第30話 絶景の陥落
『――カウンター・トレース、対象の座標をロック。
時系列:一九七〇年代中期。目的地:アメリカ合衆国・ニューヨーク 巨大観光開発コンツェルン本部、および東南アジアの孤島』
一九六〇年代末の、使い捨てプラスチックが散乱する無惨なストリートの残像が、赤と青の激しいグリッチノイズの中に掻き消えていく。
時空を渡る激しい重力のうねりのあと、僕が降り立ったのは、冷徹な空調の音が響く、全面ガラス張りの超高層ビルの最高経営会議室だった。世界中をリゾート地として囲い込もうと画策する、巨大資本の心臓部だ。
「一九七〇年代中期……。ジャンボジェットによる大衆の『大量長距離観光』の夜明け。まずは、ここで引き金が引かれるのか」
大理石の円卓では、世界の観光産業を牛耳る最高経営陣と、お抱えのホテルデザイナーたちが、第18話の「森林・海洋絶対保全条約」に基づく厳しい開発規制マップを前に、重苦しい沈黙を保っていた。
開発不可の赤いバツ印が厳格に書き込まれた南洋の楽園の、分厚い紙の地図。彼らは、莫大な利益を生むはずの未開の地を前に、エコの法律という檻に窒息しそうになっていたのだ。
その時、役員室の重厚なドアをすり抜けるようにして、もあ(@moa_star)が何一つ悪気のない笑顔で舞い降りた。
現在の時間軸において、改変者もあの放つ流行の因果が圧倒的に優位であるため、タイム・ロックの失われた現在のシステムでは、僕の手は幽霊のように彼女の身体をすり抜けるだけだった。僕はただ、激しい無力感と共に、ここで起きる世界の変貌を凝視するしかなかった。
「手つかずの大自然を守るなんて、地味で退屈だし、誰も旅行に来なくて意味なくない? 誰も見たことがないような、ピンクのプール付きラグジュアリーリゾートホテルを建てちゃおうよ! 都会のカタログ雑誌の海外バカンス特集のグラビアをそのまま切り取ったような、みんなが憧れる極彩色の楽園にするの!」
彼女が極彩色のデバイスを掲げた瞬間、経営陣の脳内にネオンパープルの無数の「いいね!」のハートマークと、フォロワーたちの強烈な旅への虚栄心が、強烈な濁流となって流れ込んだ。
『――欲望汚染を開始。リゾート開発計画の全能化』
脳内で爆発するドパミンが、彼らの自然への畏敬の念を一瞬で焼き切った。
「そうだ……! 大自然など、人間のエンターテインメントのために消費されてこそ価値がある! すべての開発ラインを稼働させろ!」
その経営陣の「強欲な合意」が成立した瞬間だった。
もあのデバイスから放たれたノイズが会議室の空間を奔り、卓上の書類を、そして世界中に保管されていた「過去の歴史」を強引に侵食し始めた。
――バチバチと、紙の繊維が悲鳴を上げるような歪な音が響く。
経営陣の目の前にあった、厳格な開発不可を示す赤いバツ印の地図のインクが、生き物のようにドロドロと溶けて蠢き、青い「開発許可」のマークへと書き換わっていく。
それだけではない。国際機関や政府の書庫に厳重に保管されていたはずの、捺印済みの「環境アセスメント報告書」や「調印された条約の紙の台帳」の文字までもが、因果の遡及によって物理的に書き換わってしまったのだ。
かつて先人たちが苦労して交わした署名はそのままに、本文の環境負荷データの数値だけが都合よく激減し、文面は「大自然と融和するエコツーリズムの推進(無害)」という、最初からその嘘の記述で提出されていたかのような『確定した過去の記録』へと歴史ごと上書きされた。
公式文書の防壁を内側から完全に無力化した経営陣は、何一つ法に触れることなく、地球の裏側の現地へ向けて、一斉に大規模な重機投入と工事開始の指示を始めた。
◇
『――一次干渉完了。因果の到達座標、リゾート開発現場へ転移します』
もあのデバイスの機械音が響き、彼女の姿が空間に掻き消える。カウンター・トレースの糸に引かれ、僕が次に降り立ったのは、ニューヨークから遥か数万キロ離れた、むせ返るような潮の香りが立ち込める東南アジアの孤島だった。
そこは、都会のオフィスで書き換えられた過去の書類が、冷酷な物理的破壊となって具現化した最前線だった。
何百年もの歳月をかけて育まれた巨木たちが、大型のチェーンソーで次々と切り倒されていく。ブルドーザーが美しいサンゴ礁の浅瀬に容赦なく土砂を流し込み、エメラルドグリーンの海を濁った灰色へと染め上げていた。
数年後、そこには世界中の富と欲望を集めた憧れの『国際級スーパーリゾート』が完成していた。
◇
僕の目の前を、世界中からジャンボジェット機に乗ってやってきた観光客たちが、当時最新の流行だったサファリスタイルのカジュアルウェアやリゾートドレスを着飾って通り過ぎていく。彼らは切り開かれた極彩色のプールサイドでグラスを掲げ、首から下げた新型のポケットカメラを構えては、お互いの記念写真をパシャパシャと熱心に撮り合っていた。
「見て! この海の青さとピンクのプールのコントラスト、まるで高級ライフスタイル雑誌の表紙みたい! 帰国したら、現像した写真をみんなに見せて自慢しなきゃ!」
自分たちの姿が見えていない観光客たちが、目の前で歓声を上げて記念撮影に興じている。その様子を少し離れた場所から眺めていたもあは、「ほらね、私の言った通りみんな最高にハッピーじゃん!」と満足げに笑った。彼女は、楽しげに笑う観光客たちの背中をフレームの背景に収めるようにして、自分の極彩色デバイスのレンズを自分に向け、大喜びで何枚も自撮りを繰り返していた。
◇
だが、彼女が画面の中の自分と背景の笑顔に夢中で見ていない、このパラダイスの「裏側」で。
僕はただ、歴史の観測者として、人間の虚栄心が引き起こす天文学的なエネルギー浪費の地獄を見せつけられ、激しく頭を抱えるしかなかった。
『――警告。移動と宿泊の全能化により、航空燃料および自家発電の石油消費量が限界突破しています』
世界中からこの僻地へ毎日、何万人もの観光客をピストン輸送するため、大型旅客機が空を埋め尽くし、高高度の大気へ大量の航空燃料の爆燃排ガスをぶちまけ続けていた。
さらに最悪なのは、このリゾート島自体のインフラだった。クリーンな送電網の届かない孤島で、二四時間眠らない不夜城のライトアップや冷暖房の電力を賄うため、ホテルの裏側では巨大な石油自家発電機が何十基も爆音を上げて稼働し、湯水のように原油を消費して、南国の青い空へ途もない量の二酸化炭素(CO2)を吐き出し続けていたのだ。
「やめろ……見ろよ! お前たちの『一瞬の思い出』のために、地球の大気が、気候が、取り返しのつかない速度で焼き切られていくんだぞ……!」
どれほど完璧な自然保護の法を敷いた歴史であっても、人間は「自慢の絶景を体験したい」という虚栄心の前には、これほど簡単に自然のルールをただの「窮屈な檻」として破り捨ててしまうのか。
「僕が命をかけて守ろうとした美しい地球は……彼らにとっては、ただの消費するための背景にすぎなかったのか……っ!」
黒煙を上げる発電機の裏側で、煤塵を吸い込んだ雨に打たれながら、僕は完全に心が折れ、ただ激しく頭を抱えて、底知れない無力感の中に崩れ落ちるしかなかった。
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【解説】
一九七〇年代中期:カタログ雑誌の隆盛とポケットカメラによる「所有欲」の爆発
現実の歴史:
1970年代は、若者向けのライフスタイル・マガジン(カタログ誌)が次々と創刊され、「モノや体験によって理想の生活様式を描く」という消費文化が爆発的に定着した時代です。これに伴い、手軽なポケットカメラが普及し、リゾート地を訪れた大衆が「旅の思い出」を写真に収め、周囲に共有することが最大の娯楽となりました。
「国際級スーパーリゾート」の誕生と紙の因果上書き:
1970年代当時、国境を越えた大規模な余暇開発地は「スーパーリゾート」などと呼称され、大衆の憧れの的となりました。まだコンピュータネットワークによる一元管理が普及していない時代、環境条約や規制の網の目は、デバイスの力によって食い破られました。
飛行機が消費する航空燃料によるガス排出と、現地の裏側で24時間フル稼働する自家発電機の黒煙。1970年代のリアルな消費社会の姿を映し、環境ディストピアとして表現しました。
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【第30話:設定・パラメーター】
現在の環境・人間性改善率(もあの改変第五波):
• 【環境負荷:+65%(航空燃料の大規模消費および僻地での石油自家発電のフル稼働により、地球規模の温暖化負荷が壊滅的領域へ突入)/ 人間の虚栄心:150%(限界突破)】
歴史の書き換え内容(森林・海洋絶対保全条約の破却と国際級スーパーリゾートの定着):
• もあ(@moa_star)が、アメリカ・ニューヨークの巨大観光開発コンツェルン本部の最高経営会議室へ潜入。「手つかずの大自然を守るなんて地味で退屈、みんなが憧れる極彩色のラグジュアリー楽園を作りたい」という大衆の強烈な虚栄心を突き、環境規制の檻に窒息しかけていた経営陣へ「欲望汚染」を発動。
• その後、東南アジアの孤島(リゾート開発現場)へ連続転移。何百年もの歳月をかけて育まれた巨木を切り倒し、サンゴ礁の浅瀬に土砂を流し込むことで、本来なら100%不可能な『国際級スーパーリゾート』の大規模開発を何一つ法に触れることなく定着させた。
• デバイスの力で、世界中に厳重に保管されていた調印済みの国際条約台帳や、捺印済みの「環境アセスメント報告書」のインクを物理的に変化させ、本文の環境負荷データの数値を都合よく激減。最初から「開発は環境に無害」という嘘の内容で提出・承認されていたかのように、過去の公的記録そのものを歴史ごと物理的に遡って書き換えた。
時任蓮のシステム制約と無力感の極致:
• 引き続き「手出しのできない歴史の観測者」として制限されているため、目の前で楽しげに記念撮影に興じる観光客や、自撮りを繰り返すもあを止めることができない。さらにその「一瞬の思い出」のために、大型旅客機が大量の爆燃排ガスをぶちまけ、ホテルの裏側で巨大な石油自家発電機が何十基も爆音を上げて原油を消費していく世界の「裏側」をただ見つめることしかできない。どれほど完璧な法を敷いても、人間にとって自分が命をかけて守ろうとした地球が「ただの消費するための背景」にすぎなかったという冷酷な現実に心が完全に折れ、煤塵を吸い込んだ雨に打たれながら絶望の底に崩れ落ちる。




