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彼が私にくれたもの

作者: 小山らいか
掲載日:2026/03/18

 ふと、考えることがある。いったい私は、何のために存在しているんだろう。


 日曜の午後、母がやってきた。いつも突然だ。「たくさんもらっちゃってね」ご近所からもらった野菜のおすそ分けだという。でも、彼女の本当の目的はほかにある。

「ほら、この間も話したでしょ、うらの後藤さん。あれからまた大変なことがあって……」

 いつもの世間話だ。母は兄夫婦と3人で暮らしているが、忙しい彼らとはほとんど会話がないという。こうして、休みの日は決まって娘の私のところに話をしに来るのだ。

「そうか、それは大変だったね」

 相槌をうちながら、母の話を聞く。最近は少し耳も遠くなったせいか、彼女は私の話はいっさい聞かない。30分から長いときは1時間近く、早口で一方的に話し続ける。

「あら、もうこんな時間」

 話を終えると、母は満足そうに帰っていった。玄関先で見送ると、そっとため息をつく。

 

 パートの仕事では、2人1組になって車で取引先を数軒回る。今日は同世代の女性と組むことになった。彼女は明るい性格で、いつもみんなの話の輪の中心にいる。

「カナちゃん、ちょっと聞いてくれる?」

 運転する私の横で、彼女は話し始めた。最近夫の帰りが遅くて困っていること(本当は、好きなドラマがゆっくり見れて嬉しいこと)、息子が反抗期で扱いづらくイライラしていること……。次から次へと話はつづく。そうなんだ、へえ……彼女の話を聞く。

「そういえば、カナちゃんの息子も反抗期じゃない? どうしてる?」

 反抗期か。確かに、最近ひどくなってきた気がする。「うん、うちもね……」言いかけると、「そうそう!」彼女は唐突に私の言葉を遮る。

「知ってる? 斎藤さんのだんなさん、地方の支社に異動になったんだって。単身赴任するか、引っ越すかってもめてるらしいよ。たいへんだよねえ」

 また新しい話題だ。その後も、彼女は思いつくままに話し続ける。

「じゃあね、お疲れさま」

 仕事が終わり彼女と別れると、どっと疲れが出た。結局、何の話をしていたんだっけ。

 私だって、話したいこともある。人と会うときは、「こんな話をしようかな」といくつか用意もしている。でも、気づくといつもこんな感じなのだ。まわりのみんなのように、速いテンポで会話のキャッチボールができない。相手の話をただひたすら聞く。聞き役のスキルだけが上達していく。そして、心のなかにいつも何かが残る。


「ただいま」

「おかえり。今日は遅かったね」

 夫が帰ってきた。「夕飯は?」聞くと、食べてきたという。朝はそんなことは言ってなかった。いらないなら、そう言ってくれればよかったのに。口を開きかけると、「付き合いなんだ。仕方ないだろ」私の言葉を聞く前に、夫は不機嫌そうに部屋を出ていった。仕事で嫌なことでもあったのかもしれない。まあ、それなら仕方ないかな。

 でも……言えなかった言葉を飲み込む。何かが、胸につかえている感じがする。


「明日は、お弁当いるの?」

 夕方、息子の部屋に向かって声をかける。ドアの向こうからは、いつものように返事はない。きっと、ヘッドホンで音楽でも聴いているんだろう。そう思いドアを開けると、息子はベッドに寝転がりスマホをいじっていた。私の声、聞こえていたんだ……。思わず、体がかっと熱くなる。

「ねえ、聞こえてるなら……」

「は? うるせえなあ。勝手に開けんなよ」

 息子は学校からもらってきたプリントを私に押しつけると、勢いよくドアを閉めた。最近体も大きくなり、力もそれなりに強い。思わずバランスを崩してよろける。

 落ちたプリントを拾い上げる。明日は午前授業か。お弁当はいらないのね。

 ――ひとこと、そう言ってくれるだけでいいのに。あんなひどい言い方しなくても。


 いったい、私の存在って何なんだろう。


 次の日、仕事で一緒に回ることになったのは矢島さんという、新人の男性だった。うちの職場は残業がなく仕事も軽めなので、子育て中の女性が圧倒的に多い。噂によると彼は定年後の再就職で、前職ではそれなりの役職についていたらしい。そういう人ってめんどくさいよね、と誰かが話していた。確かに、退職しても上司気分の抜けない男性もいる。

 でも彼は噂とは違い、落ち着いたおとなしそうな印象だった。

「よろしくお願いします」

 軽く頭を下げると、矢島さんは助手席に座った。

「……藤田さんは、この仕事、長いんですか」

 しばらくすると、彼は遠慮がちにそう聞いてきた。 

「5年、です」

「そうですか。この会社では、長いほうですか?」

「いえ、もっと長い人もいます。うちの会社は子育てと両立しやすいので」

「そうなんですね。藤田さんも、子育て中ですか?」

「はい。中学生の息子がいて」

「中学生ですか。じゃあ、もしかして反抗期かな。大変ですね」

「はい。何だか、最近うまく会話ができなくて」

 とりとめのない会話。彼は頷きながら私の話を聞いている。おっとりした口調。否定もしないし、途中で遮ることもない。その後も彼からの質問を受け、私は聞かれるままに話した。夫のこと、母のこと、そして同僚とのこと……。聞いてもらえる安心感からだろうか、不思議なほど言葉があふれていく。いつのまにか、自分でも驚くほどたくさんの話をしていた。

「あの……すみませんでした。初対面なのに、つまらない話を聞かせてしまって……」

 仕事が終わり、駐車場に戻ったところで彼に謝った。こんな主婦の愚痴みたいなもの、延々と聞かされたらきっと不愉快だっただろう。

「いえ、いいんですよ。藤田さんは……ふだんは、あまり自分の話をしない人ですよね」

「え……どうして?」

「……そういうのって、何となくわかるんですよ。いつも聞き役ばかりになってしまう人って。でもね、たまには自分のことを誰かに話さないと、苦しくなってしまうでしょう? 話す相手は、誰でもいい。ちゃんと聞いてくれる人ならね」

 お疲れさまでした。彼は静かに帰っていった。不思議な人だった。そして、私の心のなかにずっと残っていた何かは、いつのまにか消えてなくなっていた。


 彼とは、その後仕事で組むことはなかった。1か月ほどで、彼は本社へ異動になった。同僚たちによると、そこは新しくできたメンタルヘルスに関する部署だそうだ。

 またいつか苦しくなったら、彼は私の話を聞いてくれるだろうか。本当は、そんな日は来ないほうがいいけれど。 


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