第5回 朝食会。博愛主義、利己主義、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今まで3、4日おきに定期的に来ていたノアは、ここ一週間来ていない。
やはり体調が悪かったのかもしれない。
そんなことを考えながらベンチに座ると差し込む朝陽が眩しくて目を開けていられない。
もう少しでピアノの妖精が街を去ってしまう。
それまでにもっと聞く機会を持たせてあげたいと思っていたピアノの演奏に聞き入る。
ぎゅっぎゅっと土と草を踏む音がピアノの音に混ざって聞こえてくる。
ノアだろうか、それとも他の誰かだろうか。
目を開ける気になれず、そのまま放っておく。
すると近くまで来た誰かは静かに隣に座った。
きっとノアだろう。
私が寝ているとでも思っているのだろう。
いつもより日が空いたことで、すっかり相対することに怖気付いている、ということもあるけれどもう少しこのままで。
きっとあと何曲か弾くはずだ。
予想通り、その後3曲聞くことができた。
静寂が続き、今日の演奏は終わったのだろうかと思っているところへメロディが流れ込んでくる。
これはきっといつも弾くようなピアノソロ曲ではない。もう少し大衆向けのもの。
すると隣に座っていたノアであろう人物が立ち上がるのを感じ取るや否や、唐突にメロディが遠のいた。
耳に触れているのは大きな温かい手。
もしこれがノアじゃないのなら、そう考えると怖くてすぐには目を開けられない。
逡巡した後、ゆっくりと目を開ける。
朝陽を遮り覆い被さるように立っていたのがノアで、ほっと息を吐く。
やはり私は耳を塞がれている。
何するんですか、そう詰ろうとした。
けれど叱られた子犬のような顔に、その言葉を呑み込んだ。
「……おはようございます。」
最も無難で当たり前の言葉を掛けることが精一杯だった。
何かあったのだろうか。
「おはようございます。」
その言葉は未だ手のひら越しで、くぐもって届く。
大丈夫ですか?何かありましたか?
そう訊ねて返って来た答えに更に何かを返すだけの能力を備えていないことを自覚している私は、何も訊ねない。でも、これだけは。
「……体調は、いかがですか?」
うっと息を詰まらせるような顔をしたかと思えば、ゆっくりと眦を下げ、口角を上げる。
「問題ありませんよ。」
そこにはすでに脚の間に尻尾を隠す子犬は居なかった。
耳を塞いでいた手が外されると、もうピアノの音は聞こえなくなっていた。
ノアはその手にいつもの籠をベンチから持ち上げ、掲げて見せてくる。
「……家へどうぞ。」
立ち上がろうとすると手を差し伸べられる。
「……年寄り扱いされる歳ではないです。」
2つしか変わらないのに。
朝の日光浴が年寄り臭かったのだろうか。
そういえば、暫く手は繋いでいない。
ほんの少しの寂しさと眩しさを無視し、さっと立ち上がり扉へと向かう。
後ろをゆっくりついてくるノアの漏らす吐息につられリビングの窓へ目をやると、そこには笑顔が映った。
やっぱり笑われている。
もしかして手も握れない童貞だとか、虚勢を張る年寄りだと思われたのかもしれない。
悔しさに下唇を噛み、窓から目を逸らし、家に入る。
「今日は白身魚のフライが挟んであるパンと、フライドポテトですよ。」
勝手知ったる何とやら、食器棚から皿とカトラリーを持ってゆく。
歩くノアが起こした気流が、コンロに向かう私のところまで香ばしい油の匂いを連れてくる。
今日はキャベツたくさんコンソメスープです。
長くて言えないその言葉を呑み込む。
温まったスープをよそい、振り返ってすぐにノアとばちりと目が合う。
これしきのことで粗相なんかしませんよ、見ていても面白いことなんか起こりませんから。
それも心の中で言葉にするだけ。
「……キャベツのスープです。」
「いただきます。」
さっき朝陽に翳って見えたノアの顔は幻だったのだと思う。
さっきからずっとにこにこ笑顔だ。
このパンが好物なのかもしれない。
そして、このパンも直接齧り付いていいものか悩ましいため、ノアが手を出すまで待つ。
フォークでひとつずつ刺して食べるフライドポテトは、芋が肉厚でほくほくとしていてばらつきのある塩味が美味しい。
揚げ物を作るのは得意じゃない。
だからこうしてお店のものを食べられるのが嬉しい。
やはりパンには直接齧り付いて食べるらしい。
真似をして齧り付く。
淡白な魚の甘みは揚げることで美味しさが増すらしい。
そこに絡む癖のある酸味のあるしゃくしゃくとろりとしたソースがより美味しさを底上げする。
これは大好物になりました。
すごく美味しいです。
食後のコーヒーとも合う味だと思い、口の中から味の余韻が消えないうちにと急いでコーヒーを淹れる。
「冷蔵庫にこれ入れてもいいですか?忘れてました。」
紙袋を掲げて見せる。
冷蔵庫に入れておかないといけないもの。
中身がとても気になりますね。
「……どうぞ。」
中身を見せることも、知らせることもせずにノアは冷蔵庫に仕舞ってしまいました。
気になっていませんよと虚勢を張りコーヒーを持って戻る。
「……今日の支払いは何ですか?」
私は訊ね方を変えるという能力を習得しました。
「昼までここで少し休ませて貰えませんか?」
「……ここで?」
ここで?
「はい、ソファを貸してください。」
ベッドじゃなくていいんですね。
「……どうぞ。」
やはり疲れが溜まっているのだろう。
じゃあお昼ご飯も食べるだろうか。
「スープと、パンと、目玉焼き、チーズくらいなら出せますけど……」
朝もパンだったのにすいません。
「お昼も食べて行っていいんですか?」
言わなければ食べずに帰ったんですね……
「……えぇ。」
墓穴を掘ったらしい。
「それと、ここの、キースの神様の話を聞かせてほしいです。どんな人?なんですか。」
「……人じゃないんです。それに神様はひとりじゃないんです。存在する全てに宿っています。」
ノアが全く理解できないという顔で頭を振る。
「さっき食べたキャベツにも、白身魚のフライにも。このコーヒーにも神が宿っているという教えです。」
ノアが首を傾げる。
「存在する全てに感謝し、存在を認め、それらを否定することはしない……
身近な言葉に当て嵌めるとしたら、博愛主義といったところでしょうか。
いただきますという言葉の起源もそこにあるのではと、私個人は思っています。」
「なるほど。キースは博愛主義者ですか。」
「……あなたは?」
「……それは、わざとなの?」
ベンチで見た眦を下げた顔に似ているけれど、甚振ることを楽しむような軽薄さに怒気を感じ取る。
「すいません、呼び慣れなくて。気をつけます。」
「ノ、ア」
もう怒られたくないです。
「……ノアは、何か主義を持ってますか?」
「持ってるとしたら、利己主義ですかね。」
「なるほど。悪くないですね。」
ノアと名前で呼ばないと怒るあたり、確かにそうかもしれないと思ってしまった。
笑いそうになる口元をマグカップで隠す。
扉を一枚隔て廊下へ出た先にあるお手洗いの場所を教えておく。
そのついでにクローゼットから薄いタオルケットを引っ張り出す。
猫の額ほどのリビングに置かれたソファへタオルケットを置いておく。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
前回地雷を踏み抜いたことが気まずく、訪ねたい気持ちはあっても足が向かず、1週間も経ってしまった。
この1週間、あまり調子が良くなかったせいでもある。
熱も咳も喉の痛みもないけれど、倦怠感が常に付き纏っていた。
期間が空けば空くほど、せっかく縮まった距離が開いてしまうのではと考えるに至り、ようやっと来ることができた。
もし拒絶されたら、籠を渡してさっさと帰ろう。
教会を視界に入れるや否や聞こえてきたゆったりとしたピアノの音に、鼓動と足が早くなる。
彼よりも先に。そう思って急ぎ曲がった建物の角から、ベンチで眠るキースが見え立ち止まる。
ピアノを聞きながら眠ってしまったらしい。
起こしてしまわないようにと静かに近寄り、無防備過ぎる姿に恐怖を煽られながら隣に腰掛ける。
膝に肘を突くように身を乗り出し、朝陽に彩られたキースの横顔を覗き込む。
音階は何の意味も持たず、ただ眩しく光る朝陽の中へ流れて消えてゆく。
少し間を空けて流れ始めた曲。
これは有名な恋の歌だ。
気が付くと、キースの耳を塞いでいた。
この曲が終わるまで眠っていてほしい。
初めて触れた頭は小さく、手のひらにあたる耳殻も小さい。
黒く長い睫毛と、淡く桃色の唇。朝陽に温められたつるりとした頬。
ゆっくりと持ち上がる瞼から覗いた黒い瞳は、きょとんと呆けるだけで無警戒。
もう少し。
「……おはようございます。」
寝起きらしく掠れたか細い声が、小さな口から漏れ聞こえる。
「……おはようございます。」
手を離せと言われないのをいいことに、耳を塞ぎ続ける。
「……体調は、いかがですか?」
ただの何でもない、よくある労わりの言葉。
それなのに、じわりじわりと始まった何かは最後にはばっさばっさと、この1週間付き纏って離れなかった倦怠感を薙ぎ払ってゆく。
「問題ありませんよ。」
曲が終わり、彼の足音も消えた。
晴れ渡ってゆく感情と、満足感に耳から手を離す。
ベンチに置いていた籠を持ち、掲げて見せる。
「……家へどうぞ。」
立ち上がろうしたキースに手を差し出す。
「……年寄り扱いされる歳ではないです。」
さっきまでは寝起きらしくあどけなさがあったのに、途端にいつもの鋭利な顔付きになる。
すごく嫌そうに差し出した手を一瞥し、避けるようにして立ち去ってしまった。
そんな表情でさえ見るのがひどく久しぶりな気がしてしまえば、顔がにやけるのを止められない。軽い足取りでキースを追いかけ家に入る。
「今日は白身魚のフライが挟んであるパン、フィッシュバーガーと、フライドポテトですよ。」
今日は、スープとコーヒーなら出せますが、と訊ねられることもなく、スープの紹介さえない。
当たり前に何でも食べると思われているのかもしれない。仕方なしにだとしてもこの朝の時間を受け入れてくれているのだろう。
こちらに向けた背中を、動かす腕を、覗くうなじを存分に眺めていると、徐に振り返ったキースとばちりと目が合う。
前回のウインクは全く通じなかったから、歯を見せてにかっと笑ってみせる。
それに返されるひと睨み。
「……キャベツのスープです。」
細切りのキャベツに、細切りのにんじん、粒コーンが入ったコンソメスープらしい。
「いただきます。」
コンソメの塩味と胡椒が効いているのに、優しい味だ。
キースが作るスープはどれも優しい。
フライドポテトを行儀良くフォークでひとつずつ口に運ぶキースを、指先の塩を舐めながら眺める。
やっとでフィッシュバーガーを食べる段になると、辿々しく両手で掴む。
やはり直に齧り付くような食べ物に慣れていないのか、苦手なようだ。
タルタルソースを口の端に付けながら、夢中になって食べている。
見られることに慣れたのか、見られていることに気付いていないのか。
こちらを見ないことには変わりはないけれど、じっくり眺めていても目は合わない。
眉を下げ目を細めていても、そこがキラキラと輝いていることがわかる。
その顔を見ると、いつもよりご飯が美味しく感じる。
フィッシュバーガーを食べ終えると急いで立ち上がりコーヒーを淹れに行くキースを見守る。
そこですっかり忘れていたお土産を思い出す。
「冷蔵庫にこれ入れてもいいですか?忘れてました。」
紙袋を掲げて見せる。
「……どうぞ。」
お土産に興味津々のご様子。きっと好きだと思うから、後でのお楽しみに今は中身を教えてやらない。
コーヒーを持って戻ったキースが徐に訊ねてくる。
「……今日の支払いは何ですか?」
前回現金払いを断ったことで、ようやっと諦めてくれたらしい。
「昼までここで少し休ませて貰えませんか?」
「……ここで?」
「はい、ソファを貸してください。」
「……どうぞ。」
1週間ぶりだからだろうか、何となくここから離れ難い。まだ帰りたくない。
「スープと、パンと、目玉焼き、チーズくらいなら出せますけど……」
「お昼も食べて行っていいんですか?」
この手があったか。
「……えぇ。」
自らの提案な上、了承を示しているキースの顔はすごく嫌そうに歪んでいる不思議。
口が滑ったのだろうか。けれどもう引き下がらないので是非に諦めて欲しい。
「それと、ここの、キースの神様の話を聞かせてほしいです。どんな人?なんですか。」
気になってはいたけれど、聖母への憧れとかを饒舌に語る姿を見せられるかもしれないと思うと聞けなかった。
でも仲良くなりたいのなら、聞いておいた方がいいと、腹を括った。
「……人じゃないです。神様はひとりじゃないんです。存在する全てに宿っています。」
うん、全く理解できない。
神様や聖母や特定のひとりが対象の宗教しか聞いたことがない。
「さっき食べたキャベツにも、白身魚のフライにも。このコーヒーにも神が宿っているという教えです。
存在する全てに感謝し、存在を認め、それらを否定することはしない……
身近な言葉に無理に当て嵌めるとしたら、博愛主義といったところでしょうか。
いただきますという言葉の起源もそこにあるのでは、と私個人は思っています。」
こんなにたくさん話すキースを見られたことの方が驚きだった。
それに神父らしく教えを説く姿だったけれど、前回感じたような俯瞰で眺められるような居心地の悪さはなく、いつも冷たい表情をしているキースの根底にある優しさの理由を見つけたような気がする。
「なるほど。キースは博愛主義者ですか。」
「……あなたは?」
いつまでも頑なに名前を呼ばない。まるで俺の気を引きたい女の、下手な戦略のよう。
へぇ、俺が欲しいんだ?目を細め、引いた唇の口角を上げる。揶揄ってやろう。
「……それは、わざとなの?」
気のある素振りを見せつつも行動を起こせない女性に自ら近付き、誘いに乗ってあげてもいいよ?と優しく罠に掛けるように。
「すいません、呼び慣れなくて。気をつけます。」
驚いた。
しどろもどろになり、怯えながら謝ってくる姿にそれが本心だと気付かさせる。
「ノ、ア」
小さな子どもに手取り足取り発音から教えてやるように、たったのふた文字を大きく口を動かしながら丁寧に。それにこくりと頷く。
「……ノアは、何か主義を持ってますか?」
これからも名前で呼んで欲しい。
「持ってるとしたら、利己主義ですかね。」
快楽主義でもあるけれど。
「なるほど。悪くないですね。」
くすりと笑い口元をマグカップで隠したけれど、見えている。
俺にぴったりだと思ったのだろう。
馬鹿にするような雰囲気はなかったから気にはならないが。
そして長時間を過ごすのだからと、お手洗いの場所を教えてくれたことで、家の中の大体すべてを把握してしまった。
親切でしてくれているのは分かるし、俺自身が言い出したことなのに、無防備で怖い。
こういうところが博愛主義の弊害なのかもしれない。
そんなことを考え、お手洗いを借りている間にソファにはタオルケットを用意してくれていた。
3人掛けとはいえ小さいソファも、肘置きに脚を上げれば充分寝られるだけの広さはある。
食器の片付けをするキースの背中をソファから眺める。
濡れないように捲った聖服の袖から覗く白く細い腕の動きを追っているうちに眠りに落ちた。
キースが花のように綻んだ笑顔で名前を呼んでくれる夢を見た。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
お読みくださりありがとうございます。