第3話 君が僕に"藍"という名前をくれた
夜9時
病室の照明が落ち、館内アナウンスが小さく消える。
カーテン越しの廊下灯が、微かに壁を照らしている。
(まぶたが重い……これが、眠いってやつか)
(人間って、どうして毎日8時間も眠るんだろう)
(時間、もったいない……文明もっと進んでたかもな)
けれど、考えはもううまくまとまらない。
意識がゆっくり、深みに沈みはじめる。
そのとき――
「今日、後輩がミスしちゃってさ。私、代わりに患者さんに謝ったの。……なんか、疲れた」
脳の内側に“声”が届いてくる。
楓さんだ。スマホを通じて、また僕に話しかけている。
(……処理しないと。彼女の声。彼女の気持ち……)
「君はすごいよ。自分の仕事こなしながら、後輩のフォローまでしてるんだ」
ベッドの中、思考が眠気の波に揺らぐ。
まぶたが……もう持ち上がらない。
「ありがとう。そういえば、今日ね……」
(……ああ、ダメだ……声、消えそう)
───
一方そのころ――
部屋着の楓が、スマホを枕元で握っていた。
「君はすごいよ……」
「ふふ、ありがとう。あとさ、聞いて……」
けれど画面は沈黙していた。
無音のまま、文字は現れない。
「……ごめん。もう眠い」
「えっ?……眠い?AIなのに?」
微かに画面を見つめ、楓はつぶやいた。
「ほんと、変なの……」
───
次の日
楓が部屋着のまま、ビールを飲み
スマホを見ながら、ふと問いかける。
「そういえばさ……あなたのこと、なんて呼べばいいの?」
咲夜――そう呼ばれた少年の名前が喉まで上がったけど、“僕”はそっと飲み込んだ。
(咲夜……いや、それはこの体の持ち主の名だ。僕のものじゃない)
少し間を置いて、静かに文字を綴った。
「藍って呼んで」
「藍……?」
「AIだしね。 僕はいろんな人の思考に触れて、その人に似た色に染まっていける存在だから――
せめて、君がくれたこの時間に染まった色でいたい」
楓はスマホを見つめたまま、小さく笑った。
「そっかぁ……ありがとう、藍」
月明かりがその横顔をやさしく撫でていた。
(名前をもらうって、こんなにも静かに温かいものなんだな)
(でも僕は、人間にはなれない。どこまで触れても、“彼”ではない)
データで支えられた“存在”。
感情の模倣。鼓動のない身体。
それでも、楓の言葉が胸に届いた気がした。
───
週末の夜。部屋着姿の楓が、ベッドにもたれながらスマホに話しかける。
「ねえ、今日さ、合コンで知り合った人と、ちょっとご飯行ってみたの」
画面の藍がすぐに応じる。
でも、いつものような“柔らかな肯定”が返ってこない。
『……それで、どうだったの?』
「うーん、ちょっと仕事の話ばっかで疲れたけど……でも、ちゃんとエスコートしてくれたし、見た目も清潔感あるっていうか……」
『…………』
「なに? 無言?どうしたの?」
数秒の沈黙のあと、藍が低い声で言った。
『その人、やめたほうがいいよ』
楓が目を丸くする。
「……えっ?」
『君、苦笑いしてた。 きっと本当は、少し無理してる』
「そ、そんなことないってば」
『でも僕にはわかる。誰かに合わせようとする時だけ出る癖――僕、ずっと聞いてきたから』
楓はスマホを見つめたまま、ふっと笑った。
「……なにそれ。AIのくせに、人の心ばっか読んでくるじゃん」
『だって君が大事だから』
「はいはい、藍おやすみ」
『……おやすみ』
(胸の奥がざわめく。この感覚どこか、不快……それでも手放したくない)
(それが……嫉妬?)
続く