第4回 朝食会。恋人は、いません、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
滲むような柔らかな朝陽を浴びながら森を進み、目指した教会。
その教会の大きな扉の前にいるのは、キースと、誰だろうか。
まだ少し距離はある。立ち止まり、隠れた木の後ろからふたりの様子を伺う。
「……、また。」
それに応えるように手を振り走り去ったのは若い男。青年とも言える年頃に見えた。
その後ろ姿を見送るキースは、ひどく穏やかで朗らかだった。
別人かと見間違えそうなほど。
驚き呆けて開いてしまった口を、握り締めた掌で隠す。
耳を澄ませるために自然と呼吸を止めていたせいか、息を吸い込むと心臓の音がとくとくと普段より早い。
見送りを終えたキースは踵を返し、礼拝堂の陰に隠れて見えなくなった。
恐らくさっきのがピアノの彼なのだろう。
それにしてもあんなに親しげだとは。
キースが家に入るまでに何歩必要だろうかと適当に数えながら、呼吸を落ち着かせる。
必要以上の100歩を数えてから、隠れていた木陰を出てゆっくりと家を目指す。
「おはようございます。」
扉をノックすると、すぐ扉が開いた。
「……おはようございます。……どうぞ。」
何も言わずに籠を掲げただけで通じた。
「今日は海老チリ丼と麻婆豆腐丼です。辛いの好きですか?」
「……今日は卵のスープです。辛いのはあまり……。」
「辛いのと、辛くないの、両方あるから大丈夫ですよ。」
何となく、そんな気がして両方にして良かった。
玄関扉から遠い方の椅子に座り、顔を横に向けスープを温めるキースの後ろ姿を眺める。
扉を開けた時のキースは、先程とは打って変わった無表情だった。
けれど今日は、スープとコーヒーなら出せますが、と訊ねられなかった。
だから俺たちの仲だって進歩してる。
キースが置いてくれたスープマグには、ふわふわの卵とにんじんとわかめが入っていた。
海老チリ丼と麻婆豆腐丼の濃く辛い味を洗い流してくれるような、薄い醤油味のすっきりとしている塩味の優しいスープだった。
盗み見たキースの顔は、海老チリ丼も麻婆豆腐丼も美味しいと語っていた。
けれどもさっきの笑顔はもっと複雑で、感情が豊かに込められていた。親しみだって。
美味しいと輝かせる瞳も、その表情も、あの笑顔とは違う。
そもそも笑った顔は見たことがない。
まだ数回会っただけの俺たちはお互いのことを殆ど知らないのだから、俺と彼とで態度が違うのは当たり前。でも。
コーヒーを淹れるキースの背中に何か話しかけようと思っても、唇は重く億劫になってしまい、組んだ指先に何かを探すふりをして過ごした。
「……今日の支払いは、これでお願いします。」
その視界にマグカップと現金が入り込んできた。
一食分にしては多い。
これまでの分も入っているのか。
「……伊達眼鏡を掛けている理由を教えてください。その眼鏡、度は入ってないですよね。」
出された現金には触れず、初めて朝飯を持参した日から気になっていたことを訊ねた。
「………別の質問にしてください。」
マグカップの内側に視点を定めた瞳が翳る。
伊達眼鏡を使う理由なんてファッションか、光過敏症か、その辺りだろうと思っていたが、まさか断られるとは。あぁ、ファッションだと言うのが恥ずかしいとか?
「……じゃあ、恋人はいますか?」
眼鏡のことよりも、プライベートなことに踏み込んだ自覚はあるけれど、2組ずつの食器とポケットの中のものにチラつく恋人の影が気になっていた。
「……恋人は、いません。あなたは?」
眼鏡のことを聞かれた時からキースの表情はいつもの冷淡さを纏いながら更に仄暗いものまで滲ませている。まるで両手で包んだマグカップの中のコーヒーをどろりと澱んだものへと変える呪文をこっそり唱えているかのよう。
「俺も。恋人はいません。」
決してこちらを見ない、氷雪吹き荒ぶ表情は俺の答えに何の興味も示していない。
名前で呼ぶよう強要することもできたもんじゃない。
それに、完全に機嫌を損ねた自信がある。安易に踏み込み過ぎた。
今日はこれ以上会話をするべきじゃない。
「ご馳走様でした。また。」
こちらを見ないキースに、逃げ帰るような雰囲気にならないよう、あえてゆっくりと立ち上がり、優しく明るくまるで何も気にしていないですよと能天気さを声で装い、挨拶をしてから家を出た。
あれは本気の拒絶で激昂。
なんでこんな日に限ってお土産を買って来てないんだ。
それにしても。
恋人は、いないか。
じゃあ、何なら居るんだろう。
どうしてあの質問に怒ったんだろう。
柔らかな日差しは一転し、薄曇りで暗くなっていた空。雨でも降るのだろうか。帰る足取りは自然と早くなった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今朝はピアノの妖精が、この街を今月いっぱいで離れることになったと、挨拶をしてくれた。今月はもう2週間もない。
けれどまたすぐ戻るかもしれないとか、どうなるかわからない、そのようなことを嬉しそうに不安そうに教えてくれた。
神様はいつでもアル君を見守っているよ、そう伝えたかったが、そんなこと信徒でもない人に対してあまりにも上から目線だと思うと伝えられなかった。
アル君と別れてすぐにノアが訪ねて来たが、もう10分でも早ければ二曲は聞けたのに。
今日は海老チリ丼と麻婆豆腐丼だとか。
辛いものは得意じゃないけれど、ピリリとする程度の辛味で、美味しさをより引き立てていた。
朝から元気を分け与えてくれるような、とても美味しい朝ご飯だった。
ただ何となくノアが普段より静かだったことが気になった。
普段も会話は少ないけれど、視線が煩い。
今日は視線も全く感じず、安心して食べ進めることが出来たのはよかったのだけれど。
それと前回気付いた支払い問題。
やはり一度きちんとお金を払いたい。
もし断られた時には、有難くご馳走になる。
それで今度からは自分からも何かお土産とかでお返ししていけばいいと思うことにした。
意を決してテーブルに出した現金。
ちらと見ただけで触りもしなかった。その代わりにされた質問。
「……伊達眼鏡を掛けている理由を教えてください。その眼鏡、度は入ってないですよね。」
「………別の質問にしてください。」
そう返すので精一杯だった。
他人に見られることが怖くて、ガラス一枚だけでも隔てたい。
そう思って掛け始めた眼鏡に、ただの錯覚だとわかってはいるけれどほんの少しだけ、その恐怖が和らぐ気がするから。
そんなこと絶対言いたくない。
「……じゃあ、恋人はいますか?」
いるわけがない。
友だちだって居たことがないのに。
聞いてくるノアが悪いわけではないのに、惨めな気持ちにさせられ、被害妄想が始まる。
「……恋人は、いません。あなたは?」
「俺も、恋人はいません。」
恋人はいません。
ノアみたいな人に居ないわけがない。
その言葉の前に、今は、とか、特定の、とか何かしら付く枕詞を隠しただけだろう。
酷く惨めだ。
知り合いが出来て、コミュ障を卒業できるかもと浮かれていた。
それが却って自身を苛むなんて。自分を曝け出すことは怖い。他人と関わることにこんな落とし穴があったなんて。
陰キャの本領を思う存分発揮し、ドライアイスが地を這い立ち昇るように漂わせた負の感情に恐れを成したのか、ノアはそそくさと帰って行った。
今日ならひとりで棒ドーナツを買える気がする。
ここまで荒んだ心ならば、周りの目さえ気にならないかもしれない。
ははっ。ひとり乾いた笑いを溢す。
それにしても、やっぱり今日のノアはどこか調子が悪そうだった。
ひと雨来そうな空模様に、ノアが雨に降られずに家まで帰れるよう祈っておく。
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お読みくださりありがとうございます。