第1回 反力。燻る。ばか。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
籠の持ち手が手のひらに食い込む。
辺りは白く霧が立ち込めているけれど、初めて訪れた時のような夜明けを喜ぶきらきらとした朝陽に照らされてはおらず薄暗い。
湿り気を含んだ土が靴裏に張り付き一歩が重い。
朝露を乗せた枝葉が肩に当たるのも煩わしい。
あれから2回夜が明け、約束をしていた日を迎えてしまった。
鳴らない呼び出し音に安心しながらも、視界に入るたび目を逸らす。どうしてこんな目に付く場所に電話があるんだ。
話を遮り通話を終わらせた直後の、壁を拳で殴り付けたくなるほどの怒りは次の日には無くなっていた。
けれど燻る燃え殻からは、今も黒い煙が細く何本も立ち上がっている。
何を話そうか考えてから電話を掛けたことはない。声が聞きたい。それだけを理由に受話器を持ち上げていた。そして声を聞けば、思いつくままに言葉が溢れ出てきた。
それなのに、おはようの後に続く言葉が見つからない、ダイヤル盤が回らない、仕事でへとへとでソファから立ち上がれない。
だから電話を掛けられなかった。
あの話の続きを聞かずに済むよう理由を探した。
まだ収める場所を見つけられない燃え滓。
こんな状態で会いに行くべきではない。会っても笑って話せる自信がない。
もやもやと晴れない心地で出勤し、リュックを下ろそうとした手には買い物籠が、リュックの中には着替えが詰め込まれていた。
自分で自分がわからず、溜息が止まらない。
それならばと、市場で持参する朝ご飯を決められなかったら会いに行かないと心に決め、会いに行けない理由を他にも探した。
それなのに、この前電話で麻婆豆腐と海老チリを食べたそうにしていたな、と掃除の手を止めることもなく思い出し、溜息を吐くために手を止める始末。
結局、気が付くと店の前で立ち尽くしていて、自分の行動にはっとした勢いで中辛と辛口をひとつずつ注文していた。
会いたい気持ちと会いたくない気持ちが、どうにかしたいと焦る気持ちとどうでもいいと投げ出したい気持ちが、腹の中で反発しては膨張して食欲を奪ってゆく。
力の入らない腕と肩に籠の重さが一歩踏み出すごとにのし掛かる。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
こんこん。
……誰だろう。
返事はせずに窓からちらと玄関先を覗くと、そこに居たのはノアだった。
すぐに扉を開けに行く。
「ノア、おはようございます。」
どうしたんだろう。様子がおかしい。
「………おはようございます。」
時間差で帰ってきた挨拶は、力無く低音で、伏せられた瞳には生気も無い。
「ノア、どうぞ。」
その言葉でやっと家へと踏み入った一歩は重々しい。
「今日は、ニラと卵のスープです。」
普段と違いすぎる態度に、掛ける言葉を探せば探すほど、安易に踏み入ってはいけないような疎外感を感じさせられた。
「麻婆豆腐と海老チリです。」
この前電話で話したことを覚えていてくれたのだ。けれどそれと同時に疎外感の理由が見つかった。
「ありがとうございます。」
目が合わない。
伏せた目は足元を見るばかり。
テーブルに籠を置き、ソファにリュックを下ろす背中を見守ってからキッチンへ向かう。
体調が悪いのだろうか。それとも。
昨日と一昨日、電話に出なかったのは何かあったからなのだろうか。
忙しかったですか?と聞こうと思っていたけれど、そんな話を切り出せる雰囲気ではない。
スープマグを持ちリビングを振り返った先に見えないものに、歯を食いしばる。
こちらを見ているだろうと思い込んでいた。いつもそうだから。
ノアは頬杖を付き窓の外を見ている。
こちらに向けられた背中は気怠げに丸まり、そこから薄らと煙るのは拒絶、だろうか。
その背中に手を当てることも、どうしたのと声を掛けることも許さないのは隔絶、だろうか。
どうすることもできない何かが起きたのだろうか。それを口に出すこともままならない程に消耗しているだけ?
それとも、私と友だちになったことを後悔している?それとも逆?友だちだから?わからない。
もし嫌われたのならここには来ないはず。けれど荷物を取りに来ただけというのなら話は別。
被害妄想かもしれない。そう思いたくても否定的な感情に敏感な心が、すでに荷物を纏めて早く逃げようと腕を引いている。
でも被害妄想かもしれない。話せないことがあるだけかもしれない。疲れ切って言葉を出せないだけかもしれない。
テーブルに並んだ丼とスープ。向かい合わせで囲む食卓。
いただきますの言葉も口先で微かに空気を震わせただけ。
こちらを見ない目を、認めることが怖くて顔もあげられず、ご飯がうまく飲み込めない。
どうしたらいい?
会話があるわけもなく、ただひたすらに響くのはカトラリーと食器の擦れる音と、スープを啜る音。
どうにもできない。
言葉を出せない代わりに、両手を合わせ頭を下げた。ご馳走様でした。
いつも先に食べ終えるノアのご飯がまだ残っているのを、ちらりと確認した。
このままリビングに残ることも、仕事に出ることも、どちらも不正解だと耳元で教えてくれた誰かは正解を教えてくれなかった。
いつも通りを装うためにゆっくりと時間をかけてコーヒー豆を挽き、お湯をゆっくり回し掛ける。
ポッケに手を差し入れ、手のひらで転がすどんぐりに安らぎを探す。
窓の外に鳥を探す。
友だちを失わずに済む未来を探す。
テーブルへ近寄り、食べ終えた食器とコーヒーの入ったマグカップを入れ替える。
食器を流しに置き、そのままカウンターに凭れ、沈黙を貫く背中を伺い見ながらコーヒーを啜る。
どうしたらいい?
分量を間違えたのか、味の薄いコーヒーを置き、食器を洗う。
一回だけなら勇気を出せる?
どうだろう、わからない。
食器を洗う時間だけでは答えが出せなかった。
コーヒーの残っているマグカップを持ち、カウンターを支えに仰け反った背中を前に押し倒すその反動を利用し、立ち止まることができないよう勢いよく一歩を踏み出す。
纏めた荷物をなけなしの勇気と入れ替え、今一度ノアの前へと舞い戻る。
窓の外を眺める視線を遮るように立ち、屈む。
「話、聞きますか?」
一瞬だけ見開かれた大きな瞳は、次の瞬間には右下へと伏せられた。
それからゆっくりと頭を振った。
「わかりました。」
ツンとする鼻と目頭に、歯を食いしばり家を出る。
ぱしゃぱしゃとマグカップの中のコーヒーが大きく揺れ手のひらにかかることも厭わず、足早に執務室へ向かう。
ばたんと強く閉じた扉の音が響く執務室は、ただただ静かで、窓の外に広がる霧立っていた森が明るく晴れ上がっていく様子は目に眩しくて、堪えていた涙と吐息が溢れた。
役立たずでもあるらしい。
拒絶だけではなく、諦めと悲しみ。
一瞬だけ捕まえることができた目線の先で覗き見た瞳には、静かにさぁさぁと細かい雨が降っていた。
それを私にはどうすることもできない、助けも不要だと告げられた。
すぐに逸らされた目線に、頭を擡げる気力がなかったのではなく、目を合わせないようにしていたのだと気付いてしまった。
嫌うことは自由だ。けれど無力な自分が悔しい。
昼、家に帰ったら、ノアは痕跡も残さず消えているのかもしれない。
はじめてできた友だちを理由もわからずに失うのだろうか。何がいけなかったのかわからない。
汚れた手を洗いに執務室を出る勇気もない私だから、何の役にも立たないことは当たり前なのかもしれない。
手と目元をティッシュで拭う。
ノアのばか。
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お読みくださりありがとうございます。
次話でやっとあらすじ冒頭シーンが出てきます。
是非お読みください。




