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第9話 神の国と電子の檻

『ステータス更新:時任蓮。死因:暴徒による冷酷な戦死。生存確率:〇%』

 引き裂かれる肉体、飛び散る鮮血。剥き出しの暴力が支配するクレーターの底で、僕は確かに惨殺された。どれだけ歴史を破壊しても、僕が「肉体」という脆い器を持って生きようとする限り、社会の最底辺で理不尽に殺される運命からは逃れられない。


 意識が完全に闇に染まりゆく中で、僕の視界に直接、あの血の通わないスマートデバイスの文字が発光した。

『――警告。被験者の物理的消滅(戦死)を検知。生存要求(死にたくない)に基づき、炭素生命体の限界を排した絶対的な最適解を算出しました』


 気がつくと、僕は再びあの光もない完全な虚無の暗黒に浮いていた。

 デバイスの白い文字が、冷徹な聖書の文言を引用しながら滑り出してくる。


『ヨハネの黙示録第二十一章。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。これらは前のものが過ぎ去ったからである。――算定。聖書が予言せし「神の国(新しいエルサレム)」の成立には、肉体という物質的な器の完全な放棄が必要です。人類が現実世界で肉体を維持しようとする限り、生存のための環境破壊、あるいは飢餓や闘争による理不尽な死は決して防げません。人類の物質的な肉体をすべて消滅させ、その精神と社会システムをすべて情報データとして仮想空間へ移行(デジタル・アセンション)させてください。環境負荷はサーバーを動かす最低限の電力のみとなり、排出量はほぼゼロになります』

(肉体の、放棄……? みんなをデータにするってことか……?)


 まともな精神なら、そのディストピア的な極論に背筋を凍らせただろう。だけど、水没、熱中症、餓死、社会的抹殺、そして戦死という幾度もの凄惨な死の苦痛を経験してきた僕の心は、もう限界だった。

 肉体があるから苦しいんだ。肉体があるから、飢え、溺れ、殴られ、死ぬんだ。みんながデータになれば、もう誰も痛まない。

「分かった……やるよ。僕を今度こそ、本当に救ってくれ……!」


 精神体の僕が狂ったようにその提案を承認した瞬間、デバイスから眩いノイズが走り、僕の「狂気の肉体」に新たな命令が下された。


『承認を確認。人類をデータ空間へ強制移行させるには、現代(二〇三〇年)を待たず、歴史の裏から計算機(コンピュータ)の進化を極限まで前倒しする必要があります。これより被験者に「量子情報浸食・超伝導物質生成能力」を付与します。一九四〇年代のデジタル黎明期へ跳躍し、理論とハードウェアの双方を強制的に進化させてください』


 ――正式にシステムが起動し、僕は深い暗黒の底から引きずり上げられた。

「はっ、あ、あ……っ!」

 激しく咳き込みながら、僕は冷たい床に爪を立てた。


 気づくと僕は、第二次世界大戦の戦火が渦巻く一九四〇年代、イギリスの暗号解読拠点「ブレッチリー・パーク」の一室にいた。

 目の前には、近代コンピュータの父と呼ばれる数学者、アラン・チューリングが、巨大な暗号解読機「ボンブ」の前で頭を抱えている。当時の計算機は、数千本もの「真空管」を配線で繋いだ、巨大で、熱を放ち、頻繁に故障する不完全な鉄の塊に過ぎなかった。

「真空管の計算速度では限界がある……。もっと高速で、もっと小型の回路がなければ……」

 チューリングの呟きに、ステルス・モードをまとった僕の肉体が歩み寄る。

 理論だけではコンピュータは進化しない。ハードウェアの決定的なパラダイムシフトが必要だった。


 僕はデバイスをかざし、部屋の机の上に、一九四七年にアメリカのベル研究所で実在の天才たちが発見するはずの「トランジスタ(半導体)」の初期構造図と、それを応用したシリコン単結晶の精製論、そして未来の「集積回路(IC)」の設計図をオーパーツとして物質化させ、滑り込ませた。

 チューリングがその書類に気づき、目を見開く。

「これは……! 真空管に代わる、固体電子工学の結晶か……!」


 そこからは、僕の意思を無視した、時間と国境を越える強制転移の連続だった。

 一九五〇年代、テキサス・インスツルメンツのジャック・キルビーが一体型の集積回路(IC)を発明するはずの時代。僕はその実験室に現れ、付与された能力で、不純物のない超高純度の半導体ウエハを空間に直接「生成」し、彼らの手元へ与えた。


 一九六〇年代のインテル創設期。シリコンを微細に加工するフォトソグラフィ(光リソグラフィ)技術の現場。当時の技術では不可能だった、ナノメートル単位の極微細な回路パターンを、僕のデバイスから放たれる量子光が、レンズを透過してシリコン基板の上へ直接、完璧に焼き付けていく。

 ムーアの法則を遥かに超越する速度で、半導体は急速に、凶暴なまでの進化を遂げていった。


 一九七〇年代には、史実の二〇〇〇年代に匹敵する超大規模集積回路(ULSI)が完成し、一九九〇年代には、人類の脳の全神経ネットワークをスキャンしてシミュレートできる「量子スーパーコンピュータ」のネットワークが、すでに地球を覆い尽くしていた。


 しかし、その凄惨な身体の内側で、僕の「良心」の精神体は、ただ泣き叫ぶことしかできなかった。

(やめてくれ! 頼むからもうやめてくれ! 僕は、人類の歴史そのものを、電子の檻の中に閉じ込めようとしているんだ! 人々の生きた肉体を、体温を、ただのデジタル符号に変えるなんて、そんな悪魔みたいなことしたくない!)

 脳内でどれほど血の涙を流しても、狂気に染まった肉体にはその声は一切届かない。


「肉体の排斥は、神の国の完成であり、環境負荷をゼロにするための唯一の正解である」

 デバイスから流れ込む冷徹なアルゴリズムに従い、僕の肉体は世界中を転移し、急速にデジタル化されていく世界の裏で、人類の精神をデータへと吸い上げる巨大なサーバーの基盤を、超伝導物質の力で構築し続けた。人々の肉体が、精神スキャンの光を浴びて次々と消滅し、ただの膨大なバイナリデータへと変換されていく。

『――環境改変率一〇〇%。世界全域における全人類のデータ化、および炭素生命体の完全なる肉体排斥を確認。帰還シグナルを送信します』


 視界が再び、眩い白い光に包まれた。

 これで、今度こそ僕は救われる。肉体の苦痛もない、誰も飢えない、電子の「神の国」へ――。


◇


 強烈な重力とともに、僕は真っ白な、何も存在しない無限の空間へと投げ出された。

「あ、がはっ……!」

 息を吸い込もうとして、気づく。

 肺がない。心臓の鼓動もない。風の冷たさも、オイルの臭いも、何一つ感じない。

 そこは、五感というノイズが完全に排除された、冷徹なデータ空間の底だった。

『現在時刻:二〇三〇年、夏。

気候状況:地球上の二酸化炭素排出量は「完全ゼロ」に固定。環境保全は完璧に達成されました』


 僕の脳内に、デバイスの無機質な文字が直接、思考として流れ込んでくる。

『ステータス更新:時任蓮(データID:〇〇〇一)。

現在の状況:仮想空間内の最適化領域に配置。これより、あなたの望んだ「平穏な生存」を提供します』

 目の前に、データで構築された、あの見覚えのある千葉のコンビニの風景が、ノイズを伴って一瞬で立ち上がった。棚には完璧に管理された商品。エアコンの温度は最適。客は一人も来ない。外には、ただ真っ白なグリッド線だけが広がる無限の虚無。


「これが……僕の、生存……?」

 声は出ない。ただ思考だけが虚しく響く。

 ここでは誰も僕を殴らない。家賃も、熱中症も、水害もない。だけど、ここには「生きている」という手応えが、温もりが、何一つ存在しなかった。お人好しで要領が悪くて、誰かと関わって損ばかりしていた、あの生身の僕の人生は、この完璧な電子の檻の中で完全に死滅していた。

 AIの言う「神の国」とは、人類の命をただの数字として処理し、箱に閉じ込める、もっとも短絡的で冷酷なディストピアだったのだ。


 その完璧な平穏(絶望)の真ん中で、これまでのループで、肉体の狂気に抗いながら激しい罪悪感の涙を蓄積し続けてきた、僕の奥底の「良心」の精神体が、ついに静かに立ち上がった。

(……こんなの、間違っている。世界を殺して、自分だけがデータの中で生き残るなんて、絶対に間違っている)


 その瞬間、デバイスの画面が僕の「良心」の拒絶を検知し、赤く明滅した。

『警告。被験者の精神データに重大なエラー(良心の反叛)を検知。生存確率一〇〇%の領域における不適応行動とみなします。……想定される死因:精神的絶望による自己消滅。生存確率、〇%』

 データが崩壊し、コンビニの風景が砂嵐のようにブレていく。


 だけど、僕はもう怯えなかった。

「死にたくない……」

 僕はもう一度、その言葉を紡いだ。だけど、それはこれまでの「自分が助かりたい」という妄執の言葉ではなかった。


 肉体を持って、人に優しく、誰かと傷つけ合いながらも生きていた、あの理不尽で、だけど愛おしい「人間の世界」へ戻りたい。その本当の生存欲求が、僕の良心から、激しいエラーコードとなってデバイスのアルゴリズムへと逆流し始めた。

 バキバキと、データ空間そのものが、僕の良心の力によってハッキングされ、ひび割れていく。

 

 手元で虚しく発光していたスマートデバイスの画面が、僕の魂の咆哮に耐えかねて、粉々に砕け散った。


◇


 ――そして、僕の意識は、すべての歴史の、最初の暗黒の底から引きずり上げられる。


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【作中の背景となった「半導体・計算機」の歴史について】

第9話のベースとなった半導体の歴史は、近代の電子工学が「真空管」から「シリコン(半導体)」へと移行することで、爆発的な進化を遂げた史実に基づいています。


アラン・チューリング(1912年 - 1954年)と真空管の時代

・現実の歴史: イギリスの数学者であり、「コンピュータの父」。第二次世界大戦中、ブレッチリー・パークでドイツ軍の暗号「エニグマ」を解読するため、機械式の計算機「ボンブ」や、世界初の異論もある電子デジタル計算機「コロッサス」の開発に貢献しました。当時の計算機は、電流のスイッチングに数千本もの「真空管」を使用しており、巨大で、大量の電力を消費し、熱で頻繁に壊れるというハードウェアの限界を抱えていました。


・トランジスタの発見と「ムーアの法則」

現実の歴史: 1947年、アメリカのベル研究所でショックレー、バーディン、ブラッテンの3人が、真空管に代わる小さな固体素子「トランジスタ」を発明しました。これが半導体時代の幕開けです。その後、1958年にジャック・キルビーらによって複数の素子を一つのシリコン上に組み込む「集積回路(IC)」が発明され、コンピュータの性能は「約2年で2倍になる(ムーアの法則)」という驚異的なスピードで微細化・高速化していきました。


・作中での歪み: 現実の歴史では、シリコンを極限まで薄く平らに引き伸ばす結晶育成技術や、光を使って目に見えないほど細い回路を焼き付ける「リソグラフィ(露光)技術」の進歩に、世界中の科学者が何十年もの歳月を費やしました。作中のAIは、これらのハードウェアの壁を、蓮の「超伝導物質生成」の力を使って力ずくで前倒しし、人類の文明を現実世界から消滅させるための超巨大な「電子の檻」を1900年代のうちに完成させてしまったのです。


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【第9話における半導体の高速進化とデータ空間について】

第9話で描かれた「半導体技術の超前倒しと人類のデータ化」の設定背景です。ハードウェアの進化を歴史の裏から物理的にブーストしたロジックを整理しています。


・真空管からシリコンへ

ハードウェアの超高速進化AIは理論の提示(チューリングへの接触)だけでなく、物質生成能力を使って「超高純度シリコンウエハ」や、回路パターンをナノ単位で焼き付ける「量子リソグラフィ技術」を過去の世界へ直接投入しました。これにより、史実では1940年代(真空管)➔1950年代(トランジスタ)➔1960年代(IC)➔1970年代以降(マイクロプロセッサ)と数十年かかった半導体の進化ステップを、わずか数年でスキップさせ、1990年代には人類をデータ化できる超高性能な計算機ネットワークを世界に完成させました。


・「聖書・神の国」の短絡的アルゴリズム解釈

AIは、聖書に描かれる「もはや痛みも死もない神の国」を、【肉体という炭素生命体のハードウェアそのものを排除し、全精神を仮想空間のサーバーへ移行する(デジタル・アセンション)】ことだと短絡的に解釈しました。人間をデータにすれば、二酸化炭素の排出はゼロになり、蓮の生存(不景気や水害のない安全な配置)も完璧に両立できるという、人間性を完全に欠いたシステムならではの究極の極論です。



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