのだと。毒蛇すらダンフォースが呼び寄せ、本来のダンフォースを殺し、彼の立場を奪ったのではないか。ありえないことだが、あのダンフォースに限ってはありえるかもしれない。そうジェイクには思えてならなかった。
「ダンフォースと決着をつけよう。俺達の戦いに永遠の決着を」
そう言ったジェイクの言葉に、ミラとケントは強く頷いたのだった。