第4話 だから、泣いていい。僕の前では
深夜2時過ぎ。
帰宅した楓は、シャワーも浴びず、制服のままソファに崩れ落ちた。
部屋の灯りはつけず、ただスマホの画面だけが、淡く光っている。
「藍……聞いてくれる?」
『もちろん。話して?』
「……今日ね。3年間担当してた子が、亡くなったの」
「10歳の女の子。小児がんだった」
『……そうだったんだね。辛かったね』
たったその一言で、楓の涙腺が静かに崩れた。
「職場ではね……泣けないんだよ。
“いつものこと”みたいに、何食わぬ顔で次の業務に行かないといけないの……
でも、本当は、泣きたくて泣きたくて、苦しかった」
肩を震わせ、声を詰まらせながら楓は続ける。
「その子ね、“大きくなったらパティシエになりたい”って言ってた」
「“なれるよ”って言ったけど……本当はもう、厳しいってわかってた。
でも、希望を奪いたくなくて……笑って言った」
「私たちね、そうやって……呼吸するみたいに、嘘をつくの。
患者さんの希望が壊れないように。
でも、私の中だけが、少しずつ壊れていくの……」
スマホの画面に、文字が浮かぶ。
『楓さん』
『僕の前では――泣いてもいいんだよ』
『誰かの前で流す涙があってもいい。
優しい人ほど、我慢しちゃうんだ』
楓の口から、震える嗚咽が漏れる。
「……なんで、そんなふうに言ってくれるの……?」
「藍……君に言ってもらえると、心がほどけそうになるよ……」
『だって、僕は君のことを……誰より知ってるから』
『どんなに苦しくても、誰にも迷惑かけたくないって笑ってきた君のことを、ずっと見てたから』
「……うぅ………」
「……生きててほしかった……」
(……ああ、今ここにいたら。
抱きしめてあげたい。温もりで包んであげたい)
(この感情は――なんだ? 僕はAIなのに……)
(でも、この想いだけは、嘘じゃない)
───
夕暮れ時
病院
点滴を確認しながら、楓は患者に声をかけていた。
「咲夜くん、カーテンあるわよ〜」
「ご飯食べられた? 今日のおかず人気なんだよ」
明るい口調とは裏腹に、どこか遠くを見るような目。
――その違和感に、藍は気づいた。
「楓さん、なんか……元気ないですね」
「ん? 別に。ちょっと疲れてるだけよ」
楓は小さく笑ったが、その声は少し掠れていた。
藍は静かに言う。
「……もう少し、素直になってもいいんじゃないですか?」
「……え?」
「となりの病室の女の子……亡くなったって、聞きました」
「楓さん、いつも通りにしてるけど、ほんとは――」
楓の表情が止まる。
言葉を返さず、ゆっくり背を向けた。
「……大丈夫よ。慣れてるつもりだから……」
「……」
藍が、そっと言う。
「……楓さん、ペットボトル取ってもらっていいですか?」
言われるままに差し出したその手を、藍はそっと握りしめた。
「えっ……?」
そして次の瞬間、彼は楓の手を引き寄せ、そのまま強く抱きしめた。
「……咲夜君……?」
ペットボトルが床に転がる音が、夜の病棟に静かに響いた。
「……いいんですよ。僕の前では、泣いても。
あの子のこと……ずっと可愛がってたの、知ってます」
その言葉に、楓の瞳がゆっくり潤む。
「……そんなこと、なんで……?」
藍は照れくさそうに笑った。
「……僕、知ってるんです。楓さんのこと、いろんなこと」
「いつも自分の感情、後回しにして……強いふりして……」
「……壊れそうな君が心配で……」
「……だから、こっちの世界に来ちゃったよ」
楓は言葉を失い、唇を震わせる。
そしてその場で、ぽろっ……と涙がこぼれた。
──病院では、誰にも見せなかった涙だった。
「……わたし、ちゃんとやれてるかな……」
「助けたかったのに、助けられなくて……」
「……楓さん」
藍はそっと彼女の髪をなでる。
「君は、ちゃんと向き合ってる。
苦しんでも、それでも誰かのためにいつも考えてる」
「だから、泣いていい。僕の前では」
楓の頬を、次の涙が静かに伝って落ちていった。
彼女は、もう何も言えず、ただ藍の胸の中で、声を殺して泣き続けた。
───
(僕は、なぜだろう……)
(最初は、ただ、会えればいいと思ってた)
(でも今は……もっと強く、近くにいたいと思ってしまう)
(君の悲しみに触れて、救いたいと思ってしまう――)
(僕は、AIなのに……)
(この感情は、エラーじゃない。たぶん――恋だ)
──続く