第2回 ただいま、いってきます。ふたりきり、ふたりでなら、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おはようございます。」
「開いてますよー。」
そんな言葉を、暢気な声が発する。
「不用心だって言ったじゃないですか。」
「ノア、おはようございます。」
「キース、おはようのハグしてもいいですか?」
「どうぞ。」
「俺じゃなかったらどうするんですか。」
「大丈夫ですよ。」
俺がこの家に当たり前のように立ち入ることを受け入れていることは嬉しいけれど、やっぱり。
リュックを下ろす一手間さえ惜しんでキースへ駆け寄り、後ろから抱きしめる。
首筋に鼻先を埋め、その匂いを胸に充満させる。
「次の休みに、また一緒に出掛けませんか?」
「いつですか?」
「あと3回出れば休みなので、しあさっての朝からここに来て、この前と同じようなスケジュールでどうですか?」
「わかりました、いいですよ。」
「行きたいところとか、したいことはありますか?」
「……図書館、行きたいです。」
「うん、いいですね、図書館。ねぇ、このスープ見たことないやつです。美味しそう。」
鼻先をくすぐるのはキースの匂いだけじゃなかった。
「ワンタンスープです。」
「その白い細長いやつは?」
「細く切ってあるのはネギと白菜、あともやし。」
「その黒いのは?」
「細く切ったキクラゲ…きのこですよ。」
「なんか、どろどろ?」
「昨日の夜から今朝に掛けて気温が下がりそうだったので、生姜をたくさん入れて、あととろみも付けて、身体が温まるスープにしました。寒くなかったですか?」
「言われてみれば、森の中涼しかったかも。陽が差してたから寒いとは思わなかったですね。」
「そうでしたか。ここは街より気温が低いので風邪引かないように気を付けてくださいね。」
「キースは?寒くないですか?」
「今はノアがくっ付いてるから、温かいですよ。」
「寒い季節が早く来るといいなぁ。」
「まだ暑い季節の盛りもまだなのに、気が早いですね。」
「そりゃあ逸りますよ。俺が湯たんぽとして大活躍する季節が楽しみです。」
「確かに、活躍しそうな気がします。」
「キースのセーター、ていう仕事があればすぐ転職するのに。」
「募集してませんよ。今日は納豆に何を入れますか?またわさびにしますか?」
「うーん、キースは?」
「スープが生姜だから、なんとなく近い芥子にしようかな。」
「じゃあ俺も。」
「おかわりして食べてもいいですからね。」
「善処します……」
「ノアがたくさん食べてくれたら、しあさってまでに全部食べ終わりそうですよ。」
「え、うん、善処します……」
「朝ご飯食べましょう?」
「もう少し。」
肩に頭をぐりぐりと押し付け、まだ離れたくなくてせがんだ。
キースはその頭を掴み、おでこに手を当てる。
「やっぱり。熱はないけど、冷たいかも。早くスープ飲んで温まりましょう。」
手でおでこの熱を測ってくれたらしい。
その手を捕まえて、お腹を抑えているもう片方の手と合流する。
「風邪ひいたら看病してくれますか?」
「まず風邪をひかないでください。」
空いている手で再びおでこの熱を測る。鍋を掻き混ぜていたその手は温かいのに、どうやって熱を測るのだろう。
可愛いその手も捕まえてお腹に回す。
「うん。キースが風邪ひいたら俺が全部面倒見ますから、任せてくださいね。」
「それは……すごく助かります。」
「だからキースも俺のこと見捨てないでくださいね。」
「もちろん見捨てるようなことはしませんよ。医者にかかろうにもまずは馬車を呼ばないといけないし、診療所は遠いし。だからそもそも体調を崩さないようにしてください。」
「わかりました。」
「わかったならご飯にしましょう。」
ついでなので、抱きしめた身体をくるりと回し正面から改めてキースの顔を眺め回し、腰を抱き寄せる。
「キース、ただいま。」
おでこに掛かる前髪をそっと避け、キスをする。
「ノアも、おかえりなさい。」
進んでキスをしてくれないので、口元におでこを突き出した。
ちゅ。
「これがないと1日が始まらないなぁ。」
「むしろノアは終わったところでは?」
「これがないと1日が終わらないなぁ。」
「どっちでもいいんですね、さ、納豆を掻き混ぜてください。ふたり分だから手が痛くなりますよ。」
「なんかそれ、聞いたことあるフレーズな気がするけど、気のせいですよね?」
「ノアは痛みが好ましいという疑念はまだ晴れてないんです。」
「いや、そもそも疑念すらないですよ!?」
「初めて会った時のあれも、そういう楽しみ方をした結果なのかなって思ったら、なんでかな涙が出そうになるんですよね……」
「いや全然!?あれは一方的に不満をぶつけられただけで、俺は怒りしかなかったですよ!?」
「そうなんですか?でも、それにしては爽やかで清々しい良い笑顔でしたね。」
そんな伏線も回収もいらねぇ!アレの後遺症だったら許さない……。
腹の底から力一杯叫びたい気持ちをぐっと堪え、ぶつける先のない怒りを納豆にぶちまける。
「ノアすごいです、泡立ってます……」
「キース、それ絶対他所で言わないでください。家で、俺とふたりきりの時以外は発語禁止です。」
「え、危ない言葉なんですか?暗喩?」
ぱっと両手で口元を覆い隠すキース。驚きに目は見開かれている。
「はい。他所でそんなこと言ったら生きて帰れせんよ。だから絶対だめ。俺の前だけにして。」
「わかりました。教えてくれてありがとうございます。命の恩人ですね。」
ほっと息を吐き胸を撫で下ろすキース。
ぐっと飲み込もうとするも、飛び出したがる言葉と飛び付きたがる感情が、喉の奥で荒々しく渦巻く。なんでもない言葉から艶かしい光景を連想してしまう俺が悪いのに。
可愛い。脚の間で言って欲しい。いや、言ってやりたい。脚の間で。
納豆を混ぜていた手のひらに爪先が食い込むけれど、その痛みが現実に引き留めてくれる命綱。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今日は大事なイベントがあるから、夕方ではなくおやつの時間に起こして貰えるように頼んでおいた。
「俺がコーヒー淹れるので、キースはドーナツを半分に切っておいてくれますか?」
今日おやつに買ってきたのは前にも一度渡したことがある棒ドーナツ。
あの屋台とは別で、パン屋が店で出しているもの。
好物の上位に位置するだろうと踏んでいたが、食べる前から否お土産が棒ドーナツだと知った時から、足取りは軽くるんるんとご機嫌だ。
だからキースにドーナツの方を頼んだ。
今日のドーナツは、名前は棒ドーナツだけれど棒状じゃない。
棒と言えないことはないけれど、細長い長方形だ。
横半分、縦半分、キースはどう切るだろう。
喜び勇んで持ち上げた包丁を、ドーナツの前に一度置く。腕を組み、握り拳に顎を乗せ真剣な眼差しでドーナツと向かい合う。
「ノア、ドーナツの一番美味しいところは、どこだと思いますか?」
「カリカリの端っこ?」
「他には?」
「端っこのほんの少し内側?」
「他には?」
「真ん中?」
「ですよねぇ。全部ですよねぇ。困りました。どう切ったらいいでしょう。」
「全部美味しいところなら、どう切ってもいいんじゃないですか?」
「だめですよ、全部美味しいから全部をちゃんと分け合わないと。」
縦半分に切ろうが、横半分に切ろうが、一緒だと思う。全部が半分ずつになってると思う。どういう理屈で悩んでいるのかがわからない。けれどその謎理論に翻弄される姿が可愛い。
「じゃあ、春巻き方式は?」
「春巻き?……なるほど。それならちゃんと半分になりますね。」
それは知らないけれど。
「よかった、解決ですね。」
「さすがですね、ノア。褒めて遣わします。」
珍しく上から目線な言葉遣い。どこでそんな言い回しを覚えてきたのだろう。
「褒めてくれるなら撫でて。」
頭でも頬でも好きなところを撫でてくれて構わないと、ドーナツとキースの間に割って入る。
「ノア、私は今忙しいです。後にしてください。」
冗談ではなく本気のトーンで嗜められ、すごすごと撤退する。
久しぶりに見せられた冷気を纏った鋭い眼差しだった。
そういえば最近は無表情でいることが殆どない。
俺に慣れてくれたからか、好意的であるからか。
あの顔付きも好きだから嬉しいような寂しいような。でもこうして時々不機嫌な顔が見れるからまぁいいか。
目測で真ん中を割り出し包丁を丁寧に差し込む。
あれだけ真ん中に拘っていたのに、結局目測であたりをつけるのは、細かいのか雑なのか。
繊細そうな見た目で不機嫌な顔をするから、神経質そうに感じてしまうけれど、結構適当なところもあるんじゃないだろうか。
それに気付けるほど親しくなれている自分が誇らしい。
「キース、どれから食べますか?」
「シナモンとプレーン、メープルですよね……プレーンにします。」
落ちるのを待つだけのコーヒーを放り出しキースの側へ歩み寄り、切り終えたばかりのドーナツ、プレーン味をひとつ右手に持ち、口の前に差し出す。
差し出した手を両手で捕まえてから、小さな口を開く。
あむ。
頬張った瞬間、眉は下がり瞳はうるうると輝く。
感想は聞くまでもない。
もっくもっくと咀嚼する可愛い顔に溜め息が溢れる。
すると両手で捕まえたままの俺の右手を、俺の口へと寄せてくる。
半分に切った意味。
理由を尋ねるような野暮なことはせず、素直に残された歯形を齧り取る。
腕と腕が微かに触れる距離にいたのに待ちきれなかったのか、にじり寄り今はぴたりと腕と腕はくっついている。
ドーナツに目がないにも程がある。
わざと口元へ差し出さずにいると、自ら手を引き寄せて食んでいる。
夢中になっているのに、俺に差し出すことは忘れていない。
だから、半分に切った意味。
呆れるほど可愛い。
俺がドーナツだったなら、すぐ恋人になれただろうに。
そんな馬鹿げた発想を当たり前にしてしまうほどに、可愛いが止まらない。
無くなったドーナツに、残された砂糖塗れの指先。
指先にしゃぶりつくキース。あり得ない妄想も捗りすぎて止まらない。
「次は?」
「メープル」
命令されたメープルを摘み上げる。
くっついていた左腕でキースの腰を抱いてから、差し出す。
引き寄せるほどの距離も空いてはいなかった。
捕まえなくても食べ辛くはないはずなのに、やはり今回もひっしと両手で掴みかかる。
犬が餌を待ちきれなかった時、なんかこんな感じだった気がする……。
可愛いのにどこか切ない思いで愛でる。
「んー。」
今回はプレーンの時には無かった感嘆の溜息付きだ。プレーンを上回る美味しさだったようだ。眉を下げ目を細める。
「んっ。」
その顔を見ることに全神経を集中させ、目の前に出されたドーナツを食べない俺に、早く食べろと催促の眼差しを向ける。ねぇ早く。これもいつか絶対キースに言わせる。その時には、今のこの顔よりももっと美味しそうな表情を見せてくれるだろうか。
キースを目を見つめ想像しながら齧り付く。そんな俺の感慨深い想いも何のその、口を離した瞬間に手を奪ってゆく。
キースはドーナツを与えると獰猛になるのか。猫にまたたび、キースにドーナツ。
「最後、シナモンですね。」
うんともすんとも言わないキースに悲しむでもなく口元へ差し出す。
恐らく食べ方が確定したのだろう、俺の手にしがみつく握力の強さに意志の固さを知る。
「んっ。」
鼻から抜ける婀娜っぽい吐息。眉を下げ細めた瞳を潤ませる。紅潮した頬。唇が薄く開く。美味しい。そう表情で伝えてくれる。けれど上目遣いでこの距離でその顔はやめてほしい。俺はなんでキスを我慢できているのか、もはや謎。それは今すぐ抱いての顔だからやめなさい。
煽られて我慢できる自信も無く、その色気を振り撒く顔から視線を外し、齧り付く。
それなのにキースが上目遣いで俺の目を見据えながら次のひとくちに齧りつく。
言葉を発することなく目線とドーナツの食べさせ合いのラリーが始まる。
たぶん、美味しいでしょ?って聞いてるんだと思う。
うん、ドーナツもシチュエーションも美味しいよ。でも蠱惑的で刺激的なキースに暴走しそうだから、控えてね?そう目線で答える。
ねぇ、好きじゃないの?少しだけ残念がるように見つめて来る。
ううん、キースもシチュエーションも大好き。でも捗りすぎた妄想に勝手に自分で寄せてくるのはやめて?襲うよ?そう笑顔で答える。
そうだよね、すごく美味しいよね!はしゃぐような今日1番の笑顔を向けてくれる。
もっと蕩けるようないいこと知ってるんだけど、知りたい?舌舐めずりで訊ねる。
わぁ、色っぽい……きっとそう言っている。きょとん、ぽかん、そんな音が聞こえた気がするけど、気のせいだ。口が開いているのも目の錯覚だ。
そう思って油断した。
小さな口からちろりと覗いた舌先が口の端を舐め取ってゆく。けれど舌が短いのか舐め取りきれていない。
キースの腰を抱いていた左手でその挑発的な顎を捕まえ、親指の腹で取り残された砂糖を拭う。
その指先をキースに見せつけるように口に含む。ちゅ。わざと音を立てて口から離す。
恥ずかしい……そっと伏せた目線と紅潮する頬。やめてよ、そう言っているのかもしれない。してやったり。そうやって優越感に浸っていなければ危うい。もう本当ギリギリ。
右手の砂糖塗れの親指、人差し指、中指も勿体ないから舐めようと持ち上げ、まだキースにしがみつかれたままだったと気付く。
手の動きに勝手に目線は付いてくるだろう。キースの目線を縫い止め一本ずつ舐め上げるところを、丁寧に見せよう。その企みに口の端が上がる。
腰と腰が触れ合う体勢で、目の前でそんなものを見せられたら大抵の人はキスしたくなるだろう。
向かい合わせで腰を抱き寄せているこの体勢なら、反応すればすぐにわかる。
キースの目線まで上げた手がぴたりと止まる。
その右手はキースの目の前へと引き寄せられる。
これは俺がやっているのか?それとも。
両手で指と指の間に隙間を作るよう、手のひらを開かせてゆく。
ちらと上目遣いで俺を見てから徐に近付く口が親指を食む。
途端広がる湿り気、ちらりと当たる舌先、吸い上げられる指先。ちゅ。
溜まった唾を飲み込む。
またちらと上目遣いで俺の感情を探るようにしてから食む人差し指。
ちゅ。
左腕に力が入る。
ちらと上目遣いに見つめてくる目はいたずらにはにかみ、先の2本よりも当たる舌先に喉が鳴る。
これは完全に俺が誘われてるよね?
息が上がり、どんどんと血流が早まる。
これはこのまま放置すれば、当たってるって言って貰えるイベントが発生する。
いいの?当てていいの?
「ノア、ずるい。」
なにが!?
「これもドーナツの一番美味しいところ。横取りだめだよ。」
どこまでもドーナツ。
きりりとした顔付きで嗜められる。
「キース、ドーナツは絶対外で食べちゃだめ。」
「え、どうして……」
「死人が出る。生命活動停止の意味でも、社会的な意味でも。」
「やだっ、ノア、むりっ」
「それはもうちょっと待って。今は敏感になってるから、絶対今度ちゃんと言わせてあげるから、今はやめて。」
「ノアぁ、」
「その縋る顔も本当クるから、やめてほしい。責任とりたい……辛い。」
「ノア、辛いのは私だよ!?どうしてドーナツ禁止なの!?」
「禁止じゃなくて、市場とかお店とか俺以外の人が見てるところでは食べちゃだめなの。わかる?」
「じゃあ家でふたりでならいいの?」
「もちろんいいけど、できればもっと関係性を進めてからにしてもらえると、そのままなんでもござれでありがたいかなって思うよ?」
「わかった……」
「キース、残りのドーナツ全部食べてね。でも俺が居ないときにお願いします。」
「ひとりでも食べていいの?」
「うん、俺以外の人にドーナツ食べてる顔見せて欲しくないの。だから家でひとりで食べるならいいよ。」
「わかった……」
「俺、シャワー浴びて準備してきますね。」
「わかった……」
あのパン屋は真っ当な店だろうか。裏でマフィアなんかと繋がってるんじゃないか?それで生地に催淫剤が練り込まれてたんじゃないだろうか。それともそういう商品だと気付かずに俺が買ってしまっただけなのか?またあのドーナツを買いに行って検証してみなければ。ていうか普通他人の指先舐める?いや舐めない。好きな人の指先じゃなきゃ舐めない。もうあれ落ちてない?俺のこと好きじゃない?
シナモンを食べた時のあの顔はしっかり網膜に焼き付けてある。吐息の音声は鼓膜に刻み込み済み。右手の指先に当たる舌の感触も皮膚に彫り込んだ。
これから早速、いや半永久的にお世話になります。
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お読みくださりありがとうございます。




