第1回 朝食会。どうぞ、また、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
この3日、タオルが足りていればいいけれど。
あれから雨の日は無く、晴れていたから大丈夫間に合ったと思いたい。
神父の眼差しは冷たかったし、暴力を振るわれたとわかる痕には明らかに引いていた。
関わり合いになりたくないだろうに、それでも人助けを優先してくれた。
この謝罪と感謝は、焼き立てのパンと果物で足りるだろうか。
日保ちしそうなカンパーニュの他に、つい買ってしまった美味しそうなサンドイッチをふたり分。それと葡萄をふた房。
それらを携え向かった深緑へと向かいつつある森の中。針葉樹と広葉樹が混在する森は大小様々で高さも枝張りの範囲もばらばらだ。統一感のない木々に遮られながら細く差し込むきらきらと優しく光る朝陽を浴びながら歩く。
大きな扉のある正面を回り込み、水場のあった家らしき建物の方へと向かう。
その扉をノックし、声を掛ける。
「先日お世話になった者です。シャツを返しに来ました。」
少し待つと、徐に扉が開いた。
「……わざわざすみません。」
細く開いた隙間からこちらを覗き、俺がどんなお世話になったのかを思い出したのか、眼差しには一瞬で警戒心が満ち、温度が下がってゆく。
「……朝飯食べましたか?まだなら、これどうぞ。」
その狭い隙間からでは渡せない。
受け取って欲しくて、手前に籠を掲げる。
「……わざわざすいません。」
開いた扉から見えた全身は、やはり黒ずくめ。けれど睨むばかりで受け取ってくれない。
「これは街の朝市で買ってきたものです。手作りとかじゃないので安心してください。」
「……わざわざ、すいません。」
恐る恐ると籠へ手を伸ばす神父。
怪しげな男と話したり、知らない人から飲食物を受け取らないのは正しい。
けれど一応面識はありますし、あなたに感謝している人間ですよと心の内で付け加えつつ、籠を受け取ってくれるまで根気よく待つ。
「……その、大丈夫ですか?」
やっとで受け取った籠を見つめる神父は、躊躇いながらも言葉を掛けてくれた。
「はい。もう痛みも引きました。」
ちらと向けられた眼差しは変わりなく冷たいが、どうやら身体のことを心配してくれていたらしい。
「……これ、食べますか?」
ついつい買ってしまった大量のサンドイッチがひとり分ではないことに気づいたのかもしれない。
眉を寄せむすっとした顔で誘っているところを見ると、御礼を貰うことは迷惑だったのかもしれない。
「そうですね、食べて行きます。」
そんな神父の気持ちに気付いてしまっても、気にしない。
そのサンドイッチすごく美味しそうなんだよ。一緒にと誘われなかったらもう一度買って帰るつもりだった。
招き入れられた建物は、やはり家だった。
外から見たまんまの木造で、木の落ち着く匂いとトマトの美味しそうな甘酸っぱい匂いが広がっている。
扉を入り、正面奥に見えるのはキッチン。扉から真っ直ぐ伸びる通路。キッチンは2列型で奥からコンロ、作業台、シンク、冷蔵庫が壁側に並んでいる。
シンクのところには小さな窓がある。
その手前にカウンター、ダイニングテーブル。
カウンターにはコーヒー豆を挽くミルとドリッパー、ポットが置かれている。
それと扉を入ってすぐ左手には3人掛けのソファと窓。その奥には扉が一枚。
ひとりには余裕のある広さだ。
「ミネストローネと、コーヒーなら出せますけど……」
ダイニングテーブルへ籠からサンドイッチを取り出す神父に訊ねられる。
「どちらもいただきます。」
遠慮せず伝え、テーブルに着く。
外の水場側を見るように座ると、窓から朝陽が差し込んでいる。
キッチンへ行った神父は、スープをよそった白いスープマグと、サンドイッチ用の白い取り皿、シルバーのスプーンとフォークを持ってテーブルに戻る。
「……どうぞ。」
「いただきます。」
「……サンドイッチ、ありがとうございます。いただきます。」
神父はサンドイッチを買ってきたことへの礼を言ってから手を伸ばした。
種類のわからないナッツらしいものの欠片が練り込まれたパンは焼き立てらしくふかふかで、たまに当たるナッツのかしゅかしゅとした食感が楽しい。
鶏肉と茹で卵に甘酸っぱいソースがとろりと絡んだもの。
ピリリとした辛さを隠したたまごサラダがむっちりと挟まったもの。
コクのあるチーズとハムと挟まれたもの。
ソースに浸された豚カツと千切りキャベツを挟んだもの。
それにトマト味のミネストローネが合う。
美味い美味いと食べる手が止まらない。
神父は何も言わずに食べているけれど、口に合っただろうか、確かめようと顔を上げる。
両手で持ったサンドイッチに小さく齧り付く姿は、小動物のよう。
先程見せた冷え冷えとしていた瞳は、見開かれキラキラと輝いていた。
俺のことは気に入らないらしいが、御礼は気に入ったらしい。
まぁいいか、と黙々と食べ進めた。
先に食べ終えてしまうと、家の中はすでに観察済みで他に見るものもないのでと、頬杖をつき食事中の神父を観察することにした。
キラキラの瞳はもうどこにも残っておらず、ソファの足元を虚な瞳で睨み付けながら食べている。あれは幻覚だったのだろうか。
「朝、早いんですね。」
視線を神父から窓の外の景色へと移し、なかなか返って来ない返事を気長に待つ。
「……もう少し早く来られると、ピアノが聴けますよ。」
口の中のものを飲み下してから発せられた言葉に、顔を向ける。
「……ピアノ?」
「毎朝弾きに来る人がいるんです。今度よかったらどうぞ。」
テーブルの隅へ話しかけると、まだ食べ終えていないサンドイッチへと戻る。
「じゃあ、もう少し早く来てみます。」
咀嚼しながら頷く神父はテーブルの隅を虚な目で見つめている。
また、来てもいいのか。祈りを捧げるわけでもないのに。
やっとで食べ終えた神父は、コーヒーを淹れ、買ってきた葡萄も出してくれた。
コーヒーを啜りながら当たり障りのない会話を心掛ける。
「……コーヒー派ですか?」
「……コーヒー派です。……あなたは?」
「俺もコーヒーが好きです。」
それに神父が頷く。
「……葡萄、好きですか?」
「……普通です。……あなたは?」
「俺も普通です。」
神父が頷く。
「ミネストローネ、美味かったです。」
頷く。
マグカップの内側から目を離さない神父はずっと無表情で、やはり目は合わない。
会話の弾まない気まずい雰囲気のようでいて、会話が無くても困らない心持ちで静かな時間を過ごし、お暇する。
普段は賑やかな連中と居ることが多いから、こういう雰囲気は新鮮だ。
「……サンドイッチ、美味しかったです。ご馳走様でした。」
扉を開け外へ出る、その背中に静かに澄んだ声が掛けられた。
少しだけ力の籠った声音から、不機嫌な顔だろうかと予測する。
そう思い振り返った先には、眉根を寄せ睨み付けるその籠を差し出す神父がいた。
「こちらこそ、ご馳走様でした。では、また。」
軽く頭を下げ、背を向ける。
しばらく歩いたところで静かに扉の閉まる音が聞こえてきた。
俺よりも高い声質は優しそうなのだけれど、顔は不機嫌と警戒心が丸出しで。拒絶されているかと思ったけれど、また来てもいいらしい。
せっかくだから次も朝飯を持参しようか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
やっとで帰った。
よく生き残った、私。
ソファに身体を倒し、自分を褒め称える。
あんな陽キャと会話をするだけに留まらず、家に入れて一緒にご飯も食べたのだから奇跡とも言える。
返しに来た時のために準備していた言葉は。
わざわざすいません。
これだけ。
わざわざ会話を広げたら、やっぱり出会い厨だと気持ち悪がられるだろうと、敢えて会話をしない設定にしていたことが思考を停止させた。
まさか御礼にサンドイッチやら何やらたくさん買ってくるだなんて思ってもいなかった。
それにびっくりして声が出せなかった。
これがコミュ力おばけというやつか。
籠を受け取る時には指先が触れないよう、どの角度で受け取ればいいか悩んだ結果、籠の底を手に乗せるという天才的な答えに辿り着いた。
重たい籠の中を見れば明らかにふたり分以上あるサンドイッチ。
ここで、一緒に食べませんか?と誘わなければただの陰キャから、大喰らいの陰キャに情報更新される。
だから勇気を振り絞った。
一回でも辞退されたらそこでこちらも退けばいい。それでさよならだ。
そう思ったのに、陽キャは知らない人とふたりで食べることになんの躊躇いも抵抗もないらしく、にかっと歯を見せて笑い、朝ご飯にうきうきの様子だった。
狭い家の中には昨晩作ったミネストローネの香りが充満している。
大喰らいを回避した先に、ケチな陰キャという落とし穴もあったなんて。
「ミネストローネと、コーヒーなら出せますけど。」
選択肢をふたつ。
「どちらもいただきます。」
三つ目の選択肢がありましたか。これこそ落とし穴。陽キャ怖い。またしてもにかっと笑うその顔には微塵も謙虚さは無い。
でも貰ったサンドイッチが美味しかった。その緩んだ心がいけなかった。
「もう少し早く来られると、ピアノが聴けますよ。」
まるでまた来いと言っているようじゃないか。
これじゃあ掴んだチャンスに縋り付く無様な出会い厨だと思われても仕方ない。
「毎朝弾きに来る人がいるんです。今度よかったらどうぞ。」
ピアノの生演奏が聴ける良い機会ですから、独り占めせず寛大な心で他者とこの幸運を分け合おう、そういう意味ですよ。と心で強く訴えた。怖くて声には出せなかったけれど。
「……じゃあ、もう少し早く来てみます。」
一拍の間。
絶対、気持ち悪いと思われた。
これで彼が二度とここを訪れることはないでしょう。まさか、気持ち悪い陰キャという印象で終わるなんて落とし穴じゃなくて大崩落だ。
相手が信徒ではないから神父としてではなく、ただの自分として接しよう。
それが間違いだった。
慣れない道のりに張り巡らされた罠と障害物が次から次へと行く手を阻む。それらを回避するだけで全神経全集中力を使い果たし、会話をする余裕もない。
こんなことなら神父モードで居ればよかった。それならばもう少し柔らかい態度で当たり障りなく接することはできた。
挙動不審でぎこちない態度では、やはりどうやっても気持ち悪いと思われてしまう。
きっと彼も気まずかっただろう。
「……コーヒー派ですか?」
紅茶かコーヒーか、ということだろう。どちらが童貞っぽくないか。それで飲み始めたブラックコーヒー。
「……コーヒー派です。……あなたは?」
会話のテクニック。あなたは?と聞き返す。
話している事柄は相手自身が興味を持っている場合が多いため、あなたは?と聞き返すと、そこから話が膨らむ。
そう聞いたことがあります。
「俺もコーヒーが好きです。」
お、終わりました。
膨らむと思っていたのに唐突に終わったことに驚き、怖すぎて震えたのが、頷きだと捉えてくれていますように。
「……葡萄、好きですか?」
隠語があるとされるさくらんぼには少しだけ抵抗がありますが、果物自体嫌いではない。それでも果物が好きだと答えるのも子供っぽいと思われそうな気がするし、好きな果物を全部挙げるのも違う。答えがわからない。
「……普通です。……あなたは?」
今度こそ膨らんで。
「俺も、普通です。」
やっぱり終わりました。膨らみません。
辛い。
この空気、どうしよう。
「ミネストローネ、美味かったです。」
……美味しかったですか。そうですか。陽キャの口にも合ってよかったです。
安心からほんの少しだけ気持ちが温かくなりました。
私も気持ち悪がらせるばかりではなく、御礼を伝えなくては。
そうは思ってもこちらに視線を向けられると、言葉が出てきません。
そして立ち上がった彼を玄関先まで送る、その背中にならば。
「サンドイッチ、美味しかったです。ご馳走様でした。」
振り返るであろう彼に籠を差し出す。
「こちらこそ、ご馳走様でした。では、また。」
最後ににかっと笑い、軽く会釈をしてから背を向け歩き去る。
その背中に思う。
それで?
扉はいつ閉めればいいの?
こんなこともわからない自分に悔しくなり下唇を噛む。
郵便屋さんならすぐに閉めても印象が悪くならないという不思議を発見している場合ではない。
まず、すぐ閉めるのは印象が良く無いのはわかる。
ならば見えなくなるまで見送る。
それはだめ。気持ち悪いから絶対だめ。
つまり気付かれないように静かに閉めても同じことだ。あいつまだ見送ってるーと思われる。
となれば、静かに扉が閉まる音を聞かせる必要がある。
それがどの距離なのかわからない。礼拝堂の真ん中?いや3分の1?
……もういい、あの、あの窓を通り過ぎる時にしよう。
勢い良く扉を閉めるのは品がないから、静かに。その静かな音が聞こえる距離と力加減。
よし、今!
かちゃ。
思っていたよりも音が出なかったけれど、聞こえただろうか。
彼は気持ち悪いと思っていないだろうか。これ以上気持ち悪いの上塗りは避けたい。
そっと窓から後ろ姿を確認するも、立ち止まったり振り向いたり、腕を摩ったり頭を掻いたりすることもなくただ歩いている。その背中が礼拝堂の陰に入り見えなくなるまで見守った。
ほっと息を吐き、一気に解けた緊張と押し寄せる疲労感と共にソファに雪崩れ込む。
また。
そうか、ピアノを聞きにくるのか。
また会う機会があるらしい。
今度はどんな言葉を準備しておけばいいのだろう。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
お読みくださりありがとうございます。