第1回 いってきます。痛い、ひどい、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ノア、起きますか?」
その声は耳元で優しく響く。
「今日はお仕事でしょう?何時に起こせばいいですか?」
「起きます……」
「朝ご飯一緒に食べますか?」
「食べます……」
「キッチンで待ってますね。」
「すぐ行きます……」
昨日はすんなり起きられたのに、今朝は起きるのが辛い。
シャワーは後回しにして、自分の部屋のクローゼットから部屋着に着替える。寝巻きとも普段着とも大差のない半袖とズボン。
「おはようございます。」
鍋を温めているキースは、白い長袖シャツにダークグレーのスラックス。
「仕事には何時に出るんですか?」
「夕方です。お昼ご飯食べて、ひと眠りしたら出ます。」
「わかりました。日中は好きに過ごしてください。何かあったら教会に来てください。出掛ける時は、声を掛けてくださいね。」
「はい……」
温めたスープをよそい、カレーを食べる皿を手に尋ねられる。
「寝起きでも普段通りに食べられるんですか?」
「食べれますよ。キースは?」
「私は1時間くらいは時間がほしいですね。」
「そんなに早くから起きてたんですか?何してたんですか?」
「掃除、シャワー、散歩、朝ご飯って感じです。」
「あ、掃除しようと思ってたのに……どこか残ってませんか?」
「狭い家ですからね、すぐ終わるんですよ。ノアは気にせずゆっくりして居てください。」
「じゃあ、本棚漁ってもいいですか?」
「えぇ、どうぞ。」
テーブルに朝ご飯が並ぶ。
「「いただきます。」」
2日目のカレーはより水気が抜け、もたもたと重くなっていた。
「訂正します。おやつタイムをキースと過ごしてから出掛けます。おやつ休憩取れますか?」
「ふふっ、おやつ休憩、いいですね。」
キースと少しだけでも一緒に過ごせば今日の仕事も頑張れるだろう。
「ロールケーキとフロランタン、飽きてないですか?」
「はい、全然。ノアは?」
「私も飽きてないですよ。」
「よかったです。それならまた一緒に食べられますね。」
キースが美味しいものを食べている顔は、どれだけ見ても飽きることはないだろう。
「……ノア、体調悪いですか?」
「……え?たぶん大丈夫だと思います…」
「それならいいんですけど……無理しないでくださいね。」
「はい……」
仕事に行くのが憂鬱だなぁとは思っていたけれど、まさかその感情を読み取ったのだろうか。そんなことができるのなら、とっくに俺の想いだって伝わってるはずだから、きっと違うだろう。顔色でも悪いのだろうか。
キースは歯磨きと着替えのためにリビングを出て行き、俺は皿洗いの任を進んで引き受けた。
「それじゃあ、出てすぐ見える扉から入って貰えれば執務室はすぐなのでわかると思います。何かあったら来てくださいね。」
皿を洗う背中に掛けられた声に振り返ると、黒い聖服をぴっちりと着込み、眼鏡を掛けたキースが居た。
美味しいものに綻ぶ顔でもなく、お酒に酔って蕩けた顔でもなく、軽口を叩く俺を嗜めるような冷めた顔でもない、涼やかな顔つきでハンサムだけれど無表情なキースが居た。
「……いってらっしゃい。」
きょとん、と一瞬惚けた顔を見せたけれどすぐに精悍な顔つきに戻った。
「いってきます。」
扉を出てゆく横顔に見惚れていると、ちらと一瞬だけ視線を流された。
その流し目の色気たるや。
「禁欲的でえろい……」
昨日の1日で普段着で過ごすキースへの抵抗値を獲得したと思ったら、今度は聖服姿の清廉で格好良いキースへの抵抗値が底値になっている。
思い浮かべてしまった、聖服を着た状態であられもない姿になってしまうキースは、抵抗値ゼロには刺激が強すぎて妄想は呆気なく霧散した。
それに神様を愛しているキースを聖服姿の時にあれやこれやしてしまったら、きっとふたりとも罪悪感に苛まれるだろうと、分かってしまう。
だから。
聖服に似ている服を探そうと決意する。
洗い物を終え、気付く。
「朝のコーヒー飲んでなかった……届けようかな?」
そういえば普段はコーヒーを飲んでから帰っていたけれど、今日は時間が短かったのだろうか。それとも遅くてコーヒーを飲む時間の余裕が無かったのだろうか。
キースに気が利くと思われたい一心で、豆を挽き、コーヒーを淹れる。
マグカップを2つ片手に持ち、言われた通りの扉を目指す。
扉を開けるとすぐそばに別の扉があった。
ここだろうか、と扉をノックする。
「はい?」
中から聞こえたキースの声に安堵し、扉の中を覗く。
「キース、コーヒー飲みませんか?」
「……忘れてました。わざわざありがとうございます。」
小さな執務室の突き当たりは、礼拝堂と同じように一面がガラス張りで森を眺められるようになっていた。
「狭いですけど、どうぞ。」
招き入れられた部屋の中央にある小さな応接セットに促されるも、キースがさっきまで掛けていた執務机へと近寄る。
キースの几帳面さが伺えるような、整理整頓された机の上には、すでに書類仕事を始めていたのか、書類の束がいくつも重なっている。
それらに気をつけながらキースのマグカップを置く。
扉と窓のない壁面には本棚が埋め込まれ、いずれの棚もきっちりと背表紙が並んでいた。
執務机に軽く腰を預け、朝日に照らされた森を眺めながらコーヒーを啜る。
良い場所だ。
扉は鍵付き。窓の外に人が立ち入ることはほぼ無いであろう立地。
先程霧散させたはずの妄想が、もくもくと形を成し始める。
綺麗に磨き上げられたガラスには指紋ひとつないだろう。
ガラスに映るふたり。ふたりの手の跡と吐息がガラスを汚してゆく。
後ろから抱きしめ、まさぐる。その手に翻弄され欲に溺れたキースの蕩けた顔をガラス越しに見つめる。
いいね。唆られる。
ついさっきの罪悪感のくだりはどこへやら。
コーヒーも理性も、そろそろ無くなる。
家に恋人を入れたことがないのならば、オカズが本棚に隠されている可能性は高い。
事前にクローゼットかどこかに移した可能性もあるけれど、それならば本棚には不自然な空間が出来ているだろう。
執務机用の椅子に掛けていたキースを振り返ると、こちらを見ていたのかすぐに目が合った。
「飲み終わりました?」
「はい。」
「じゃあ俺は家に戻りますね。」
キースの手からマグカップを受け取り執務室を出る。
「また後で。」
扉を閉める前に笑顔で手を振る。
探偵業開始である。
マグカップをテーブルに置き、キースの部屋に向かう。
そして本棚と対峙する。
不自然に空いた空間はなく、空いているのはまだ本を納めていない一画があるのみ。
近寄ってタイトルを眺めると、推理小説の類だと思われるものが殆ど。恋愛小説があれば好みの系統がわかるかもしれないと思ったけれど、それも無い。
そして興味を惹かれたのは、動物や植物の図鑑があること。これは面白そうだと手に取る。
結果、オカズにしているような本は見つけられなかった。つまり実物がなくても想像だけで充分なタイプか、俺と同じでオカズを使う必要がないくらいに頻度が高いタイプだろうか。
どうしても後者とは思いにくい。そもそも恋人以外と関係を持つような性格にも思えない。
慣れ過ぎていて俺の言動を軽くあしらっているのかとも思わないこともないけれど。
手に持った図鑑と共にベッドに転がる。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ノア、起きてください。」
「寝てた……もうお昼?」
「いえ、おやつの時間です。」
「え………!?」
「すいません、お昼は声を掛けても起きなかったので……ご飯食べますか?」
「食べます。シャワー浴びてすぐ行きます。」
食べる顔を一回見逃したことに落胆した。
職場でもう一度シャワーを浴びることを考え簡単に流すだけで済ませる。
出掛ける格好に着替え、昨日のパジャマと部屋着を洗濯機に放り、スイッチを押す。
リビングに行くとすでにテーブルにスープとカレーが並んでいた。
その向かいにはロールケーキの盛られた皿。
キースはカウンターで豆を挽いていた。
「食べててください。」
リビングに入ったことに気付いたキースに促される。
「ありがとうございます。」
「時間、大丈夫ですか?」
「はい、あと1時間くらいは。」
「そうですか、よかった。じゃあ食べ終わってからコーヒー淹れますね。」
「キース、先に飲んでていいですよ。」
「いえ、後で。」
豆は挽きっぱなしで放置し、テーブルに一緒に着く。
ロールケーキをちまちまと食べるキースを眺めながらカレーをがつがつと平らげてゆく。
「カレー無くなりました?」
「お代わりする分、ありますよ。」
鍋を確かめに行くとちょうど食べ切れるくらいの量が残っていた。
それを全て皿によそい、ご飯も足す。
テーブルに戻らずキッチンで立ったまま掻き込み、流しに皿を置く。
コーヒーと合わせて食べようと思っているらしく、キースのロールケーキを食べるスピードは非常にゆっくりだ。
楽しみを待たせていることが忍びなく、急ぎつつ丁寧にコーヒーを淹れる。
「あ、コーヒー……」
「待たせてすいません。」
「大丈夫ですよ。ノアもデザート食べますよね?」
キースの目の前の皿を見る。その量とお腹の空き具合から逆算する。
「2、3口だけ、ください。」
やっとで落ちたコーヒーを持ちテーブルへ戻る。
熱いコーヒーをひとくち啜ると、目の前にフォークが差し出された。
それに迷うことなく齧り付く。
3口を超えて運び続けるその手を止めるのが口惜しい。
口に差し込まれたフォークを引き抜かれないよう舌で強く抑え付け、その手から奪う。
動かないフォークにあっと驚くキースの顔も可愛い。
残っているロールケーキはあと3つ。それを割りキースに食べさせる。
初めて知った給餌の楽しさ。楽しい時間はあっと言う間に過ぎることも知らなかった。
「洗い物します。」
「じゃあ私が洗濯物干しましょうね。」
「あ、そうでした、お願いします。」
さっきの洗濯に下着は入っていないからセクハラにはならない。
洗い物を終え、歯磨きをし、部屋から仕事用のリュックを持ち急いでリビングへ戻る。
「今日の仕事も頑張れるように、おまじないが欲しいんですけど、いいですか?」
ソファに掛けて待っていたキースの両手を取り立ち上がらせる。
「キスします?」
「今はこっちの気分です。」
両腕にすっぽりとキースを閉じ込め、顔を首筋に埋める。
「お仕事、辛いですか?」
声音と同じくらい優しく、背中と頭を撫でてくれる。
「……ん。」
「逃げたくなったら、逃げてくださいね。」
「……ん。」
「ノア、私もお願いしたいことが、あるんです……」
「なんですか?」
「もし、家に、電話がある、なら……番号を、教えてください。」
か細い声で自信なさげに、こちらの様子を伺いうように辿々しく。
「……いえ、やっぱりいいです。ただの知り合いなのにこんなこと言ってすみません。忘れてくださいっ痛い!痛い!ノア!」
埋めていた顔の鼻先にあった白く細い首筋に思い切り噛み付いた。
ほんの少しの間にも耐えきれず腕の中から逃げ出そうとしたかと思えば、ただの知り合い扱いをされ堪忍袋の尾が切れた。
「キース。怒って……はないですけど、叱りますね。」
腕を解き、肩を強く掴む。
「ただの知り合いを家にあげちゃいけません!!泊めるとか以ての外です!!」
「え……」
いきなり大声を出したせいか、掴んだ肩は強張り顔には恐れが滲んだ。
「俺だったから良かったです(……いや正確にはよくない)けど、世の中には危ない人……殺人鬼とか変質者とか、わんさかいるんですよ!…….もっと警戒して。誰彼構わず信じないで。家にあげないで。」
下心ありきで通っている俺が言えたことじゃないけれど、俺のは一生大事にする系の偏愛者だから許して欲しい。
「……はい。」
「それから、俺は2回目の朝飯から友達だと思ってましたよ。」
朝活友だちって同僚には教えてたし。
「……ごめんなさい。」
「ただの知り合いと同じベッドで寝ないで。」
他人を信用しすぎていて怖い。今日の夜、困っている人が訪ねて来たら泊めてやるのだろうか。その人と仲良くなったら一緒に寝るのだろうか。
想像したそれが自分自身と重なり、境遇に大した差がないことに気付かされる。
「……でも、それは、ノアだったから……」
信用されていることが嬉しいのに、怖い。
「キース、お友だちから始めましょう。」
「……お願いします。」
こんな簡単な言葉遊びにも気付かない無垢さが、怖い。
やっぱりこの人は守るべき存在だと痛感させられた。よく今日まで無事に生きてきたものだ。大切にしたいその気持ちを証明するように優しく抱き締める。
「他のお友だちも、俺が居ない時は家にあげないでください。」
「……はい。」
信用を利用している自覚はある。けれど心配で心配で堪らない。
「電話番号教えますよ。ついでに住所も生年月日も銀行口座も、実家の方のも何でも教えますよ。」
「いえ……家の電話番号だけでいいです。明日来る予定でしょう?でももし来れなくなったりした時に電話が欲しいだけなので……番号も教えて貰わなくて大丈夫でした……」
「教えます。朝と夕方だったら起きてるから、好きな時に電話ください。」
「掛けるかなぁ……あ、また突然消えた時には電話で生存確認するので聞いておきます。」
「俺も来れない日は電話します。声が聞けるだけで少しは安心できますから。もう消えませんけど、毎日生存確認して欲しいです。」
「うーん…‥善処します?」
「自分で聞いておいてやっぱり要らないって、ひどい友人です。」
「ごめんなさい…….」
「悪いと思ってるなら電話くださいね。楽しみにしてますね。」
「わぁ…………」
「お友だちは、挨拶する時にほっぺにキスします。」
「え?」
「いってらっしゃいのキスと、お仕事頑張ってねのキスください。」
「わぁ………」
「両頬に、お願いします。」
「わぁ……」
わぁ…しか言わなくなったキースは強引過ぎる友人のお願いにドン引きしているらしく、動きがカクカクとぎこちなくなり、目は虚ろだ。差し出される頬に仕方なくキスをくれる。
「じゃあ俺からも。」
片手は腰に、もう一方は首筋に添える。
「いってきます。」
左の頬に軽く触れる。
「夜の分です。おやすみなさい。」
右の頬に、しっとりと。
「キース、大好きですよ。」
おでこに、少しだけ長く。
顔を離すと、さっきまで困惑を隠せないでいたキースは無表情になっていた。
目線を合わせているはずなのに、全く目が合っていない。
さすがに怒っただろうか。
「早く帰って来ますね。」
動じないのをいいことに、左の首筋に音を立ててキスをする。
無表情から一段、温度が下がったように見えるけれど、目も口も何も言わない。
離れ難い身体から手を離し扉へ向かう。
出る直前にキースを見たけれど、こちらを見ない横顔には何の感情も見えなかった。
お見送りをしてもらえないことは寂しいけれど、キスを贈る口実ができたことが嬉しくて、寂しさも一瞬で消えた。
友だちになりましょうと言うやりとりが無ければ、友だちになっていないと思っているあたり。
無菌室生まれ純粋培養育ちだと思いたくなるのは、ああいう瞬間。
友だちではないけれど、相手が俺だから家にあげ、一緒に眠り、お風呂に入る約束までしたと思えば、信用はもちろんのこと、好意を持たれていなければそんなことはできないだろうと自信が湧く。
下心は読めないくせに感情の変化に鋭い。図星を突くことは稀だけれど。
仕事が辛いというか、キース以外を抱きたくない。キースを抱けない鬱憤を晴らすためだけの行為になった。その気持ちに気付いてからまだ今日で2回目の仕事だけれど、すでに限界。
行為中、目を瞑れないことが辛い。客の気持ちが萎えるから禁止だと指導されている。
せめて目を瞑れたなら、妄想もしやすくなるのに。
今日は妄想のアテがある。視界を白ませるよう、努める他ない。
それしても。
俺が入り浸るつもりでいることに気付いているのだろうか。
発された言葉の数々が、これからもあの家に俺が滞在することを前提として発されていた。
洗濯も、リネン類の置き場所も、本棚も。
好きに使っていいと言っていた。
キースも俺が家に行くことを望んでいるのだろうか。もしそうならばそれは恋愛感情の可能性もある好意なのではないだろうか。
そういえば。
さっき真っ直ぐに告白したな。
大好きだと言ってキスをしたら、さすがに伝わるだろう。その返事に詰まったから無表情になったのかもしれない。
だとすれば今頃、会えないピアノの彼と、毎日でも会いたいという俺を天秤に掛けているかもしれない。
俺を、選んでくれないだろうか。
この2日で知ったキースのたくさんの表情を思い返していただけで、職場までの道のりはあっという間だった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
お読みくださりありがとうございます。