30話 無貌の勇者
休戦から、はや15日。
王都には、まだ戦火の匂いが残っていた。
魔王軍の侵攻で焼けた街路。
瓦礫の隙間からは焦げた鉄の匂いが立ち昇り、
その上を新たな城壁の資材を積んだ荷車が軋みを上げて通っていく。
奴隷解放――。
今回の魔族領の反乱で、二百万もの人間が解き放たれた。
彼らの移送・保護だけでも、王国の行政は悲鳴をあげている。
王国側も十万の死傷者。
魔王軍も多くを失い、互いに疲弊したまま、辛うじて停戦を保っていた。
そんな国の修復を取り仕切るのは、当然ながら――俺だ。
「だあああぁ……忙しすぎるっ!」
報告書の山が、執務机から今にも崩れ落ちそうだ。
俺は自室にこもり、夜明け前から紙と格闘している。
白けた視線が突き刺さった。
ユリシアが壁にもたれ、湯気を立てるカップを片手にこちらを見ている。
「まあ、仕方あるまい。
戦後の責務というものだ。しばらくは我慢しろ」
その声音は、王妃としての冷静さと、妻としての柔らかさが入り混じっていた。
「次の評議で、権限をいくつか他の大臣に委譲しろ。
腐敗した貴族を排した今なら、任せられる人材は揃っている。
お前一人が潰れる前にな」
的確すぎて、何も言えない。
俺は戦場では勘で動けても、積み重ねる政治は苦手だ。
ユリシアの言葉が胸に突き刺さる。
「……分かった。考えとくよ」
「考えるだけでは駄目だ」
彼女はカップをそっと卓に置き、目を細めた。
「それより面白い話を聞いた」
一拍おいて、低く告げる。
「――勇者が、人間牧場から脱走した」
「勇者……?」
噂程度には知っている。
捕らわれ、誰も助けようとしなかった、あの男。
「名はトガリ。
横暴で幼稚、王国中から嫌われている。
我が父でさえ匙を投げたほどだ」
ユリシアの声には、珍しく侮蔑の色が混じる。
「捕らわれても誰一人救おうとせず、
だが個人で魔王軍を半壊させるほどの戦闘力を持つ。
それが“勇者”だ」
俺は思わず息をのむ。
「半壊……?」
「ああ。
だが奴は魔王を恨んでいる。
――休戦が終わる前に、魔王の首を狩りに行くかもしれんな」
それは、さりげない会話の一端にすぎなかった。
だが、胸の奥で嫌な予感が膨らんでいく。
そのとき俺はまだ知らなかった。
勇者トガリが、常識の枠をいとも容易く踏み破る存在だということを――。
▼
その夜。
執務室を出たオレは、ひんやりとした石の回廊を一人歩いていた。
月明かりが壁に刻まれた紋章を淡く照らし、遠く衛兵の槍が小さく鳴る。
足音だけが、静寂を裂く。
頭の奥で、ユリシアの言葉が何度も反すうされる。
――勇者トガリ。
魔王軍を単独で半壊させ、概念を操る異能の剣士。
「概念を、武器にする能力……」
無意識に拳が握り締められる。
魔王ですら封じようとした存在が、休戦の最中で動き出したのだ。
背後から、慎ましい足音。
「殿下」
夜でも鎧の縁を冷たく光らせた、王国諜報隊長が現れる。
「報告があります。勇者トガリ、目撃情報です」
「……どこだ」
「西方の廃都マルカ。
魔族領と王国領の境にある死の森を越え、複数の集落を壊滅させながら北上しています」
胸がざわつく。
「壊滅……生存者は?」
「数は不明。しかし、生き残った者はほとんどいません。
目撃者の証言では――“剣が振られた瞬間、村そのものが無に帰した”と」
概念の剣。
魔法も鎧も、存在すら消す力。
ザムザは息を詰めた。
「殿下、このままでは休戦は破られます。
王国も魔族も、いずれ彼を“共通の敵”として認めざるを得なくなるでしょう」
沈黙の後、ザムザは低くつぶやいた。
「……勇者、何が目的だ」
▼
黒月城塞
王国との攻防戦後、軍勢を引き返す途中であった
魔王の元にフェリルが報告を告げる。
黒い月光が天井から降り注ぎ、漆黒の大広間を染める。
四天王と近衛兵が整列し、巨大な玉座に腰かける魔王エルナンデスが、氷のような視線を巡らせた。
「すでに報告は届いているはずだ。勇者トガリが人間牧場を脱走した。
足取りは捉えぬが、いずれこの黒月城塞に来るだろう」
低く響く声に、広間の空気が一瞬にして張り詰める。
誰も口を開かない。
魔王は静かに立ち上がり、指を掲げる。紫電が走った。
「――この瞬間より、我が領土全域に戒厳令を敷く。
夜間外出を禁じ、転移門を封鎖、主要街道を遮断せよ。
違反者は容赦なく処断する」
兵たちは一斉に膝をついた。
恐怖と敬意が、その瞳に交錯する。
「さらに命ずる。勇者トガリとの交戦を禁ずる。
これは絶対の命令。破れば法に従い処刑する」
フェリルが小さく眉をひそめる。
「……魔王様、なぜ直接戦わぬのです。奴は所詮、人間――」
「人間ではない」
魔王の声が刃のように場を断ち切った。
「奴は概念武装を持つ。
概念そのものを武器と化し、因果を消し飛ばす。
封じぬ限り、勝ちはない」
ざわめきが広がる。
他の四天王たちも息を呑んだ。
「触れるな。ただ見よ。情報だけを寄越せ。
我らが命と領土を守るために、まずは時を稼ぐ」
魔王は視線を遠くに投げ、ひと呼吸おいて言った。
「――そして、王国のザムザに書簡を送れ」
「……共闘を?」
ジグムントが目を細める。
「そうだ。あれは手に負えぬ」
唇の端に、魔王はかすかな笑みを浮かべた。
その笑みは冷ややかで、しかしどこか人間味を帯びていた。
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