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メロディは手のひらに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
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第1回 おかえり、いってらっしゃい。なんでも、なんで、



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「おはようございます。」


扉をノックする音と共に届くノアの声。


「……おはようございます。勝手に入ってもいいですよ?」


扉を開けノアを招き入れながら、次からは出迎えずとも良いように伝える。


「それは不用心じゃないですか。鍵は掛けておいてくださいよ。」


教会に来る人は居ても、こちらを訪ねる人は郵便屋さんくらいしか居ない。


「そうですか?」


キッチンへ戻りながら話を聞き流すことにした。


「ね、キース、ただいまのハグしていいですか?」


リュックを下ろしたノアは背中にぴったりと着いてくる。


これはやるまで引き下がらないやつだ、弟ならば。


「どうぞ。」


敢えて振り向くこともせず、背中から抱き付くのを好きなようにさせてやる。


「……キース、ただいま。」


焦げ付くことのないスープを、不必要に掻き混ぜる。


「……あ、ミネストローネだ。」


まだ離れそうにないノアの頭をわしわしと撫でる。


「キース……」


欲しい言葉をもらうまで側を離れない妹とそっくりだ。正解はなんだろう。


「お仕事ご苦労様でした。」


「はい。頑張りました……」


労ってほしいのではないとしたら。当たり前の挨拶か。


「……おかえりなさい。」


肩に頭に首筋に擦り付けてくる頭を、わしゃわしゃと撫でてやる。


「……うん。」


正解だったのか。満足したのか。


顔は見えずとも綻んでいるのがわかるほど、さっきから機嫌がすこぶる良い。


「いいこと、ありましたか?」


「はい……仕事の、配置換え?してもらったんです。だからすごく気が楽になりました。」


前に教えてもらった狩人の仕事はとても大変そうだった。


「もう可愛い動物を追いかけ回さなくてよくなったんですか?」


「あぁ、うーん、そうですねぇ……可愛がることだけに専念しても良くなった?そんな感じです。」


とても慎重に、言葉と表現を選んで伝えてくれているらしい。


「そうでしたか。気持ちが楽になるなら、それに越したことはないです。」


ノアが辛い思いをしている、そう思うと私も辛くなる。だから楽になったと思えるのなら私も嬉しい。


その気持ちを込めて更に頭を撫でてやる。


「……こういう気持ちになったことがなかったので、すごく新鮮で、なんか嬉しいんです。」


肩に頭を埋めたまま喋るせいで、くぐもって聞こえるけれど喜びに満ちていることだけははっきりと伝わった。


「お祝いでもしますか?」


「お祝い?」


「はい。嬉しいことがあったらお祝い、ですよね?転属祝いになるんでしょうか?」


私の“はじめての友だち”記念も勝手に兼ねさせて貰いましょう。


「じゃあ、お願いします。」


嬉しそうに笑った吐息が耳に掛かる髪の毛を揺らす。


「お祝い何がいいですか?なんでもいいですよ?」


贈り物は弟妹にしかしたことがない。できれば指定してほしい。


「なんでも……。本当になんでもいいですか?」


「えぇ。常識の範囲内にしてくださいね?」


家とか馬とか言われたらさすがに贈れない。


「常識の擦り合わせが必要ですね。」


「擦り合わせが必要な時点で、常識の範囲を逸脱している予感しかしません……」


聞こえてきた呟きに早くも怯みそうになる。


すでに火を止めた鍋から、よそったスープも冷めてしまいそうだ。


「ノア、朝ご飯にしませんか?」


「はい、食べましょう。お祝いに何をしてもらうかは、考えておきますね。」


「はい、お願いします。」


「今日はベーグルです。甘いやつにしたので、ほぼデザートですね。」


具沢山のスープを美味しい美味しいと平らげたノアは今、コーヒー豆を挽いてくれている。


カフェで買ったブルーマウンテン。


挽いたそばから香ばしい匂いが立つ。


ノアのすぐそば、手元に置いた紙袋にベーグルは入っていると見た。


皿を洗い終えてテーブルに戻ろうとした足は自然と紙袋に吸い寄せられていった。


「開けてみていいですよ。」


頭上から聞こえる優しく微笑む声に唆され、紙袋に手を掛ける。


「……色がたくさんです。」


「いちご、ブルーベリー、レモン、アボカド、紅茶、ココア……でしたね。忘れてなくてよかった。どれか出してください。先に食べましょう。」


「じゃあ……わぁ、むちむちですよ。」


「……ん。」


もちもちのベーグルを指先で千切り、ノアの口に入れてから、自分も食べる。


「……いちごですね。美味しい。」


挽いた粉に丁寧にお湯をかけるノアの口へタイミングを見計らって届ける。


少し目を離しただけでは注ぐお湯の量が変化しないのだから、ノアは器用だ。


「チョコ……」


「本当だ、これはホワイト?」


ノアが斜め上を見ながら味を確かめている。


このもったりとした甘さはホワイトだろう。ベーグルに茶色い部分も見当たらない。


「ですね。天才、多すぎませんか?」


美味しいものを作る天才の多さに幸せすぎて愕然とする。


「天才多すぎますね。まずいな、うかうかしてられない。」


「お口に合わなかったですか?」


ぼそぼそと呟く声だったけれど、まずいという音だけは拾えた。


「いいえ、美味しいですよ。俺も天才になりたいです。」


「ノアは美味しいを見つける天才ですよ?」


すでに美味しいの神様だと、私は勝手に崇めているのに何を言っているのだろう。


「今回はタイミングばっちりです。」


お湯注ぎ終えたポットを放り出すと、ベーグルを持つ手を避けるようにしたのか、腕の下から腰を抱くように抱きしめられた。


くるりと体勢も変えられ、向かい合ったノアとカウンターに挟まれるように抱え込まれている。


いつもは肩というか首元を覆うように、若しくは後ろからウエストを測るように抱きしめられるから、これは新しい。


「ちゃんと両手が空いている時に言えて偉いですね。」


なぜ褒められているのか全くわからない。


徐に鼻を寄せてくるノアの口へ、ベーグルを入れてやる。


なるほど。向かい合うと、近くて食べやすいのか。


もっちもっちと咀嚼する音と、たっちたっちとコーヒーの落ちる音がする。


「キースは可愛いの天才ですね。」


ノアの大きな口では、同じ大きさのひとくちでは呆気なく飲み込まれるらしく、また鼻を寄せ次をせがまれたので口へ放り込む。


口の中にまだ残るベーグルのせいで質問ができないから、顔を顰めて首を傾げ、わからないことを意思表示しておく。


「何やっても可愛い……」


「可愛いのはノアの方でしょう?」


やっとで飲み込めたので反論する。私が可愛いと思っている皆にそっくりなのだから。


「え……」


固まるノアを放って紙袋を覗く。青、緑、橙、黄色。次はどれにしようか。


「緑色は、なんだろう?ノア、なんでしたっけ?」


「えっと、アボカドかな?ん。」


アボカドはどんな味だろうか、想像しながら千切ったひとくち目をノアの口に押し込む。


「意外です。なんか、ミルキー?青臭い味も匂いもしませんね。美味しいです。」


「ん。よかったです。」


そう言うノアはいちごよりも好みではないのかなかなか次をと、せがんでこない。


「これはあんまりですか?別のにしますか?」


「いいえ、美味しくいただいてますよ。」


首を振ってはいるけれど、どこかアボカドに集中できていないように思う。


もし好みでないのなら無理して食べなくてもいいのに。


千切った次のひとくちを口元へ運ばず、目の前でゆらゆらと揺らす。さっきの言葉に嘘が無ければきっと食い付くはずだ。


「え、なにしてるの?誘惑?可愛い。」


アボカドの誘惑に負けたノアが指先からベーグルを齧り取る。美味しいというのは強がりではなかったと確認できたことに安心し、自分も食べる。


そろそろ水分がほしい。ノアの口に大きめのひとくちを押し込み、横を向きカップに落ち切ったコーヒーを注ぐ。


ノアのマグカップも、手が届くところに置く。


「すごく、いい匂いです。」


いつも買っているお店の豆よりも、湯気に含まれる匂いが濃い気がする。


湯気を吸い込みカフェを教えてくれたノアに心の中で感謝を述べる。


「うん、美味しいです。」


マグカップを持つために腰から片手を退けてくれたけれど、もう一方の手を退ける気配はない。


ひとくち啜ってからアボカド味のベーグルを再びノアの口に入れる。


「今日もお仕事ですよね?昨日と同じくらいに起こします?」


「はい、お願いしてもいいですか?」


もっちもっち。


咀嚼中だったので頷くことで了承を伝える。


「次は何色がいいですか?」


紙袋の中をノアが覗けるように開き訊ねる。


「じゃあ、青?紫?っぽいやつで。」


「これがブルーベリーですね、きっと。」


腰に残されていた片手が離れ、両手で持ち千切ろうとしていたベーグルを取り上げられてしまった。


さっきまで出来ていたのだから今回だって上手に千切れる自信があったのに。


そうは思っても言葉にはせず黙って口に運ばれる。


「ん。」


これは。


「ん、んんーんんーん。」


ノア、これ、美味しいやつですよ。目でも訴える。


ノアもひとくち食べたのに反応が見えないだけではなく、伝えようとした言葉も伝わっていないらしく困惑しているらしい。


眉を下げるだけで同意を得られないことに焦り、噛む速度を早める。


「クリームチーズ、入ってます。」


未だ伝わらないのか余計に眉が下がり、眉間には皺も寄ってしまっている。


「ノアのところには入ってなかったですか?」


あろうことかノアは返事もせずに、ベーグルを詰め込んできた。


「んー。んんーんんーん。」


必死に訴えても届かないもどかしさから、ノアの手からベーグルを取り返す。


生地の外側にクリームチーズの塊が透けて見えているところを千切り、分からず屋のノアの口に押し込む。


「ね?クリームチーズあったでしょ?」


やっとでわかったらしく、うんうんと頷いている。


もう一度探し、食べさせようと思ったのに手で口元を覆ってしまっており、お届けができない。


飲み込むのを待っているのに、一向に手を退けてくれない。


少し顔が赤いだろうか。吐息も漏れ聞こえるけれど、喉に詰まらせているわけではないよね?


「大丈夫?苦しい?」


やっとで手を離し、手と首を横に振っている顔はやはり赤みが刺しているように見える。


コーヒーを飲むことにしたのは、やっぱり詰まらせていたからなんじゃないだろうか。


「大丈夫?」


「はぁ、キース……」


コーヒーを飲み終えたノアが顔を近付けてきた。


いつの間にかまた両腕で腰を抱かれている。


やっとで食べる体勢が整ったらしい。


だんだんと近付く鼻先に、さっき千切っておいたクリームチーズの塊入りの美味しいところを差し出す。


「美味しかったでしょ?……っ痛い!」


差し出したベーグルは、指先ごとノアに食べられてしまった。


「うん、美味しいです。もっと食べたいです。食べていいですか?」


私の指先の生存確認が先なのに、ノアにはベーグルしか見えていないらしい。


「ほら、まだありますから、落ち着いてください。」


次に指先が生きて帰れる保障はない。残ったベーグルをむちゃりとふたつに割り、大きい方をノアの唇に押し付ける。


ちゅ。


押し付けた塊を受け取ったかと思えば、私の手元に残したベーグルと交換するではないか。


「そっちの方が大きいですから、ノアが食べてください。」


「いえ、キース全然食べてないじゃないですか。だからこっちを食べてください。」


にっこりと笑ってそれぞれの手元にあったベーグルが交換される。


そんなことは無い、私だって同じだけ食べていたはず。そう思ったけれどノアの笑顔に引く気がないことを悟った。


むちっと千切っては口へ入れる。クリームチーズが全体的に入っていればこのような争いは起こらずに済んだのに。


「美味しいですか?」


ノアが顔を覗き込むようにして訊ねてくる。


「はい。クリームチーズは恐ろしい食べ物ですね。」


「恐ろしい可愛さですよね……本当に、どうしたもんか。」


ノアも争いに発展する危険性を感じ取ったらしい。少しだけ落とした肩に反省の色も見える。私の指ごと食べてしまったことは想定外だったのか、気付いていないのだろう。今度からクリームチーズが入った食べ物はひとりひとつにした方が良さそうだ。


「残りのみっつは、ノアが出掛ける前にしましょうか?」


全部食べてしまったら、さすがにお腹が苦しくなりそうだ。


「そうですね、楽しみは残しておきましょう。」


今食べた3種類のベーグルを思い返しながらコーヒーを啜る。


仰ぎ見たノアは、微笑んでくれた。


ベーグルを食べ終わっても解放されない腰は、どうやらコーヒーを飲み終えないと離してもらえないらしい。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



午前はシャワーを浴びて寝ると言ったノアを家に残し執務室で仕事をし、ひとりで昼ご飯を食べた。


昼ご飯を準備する時に冷蔵庫に入っていたグラスを見てしまってからはノアを起こす時間が待ち遠しかった。


「ノア、そろそろ起きてください。」


琥珀色よりは暗く、チョコレートよりは明るい髪の毛の手触りを確かめる。


もしかしたら今日も体術を披露してくれるかもしれない。


あまりの早技に言葉が出なかった。


後から思い返してみても、手首を掴まれ引っ張られたことは理解できても、その後にどうすればベッドに寝かされることになるのかが全くわからなかった。


急に視界がぐるりと反転することを覚悟し構えておく。


「んー。ふぁ。」


身体を伸ばし欠伸をしたノアに、頭を撫でていたのとは反対の手を掴まれた。


少しだけ脚を踏ん張ってみる。


予想に反しゆっくりと引き寄せられた手は、ノアの口元へと運ばれた。


手のひらに優しくキスをされる。


あぁ、これは。


目が覚めるまで時間がかかるやつだ。弟ならば。


「ノア、起きて。」


キスした後でも手は解放されず目元を覆うように配置されてしまった。


「もうちょっと……」


眠い人を起こすのは心が痛む。


「起きないと冷蔵庫のあれ、私が全部食べちゃいますよ。」


「いいですよ……」


食べ物にも釣られないだなんて、なんて頑強な眠気なんだろう。私は毎日8時間近く寝られているけれどノアは違う。


満足いくまで、もっと寝かせてあげたい。


「一緒に食べましょう?」


起こさなければいけないことをわかっていても胸が痛む。自分の胸を摩る代わりにノアの頭を摩る。


「んー、起きます……起こして……」


両手を突き出し引っ張れとのご依頼。


手や手首を持って引き上げられると痛いことを知っている。


ベッドに腰掛け覆い被さりつつ首の下に手を入れる。


「掴まってください。」


背中に手が回ったことを確かめてから残している片手でベッドから身体を押し上げ、首裏を押さえた手で背中を支える。


「大丈夫ですか?」


両手で顔を覆い隠すノアに訊ねる。


「はい、起きました。」


身体を起こしてもまだまだ瞼が眠がっているのだろう。


「頑張って起きてくださいね。」


膝を抱えたまま動かないノアの頭を最後にもう一度撫でてから立ち上がりキッチンへ戻る。


ノアはお金に困っていたりするのだろうか。こんなこと絶対聞けないけれど。


夜の仕事は身体に悪そうで心配だ。


「お待たせしました。」


起こした時とは打って変わった爽やかさでリビングにノアが入ってきた。


「体調は悪くないですか?」


「はい、元気いっぱいです。」


嘘のない明るい声に安心し、スープとご飯をテーブルに出す。


「キース……これ……」


爽やかな笑顔が一瞬で固まった。


「ノアが一番好みそうだと思ったので、わさびにしました。」


「ベーグルだと思ってた……」


ベーグルは考えた末、持たせることにしたんです。


「頑張って食べてくださいね。」


「はい……」


引き攣った笑顔のまま納豆を掻き混ぜるノア。


「わさび、大丈夫でしたか?」


「はい、わさびは、好きです……」


震える手でご飯の上に乗せる。


そこからなかなか進まない。あとは納豆とご飯を上手に掬って口に運ぶだけなのに。


眉を下げ泣きそうになりながら小さいひとくちを口に入れる。


「ん。」


本当に泣き出してしまった。


「キース、わさび多すぎませんか?いつもこんなに入れてるんですか?」


やっとで泣き止み、落ち着いたノアが捲し立てる。


「いえ、普段の倍です。納豆が苦手なことと、辛いのが好きなことを考慮しました。」


「納豆とわさびが合うことがわかりそうだったんですけど、その前に呼吸困難になりそうでしたよ?」


涙は止まっているけれど、目は赤いままだ。


「割合を考えると、納豆を増やすかご飯を増やすかですけど。どっちにしますか?」


「どっちもお願いします。」


「進んで納豆を食べる気になってくれたんですね?」


「たぶん違います。でもちょうどいい割合で食べたいです。」


「わさびの葉と茎も入れると食感が変わって食べやすくなるんですよ。」


「それでですか……何だろうと思って食べた葉っぱとかも辛かったのでびっくりしましたよ。」


「目、覚めましたか?」


「まぁ、そうですね、はい……」


一度受け取った茶碗と小鉢に、ご飯と納豆をそれぞれ倍量よそう。


「たくさん食べてくださいね。」


「たくさんすぎる……キースもお昼は納豆ご飯食べたんですか?」


「えぇ、もちろん。」


もくもくと食べ続けるノアを見守る。少しは納豆を好きになってくれたかもしれない。


「納豆スープを体験していたおかげですかね、臭いもわさびが隠してくれるから、割と食べやすかったです。」


私もあれはしばらく作るつもりはない。


「でもやっぱり口のねばねばとぬるぬるには抵抗があります……炒飯の方がそれは少なかったですね……」


その口を洗い流すようにスープを平らげてゆく。


「……豆か、びっくりした。納豆かと思いました。」


ミネストローネに入っている豆の柔らかく崩れる食感は確かに納豆と似ているかもしれない。


警戒しすぎている姿が可愛く笑いが溢れる。


「納豆食べられて、偉かったですね。」


空いた皿を下げつつデザートを取ってこようと立ち上がり、ついでに頭を撫でた。


もっと褒めてやりたいけれど、あげられるものは何もない。


そんな目で見られても、今家には食材以外褒賞品にできるものは何も無い。


申し訳ない気持ちでもう一度頭を撫でてやる。


冷蔵庫から取り出したグラスも、ノアが作ってくれたデザートで、得をするのは私だけ。


グラスとスプーンをふたつずつ持つ。


スープを食べ終えたノアがじっとこちらを見据えている。


確かに転んだり手が滑ったらグラスを落としてしまう。更にグラスが割れてしまったら大変だ。けれどこれくらい造作もない。心配しすぎだと思う。


中身はノアが作ったものなのだからより慎重にもなる。


無事テーブルへ到着し、ほっと息を吐く。


「チョコレートムースですね。」


私が選んだやつ。ムースの上には泡立てられた生クリーム、その上に削ったチョコレートも乗っている。


「……どうぞ。一応味見?はしました。たぶん大丈夫だと思います。でもゼラチンがちゃんと溶けなくて固まってるところがあるかも、当たったらすいません。」


「いただきます。」


心配そうに早口で注意事項を述べるノアだけれど、絶対美味しいから何も心配する必要なんてないのに。


ふわふわのクリームを通り越し、ふかふかのムースに辿り着く。ゆっくりと掬い上げないといつもより大きなひとくちを落としてしまいそうだ。


舌に乗せると二つの層はふしゅりと溶け合い、口の中に幸せが広がる。


これは口いっぱいに詰め込むことで幸福度が上がるやつ。


見た目の色に違わぬ濃厚なチョコレートの風味。ゼラチンの塊もなく滑らかな舌触り。


するりするりと消えてゆく幸せ。


「しあわせ……」


コーヒーを飲むマグカップより小さいグラスだけれど、それなりに大きい。それでも呆気なく食べ切ってしまった。


目を向けるとノアはまだ手を付けておらず、両手で口元を隠している。きっと不安だったのだろう。


「すごく美味しかったですよ。」


味の感想を言っていなかったことを思い出し、丁寧に伝える。


「よかったです……」


その言葉と共にこちらに差し出すグラス。


これは。


グラスを受け取りスプーンを差し込む。


掬ったそれをノアの口元へ運ぶ。


少しの躊躇いを見せたけれど大人しくスプーンを食む。


「ね、すごく美味しくできてるでしょう?」


食べさせて欲しい時に、弟妹がよくやっていたからすぐわかる。


あの子たちは元気にやっているだろうか。


ノアと居るとふたりのことを思い出すことが多い。あと、1匹も。


黙って食べさせているうちにグラスが空になる。


「ノア、ご馳走様でした。」


「残りのふたつもキースが食べてください。」


「いいんですか?」


「はい。もちろんです。」


「じゃあ、いただきます。」


今日の夜にしようか、それとも明日に取っておいた方がいいだろうか。


「私が洗うのでノアは準備してきてください。あと、明日は家に帰ってください。」


椅子から立ち上がったノアがすとんとまた椅子に戻ってしまった。


「……なんで、ですか、理由を聞いてもいいですか?何か用事でも?」


「職場からここは遠いでしょう?それに今日はゆっくり休めなかったと思うから、家でちゃんと休んで欲しいです。」


「それは……」


「ベーグルは残りのみっつ全部半分にしておいたので、持って帰って食べてくださいね。そうだ、ベーグルの支払いはどうしますか?」


「ちょっと考えさせてください。準備してきます。」


俯いたまま顔を背けて立ち去ってしまったノアの顔は見ることができなかった。


怒ったら教えてくれるはずだから大丈夫だと思いたいけれど、私の言い方が悪かっただろうか。


少しだけ重くなったように感じる空気に、息がしづらい。


スープの鍋や皿を洗い終え、ソファに掛ける。


「電話がいいです。」


リビングに戻ったノアの気迫に圧される。


「え?」


ソファの背もたれまで元々距離の殆ど無いところから更に仰け反り、ノアを仰ぎ見る。


「支払い、電話がいいです。明日の朝、家に着いたら掛けてもいいですか?」


両手を持ち上げられる。


「また、そんなことでいいんですか?」


持ち上げられた手がきゅっと握られる。


「それなら……夕方仕事に出る前にも電話していいですか?」


「そんなことでいいなら、どうぞ……」


握られた手を引かれ、立ち上がる。


「……いってらっしゃいのキスください。」


繋いだ手を引き少し背の高いノアを屈ませ、おでこと両頬に唇を押し当てる。これもよく弟妹にすることだけれど、何だかもっと最近にも似たようなことがあった気がする。気のせいだと思うけれど、何かを思い出せそうな気もする。


挨拶のキスを贈ると屈んだノアにそのまま抱きしめられる。何も言わずただじっとしている。


これはあれだ。少し家を空けることを悟った犬が出掛けに引き留めようと引っ付いて回るのに似ている。


さっきの私の言葉は、出ていけというニュアンスで伝わってしまったのだろうか。


そんなつもりは全くないけれど。


身動きの取りづらい腕をなんとか上げ、後頭部を撫でる。


「……いってらっしゃい。」


これじゃない。伝えたい気持ちを言葉にできなかった。気持ちとやらは他靡く煙のようにゆらゆらと揺れ、実体のないそれは触れると掻き消えてしまった。


「また来ますね。」


耳元で囁くノアの声に安心する。怒ってもいないようだ。


「うん。」


やっとで解放してくれたノアに、ベーグルを包んだ紙袋を手渡す。


歩き去るノアが背負っているリュックは昨日仕事に行った時と同じもの。かなりの大荷物で来たように思ったけれど、家にもまだまだ備えはあるようだ。


教会の正面近くまで差し掛かったノアが、振り返り手を振っている。


それに軽く手を挙げて応える。


見えなくなったノアの背中。引き攣る顔。


手を振ることがこんなに恥ずかしいことだったなんて知らなかった。


なかなか治らないむず痒さに腕を摩りながら仕事に戻る。


ベーグルとチョコレートムースをいつ食べようと算段しながら、思い返す。


これから上手になりたいと言っていたお菓子作り。ノア自身はそこまで甘いものが好きなわけではないと思うけれど。自分のためではないとしたら。練習しているのは贈りたい誰かがいるからだろうか。


もしそうならば、きっと相手はすごく幸せだろう。


基本甘えたがりなノアだけれど、優しい彼の愛情はきっとお菓子のように甘いだろう。


むず痒さと顔の引き攣りはいつの間にか治っていた。


「納豆食べないとなぁ……」



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



お読みくださりありがとうございます。

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