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メロディは手のひらに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
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第1回 合力。捕まえて、帰ろう、



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



彼だ。


がばり、と勢いよくソファから身を起こす。


聞こえてくるピアノの音色と、すぐ横の窓からベンチに座るキースを確認する。


繊細で清廉なメロディが胸を掻きむしる。


口を利けないほど冷え切っていた体温が、一気に沸点を超える。ざわざわ、ざわざわと揺れながら落ちては上がるを繰り返す体温に鼓動が早くなる。


タオルケットを蹴飛ばし、踵を踏んで靴に足を捻じ込む。


扉を叩きつけるように勢いよく開け、ベンチを目指すたった数メートルが遠く、脚が縺れそうになる。


そんな穏やかな顔をしないでくれ。


やっとで辿り着いたベンチ。キースがその場から動けないように、立ち上がることができないように、正面に立ち塞がる。


耳の奥ではどくんどくんと熱が鼓動する。


頭の芯は氷結してぎりぎりと軋む音が聞こえるのに、胸と顔に集まった熱は逃げ場がなく膨張してゆく。


何かをしよう、何かを言おうと思っていたわけではない。でも。そうだ。


ベンチに片膝を突き、背凭れを掴む右手で自身の体重を支える。


今ここで、抱こうか。


そうだ。これからはその既成事実で縛り付ければいい。


事実が成り立つその瞬間を、彼が目撃すれば尚良い。


大きな物音でも立てようか、叫び声でも聞かせてやろうか。


俺のものだと見せつけるように、俺から逃げられないとわからせるように。


そうだ。抱けばいい。


俺を好きになってくれるまで待つつもりだった。でも。もう。


結局こうなるのならもっと早く抱いておけばよかった。


きっと柔らかなベッドの上で、優しくしてやれた。


でも。もう。いいか。気持ちなんて。


キースは、ビッチだ。


耳下に手を差し入れ、首と顎を固定することで頭部の自由を奪う。親指でなぞる頬は、これからどんな色に染まるだろう。羞恥、悦び、恐怖、悲しみ。その全部だといい。


「……ノ、ア?」


早速警戒されている。


「俺のことすきですか?」


「はい。」


どうして。怯える相手に好意を持てるはずもないのに。でもこれで、これから起こる全てが合意の上だ。


「俺はキースがすきです。」


これが最後。


「私も、ノアのことが好きです。」


全然違う。欲しいのは、その好きじゃない。


この唇は嘘ばかり吐く。


この悪い唇をどうやって歪ませようか、親指の腹で撫ぜる。


「じゃあ友達から先に進んでもいいですか?」


合意のダメ押し。


「はい、お願いします……」


ゆっくりと顔を近づけ、おでこ、右頬、左頬に優しい口付けを落とす。これが最後。


もう、優しくしてやれない。


おでことおでこをくっつける。


至近距離で見つめ合っても、キースに俺は何ひとつも見えていない。


清い振りをしたこのビッチを、やっとで噛み砕ける。丁寧に食い散らしてやる。


今から自分がどんな目に遭うのかわかっていない。その初心を装った笑顔をやめてくれ。


「私たち、今日から親友ですね。」



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



ぼんやりと宙を漂う視界に、礼拝堂に人が立ち入ったことを知らせるランプが点る。


重い腰を上げ執務室を出るために机の上を片付けていると、聞こえてきた話し声は複数人。


もしかして。


そのまま執務室で様子を伺い待つと、やはりピアノの音色が建物を震わせる。


ノアはまだ家にいるだろうか。もう立ち去っただろうか。執務室に居れば。でももしまだノアが居るなら。外で待てば。立ち去るのを引き留められるだろうか。でもどんな言葉で。


家の方を見ないよう足元だけ見つめ、ベンチに腰掛ける。まだ居るのなら。


引き留めるための言葉をピアノの音色のなかに探す。


ばんっ。


その音に驚き顔を上げる。


目を合わせることも言葉を交わすこともしなかったノアが、今はまっすぐ私を見て駆け寄って来る。


息を切らし覆い被さるようにして正面に立つノアの顔は、まもなく真上に差し掛かりそうなさんさんと輝く太陽の強い日差しを背負い翳って見えないのに、鈍く光るふたつの瞳が見えた気がした。


さらに一歩踏み出したノアの脚に膝がぶつかりそうになるもそれを器用に避け、ベンチに片膝をつく。


片手を背もたれに着きながら、もう片方で背中を支えられていては仰け反ることもできない。


がぶりと覆い被さっているノアの顔は頭一個分ほどの距離にある。翳りは薄れ、見えたノアの瞳は仄暗く鋭利で、無表情。


耳下に添えられた手は優しく触れるのに、なぞられた頬はなぜか粟立ち、ぞくりと寒気が背中を駆け上がる。


「……ノ、ア?」


「俺のことすきですか?」


「はい。」


「俺はキースがすきです。」


「私も、ノアのことが好きです。」


表情のないまま、頬を撫でていた指先と視線に唇を嬲られる。


「じゃあ友達から先に進んでもいいですか?」


「はい、お願いします……」


ゆっくりと顔を近づけたノアは、おでこ、右頬、左頬にしっとりと口付けを落とし、おでことおでこをくっつける。


文字通り目の前にあるノアの目を覗き込む。


霧雨を降らせていた仄暗い瞳から霧は立ち消え、じりりと肌を焦がす真っ赤な太陽のように温度を上げていた。そして。


拒絶は切望に、諦めは懇願に、悲しみは怯えへと取って代わっている。


それでもいつも通りの優しいキスと、心を溶かすほどの熱を持った瞳に安堵し、切望を私からもお返しする。


「私たち、今日から親友ですね。」


嫌われたかもしれない、失うかもしれない。嫌われたくない、失いたくない。


執務室では仕事もせず、そんなことばかり考えていた。けれど拒絶されるのが怖くて外に出られなかった。ピアノの音色に背中を押されなければ外には出られなかった。


そんな情けない私に親友ができるなんて。


ノアに出会ってからは、奇跡ばかりがたくさん起こっている。


嫌われていないと分かり、恐怖に縮み上がり干上がった心はほろりと崩れ、膝から崩れるような安心感から溜め息が漏れる。


「ふふっ、うれしい。」


鼻がツンとするけれど、今朝とは違って痛みは感じない。涙が込み上げていることを誤魔化すために目を細める。太陽が眩しくて。


こんなことで喜ぶ私に呆れたのかノアは、顔をくしゃりと力無く顰め、がくりとおでこを肩へと落とす。


「………はい。今日から親友です。」


耳下に添えられた手の、肘のシャツを掴む。


「……なんですか、これ?」


「ノアが居なくならないように、捕まえておきます。」


「……うん。……お願いします。」


「やっぱり帰ろうとしてました?」


「………連れて帰ろうと思ってました。」


「お腹空いたんですね?お昼ご飯食べに帰りますか?」


「うん、でももう少し。」


「膝痛くないですか?」


「うん、痛い。」


「ふふっ、隣に座ったらいいですよ。」


「それだと…‥キース、立って。」


身体を離したことで見えたその顔は、まだぎくしゃくと強張っている。


勢い良く引っ張り上げられ、そのままぎゅうと全身を密着させるように、強く締め付けてくるノアの腕は、少し震えている。


ノアの背中から心臓を抑えるように、優しく手を当てる。


「……ノア、怖いの?」


私はノアを失うことを恐れていたけれど、ノアは何に怯えているのだろう。


「うん、すき。キースが居れば怖くない。すき。だいすき。」


「好きの用法と容量は正しいですか?」


「正しくない。全然足りない。」


「よしよし。」


「キース、どこにも行かないで。」


「私の家と職場は一生ここですよ。」


「じゃあ俺も。」


「本当に?親友がいつも近くに居てくれるのは嬉しくて、心強いですね。」


「一番側にいるから頼りにして。」


「いいんですか?困ったら助けてくれますか?」


「困ってなくても助けます。」


「それは頼り甲斐がないとも言えますね。」


「キース、だいすき。」


「私も、ノアのこと大好きですよ。」


「キース、ごめん。」


「……何か悪いことしたんですか?」


「……し、てない。」


「それなら謝らなくていいんですよ。……冷蔵庫の非常用チョコレート全部食べたとかじゃないですよね?」


「うん、食べてない。」


「それならいいです。驚かせないでくださいよ、もう。」


「驚くなら、恥ずかしいのと悲しいのと怖いの、どれがいいですか?」


「嬉しくて幸せで胸がいっぱいで驚きたいですね。」


「選択肢に入れてないの出さないで。」


「でも、譲れません。」


「そっか、譲れないのか。」


「そうですよ。」


「じゃあ、しょうがないか。」


「えぇ、しょうがないです。」


「今日も、一緒に寝ていいですか?」


「いいですよ。」


「……これから先も、ずっと一緒に寝ていいですか?」


「いいですよ。」


「即答でいいの?」


「なんでだめなんですか?」


「ん、だめじゃない。即答ひゃっほー!」


「ノア、どこかぶつけましたか?」


「豆腐の角に少しだけ。」


「ねぇノア、……親友は、返品不可なんですけど、いいですか?」


本当にこれからもずっと仲良くしてくれる?今朝みたいな被害妄想で泣かなくていい?


「もちろんです。もっと商品卸して欲しいくらいですよ。発注掛けていいですか?」


「現品限りです。」


「替えの効かない商品ですね?現品に限り生涯大切にします。」


「私も大切にします。これからも仲良くしてくださいね。」


「任せてください。得意です。」


「本当に?」


「本当に。」


「今朝みたいなのは、もう、これっきりにしてください。私の心臓が保ちません。」


「え……と、はい。」


「話、聞きますか?」


「うん、ちょっと考えるので、時間ください。」


「わかりました。」


「お昼ご飯何食べますか?」


「納豆ご飯です。」


「まだ残ってましたか。」


「いいえ、昨日買いました。」


「え、なんで?」


「ノアと連絡が付かなくて、つい癖で。」


「え、電話くれたんですか?」


「しましたよ。時間をずらしたりもしたんですけど、タイミングが合わなかったんですね。」


「そうだったんですね……気付きたかったな。」


「でも今日来てくれたので安心しました。」


「心配してくれたんですか?」


「当たり前です。」


「そっか……気付きたかったな。」


「わさびにしますか?芥子にしますか?それとも蕗の薹味噌?」


「そのリズムは、別の選択肢で使って欲しいですけど、蕗の薹味噌ってなんですか。」


「蕗の薹を味噌で炒めたやつです。おにぎりを買ってきてくれたときに、あったでしょ?あれです。」


「納豆と合うんですか?」


「蕗の薹味噌が美味しく感じる人なら、合うと思えるはずです。」


「じゃあそれにします。」


「じゃあ帰りましょう。」


「はい、すきです。」


「もはや口癖ですね。」


「すぐそこまでだけど手、繋いで欲しいです。」


「いいですよ。」


すぐそこまでだと言いながら、ご飯の準備中も離して貰えなかった。


けれど、一度失ったと思った距離感を、慣れ親しんだ温もりを、捕まえておきたかったから。


離して貰えなくてよかった。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



お読みくださりありがとうございます。

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