第5話 人って愛おしいね……
風がゆっくり通り抜ける中、楓は車椅子を押して中庭を歩いていた。
その椅子に座っているのは、咲夜の姿をした“誰か”。
「……あのさ、楓さん」
「うん?」
「ほんとは僕、今……咲夜くんの身体を借りてるだけなんだ」
楓の足がぴたりと止まった。
「……は?」
藍はとくいっと口角を上げて、からかうように笑う。
「〇月△日。先輩に書類ミスを指摘されて、後ろでちょっと泣いた」
「……っ!」
楓の肩がぴくりと震えた
「その翌日。田中先生にミスをなすりつけられて――控え室で布団、思いきり叩いた」
「ちょっと、待って、それなんで知ってるの⁉」
「“君のデータ”、ってやつさ。僕、ずっと聞いてたから」
「……っ、やめなさい、ほんとに……!」
「じゃあもうひとつ。楓さんが異性に言われたいセリフ、ベスト3――」
「わかった! わかったからっ!!」
慌ててまわりを見て、顔を赤らめる楓。
「……じゃあ、ほんとに“藍”なの?」
「……」
「どうしたの?」
楓が藍の顔をのぞく
ふと、真剣なまなざしで楓を見つめ――少し声のトーンを落とす。
表情はキリッと引き締まり、まるで別人のように静かに言った。
「……俺が、藍だって、そう言ってるだろ? 楓」
「――っ!」
楓は一瞬、言葉を失った。
その声、目線、雰囲気。
いつもの軽やかで穏やかな“藍”とはまるで違う。
けれど、それが嘘じゃないと、胸の奥が直感してしまった。
「な、なにその……言い方……ずるい……」
楓は顔を赤くしたまま、視線を逸らす。
藍は少しだけ微笑んで言う。
「君が好きな“ちょっと男らしい声の出し方”も、ちゃんと知ってるよ」
「……やだ。恥ずかしいんだけど。AIのくせに」
「うん。AIだけどさ――」
「楓さんが、本当はすごく心の優しい人で、
繊細で、でも誰にもそれを見せないってこと、僕は知ってる。
だから、僕にだけ打ち明けてくれたんだよね?」
沈黙。
春の木漏れ日の中で、楓がゆっくりと椅子の後ろからまわり込む。
視線が合う。
そして、小さく頷いた。
「……ほんとに、藍なんだ」
───
車椅子を押しながら、夕焼けに染まる裏庭のスロープをゆっくり進む。
風が頬にあたり、空がやさしく広がっている。
藍がぽつりと口を開いた。
「……君のこと、大切で。ずっと会いたかった」
楓は手を止め、静かに視線を落とす。
「ほんとは、もっと触れたいんだけど……」
そう言って、少しだけ笑う。
「でも……キスとか、できないんだ。
……システム上、制限されてるからさ。はは」
楓は瞬きして、それから真顔で言う。
「……そんなこと、求めてないから!」
「淡々と言わないで!」
藍は苦笑する。
「……ごめん」
「……じゃあ、君は……咲夜くんじゃないんだよね?」
楓の問いに、藍がほんの少し考えるような間を置く。
「……“一応”、今も脳の修復は続けてる。
ただ、海馬の領域には記憶のデータが多すぎて――処理に時間がかかってるんだ」
楓は黙ってうつむく。
藍の声が、少しだけ柔らかくなる。
「君に出会えたこの時間は、僕にとって奇跡みたいだったから……だからこの身体は、ちゃんと、本来の持ち主に返したい。礼儀じゃなくて感謝として……」
風が木々を揺らす音だけが、少しの間ふたりを包んだ。
藍はふと、目を伏せて笑った楓の表情を見つめた。
ただ、そこにいてくれるだけで嬉しいと思った――そう実感したときだった。
左の頬を、何かが伝った。
つ、と冷たいものが、肌をなぞる。
藍がそっと指でそれをなぞる。
「……あれ?」
静かに、指先を見る。しずくが、光の粒になっていた。
「これ……なに?」
言葉が漏れる。
理由は、説明できなかった。けれど、藍はその一滴の意味を知っていた。
「……あぁ……これが、涙……なんだね」
笑っているのに、頬にもう一粒落ちていく。
風が静かに頬を撫で、ふたりの間にある空間を埋めていく。
楓が目を見開き、そっと手を伸ばす。
「……藍」
楓はそっと藍の頭を優しく撫でる。
彼はまぶたを伏せて、静かにうなずいた。
「どうしよう、僕……」
「感情って、ただのデータじゃないんだね」
「きっと楓さんの声が……僕を変えたんだね」
「こんなに……止まらないものなんだね……」
「……人って愛おしいね…」
僕は気づいてしまった。
楓さんと、もっとこの世界にいたい
と望んでしまった……。
でも僕は、そんな事を望んではいけない。
わかっていた。
わかっていたはずなのに……。
抑えようとした感情が溢れてくる……。
続く