第1回 朝。偶然、出会い、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
あぁ、生きてる。
横たわり見上げている視界に入るのは高く聳える木々と少しの空。
目の前が白むのは朝靄なのか、殴られた後遺症なのか。
背中が冷たいのは地面の湿気なのか、血が流れたのか。
客と揉めたことは今までにも何回かあった。
俺と楽しい時間を過ごして、抱かれて、気持ち良くなって、それで満足してくれよ。
自ら足を運び金を出しているのだから顧客だと認識しているはずで、俺にとってもそれ以上でもそれ以下でもない。
他にもたくさん客が居るのは当たり前。
他の客を取ること、仕事を辞めないことに不満を持つのが理解できない。
まぁ、そこに身請け話に繋がるような感情があることはわかるけれど。
俺がその感情に応えたことが一瞬たりとも無かったことをどうして理解しないのか。
身請けされていった同僚は少ないけれど、いないわけではない。
でも俺はされたくない。好きなことをしているだけで金が貰えるなんて天職ってやつだろ。
もしかすればより良い待遇で飼われることもあるのかもしれないけれど、それはつまらなそうだ。
今回の客は、控えめでおしとやかな女性だった。昨晩までの言動にこの現状を予測しうる判断材料はなかったから、油断した。
恐る恐る足先を動かしてみる。
そして深く安堵の溜息を漏らす。
息子は無事に生きている。
突っ張りを感じる顔面にもそっと手を伸ばし検める。
ひりつく熱を持っているのは左頬だけ。
見目の良さも俺の大事な商売道具。
ゆっくりと上体を起こそうとすると、体重をかけた腕や、腹、背中に腰とあちこちに、びりびりと痛みが走り、頭や首にも痛みが鈍く響く。
腹と背中は、殴られ蹴られた記憶はある。
腰や腕はきっと投げられた時に痛めただけだろう。
上体を起こしたまま、手首、腕や肩、首をゆっくりと回して確かめる。骨も折れてなさそうだ。
娼館外でのひと晩を買う。そういう仕事だった。待ち合わせていた場所から移動する途中でなぜ裏通りに入るのだろうと思った時にすぐその可能性に気付けば、こうはならなかった。
街灯の灯りが届かない建物の影から出てきた3人の男たちに囲まれ、一気に殴りかかられ、避けることもできずにすぐ羽交い締めにされた。腹を殴る男の後方、離れたところから女はそれを鑑賞していた。
暫く続いたそれが唐突に止まると、髪を後ろに引かれて、女に平手打ちされた。
捨ててきて。
さらに数発殴られてから馬車の荷台に放り込まれシートを被せられた。そんな状況なのに、殴られないことに安心して眠ってしまった。
足首を掴み身体を引き摺られ、荷台から投げ捨てられた時には一度目を覚ましたけれど、それからまた眠ったのか。
周囲を360度ぐるりと見渡す限り木々が生い茂っている。
森の中、なのか。
白んでいたのは事実、森の方だった。
朝靄が触れて顔も髪も湿っぽい。
どことも知れない明け離れる森と対峙すべく、ゆっくりと立ち上がる。
また腹に痛みが響くが、太腿に痛みはないし、膝に力も入れられる。足首もなんともない。立ち上がったことで痛むこめかみを摩る。
背を伸ばしたことで引き攣り痛む腹を摩りながら、馬車の車輪の跡を地面に探す。
転がされていた場所からほど近いところにすぐ見つけることが出来た。捨てられた場所が土も見え隠れする草地でよかった。
それに雇ったのがマフィアじゃなくて助かった。それならきっと生きていないか、生きて出られないような場所に投棄したはずだ。
これを辿れば街に戻れる。
まさか娼館外での高額な接待がこのために仕組まれたことだったとは。
わざわざゴロツキを雇って、ここに捨てるために常用よりも小さい馬車まで用意するとは。金と労力の使い道を間違えている。
そこまでしたのに致命打を与えられない中途半端な覚悟。
ますます俺には理解できないと思うと同時に不気味さを感じる。まぁその甘さに救われたわけだけれど。
なんで俺が悪いことになるんだろうな。悪いのは勘違いする客だろ?楽しくなかったとお叱りを受けるならまだしも。
尽きない悪態と共に車輪の跡を辿る。
職業柄、明け方に帰宅することが多い。
朝陽が綺麗に見える日には、コーヒーを飲みながらそれをのんびり眺めて過ごすこともある。
こんな成り行きでなければそんな朝だっただろうに。
あれから1時間は歩いただろうか。
ようやっと森の浅いところまで出られたようだ。
少し先に朝市の活気を感じる。
捨てられた森が近場で助かった。
もうひと踏ん張り。
と、そこへ木々を揺らす風がびゅおうと通り抜け、踏み出そうとした足を引き留める。
遅れて届いた葉擦れのさわさわという音に混ざるのは、微かな音色。
この音はどこから来たのだろう。
一瞬だけ迷い、進路を変えた。
この身体ではどうせ今日は客を取れないから休みだ。
もう少しで街に出られそうだったけれど。
街と離れすぎないよう平行移動を心掛けつつ、さらに森を進む。
朝靄は晴れつつあるが、朝陽が翳っているのか、木々が高さを増したのか、どんどん薄暗くなってゆく。
暫く進むと木々の密度が下がりはじめたその先に、ぽつんと捨て置かれたような、木々の高さと張り合えそうな高く大きな建物が見えてきた。
建物の周囲2、3メートル程はぽっかりと穴が空いたように木は立っていない。
近寄ると大きさの異なる窓が不規則に嵌め込まれているのがわかる。
建物の左右を見比べ、明らかに木々が間引かれ道が拓けている方へと進む。
土が剥き出しで石が敷かれている訳ではないが、馬車が通れる程度には道も整備されてあるらしい。
そして正面から見ても何の建物なのかはわからなかった。
大きな両開きの扉。それを思えば公共施設なのだろうか。
扉をいきなり開けるよりは、と先程とは反対側の側面を覗くと、木々の奥に家らしき建物が見える。
大きな建物の側面には反対側と同様に、大小様々な窓が嵌っている。手頃な高さの窓から覗き込めば内部も見えそうだ。少し先にはベンチも置かれている。
奥に見えるあれは家に見えるけれど、誰かが住んでいるのか、こんな場所に。
そろりそろりとそちらへと歩みを進める。
「何かご用ですか?」
警戒心を顕にした澄んだ声が、風のように抜けていく。
突然背後から掛けられた声に、心臓が飛び出しそうなほどに驚いた。
「……勝手にすいません、偶然通り掛かって、建物が気になって、」
振り返り、急ぎ弁解する。
先程までの雲が晴れたのか、朝陽がきらきらと降り注ぐそこに居たのは魔女…ではなく神父。
指先で折れそうなほどに華奢な眼鏡。そこに掛かった前髪は、黒く艶やかで目元を覆うほどに長い。
背は低くく、目線の高さにおでこがある。
黒い長袖の聖服は足首近くまでと丈が長く、そこからちらと覗くのは黒いズボンの裾と黒い靴。
警戒しながらも俺の全身を検め、汚れた服に気がついたのだろう。
「……水場、使いますか?」
自らの服装を確認する。
確かにこのまま街を歩くには汚れすぎている。
「……お願いしてもいいですか?」
こちらへどうぞ、先導する神父について行くと家らしき建物の側面に水場が見えた。
襟足は短く、聖服の立ち襟にも届かないそこからは白いうなじが見えている。
ワンピースのような形をした聖服が靡くたび線の細さを教えてくれる。
水場にひとりになったところでシャツを脱ぎ捨て、蛇口の下に突き出した頭に直接水を被る。
その冷たさに心臓を縮み上げながら、頭から顔から汗や土をざばざばと洗い流してゆく。
まだ熱の残る頬に冷たい水が気持ちいい。
洗い終えた髪を後ろに撫でつけると残っていた雫が耳裏から首筋を通り背中や胸を流れ落ちてゆく。
その水をズボンが吸い、肌に張り付くようで気持ち悪い。
そんなことを言ってもいられず、脱いだシャツをごしごしと擦り合わせながら洗い、きつく絞る。
濡れたシャツがすぐ乾くような暑い季節でもなければ、着たところで風邪を引くような寒い季節でもない。
ただ、肌が透けて見えそうだ。街で補導されないといいけれど。
立ち去ったはずの神父は、いつから居たのか、タオルとグラスを持って側に立っていた。
端正な顔立ちにすらりと通った鼻筋と、小さく薄い唇。
儚げにも見える外見を引き締めるのは、眼鏡の奥に見える冴え冴えとした三白眼がちの黒い瞳。
歳の頃は恐らくひとつ、いや2、3歳下だろう。
「その水、飲めますから。」
グラスとタオルをありがたく受け取る。
「こんなところに教会があるのは知りませんでした。」
タオルで顔を拭きながら話し掛ける。
「うちは信徒の数が少ないですから、街にあったとしても気付かれないでしょう。」
神父が自嘲気味に笑って言う。
「誰か来るんですか?懺悔とか、お祈りとか?」
こんな辺鄙な場所にと思っているのが伝わってしまう雑な言葉選びも気に掛けず、無宗派の自分にもわかる程度の知識で話を繋げる。
「祈りを捧げるために通う人もいますけど、私たちの神は赦すことをしませんので懺悔に来る人はいません。……もしかして懺悔したい罪でも?」
冷たい水が乾いた喉を潤し、身体に染み渡る。
甘く感じる冷たい水をがぶがぶ飲みながら流し見ると、神父の視線は腹部に釘付けだ。
「いえ、懺悔するような罪はないです。愚痴ならたくさんありますけど。」
眉を下げ憐れむような視線を向けられるけれど、引き攣った頬に引かれた口角が信じられないと言っている。
最後にもう一杯水を煽ってから、何も言ってくれなくなった神父にグラスを返す。
「……シャツも良かったら。」
新品です返さなくていいですよ、と気前良く差し出せなくてごめんなさいと謝りながら差し出されたシャツを受け取る。
少し小さいが、ボタンを全て締めるわけでもなければ支障はない。
「助かります。シャツとタオル、今度洗って返します。このタオルが無いと困ったりしますか?」
冗談でそう返したが、口元だけで微笑んだ神父の目は笑っていなかった。
本当は困るのか、冗談が通じなくて怒らせたのか、どちらかわからない。
「……なるべく早く返しに来ます。お世話になりました。」
そう告げ、汚れたシャツと汚したタオルを手に教会を後にした。
大体の方角しかわからないけれど、まぁなんとかなるだろうと再び森の中を目指す。
踏み入った森は先程までの薄暗さは無くなっていて歩きやすく、思った通り朝市の近くに出られた。
そういえば財布は無事だった。
財布に目もくれないほどの報酬をゴロツキに支払ったであろう女をせせら笑いながら、通りの屋台で痛む腹でも食べられそうな朝飯を適当に調達する。
こんな成り行きでも美味い朝飯にありつけたぞと、あの客に見せつけてやりたい。
ズボンの尻は汚れたままだし、殴られた腹は痛むけれど、眩しい朝日に照らされながら清々しい気持ちで家へと帰った。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
今朝、ピアノの妖精にこの街を離れることになるかもしれないと告げられた。
ここへピアノが寄付されてから、もうすぐ2年。
妖精は出会った日から殆ど毎日、夜明けの頃に来てはピアノを弾いてゆく。
あの日から私の生活が華やいだ。
妖精と言葉を交わすことは殆どしないけれど、それでもそこに誰かがいることに小さな喜びを感じていた。
妖精がこの街を去ったら、あのピアノを弾く人は居ない。
私の朝の楽しみも無くなってしまう。
それはもちろん残念だけれど、そのことを伝えておきたいと妖精がわざわざ声を掛けてくれたおかげで会話への抵抗値が高まっていてよかった。
信徒でも郵便屋さんでもない、突然現れた怪しげな男性にも声を掛けることができたのだから。
もしこれが昨日だったら影から見張るだけだったかもしれない。
見えた背中に付く土汚れのなかに靴の跡のようなものがあると気付いた時には、すでに気付かれてもおかしくないほど近寄った後で、引き返すこともできない。
それにはっとし、危ない人かもしれないと恐れるあまり、威圧するように冷たい声を出してしまった。
でも。何かご用ですか?ではなく、大丈夫ですか?と声を掛ければ良かった。
それとも外の水場じゃなく、家に入れてあげれば良かったかもしれない。
きっと痛かっただろうから。
でも初対面で家に入れたら、逆に出会い厨の危ないやつだと思われるかもしれない。
そう思ったら、できなかった。
それが申し訳なくてせめてシャツを、と思い貸したけれど。
再びここへ来る口実を自ら作る痛い出会い厨だと、結局思われたかもしれない。
私の口を突いて出た言い訳に合わせて、気の利いた冗談のつもりで言ってくれただろう言葉に返す言葉がわからなくて、何も言えなかった。
失礼なやつだと思われたと思う。
それか気の利いた会話もできないことで、神父のくせにコミュ障だと思われたかもしれない。
大きな身体に身に付けているのは、土や草に汚れたズボンとシャツ。
豪快に頭から水を被り、土汚れが余計に入り込むことも厭わずシャツを揉み洗いしていた。
無造作に掻き上げた髪の毛は水気を含みブロンドのように朝陽に輝き、薄らと浮かぶ赤い痣は痛々しくも、引き締まった上半身は綺麗だった。
二重の大きな瞳も髪色と同じ薄い茶色で、笑うと下がる目尻も、覗く白い歯もチャーミングで人好きのする容姿なのに、少し腫れて赤くなった左頬が勿体無い。
身体も顔も痛むだろうにその笑顔を絶やさず、ぱつぱつのシャツを羽織り立ち去る後ろ姿は背を丸めることもなく堂々としていた。
彼は危ない人かもしれないけれど、土や暴力に汚されることの似合わない、爽やかで快活な人だった。
鍋のスープを掻き混ぜる手を止める。
「あー、あー、私は、出会い厨では、ありません、安心してください。」
だめだ、余計それっぽい。
頭を振り、コンロの火を消す。
いつとも知れない返却日に向けて、言葉を選ぶよりもまずは先に、声を出す練習をしておく必要がありそうだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
ふたりの出会いをお読みくださりありがとうございます。
あらすじ冒頭でのふたりのやりとりは、25部目です。
ふたり(たぶん)の歩みの遅さが伝わりましたでしょうか?
ゆっくりと親密度を上げてゆくふたりの日常を見守ってくださると幸いです。
気長にお付き合いいただける方は、是非2部目以降もよろしくお願いします。