ライラとヨハンネス
「……美味しくないわ。ごめんなさい――違う、やっぱり味がしないの……」
食事の途中だったが、ライラはナイフとフォークを置いて、力なく重い息を漏らした。
「今日も駄目でしたか……料理長、今回は料理法を変えてみたと張り切っていたんですが……。ですが、お気になさらないでください」
ナプキンで口を拭う少女の前には、豪華な料理が並んでいた。だが、そのすべての料理を三口も食べないうちに、彼女の食事は終わってしまった。
ライラ・レミネンは、レミネン侯爵家の三番目の娘である。柔らかな明るい金の髪に、優しげな若草色の瞳。上には一人の兄と二人の姉、下には弟がいる。姉たちは二人ともすでに嫁いでおり、今屋敷に残るのは侯爵位を継ぐ予定の兄と、ライラ、そしてまだ幼い弟だけだった。
そんなライラに異変が起きたのは、十二歳の秋の日だった。何を食べても味がしなくなったのだ。柔らかいものでも固いものでも、まるで砂を噛んでいるかのよう。甘くても辛くても、何の味もしなかった。
最初は周りに心配をかけたくなくて黙っていたが、料理を残す回数が増えていく。やがて痩せていくライラを見て、兄が心配して問い詰めたとき、ライラは「食べ物が、食べ物に思えない」と白状した。
父も母も心配し、料理長にあらゆる工夫を試させた。だが、三年経った今も変わらなかった。唯一昔からある素朴なパンと蒸しただけの野菜だけは、口にすることができた。
「せっかくの食事が勿体ないわ。私の残りで申し訳ないのだけど、今回もヨハンネスとヘリュが食べてくれない?」
「俺たちにしたら勿体ないくらい豪華な食事だけどなぁ……ま、ライラは気にするなよ。いつも通り、ちゃんと綺麗に食べるから」
傍らにいた黒髪の少年がライラの言葉に頷いて、空いている椅子に腰を落とした。
「ヨハンネス、ライラ様にいつまでもそんな口調で話しかけちゃダメよ」
ヨハンネス・ヘリッテュは、夜のような漆黒の髪と、鮮やかな青い瞳を持つ少年だ。見た目は母親に似たのか、貴族の子どものように整った美しさと雰囲気をまとっている――口を開かなければ、だが。そんな風に、レミネン家の使用人たちは思っている。彼の母は侯爵家の乳母として長く仕えており、ライラと同じ年に生まれたヨハンネスは彼女と共に育った。そのため、小さな頃からの癖で、つい親しげな口調が抜けないのだった。
「なら、ヘリュも同じようにすればいいだろう」
ライラのために温野菜とパンを用意していたメイドのヘリュに、ヨハンネスは舌を出して言い返す。
ヘリュ・アルヴォネンは、二人より二つ年上の十七歳。そろそろ結婚を意識してもよい年頃だ。茶色の長い髪は三つ編みにして綺麗にまとめられ、ライラとよく似た緑の瞳は丸く、薄いそばかすが年よりも幼い印象を与えていた。
「駄目よ。ライラ様が許しても、私たちは守るべきところはちゃんと守るの。これが、使用人としての務めのひとつでもあるんだから」
ヘリュの言う『守るべきところ』とは、主従関係のことだろう。いくら親しくても、ライラは侯爵家の娘で、ヨハンネスはその使用人だ。
「二人とも、ケンカしないで。さ、食べましょう」
ライラがそう声をかけると、ヘリュは軽く頭を下げた。ライラの前に彼女の食事を並べると、慣れたようにヨハンネスの隣に座って食事を口にした。
アルミラ王国は、建国して二百年程になる。平和な治世は、ここ百年続いていた。穏やかな春が長い地方にあり、他国との貿易も活発に行っている。王族が平和を好んでいるから、アルミラ王国からは戦争を仕掛けない。
しかし、住みやすい地とは魔獣にとっても同じだった。頻繁に出る魔獣を狩るために、国内には王族が作った騎士団が存在している。
騎士団の長となる元帥は、代々王族が務めることになっていた。国を守る為と、騎士たちによっての謀反を起こさせない為だ。アルミラ王国の王子たちは若いころから騎士団の者たちと同じく、マナーや勉学と共に剣を手に練習に励んでいた。
ヨハンネスも、本来ならその騎士団に入る事になっていた。それをライラに伝えようとしたあの春の日に、川で溺れてしまった。
とても風が強い日だった。ライラの美しい金の髪に飾られていた濃紺のリボンが、風に攫われた。
「いや! お兄さまに貰ったのよ! 待って!」
慌ててリボンを追いかけようとしたライラの向かう先が川だと気づいたとき、ヨハンネスの体は無意識に動いた。川に落ちそうになる手前のライラを押しのけて、川に落ちるギリギリでリボンを掴む――そこまでは予定通りだった。だが、やはり風が強すぎた。リボンを掴んだヨハンネスの体は、少しバランスが崩れていた。そこに、強い風が吹いて彼を川に落とした。
あの時、本当なら自分は死んでいただろう――ヨハンネスは、そう思っていた。風が強い日は、川の流れも早い。しかし死んでも、ライラのリボンだけは守ろうと思っていた。ライラの為だけなら、何でも出来る気がしていた。
だが、助かった。まさか、あの場で助けてくれる人がいるとは思わなかった。それも、自分たちと年が近い少年に。
あの時は感謝もした――だが、今ではその姿を見るのも忌々しく思うようになっていた。勝手な理由だとは、分かっている。しかし、小さな頃から守って来たお姫様を横取りされたようなこの感情は、どうしても鎮める事が出来なかった。
食事が終わったヨハンネスが窓の外を見ると、例の馬車が門の中に入ってくるのが見えた。
「ライラ様、どうやらいつも通り、いらしたようですよ」
特に感情を込めることなくそう言うと、ヨハンネスは部屋を出て来客を迎えに向かった。
「ヨハンネス、今日も不機嫌ね」
その背中を見送りながら、ライラは不思議そうに小首を横に傾げた。ヘリュはヨハンネスの想いを知っているだけに、少し哀れに思いながらも春用のショールを取り出して、ライラの肩にかける。
「ヨハンネスにとって、ライラ様だけは特別なんですよ……あのお方がいらしたなら、ライラ様も下の部屋に向かいましょう。私は、お茶を用意しますね」
外の風は、温かく穏やかだった。
その中を走ってきた馬車が、ヨハンネスの前で緩やかに止まる。
「やあ、ヨハンネス。出迎えありがとう」
ヨハンネスが馬車のドアを開けると、この三年ですっかり見慣れた暗い金髪の青年が姿を現した。
「ユリウス王子、ようこそレミネン侯爵家へ」
侯爵家の使用人である自分には、どうやっても越えられない――命の恩人でもあるこのアルミラ王国第一王子に、ヨハンネスは滑稽なほどにぎこちない笑みを浮かべて頭を下げた。
毎月二度は訪れるその存在が、ヨハンネスを不機嫌にしていた。




