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彼の倒錯的嗜好

作者: ゐづみ

大学の文芸部で発表したものです。

 ――またやってしまった。

 夕日が差し込む教室。グラウンドから運動部の号令が聞こえる中、僕は茫然と立ち尽くす。無機質な机と椅子だけが並ぶ殺風景な教室に居るのは僕一人だけ。手には差し替えたばかりの、マジックペンのキャップが握られていた。

 今日で六度目になるだろうか。始めた当初は手を脂汗で過度に湿らせたものであったが、回を重ねるに連れてその手つきも小慣れたものになってくる。徐々に薄れていく罪悪感に、僕は内心嘆息する。

 入学以来使い続けているエナメルカバンから筆箱を取り出し、中から先が剥き出しになったったマジックペンを抜き取る。それを、先程手に入れたキャップにゆっくりと挿入していく。

 この瞬間だけは、何度経験しようと飽くことがない。

 心臓が激しく脈打ち、息遣いも徐々に荒くなる。陸上部のランニング練習の掛け声は耳に入ってこない。全身の神経を指先へと集中し、不要な感覚器官は全てシャットダウンした。

 ゆっくりゆっくり、『僕』のモノが『彼女』のモノの中に入っていく。そして、カチッ……とペンが最奥に到達したことを知らせる音を聞いた瞬間、得も言われぬ快感が僕の脊髄を疾走した。指先から伝播した振動が、頭頂から爪先のまで全身を打ち震わせる。僕のマジックペンの先はしっかりと彼女のキャップの中へと収まった。


 ――これが、僕と彼女がひとつになる瞬間。


 ひとしきり余韻を堪能した後ふぅと一息つき、ペンを戻して、筆箱をカバンにしまう。

 何気なく『彼女』の机を見ると、脇に書道セットが吊ってある。

(来週は大筆にしようかな)

 違和感なく考えていることに気が付き、僕は驚く。

 違う、今日が……今日を最後にこんなことはもう二度としないと決めたじゃないか。今朝そう決意したはずだ。

 このまま続けていればいずれはバレてしまう。もしも『彼女』にこんなことをしていると悟られてしまったら……。

 事を終えて冷静なる度に後悔の念がいつも押し寄せる。そして次第に焦燥感が胸中で渦を巻き始めるのだ。しかしこの感覚さえも三日も経てばきっと忘却してしまうのだろう。そして来週もまた、同じ事を繰り返してしまう。

 僕はこの数週間の内に、背徳と言う名の美酒に陶酔しきっていた。

 だからこんどこそ、今日で終わらせるんだ。袋小路に至りかけた思惟を断ち切る。さっきのキャップを最期の戦果とし、以後『彼女』の私物には触れないことを再度決意する。

 畢竟、彼女自身への干渉もここで打ち止めとなるだろう。『彼女』と僕の接点なんてあってないようなものだ。

 口惜しさはあるが、『彼女』にこのことを気取られ、残る学生生活を棒に振るよりはよほどいい。

 『彼女』のカバンを今一度数刻見つめ、溜飲を下げた後退室しようとした瞬間、僕の思考は真っ白になりかけた。

 いつの間にか教室の入口には、僕の思い焦がれる『彼女』が立っていた。

 あまりの衝撃に全身が総毛立つ。『彼女』は何か得心したとも取れる表情で僕を見つめていた。

 『彼女』が徐に歩み寄ってきた。心臓が早鐘を打つ。見られていた? 一体いつから? どうして僕は気づかなかった? 見ていたなら何故『彼女』は何も言って来なかったんだ? 

 間断なく溢れる冷や汗が僕の全身を蹂躙する。僕より幾らか背の低い『彼女』は僕の眼前で立ち止まると、上目遣いになりながら「竹中君、キミだったんだね」と切り出した。

「竹中君さ、私の持ち物盗ったよね。それも一度や二度じゃなく何度も」

 やはりバレていた。しかも、どうやら今回のことだけではないらしい。僕の行なっていた計六回の犯行の内、いずれかから『彼女』は既に認知していたのだという。

 『彼女』の大きくて黒い瞳が僕を射竦める。こんなに間近で『彼女』を見たのは始めてかもしれない。何か言い訳をしようにも、想い人の顔から目が離せず、思考が急速に混沌化していく。闇色の長髪から仄かに漂う甘い芳香はシャンプーの残り香だろうか。白磁のように透き通った肌、触覚を通して伝わる生暖かな吐息、制服のうちからも確かに主張する胸の膨らみ、スラリと伸びつつも程よく肉づいた健康的な脚、身近に感じる『彼女』の全てが僕の脳組織を麻痺させていく。ナニカ、何か言わないと。

「と、盗ってないよ」

 かろうじて絞り出せたの言い訳にもならない、上擦った声だった。それを聞き、『彼女』は少し考えるような仕草をした。

「そうね、盗ったというには少し語弊があるかな。正確にはキミの持ち物と私の持ち物を交換した。消しゴムのスリーブとか数枚のルーズリーフとか」

 もはや言い訳をする気も起きなかった。

 『彼女』の言うとおり、僕は自分の私物を『彼女』のものと交換していた。毎週水曜日に『彼女』が帰った時間を見計らって教室に忍び込み誰にも気づかれないように。


 最初に交換をしたのは、シャーペンだった。

 今から半年ほど前。高校生活が三年目を迎えた頃、同じクラスになった『彼女』に僕は一目惚れをした。桜が舞う通学路でたまたま見かけた『彼女』はあまりにも可憐で、誰よりも美しくて、僕の目は一瞬で『彼女』に奪われてしまって。

 授業中は先生の声を聞かずに『彼女』の事ばかり見ていた。『彼女』の、考え事をする時に唇にペン先を押し当てる癖に気が付いたのもすぐだった。

 ある日の放課後、帰宅途中にたまたま筆箱を忘れたのを思い出して教室に戻ると、『彼女』の机に上にシャーペンが置いてあるのを見つけてしまった。それを見た瞬間、僕は無意識の内に思い至ってしまった。あのシャーペンは彼女が口づけたものだ。

 (持ち……帰ろう)

 生唾を飲み下し、ゆっくりと『彼女』の机に手を伸ばすが、寸での所で踏みとどまる。コレは『彼女』を困らせる行為だ。やっちゃいけない。

 頭を冷やし、先刻の己の愚行を恥じながら帰ろうとした時、手に持った自らの筆箱に目が行った。途端に脳に電流が走り、慌ててその中から愛用のシャーペンを取り出した。案の定、それは彼女のものと同一メーカーだった。

 それを見て、端無く思いついてしまったのが、交換であった。

 だが残念ながら色が違う。『彼女』のはピンクで僕のはブルーだ。ペンそのものを交換することは出来ない。そこで思いついたのがペン先の挿げ替えだった。幸いペン先は両方共無色透明で他のものと変わっても気づかれることはない。

 初めての交換は為された。

 そして、彼女の私物と僕の私物をつなぎあわせた刹那の快感は僕の全身を揺さぶった。擬似的な『彼女』と自分の同化。この手の内にあるシャーペンを通して僕と『彼女』は一つになったのだと実感した時、全身を痙攣させながらその場にへたり込んだ。

 

 これが最初の交換。あの日から僕は彼女に好意を寄せながら、しかし彼女と仲良くなりたいとかおしゃべりしたいとか肌を重ねたいとか、そういうことは全然思い浮かばず、ただただ私物を交換したいとだけ考えていた。同年代の男の子たちが異性とこうありたいと願う全てに魅力を感じられず、モノを通して交わることだけが至上の喜びであることを信じて疑わなくなってしまった。

 あの日から今日に至るまで計六回。二度目は定規、三度目は消しゴムのスリーブ、四度目はルーズリーフ、先週は大胆に椅子を交換したっけ。アレはかなりハラハラしたな。

 そして今日。六度目にして遂に『彼女』に……。

「なんでこんなことするの?」

 目の前の『彼女』が首を傾げる。表情から察するに、問い詰める意図よりも純粋な興味から聞いているといった風だ。

「君の私物、だから」

「それってどういう意味?」

 君のことが好きだから、と言えれば早いのだろうが、流石にためらわれる。察してくれと願うばかりだが、それも難しそうだ。

 『彼女』が僕の顔を覗きこんでくるが、恥ずかしさから直視できない。続く言葉が喉でつかえ、会話も途切れてしまう。

 『彼女』は、はぁと嘆息する。

「私は別に怒っているわけじゃないのよ? 竹中くんがこんなことをするには何らかの意味があると思うからそれを知りたいだけなんだけれど」

 愛らしく首を傾げる仕草に胸を打たれる。なんて可愛いんだ。

 鼻息が荒くなって、かなり変態チックだ。間が持たない。そして何より顔が近い! 何とか言わないと。

「とりあえず……す、すこし離れてくれ、ないか、な」


 適当な椅子を二つ引き出してきて、向かい合うように配置し座る。と言っても僕は彼女の目を直視できないため、ずっと視線が泳いでいるわけだが。

「さてと、それじゃあ尋問タイムです。被告人よ、質問に答えなさい」

 『彼女』が微笑みながら冗談交じりに切り出した。被害者であるはずの『彼女』が僕が緊張しないように気を回してくれているのだ。

「どうして竹中くんは私のものとキミのものを交換したりしたの?」

「それは……えっと」

「怒ったり引いたりしないから、言ってみて」

「本当に?」

「本当に」

 手に浮いた脂汗をズボンで拭う。どうやら覚悟を決めるしか無いみたいだ。

 ここで告白して、そのあとどうなるかはわからない。普通なら振られておしまいだろうが、なぜだか『彼女』と話しているとそれは無いという気がしてくる。

 きっと童貞特有の惚れっぽさとか思い込みの激しさとかが作用してるんだろうけど、どちらにしてもこのまま黙っていて帰れるわけじゃない。

 告白、しよう。

「僕が……き、君の事を、その……えっと、す……」

 痛いほど鼓動が高鳴る。上手く舌が回らない。

 一度深呼吸をする。落ち着け、冷静になれ。

 少しだけ目を伏せた後、正面から『彼女』を見据えた。

「交換をしたのは、僕が君の事を好きだから、です」

 二人だけしかいない教室の空気が張り詰める。いざ言ってしまえば、意外とどうということはなかった。僕は目をそらさず『彼女』の瞳をまっすぐ見つめる。

 『彼女』は少しの間驚いたような顔をしたが、しばらくするとクツクツと笑い始めた。

「なにか、可笑しな事言ったかな」

 僕は自分の告白がバカにされているような気がして、不安になって問いかけた。

「あ、ううん。ごめんね、気にしないで。そっかぁ、竹中くんは私のこと好きなんだ」

 気にしないでというのは酷だろう。最初に見つかった時ほどではないが、これでも僕は滅茶苦茶緊張している。一世一代の大勝負のはずだったのに、笑い飛ばされてしまったのじゃあ気分も良くないというものだ。

 それに比べ、『彼女』の方は何やら嬉しそうだ。声に若干の喜色を含んでいる。

 『彼女』は不意に立ち上がると、腰のあたりで指を絡ませながら僕に背を向けた。そして一呼吸置いた後に――

「実は私も、竹中くんの事が好きだったんだよ。両思いだね」

 今度こそ僕の頭の中は真っ白にクリーンアップされる。

 『彼女』は今何と行った? 僕の事が、好き? 目の前で振り返らずもじもじしているこの可愛い女の子が僕のことを好き?

「冗談、だよね?」

「ううん、本当だよ」

俯く『彼女』。その頬はわずかに紅潮している。それに合わせて僕の顔の血も巡りを早める。からかわれているわけじゃ、ない?

「なんで、僕のことが?」

「気付いてないと思うけど、竹中くんって結構女の子から人気あるんだよ。カッコイイし、物静かでクールなイメージあるし、頭もいいし」

 今まで自分の容姿を気にかけたことなんて一度もなかった。物静かだっていうのはいつも教室で誰とも話さずに本ばかり読んでいるからだろう。頭がいいのは、友達がほとんど居なくて勉強しかすることがないからだ。まぁそれも、君と出逢ってから手がつかなくなったんだけどね……。

 『彼女』は再び椅子に座り、僕と目線を合わせる。その潤んだ瞳から、誠意や好意や熱意、いろいろな感情が伝わってくる。

 不意に差し出される『彼女』の右手。

「もう一度言うね。私は竹中くんの事が好き。よければ、私と付き合ってください」

 震える手のひらが、僕に握り返されるのを待っている。『彼女』は目と口を噤み、体を強張らせながら僕の答えを待ちわびているのだ。

 これは願ってもいない状況だ。僕の追い求めた『彼女』自信からの告白。もちろん答えなんて迷うまでもない。

 そう……迷うまでもないんだ。

「……」

 息を整え、徐に立ち上がり右手を差し出す。

 この手を握り返せば、僕と『彼女』は恋人同士になる。何度も何度も願ったことだ。『彼女』と仲良くなっておしゃべりをして肌を重ねて……。

「っ!」

 握れ、ない。僕はこの手を握り返すことが出来ない。

 差し出していた手の力を抜き、だらしなく垂れ下げた後にまた椅子に座り込む。『彼女』は目を開き、信じられないという表情でこちらを見た。

「ごめん」

 僕には君を、愛せない。

それ以外に何も告げることができず沈黙する。そして、途端に同じ空間に居ることに息苦しさを覚え、カバンを背負い教室を後にしようとした。

 しかし、扉を開けたところで『彼女』に呼び止められる。

「どうして? 竹中くんは私のこと好きって言ってくれたのに、どうして付き合えないの?」

僕の背後まで駆け寄ってきて服を摘む『彼女』。しかしそれを振りほどいて歩き出す。『彼女』の問いに答えぬまま。

 しゃくりあげる声が聞こえてくる。僕は自分の好きな人を泣かせてしまった。でも、それでもダメなんだ。

 こんなカタチじゃ、僕は『彼女』を愛せない。好きだという気持ちがあっても、愛することが出来ない。

 この数週間で僕はそれほどまでに変わってしまった。おかしくなってしまったんだ。

 罪悪感に苛まれながら、しかしどうすることも出来ずに僕は帰宅した。


 あの日から数週間後。僕に恋人ができた。

 同じクラスの岡島さんだ。『彼女』の言っていた、僕が女子から人気があるというのは本当だったらしく、岡島さん自身から告白された。

 僕は、何ら悩むこと無くその告白を了承した。岡島さんは飛び跳ねて喜んでいたっけ。あの時の顔はよく覚えている。

 僕と岡島さんが付き合っていると知った時、『彼女』はすごくショックを受けていたようだ。まぁそれも当然のことだろう。

 日に日に『彼女』の顔色は悪くなっていった。そんな姿を見るのは僕としても実に忍びなかった。

 そこで、僕の数少ない友人である影山に相談してみたのだ。『彼女』の様子が最近おかしい、力になってあげてくれと。もちろん、僕が彼女の告白を断ったことが原因であるというのは伏せてだ。影山は俺の頼みだからと、二つ返事で了解してくれた。

 影山は僕が恐らく親友と呼べる唯一の人物だ。誰に対しても人当たりがよくて、クラスの中ではちょっとした人気者みたいになっている。

 そんな影山に優しくされることで、傷心の『彼女』の心が傾くのにそう時間はかからなかった。影山と『彼女』が付き合い始めたという噂が流れ始めたのもまもなくだった。

 もちろん、僕と岡島さんは心から祝福した。僕の親友である影山と僕の想い人である『彼女』が恋仲になる。こんなに嬉しいことはない。

 そう、お膳立てはこれで完璧だ。


 ――そして。

 とある休日の夜。僕の寝室。

 隣には、一糸まとわぬ姿で横たわる『彼女』の姿があった。

 一事を終え、睦言を囁きあっている途中であった。

 こんなに近くに『彼女』の顔があるのに、今の僕は緊張することもない。これが初めてではないのだから。

「そういえば、岡島さんが愚痴ってたよ。最近竹中くんが冷たいって」

 『彼女』は充足感に顔を緩めながらつぶやいた。頬を赤らめ、微かに息を荒げるその表情が今はこの上なく愛おしい。

「もちろん、わざとそうしてるからね。きっと今日もまた影山の家に行ってるんだろう」

 押しに弱い影山のことだ。岡島さんに詰め寄られて抵抗できるとも思えない。恐らく今夜もまた転げ落ちるように……。

 彼は誰にでも優しすぎたのだ。岡島さんが影山を意識させるのに大した策を弄する必要はなかった。彼女もかなり惚れっぽい女性だったようだし。

「竹中くんって、さいてーだよね」

 『彼女』は諧謔のつもりだったのだろうが、僕自身そう思うので何も言い返せない。

 僕は岡島さんに対して微塵の好意も持っていなかった。僕が焦がれる相手は『彼女』ただ一人。

 全てはこの状況を作り出すための下準備でしかなかった。

 僕は『彼女』を愛することができても、彼女を愛することは出来ない。

 あの数週間。彼女の私物を交換していた時、僕の中の何かが決定的に壊れてしまった。

 僕は、自分の所有物を愛せなくなっていた。

 『彼女』の告白を了承し、『彼女』が彼女になった瞬間、恐らく僕は『彼女』を求められなくなっていただろう。

 僕が何かを愛するには、交換しかなかった。

 そして何もかも上手くいった。僕の彼女としての岡島さん。影山の彼女としての『彼女』。

 今僕のもとには『彼女』がいて、影山のもとには僕の彼女がいる。

 こうすることで僕は真に『彼女』を愛することが出来る。

 交換、成立だ。

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