第3回 朝食会。仕事は、肉体労働です、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
教会に近付くにつれ風に囀る木々が減ってくると、混じり気がなくなりはっきりと聴こえてきたピアノの音色。
静まり返った森に降り注ぐ木漏れ日ような優しく煌びやかな音色。
そういえば、ピアノを弾きに来る人がいるんだったか。
家がある側へと建物を回り込むと、礼拝堂の壁に沿って置かれたベンチに座るキースを見つけた。
浅く腰掛け背筋を伸ばし、両手は綺麗に揃えて膝の上。
いつもああやって聞いているんだろうか。
静かに歩み寄る。
こちらに気付いたキースは上げたその無表情な顔を、こちらへ向ける。
そして人差し指を唇に添える。
神父殿は静かにしろと仰せだ。
それにしかと頷き、籠を置き隣へと掛けた。
ベンチの背に凭れ、両脚を投げ出し空を仰ぐ。今日は明るい曇り空で、風がさわさわと肌を撫でてゆくのが気持ちいい。
頭を傾け横目に盗み見たキースの目元は力が抜け、口の端は僅かに上がっている。澄んだ黒い瞳は森へ真っ直ぐ向けられている。
聞き入ること2曲ほど。
ピアノの音が消え、少しすると礼拝堂の扉が開閉する音がした。
走り去るのは軽やかに地を蹴る足音。
こちらとは反対側へと向かったようだ。
「……少しでしたが、間に合ってよかったですね。」
「はい。今朝はナポリタンですよ。」
籠を開いて見せたが、ちらと見やるだけだった。
ナポリタンは特段好みというわけではないのかもしれない。
「……家へ、どうぞ。」
立ち上がったキースの後を追うように立ち上がり、後ろに続く。
「……ホワイトシチューと、コーヒーなら出せますけど。」
「どちらもいただきます。」
買って来たのはナポリタンとパン。
それらをテーブルに並べる。
玄関扉に近い方の椅子に座り、シチューを温め直しているキースの背中を見つめる。
今日もあのポケットに、大事なものを仕舞い込んでいるのだろうか。
「カトラリー出していいですか?」
そんなことを考えながら背中に問う。
いつも片付けは任せて帰っているが、どの辺の引き出しに入っているのかは知っている。
「どうぞ。」
振り返りもせずに答えるのだから、カトラリーを仕舞っている引き出しを俺が把握していることを知っているらしい。
椅子から立ち上がりカウンターを回り込む。
カトラリーが入っている引き出しは一旦無視し、カウンター下部の食器棚をわざと開ける。並んだ食器は全て白色。
スープマグ、マグカップ、ご飯茶碗、楕円形の深皿、取り皿大中小、などなど。
どれもが同じデザインで2組ずつ。
そこから平皿2枚を取り出す。
次に引き出しを開けると、入っているカトラリー類は全てシルバー、箸は木製。
こちらも同じデザインで2組ずつ。
フォークとスプーン2組に、小さなフォークをひとつだけ取り出す。
ふうん。
買って来たパンは白くて柔らかいシンプルなコッペパン。
その腹をフォークでぐさぐさと割り裂いてゆく。
そこに詰められるだけ詰めるナポリタン。
パンに詰めても、ナポリタンは単体で食べる分もまだまだしっかりと残っている。
その作業を終えたところへ、キースがシチューを持って来る。
「いただきます。」
シチューにはにんじん、玉ねぎ、ブロッコリー、きのこが見える。今日も美味しそうだ。
「……いただきます。」
シチューを温かいうちに食べてしまう。
さらさらともったりの中間のとろりとしたミルク感の強いシチューは、黒胡椒がよく合って美味しい。
次にナポリタン。
キースはまだシチューを片付けている。
ひとくちがやはり小さい。
今日はひとつずつ丁寧に口へ運び入れる、スプーンの上の野菜ばかりを見ている。
ナポリタンに辿り着いたらまた顔を盗み見よう。
俺がナポリタンパンに手を付けると、ナポリタンをフォークに巻き付ける手を止めたキースと目が合った。
食事中にこちらを見るのは珍しい。
ただ目が合っただけでは勿体無い。せっかくなのでウインクする。
ふいと顔ごと逸らすキース。
完璧な無反応に居た堪れなくなり、大きく齧り付き口の中をパンでいっぱいにする。
顔を逸らした後に照れたり恥ずかしがる素振りは微塵もなく、ただただ無表情で無関心。
切ない気持ちと恥ずかしさも一緒に咀嚼し飲み込む。
ナポリタンを巻き付ける作業に没頭しているキースの眉は下がり口角は上がっていたけれど。
ぱくりと頬張る瞬間は窓の外を見たり、玄関扉の方を見たりで輝かない。
ナポリタンは普通ってやつかな。
それならナポリタンパンでも輝かないか。
今日は先に食べ終えてもキースを眺めることはせず、敢えてソファ後ろの窓から外を眺めるように顔を逸らしおき油断させる。
そしてナポリタンパンに辿り着いたキースのひとくち目で視線だけを戻す。
顔の角度は変えず盗み見た顔はふにゃりと頬を緩ませ、見開いた瞳はキラキラと輝き、とろんと細くなった。
ナポリタンが嫌いということではないらしい。そこからはじっくりと食べる姿を眺めて過ごす。
暫くすると俺の視線に気付き、虚になってゆく瞳と強張る表情。知らない人が見たら、食べているあれはすごく不味いものなのだろうと思われそうだ。
キースは最後のひとくちまで決してこちらは見ず、テーブルの真ん中あたりで目線を固定していた。
食べ終えたキースにテーブルの上にあるティッシュを1枚取って渡すと、それで口元を抑え拭き取ってからコーヒーを淹れるために席を立った。
通路側に引いた椅子に浅く座り、ぐったりと背に凭れ、作業台でコーヒー豆を挽く横顔からちらりと覗く眼鏡と鼻先を見ていた。
「……仕事は、何をしているんですか?」
お湯を丁寧に注ぐキースに訊ねられた。
「……肉体労働です。それで仕事終わりに立ち寄ってます。」
広義の意味では含まれているだろう。
「夜間の肉体労働ですか。それは大変ですね。いつもご苦労様です。」
「そんなことないですよ。」
笑って答えたが、キースが背中を向けていてくれてよかった。
たぶん笑顔が引き攣っているから。
いや、別に知られても構わないか。
誤解していそうなキースに訂正しようかどうしようかコーヒーの落ちる時間を使って考えてみた。
答えの出ないままコーヒーの入ったマグカップを両手で包み飲むキースを見ていると、本当の職業を教えることが躊躇われ視線を外す。
珍しく感じる視線に顔を向けると、キースがマグカップに口を当てたまま飲まずに止まっていた。
けれど目は合わない。
視線は首筋を捉えていないだろうか。
まずい。
客に何か痕を付けられたかもしれない。
そんなことを許した記憶はないが。
でも手で隠せば不審がられる。
何か気を逸せないだろうか。
何か。
何か。
「これ、カップケーキです。後で食べてください。」
籠から紙袋を掴み取り渡す。
「……ありがとうございます。前回のドーナツもご馳走様でした。今日の支払いは、いくらですか?」
やっとでキースの視線が首筋から離れたことに安堵すると、背筋を冷や汗が流れた。
「……キースの家族のことを教えてください。」
「……父と母、弟と妹がいます。国内ですが、遠いので会うことはありません。……あなたは?」
「ノア」
「…….ノアのご家族は?」
唐突すぎる質問に虚をつかれた顔をしていたが、律儀に答えてくれた。
「母と弟がいます。同じく国内です。近くもないけど遠くもないです。会う必要がないので会ってないです。仲が悪いというわけではないので、そんな顔しなくて大丈夫ですよ。」
今見せた気遣うような慈愛の眼差しは神父の顔だろう。同じ眉を下げるでも、美味しいものを食べている時と何かが違う。
普段は冷淡だけれど、やはり神父という仕事に就くだけあるのだなと思わされた。
さっき仕事を褒めた時もキースではなく神父だった。もしくは一般市民。顔を見なくても声だけでわかる。
飲み終えたマグカップをテーブルに静かに置く。
「また来ますね。」
立ち上がった俺を見送ろうと立ち上がるキースを押し留める。
「見送りはいいですよ、じゃあまた。」
そう言って笑顔で手を振り、扉を閉めた。
睨み付けられるよりも、神父としてふわりと穏やかに接されたことがどこか座りが悪い。
そんなことよりも帰ったら首を確認しなければ。
もし痕が残ってたら許さない。昨日の客は厳重注意だ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「少しでしたが、間に合ってよかったですね。」
今日のノアはいつもよりも来る時間が早い。
たった2曲だったけれど、聞かせられてよかった。
それに会ったその瞬間から話さなくていいことが、とても気持ちを穏やかにしてくれた。
この後の会話に使うフレーズを選んでおくことができた。
「えぇ。今朝はナポリタンですよ。」
籠を開いてそこに見えたのは紙袋や紙パックで、中身は見えなかった。
「……家へ、どうぞ。」
ナポリタンはどうしてもお店のような味わいが出せないから滅多に自分では作らない。
けれど好物だから嬉しい。
文字数が多すぎて、声には出せなかった。
「……ホワイトシチューと、コーヒーなら出せますけど。」
このフレーズは、もう慣れたから大丈夫。
「どちらもいただきます。」
シチューを温め直しているところへ声を掛けられた。
「カトラリー出していいですか?」
「どうぞ。」
と言ってしまったが、どうして場所を知っているんだろう。
いつも取り出すところを見られていたのだろうか?コミュ力おばけは視野も広いんだな、と感心しながら食器棚を漁るノアを横目に見る。
シチューを持ちテーブルに着くと、ナポリタンと、ナポリタンを詰め込まれたコッペパン。これを作る作業をしていたのか。
これは、どうやって食べるのが正解だろう。
「いただきます。」
そうだ、ノアが食べるところを見てから食べればいいんだ。
見慣れない形態に焦った。
「……いただきます。」
ノアがシチューを食べているから、私もシチューから。
次はナポリタンか。
やっぱりお店のナポリタンは美味しい。テラテラと赤く輝くソース、もたつくようなトマトの甘さと酸味とコクが味わい深い。後から来るじわじわとした辛味。私が作るものに足りない調味料は何だろう。
ナポリタンを食べ終えたノアがパンに手を付けた。
もしかしなくても、そのまま手で持った端から齧り付いた。
そのままか、良かった、簡単で。
と、その時ノアと目が合ってしまった。
瞬きに失敗したのか、片目だけ痒かったのかもしれない。
ノアのように私はじろじろと見ませんよ、と心の内で話しかけナポリタン運搬作業へと戻る。
ノアはいつも通り先に食べ終えているけれど、今日はじろじろと見られない。
見られていないとすごく食べやすい。美味しさもよくわかるような気がする。満腹にならなければずっと食べ続けられるのに。
そして例のパン。
両手に持ち端に齧り付く。
これは。
ナポリタンなのにナポリタンじゃない。
新しい食べ物だ。
コッペパンの優しい甘さが、よりナポリタンを美味しく感じさせる。
初めて食べたけど、すごく美味しい。
ナポリタンパンに夢中になりすぎて、ノアの視線に気付かなかった。
いつから見られていたんだろう。恥ずかしさで死にたくなった途端に冷や汗が背中を流れ落ちた。
気にしない。見ない。
ナポリタンがパンから零れ落ちないように、食べることに集中したいのに。
やっとで食べ終え、その視線から逃れるために立ち上がろうとすると、ティッシュが1枚差し出された。
ナポリタンを食べた後の口は赤くテラリと光るのは世界の常識。そんなことも忘れている私に気付くなんて、やっぱり視野が広い。
そうだ、確認したい大切なことがあるんだった。
「……仕事は、何をしているんですか?」
こんな怖いこと、顔を見ながら聞くことはできない。
「……肉体労働です。それで仕事終わりに立ち寄ってます。」
つまり夜間の肉体労働。それには堅気じゃない仕事も含まれそうだが、そのままの意味で受け取っておいた方が身の為だ。私は何も知りません。
「夜間の肉体労働ですか。それは大変ですね。いつもご苦労様です。」
一般的な夜間の肉体労働を思い浮かべた。
土木工事関係などなど。
それらは街で暮らす人々の日常を支える大切な仕事。
「そんなことないですよ。」
謙遜しているようだ。
誇っていいことだと思いますよ、これは思っていたとしても陰キャが陽キャに掛けていい言葉ではない。
すごく上から目線だから、下手したら殺される。売り飛ばされる。
コーヒーを持ってテーブルへ戻る。
何も話していない時に穏やかさを感じながらコーヒーを啜る。
今日は水場側の窓が見える席に座っていたことに、先に反対側の席に着いてくれたノアに感謝した。
窓のところに小鳥が来て餌を食べている。
それも二羽。
喧嘩せず仲良く餌を突いている。
可愛いなぁ。
「これ、カップケーキです。後で食べてください。」
籠から取り出した紙袋を渡された。
そうだ、ドーナツの御礼も言わないと。
今日はカップケーキか。
「……ありがとうございます。前回のドーナツもご馳走様でした。今日の支払いは、いくらですか?」
カップケーキはどんな味だろうか。
「……キースの家族のことを教えてください。」
また、お金での支払いではないらしい。
もしかして、金額を聞かずに大体のお金を渡すのが一般的なマナーなのだろうか。
そうなのだとしたら、随分失礼なことをしてしまっている。
どうしよう。
「……父と母、弟と妹がいます。国内ですが、遠いので会うことはありません。……あなたは?」
つい癖で聞き返してしまった。
「ノア」
「…….ノアのご家族は?」
あなたと言われることは嫌いらしい。
けれど他人の名前を呼び捨てることに慣れていない。
呼び捨てるのは弟と妹くらい。キースと呼ぶのは親くらいしかいない。
「母と弟がいます。同じく国内です。近くもないけど遠くもないです。会う必要がないので会ってないです。仲が悪いというわけではないので、そんな顔しなくて大丈夫ですよ。」
会う必要がないと聞いて一瞬、不仲なのかと思ってしまった。
その表情を読まれるとは思わなかったけれど。
マグカップをテーブルに置き、ノアは立ち上がった。
「また来ますね。」
立ち上がろうとしたけれど、出された片手の静止の意味を汲み取り、座る。
「見送りはいいですよ、じゃあまた。」
そう言ってにこっと笑顔で手を振り、ノアは出て行った。
家族と不仲ではないとノアは言ったが、あまり家族の話はしたくなかったのかもしれない。
どこか笑顔に無理が見えた。笑っているから傷付いていないわけじゃない。
私みたいな陰キャコミュ障に傷つけられていないといいけれど。
もし傷付けていたら。
恐怖のあまり命の危険を感じ、お土産のカップケーキの存在を忘れてしまった。
思い出したのはあわあわしながら食器を洗い終えた後。涙を堪え、生い先短いと思しき自身を儚みテーブルへ戻った時。
なんで小さいフォークが出ていたんだろうと、気になったことがきっかけで、紙袋に手を伸ばした。
中にはフォークで四等分にしたらひとくちサイズになりそうなカップケーキが3つ。
上に乗っている果物がどれも違う。
固いクリームの上に載っているのはキウイ、ブルーベリー、レモン。
焼き菓子も命が短かったはず。
それらを載せるための小皿を取り急ぎ戻る。
生地はどれも同じでバターの甘しょっぱい優しい味。
その中にそれぞれのジャムも入っていた。
クリームもどれも同じミルク味。
中毒性の強さで棒ドーナツには負けてしまうけど、すごく美味しかった。
こんなに可愛いカップケーキは初めて見たけれど、街のどこに売っているんだろうか。
おしゃれで綺麗で高価そうなお店には怖くて入れないから、見たことが無いということは、そういうところなんだろうか。
少しだけ寂しくなったが、気を取り直す。
今日は棒ドーナツ購入作戦、実践編だったのだけれど。
もう今日はこんなに甘くて美味しいものを食べてしまったから。
今日棒ドーナツを食べられなくなったことは残念だけれど、心労が減ったことにありがたく感謝する。
明日か、明後日か。
うん、明後日頑張ることにしよう。
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お読みくださりありがとうございます。