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メロディは手のひらに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
17/27

第1回 続デート。めちゃくちゃ、しんどい、



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「…‥キース?」


ソファでひとり目を覚ますと、レコードが止まり静まり返った部屋には少し西へ傾いた太陽の光が差し込んでいた。


グラスに残っている水を飲み干し立ち上がる。


固まった肩と首を解しながら、水音が聞こえる浴室へ向かう。


扉を開けカーテンを捲ると、浴槽の脇に屈むシャツの袖を捲り上げたキースを見つける。


「俺がやりますよ。」


「もう終わりますよ。今から洗濯しますけど、一緒に洗いますか?」


浴槽を擦っていた泡の付いたスポンジを持つ手を止め、肩で眼鏡の位置を直す。


「洗濯したいです。」


「少し待っていてください。」


シャワーで浴槽と手についた泡を流してゆく。


椅子に置いてあったタオルを取り、シャワーを止めたキースに手渡す。


「これですか?」


「ありがとうございます。洗濯室は隣ですよ。」


手渡したタオルで手を拭きながら浴室から移動する。


「服、取って来ます。」


浴室から数歩の距離にある部屋から、昨日投げ捨てた服と寝巻きを拾って戻る。


「洗濯機は使い方分かりますよね?洗剤はここに置いてますし、洗い終わったらここに干せますから。勝手に使ってください。一緒に回しても大丈夫ですか?」


「あ、はい、もちろん。」


「……寝巻きの替え、ありますか?」


手に持っている服の山に昨晩着ていた寝巻きを認めたらしい。


「ありま……せん。」


「貸しますね。少し小さいかもしれないですけど。」


「助かります。」


もちろん替えはあるけれど、もしかしたらとこの展開に期待して嘘を吐いた。


先に洗濯機に放り込まれているキースの服の上に自分の服を詰め込む。


「洗濯が終わるまでゆっくり待ちましょう。」


洗剤をセットし、水が流れ出したのを確認してから洗濯室を出る。


「コーヒー淹れましょうか?」


前を歩いていたキースの背中に訊ねるが、リビングに入る扉のノブを掴んだまま固まってしまった。


「……キース?」


「……カフェに戻るのを忘れていました。」


「……そうでした、俺も忘れてました。すいません。」


「いえ、食べ物はいっぱいなのでフルーツサンドを買うお腹の余裕は無かったんですけど……」


小さく溜め息を溢す、丸くなった背中を後ろから抱きしめずには居られなかった。


「近いうちに、また行きましょう。」


耳元で囁く振りをして、首筋に軽く触れるだけのキスをする。悲しみに暮れるキースはそのことに気付いていない。


キースの手の上からノブを握り扉を開け、抱きしめていた腕を解く。


「ロールケーキとフロランタン、食べませんか?」


とぼとぼと歩く背中に声を掛ける。


「食べます……」


「コーヒー豆は買っておいて正解でしたね。」


「はい……」


「キースのレコード聴きながらにしませんか?」


「はい……」


テーブルから取ったレコードをキースに渡し、自分のレコードはターンテーブルから袋へ仕舞う。


「これ、ここに置かせて貰っていいですか?」


「いいですけど、家で聞かなくていいんですか?」


「俺の部屋にはロマンチックな曲は似合わないですから。」


「じゃあ、預かりますね。」


「良かったら好きな時に聴いてください。」


「ありがとうございます。部屋の本棚に一緒に並べておくので、ノアも好きな時にどうぞ。」


「……そうさせてもらいます。」


蓄音機から流れ始めた淡く繊細なメロディは清廉で、キースによく似ていた。


そんなキースは今、皿にロールケーキを丁寧に並べている。


ひとくちで食べられる大きさのそれを花に見立てたように綺麗に並べている。


その顔は綻び、先ほどの落胆が嘘のよう。


もしあれが、大袈裟に落胆して見せ俺に慰めて貰う作戦だったなら。


だったとしても。愛おしさしか感じない。


ありもしない想定に、勝手に描いた可愛さを愛でる。


ロールケーキが花びらで、フロランタンが花柱だろうか。コーヒーが落ちるのを待つ間、皿に花を作り出すキースを眺める。


この感情が“愛おしい”という名前だと知ったのはつい最近。


コーヒーを注ぎ、テーブルに着く。


やっぱり可愛い顔は正面から眺めるに限る。


「ノア、どうぞ。」


袋の中身1/4程度にもなるだろうか。こんもりと盛られた皿をふたりの真ん中に差し出す。


「キース、あ。」


皿の中央にあるフロランタンの欠片の山から比較的大きそうな塊を手に取り、キースの口元へ差し出す。


素直に開かれた口にそれを押し込む。


指先に触れた薄い唇の柔らかさに、口の中の甘さに喜ぶ顔に、目が細くなる。


ひとくちサイズのロールケーキをフォークで半分に割り、再びキースの口元へ運ぶ。


自分でも食べようとフォークでロールケーキを割っている最中だったが、その手を止め差し出されたフォークを食む。


外食は楽しいし美味しいけれど、これができない。


割った残りを自分の口へ運ぶ。


「……眼鏡外しませんか?」


甘ったるい雰囲気を自らぶち壊す言葉が突いて出た。キースもぴたりと動きを止めてしまっている。


「すいません、何でもないです。気にしないでください。」


気にするな、はキースの台詞だろうが。

前に大きな地雷を踏み抜き、吹き飛ばされたことがトラウマになっているはずなのに。どうしても理由が気になっていることは否定できない。けれど何も今じゃなくても良かった、と心の中で頭を抱える。


あんなに嬉しそうなキースの気分を害する必要は無かった。


「……そうですね……。」


徐に眼鏡を外しテーブルに置いた。


「……え、無理してませんか?」


「えぇ、大丈夫ですよ。」


眼鏡を外した顔はやはり可愛さが増す。


急いでロールケーキを割り、キースの口元へ差し出す。


そのフォークに齧り付いたキースの顔は先ほどまでと変わらない、幸せそうな表情だった。


以前向けられた猛吹雪のような冷たく荒んだ目付きで見られなかったことに心底ほっとした反面、眼鏡の存在意義への謎が深まる。


焦り、ざわついた気持ちを落ち着かせるために、キースの機嫌を取ろうと給餌に専念する。


その給餌の手を止めさせるかのように、フロランタンを摘んだキースの指先がこちらへ差し出された。


これは。目を合わせるとキースはふっと鼻で笑い、唇へ指先で押し付けてくる。


これは。唾を飲み込み、薄く口を開ける。


そこへそっと欠片を入れ、その手で頭をわしゃりと撫でられた。


呆れを含んだような嬌笑だった。


未だ向けられている眼差しには呆れが含まれているけれど、決して嘲笑っているわけではなく慈愛が込められているのを感じる。


その表情の格好良さは反則だけれど、眼鏡を外しておいて貰ってよかった。眼鏡越しだと更に色気に当てられてしまったはずだ。


固まる俺に何を思ったのか、再びフロランタンがお届けされる。


その指先を食むと、また頭をさわりと撫でられた。


今度は俺が犬とでも思われているのだろう。


そう思ってみても、胸を叩く鼓動がうるさい。きゅっと縮まった心筋に、視界はチカチカと光を孕む。


恋に落ちるのは必然。


どきどきに混ざる安心感と心地良さに微睡み、口を開ける。


「あ。」


それに気付いたキースは、ふはっと息を吐き出して破顔し、欠片をまた口に入れてくれた。


口を開けて笑った時に見えた小さく尖った八重歯が可愛い。


キースを笑わせることができた俺は今、どんな情けない顔をしているんだろう。


髪の毛に触れる指を捕まえ、指を絡める。


こんな恋人同士のような行いにも全く動じないキースが憎らしい。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「じゃがいもは入れないんですか?」


洗濯物を干し終え、夕飯の用意を始めた。


「はい、代わりに玉ねぎをたくさん入れます。」


使うのは豚肉と玉ねぎと人参だけ。玉ねぎの皮を剥いている俺の隣でキースは人参の皮を剥いている。


キースの下着は俺と同じボクサータイプだった。でもビキニタイプも似合うと思う。


「ノアは普段、料理するんですか?」


紐で留めるタイプのもっと布面積が少ないやつも似合うと思う。


「休みの日の夜は、なるべく作るようにしてます。」


贈ったら着けて見せてくれるだろうか。


「えらいですね。」


えろくはあるけど偉くはない。今だって料理は殆どしないのに少しでも良く思われたくて誇張して伝えてしまった。


「切って煮込むだけの簡単なやつばっかりですよ。」


下着もいいけれどパジャマも贈りたい。


「私もですよ。」


俺も。キースに贈られた下着を身に付けたい。


「キースが作ったものはどれも美味しいです。」


キース自身もとても美味しいに決まってる。


「それは、ありがとうございます。」


「毎日食べたいです。」


もちろん、どちらも。


「大袈裟ですね。」


「いえ、本当に。毎日3食戴きたいです。」


本当に。キースとなら毎食後でも楽勝。


「ありがとうございます。いつでもどうぞ。」


「本当に?」


「えぇ、いいですよ。」


いつでも食べていいんですね?


「……遠慮しませんよ?」


頭の先から足の先、身体の隅々まで。


「足りない時は、何か作ればいいですからね。」


全然足りないと、求められたい。


「じゃあ、毎日来ますね。」


「好きな時に来てください。」


無警戒に俺を招き入れて、無意識に俺を煽って、無自覚に俺を堕とす、恐ろしくて可愛い生き物だ。これが誘い受けというやつか。違うか。


「御礼に何でもします。して欲しいことあったら何でも言ってください。」


シて欲しいこともいくらでも。


「毎日元気でいてくれるだけで充分ですよ。」


「それは自信あります。」


毎日元気いっぱいな自信はある。


「困りましたねぇ。」


困ってるのは俺ですよ。元気を抑える自信がないくせに常にくっついて居たくて。でも、


「困らせるのも悪くないですね。」


「悪い子ですねぇ。」


口が滑りました。


「どれくらい悪い子なのか確かめてみますか?」


悪い子はパンツの中ですよ。


「手に負えるくらいにして貰いたいです。」


「手に負えないくらいにしたいです……」


もう無理って言われるくらいにシたいです。


「わざと困らせる悪い子でしたか。」


「それは、もう。」


ひとつも噛み合わない会話。


「普段、オカズは何ですか?」


「おかずはあまり作らないですね。その代わりにスープを野菜たっぷりにしてます。」


「頻度は?」


「毎日夜作って次の日の昼まで持たせるようにしてます。」


セクハラがセクハラにならない。


皮を剥いた玉ねぎと人参をひとくちサイズに切ってゆく。


「何か、困ってることないですか?」


「ない……と思います。」


「じゃあ、何かあったら、いや、何もなくても何でも言ってください。」


「……そういえば、お菓子作ったら食べさせてくれるんでしたよね?」


「もちろん。」


「それで充分ですよ。」


「それだと俺が物足りないんですよ。背中でも流しますか?」


「背中?」


「はい、一緒にお風呂に入って洗い合いをすることで仲を深めるコミュニケーション方法です。」


「一緒にお風呂ですか……」


「マッサージもしますよ。……あんまり一緒に入ることはないですか?」


「ここに来てからは無いですね。」


「じゃあ今度一緒に入りましょうね。」


「……えぇ。」


俺自信を好きになって欲しいから快楽堕ちはさせたくないけれど、最終手段のきっかけだけはしっかりと確保しておくことにした。


「この家に恋人を入れたことは無いってことですか?」


「……はい。……ノア、何で笑ってるんですか?」


優越感に浸っていたせいで頬が緩んでしまった俺をキースが鋭く睨め付ける。


「もちろん、嬉しいからですよ。」


「……そうですか。」


ふいと顔を逸らし不機嫌そうにする顔を見るのは、なんだか久しぶりな気がする。


それがまた嬉しくなる。


「その顔も可愛いです。」


「そうですか。」


「包丁を持ってなかったら抱きしめてました。」


「ずっと持ってていいですよ。」


野菜を切り終え、肉を取り出す。


「生肉を触ってなければ抱きしめてました。」


「ずっと触っていていいですよ。」


とりつく島も無いし本意だと受け止めて貰えていないけれど、冷めた顔も可愛くて笑うしかない。


肉を切り終え、鍋に油と共に投げ込む。


「手を洗い終わったら抱きしめていいですか?」


「ずっと手を洗っていればいいと思います。」


「冷たい!」


「水ですからね。」


「キースが冷たい…」


「私は肉を炒めているので熱いです。」


「抱きしめてもいいですか?」


「火を扱ってるので危ないです……って許可してませんよ!?」


「可愛いキースが悪いです。じっとしてますから。」


「全然じっとできてないじゃないですか。なんですか、この手は。」


「ウエストのサイズを測っているだけですよ?」


「必要ありません。72センチです。」


「本当に?75センチじゃないですか?」


「服の分です。」


「そうかなぁ?直に触って測ってもいいですか?」


「こら、シャツを引き出さない。」


「はぁ。……いい匂い。」


「肉が焼けてきましたからね。そろそろ野菜入れますか?」


「……キースの匂いですよ。うーん、もう少し。」


「ノアもいい匂いですよ?もう少し?殆ど火は通ってますよ?」


「はぁ……無自覚。俺いま両手が塞がってるので野菜入れて貰ってもいいですか?」


「私の耳で遊ぶのをやめれば空くじゃないですか。」


「耳たぶが可愛いのが悪いです。」


「まったく。後でノアの耳たぶも見せてくださいね?」


「はぁ……天然なのか。」


仕方なくキースから離れ野菜を放り込む。


「玉ねぎが鍋からこぼれ落ちそうで、混ぜるのが難しいです。」


片手にヘラ、もう一方の手では鍋の取っ手を掴まないと鍋が動いて掻き混ぜるのは難しい。


「重いでしょ?代わりますよ。」


「お願いします。……ノアの耳…普通です……私の耳なにか変ですか?」


「変じゃなくて、可愛いんです。」


「……全然わかりません。」


しきりに自分の耳を指先で確かめ、俺の耳と比べている姿も可愛い。


「ウエストのサイズは測らなくていいんですか?」


「引き締まっているのは知ってますから。」


「あー、それって最初に会った時ですか?」


「はい。もう痣も消えましたか?」


「……どうでしょう?ちょっと確かめて貰えませんか?」


「……背中は大丈夫そうですね。うん、お腹も。よかったです。」


「もっと撫でてください。」


「え、まだ痛いんですか?」


「もう痛くないですよ。でもまた同じ目に遭わないように……おまじない?」


「おまじない?……こっち向いて屈んでください。」


「ん?」


「もう危ない目に遭いませんように。」


ちゅ。


昨日俺がやった酔い覚ましのおまじないを真似るように、おでこにキスをされた。


「……そういうことは、両手が空いてる時にやってください。」


「ノアがおまじない掛けてって言ったんじゃないですか。」


「そんな素敵なことが起こると思ってなかったんですよ。」


「素敵なことって。普通のことでしょ?」


「じゃあ後でもう一回やってください。」


「いいですけど、何で怒ってるんですか?」


「両手が塞がってるから?」


「あ、そろそろ混ぜるの代わりますか?」


「代わります。腕が疲れました。」


「疲れたなら早く言ってくださいよ。」


全く疲労は感じていないけれど、合法的に抱きしめられることに気付き、ひ弱さをアピールする。


「はぁ……可愛い。」


「……やっぱり私の耳、変なんですか?」


「変じゃないですよ。キースのお腹に痣はないですか?」


「ないですよ。」


「確かめてみても?」


「確かめなくても無いですよ。」


「本当に?じゃあ背中は?」


「背中もないですよ。」


「本当に?」


「今度一緒にお風呂入るんでしょう?その時に確かめてみてくださいよ。」


「そういう手がありましたね。」


「そうでしょう?」


「……危機感って言葉、知ってますか?」


こんなに身体をベタベタと触られているのに。


「知ってますよ。だから私は痣が無いんですよ?」


「……あぁぁ、はい。俺は悪くないですけど、まぁ危機感をもっと持っておけば良かったかなって、反省はしてます。」


「気をつけてくださいね。」


「はい……」


キースの無防備さに注意喚起をするつもりが、逆に諭された。悔しくて後ろから抱きしめたキースの肩に頭を乗せ、おでこを擦り付ける。


「よしよし。」


その頭をわしゃわしゃと優しく撫でられた。


無防備で放って置けなくて、守りたいと思うのに甘えたくなるこの人に、好きが加速する。


「心臓の音、聞こえますか?」


この気持ちが音から伝わればいい、と強く抱きしめてみる。


「……さすがに聞こえないですね。」


さりげなく回した手でキースの胸を抑えてみるも、その手に心拍の振動は届かない。


「……聞こえたらいいのに。」


「後で聞いてあげますよ。」


「はぁ……」


初めて自分から誰かを好きになったから、どうしたらいいのかわからないんだとばっかり思っていた。


「よしよし。」


この人に掛かれば誰でもそうなる。


他の誰にも同感されたくないし、それを証明する誰かも要らないけれど。


「はぁ……苦しい。」


「え?ノア、大丈夫ですか?」


「大丈夫じゃないけど、大丈夫です。」


「座って休んでください。」


「ここに居させてください。」


「……辛くなる前に言ってくださいね。」


「我慢できなくなったら言います。」


「我慢しなくていいのに……」


「我慢したいんです。これは俺の戦いなので。」


キースに嫌われてはいないはずだし、むしろ好かれていると思う。その好意が恋愛感情へと自ら育つまでは。


「……痛みが好ましいとか、そういう話ですか?」


がっくりと膝から力が抜けそうになった。


「……違います。でも好ましいのは合ってます。」


「………」


「黙らないでください。痛いのとか全然好きじゃないです。好きなのはキースですから。」


「ちょっと待ってください。私だって痛いのは好きじゃないですよ。変な言い掛かりを付けないでください。」


「はぁ……」


「やめてください。がっかりしないでください。私は本当に痛いのとか、っ痛いです!何で耳を齧るんですか!」


「確認と……憂さ晴らし?」


「何の確認ですか。私に当たらないでくださいよ。もう全く。そろそろ代わってください。」


「……キースも俺の耳齧ります?」


「齧りませんよ。……やっぱり?」


「違います。キースが、好きなんです。」


さっきのは文脈が良くなかった。今度は主語を明確に。


「私は好きじゃないです。混ぜるのはノアに任せますね。手と腕、痛くなりますよ。私はお米を洗いますから。」


腕の中から抜け出すキースには恥じらいも思案も無く、告白が届かなかったことを悟る。


どうやら俺はこれから被虐趣味者であるという誤解までも解いていかなければならないらしい。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



「ノアのカレーは水気が少なくてもたもたですね。玉ねぎが甘くてどろどろで美味しいです。」


普段は辛口にするけれど、今日は中辛。


「水の代わりになるくらい玉ねぎをたくさん入れてますからね。口に合ったようで良かったです。キースが作ってくれたカブのスープも美味しいです。」


「そうですか?自分で作ったサラサラしたカレーよりもこっちの方が好みです。」


「いつでも作りますよ。」


「はい、またお願いします。」


「でもキースが作ったカレーも食べたいです。」


「じゃあ、今度作りますね。」


俺が作ったものをどう思うだろうかと少しだけ緊張したけれど、美味しそうに食べてくれている緩んだ顔に気張った気持ちが解れる。


「明日の昼までカレーですね。作り過ぎました。」


「たくさん食べられて嬉しいです。」


その言葉にも嘘がないことを表情が教えてくれる。外食の時よりも煌びやかさは劣るけれど、しっかりと輝いている。


「俺も、嬉しいです。」


味の決め手が市販のカレールウだとしても。


お代わりをよそって戻ったキースの皿にはカレーがたくさんにご飯が少し。


その割合に、こそばゆさと充足感を覚えた。


「今日は美味しいものを食べ過ぎたので、夜のデザートは無しです。」


食器を洗うキースがキリリと告げた。


その引き締めた表情を横目に見つつ、冷蔵庫から取り出したそれを躊躇いなく開け、スプーンを抽斗から取り出し、キースの隣へ戻る。


スプーンで掬った白いそれは、ぷるぷると揺れ甘く爽やかな香りを立てている。


「あ。」


促すと、キースは眉を下げ悲しそうにしながらも口を開けた。


「……美味しいです。」


「杏仁豆腐はデザートじゃなくてお口直しですよ。」


「ノア……半分食べますよね?」


言い分を責めるように、上目遣いに見上げる目には懇願と恨みが込められていた。


「はい、半分こです。」


ひとくち頬張ってから再びキースに差し出す。


言葉とは裏腹に、もう少しで終わりそうだったのに皿を洗う手を止め、杏仁豆腐を心待ちにしている。


ふたりで食べるには少なすぎるけれど、今はこれくらいが丁度良い。


「味が濃いものを食べた後の杏仁豆腐、美味しいです。いつの間に買ったんですか?」


残していた皿と、今し方使ったスプーンを洗いながら悔しそうにキースが呟く。


「お店で、籠に入れたの気付いてなかったんですね。」


「……その節は、ご迷惑をおかけしました……」


「いいんですよ。怒った時には怒ってるって教えて貰えるんですよね?」


「はい。……ノアも、教えてくれますか?」


「いいですね。俺も言うようにします。」


「……怒らせたくないものです。」


「お揃いですね。俺も怒らせたくないです。……なんで不思議そうにするんです?」


「ノアがそんなことを気にするとは思ってなかったです。」


「気にしますよ。怒らせたくないし、傷付けたくないし、嫌われたくないですから。」


「……お揃いですね。」


気恥ずかしいのか薄らとはにかむキースの横顔。


「どうしてそう思うのか、理由を考えてみてください。」


「……え?」


「いえ。もうお風呂入りますか?」


「そうですね、お風呂に入ってからのんびりしましょうか。一緒に入りますか?」


「それは……いつかの楽しみに取っておきます。」


「そうですか?じゃあ今日もお先にどうぞ。」


「はい……」


促されるまま真っ直ぐ浴室に入ってしまい、下着も寝巻きも無く、洗い終わった身体に巻き付けたタオルで腰から下を隠しリビングへ戻る。


「こんな格好ですいません。寝巻き借りてもいいですか?」


「そうでした、忘れてました。そこの部屋クローゼットなんです。タオル類もここにあるので何か足りない時はここから取って使ってください。……寝巻き、これでいいですか?」


椅子から立ち上がり、リビングを出てすぐ隣の部屋に案内された。


取り出した寝巻きは昨日キースが着ていたものと同じタイプ。


「はい。借ります。あとは部屋で着替えるので、浴室使ってください。」


寝巻き片手に部屋へ戻り、クローゼットから下着を取り出す。


下着を付け、寝巻きを着る。キースのように上衣の中に半袖を着込むようなことはしない。


「脱いだ服、浴室に置いたままだ……」


今戻ればラッキースケベがあるかもしれない。


そう思いつつリビングへ向かい、ソファに掛けタオルで髪の毛を乾かしながら煩悶とする。


最初にお風呂に入ることを誘った時に少しだけ躊躇うような素振りが見えた気がしたけれど、やはり全く意識されていない。


あの彼が好きならば恋愛対象に男性も入るだろうに、半裸を晒しても反応は無かった。


悔しさと不可思議さが半分ずつ。


テーブルに置かれたままの眼鏡に答えを訊ねても返事はない。


「ノア、寝巻き小さくないですか?」


浴室から戻ったキースは昨日とは色違いの淡い菫色の寝巻きを身につけている。


その寝巻きがつるつるとしていて柔らかく、手によく馴染むことを知っている。


「ほら、大丈夫でしょ?」


「ん、なんか、違う。」


首元はボタンはひとつだけ掛けずにいることだろうか、中に半袖を着ていないことだろうか。


「あぁ、腰で履いてるんですよ、ほら。」


視線が下半身にばかり向くものだから合点がいった。上衣を持ち上げ、下着が覗くほどに下げた位置で履いているズボンを見せてやる。


「わ………」


「触ります?」


「いいんですか?」


目が悪い訳でもないのに顔をお臍へ寄せ、躊躇いながらも伸ばした指先が腹直筋に触れ、段差を確かめるようそろりそろりと下へ進む。


さらに腸骨の内側を腹斜筋に沿ってなぞり、下着へ向けてつつと指先を滑らせてゆく。


「……やっぱり、きれいですね。」


下腹部を凝視していた視線を上げ、憧憬の眼差しを向けられる。


「そうですか?普通ですよ。」


誘うためのスキンシップではない、人体への純粋な興味。


「普通がわからないですけど、背中も綺麗でしたよ。」


「……いくらでも見せますよ。」


熱を孕まない、ただの憧れだとわかっていても動揺を隠せない。


「すいません、見すぎました。」


上げていた服裾をそっと下ろす。


「服、洗濯室に置いて来ます。」


「浴室にあったやつですか?それなら私のと併せてもう洗濯機に入れて来ましたけど。」


「ありがとうございます。じゃあトイレ行ってきます。」


今更たったあれしきのことで照れるような経験値ではないはずなのに。


「恥ず……」


手洗い場の鏡に映る顔は紅潮していた。


忽然と消えた経験値という名の優位性。


「童貞かよ……」


視界に入る身に付けたキースのパジャマにもそわそわとし始める始末。


こんな体たらくでどうして一緒にお風呂に入れるだろうか。


手を洗いリビングへ戻る。


ソファで本を読んでいるキースの隣へ掛け、置きっぱなしにしていたお菓子作りの本を手に取る。


キースは今日も猫の本を読んでいる。


ぱらぱらと捲り確認すると、レシピはページを追うごとに難易度が上がってゆくらしい。


先頭ページへと戻り、作れるものかどうか、キースが好むかどうか思考する。


材料が少なく、工程が少なく、まずはオーブンを使わないものから。


朝ご飯を買う時に一緒に通りで買える材料ならば尚良い。


そしてチョコレート味のもの。


これもあれも、それも良さそうだ。さてどれから作ろうか。


敢えて太腿が触れる距離に座っていた肩に、予想通り重みが掛かる。


柔らかな髪の毛に頬擦りする。


「どれも美味しそうですね。」


ギクリと肩を揺らす。全然寝てなかった。


「……どれがいいですか?これとこれと、これだったら。」


当たり前のことですよと虚勢を張るように頬擦りを再開させながら、指を指す。


「どれも、いいですねぇ。」


「いずれ全部作りますよ。一番最初に食べたいやつ、教えてください。」


「じゃあ、今の気分で……これで。」


「りょーかいです。」


「楽しみですね。」


「明日の夜、仕事行きますけど、ここに帰って来て、作ってもいいですか?」


「私は構わないですけど……」


「じゃあ、材料と朝ご飯買って、帰って来ます。」


「はい……」


声音からは躊躇いが少しだけ感じ取れたけれど、迷惑だったろうか。それとも喜んでくれているだろうか。顔を見たら分かっただろうか。頬擦りを止めることなく考える。


閉じられた猫の本。俺の手の中にある本のページを横から捲ってゆく指先。


溜め息がキースの髪の毛を揺らす。


薄い生地のパジャマから伝わる体温が、距離の近さを教えてくれる。


「ベッド、行きます?」


情炎を込め、湿度の高い声を意識して出す。


「はい……」


この目に宿る情火に気付いてほしい。


閉じた本2冊を持ち、誘いに応じた指先を掬い上げる。


扉を開け向かうのは昨日と同じくキースの部屋。


持って来た本をどうしようかとキースに渡すと、そのままサイドテーブルに流された。


これは意図が伝わっているのではないだろうかと思わされる。


繋いだ手にベッドへ引き込むのは、仰向けに横たわるキース。


覆い被さらずにいられない。


拒絶されないその体勢に期待する。


下から伸ばされた手に、首の裏を押さえられ、ゆっくりゆっくりと引き寄せられる。


身体の支えが、手のひらから肘へ。


キースの空いている片手が、頬へと添えられる。


呼吸は、もう、ずっと忘れてる。


鼻と鼻が、もう少しで、触れる。


今日1日、全く通じなかった想いがあの一言で伝わるなんて。


その唇に触れたら、もっと伝わる。


顎を上げたキースと見つめ合う。


ちゅ。


更に顎を上げたキースの唇が捉えたものは、おでこ。


「……おまじない。」


「ノア、重い、ノア、ノア、」


身体の下で凶悪な生き物が喚いている。


「めちゃくちゃ期待した……」


「後で、もう一回って、約束、したから、ノア、重い、」


ばしばしと背中を叩いている。


「キースが約束を破らない誠実な人だってわかったので、俺も誠実に約束します。」


「ノア、苦し、」


「絶対泣かせます。」


「ノア、も、泣いてる、苦し、」


涙を滲ませた瞳に、湧き上がる欲望を必死に噛み殺す。


「しんど……」


キースを押し潰すことをやめ、隣に仰向けに転がり腕で視界を遮る。


「しんどいのはこっちですよ、死ぬかと思いました。」


腕を揺すり不満をぶつけてくる可愛い生き物。


「その言葉、絶対また言わせます。」


「やだ、もう言わないですよ。」


「やだ、もう無理って、絶対言わせます。」


「わかんないけどノアが怖い。どうしよ。怒ってる?怒ってます?」


「怒ってはいないです。なんだろ、こう、むしゃくしゃします。」


「どうしよ。とりあえず、ごめんなさい?」


「本当に悪いと思ってます?」


「わからないけど、思ってます、たぶん。」


「悪いと思ってるならキスしてください。」


「理屈がわからない。でもごめんね?」


再びおでこに落とされる優しいキス。


「ついでなんで、ほっぺにおやすみなさいのキスください。」


「えぇぇぇ、すっごい怒ってる。どうしよ。ほっぺ?腕退けていい?」


顔を覆う腕を持ち上げ、唇を近付ける顔を至近距離で見てしまう。


「っ…….」


「ノア、なんか、ごめんね?」


焦ると敬語が外れるところも可愛い。


「そっか、ノア身体横に向けて。」


まだ顔を隠して居たいのに、横を向けと強制され、腕で顔を隠したまま横を向く。


これが惚れた弱みか。違うか。嫌でも何でも言うことを聞きたくなってしまう。


横向きになった胸に飛び込んできた温もり。


驚き腕を外すと、そこには胸にぴったりと顔を寄せるキース。


もう、何してるの、この可愛い人は。


再び顔を手で覆う。


「ごめんね、忘れてたわけじゃないから。」


誰と話してるんだろう、と思うくらいに行動が理解できない。


「…….すごく早い。……怒ってる?」


「鼓動が早くなる理由はたくさんあると思います。正解に辿り着いてくださいね。」


「え、何で問題形式……」


「当ててほしいです。」


「えぇぇ、聞いてほしいって言われたから聞いただけなのに。」


「解答は当たるまで何度でも。挑戦待ってます。」


「……怒ってるからじゃないの?」


「怒ってないです。怒った時は言うって約束しましたから。」


「じゃあ、なんでだろう…….」


ただでさえ早くなった鼓動を収めようと努めているのに、胸に当たる温もりに聞かれていると意識してしまい、再び羞恥で早くなる。


それをただただ繰り返している。


「すぅ」


胸元から聞こえてきたのは健やかな寝息。


なんでこんな状況で寝れるんだろう。


「あぁ、もう。」


胸にすっぽり収まったまま、耳を胸に当てたまま、ほんの少し放って置いただけで眠っている。


呆れ果て、うるさかった拍動も治ってゆく。


毛布を引っ張り上げ、掛けてやる。


太腿を割ったそこに脚を絡め身体を少し引き上げる。


背中に回した手で背骨を数え、腰骨をなぞる。


約束の果たし方が際どすぎる。めちゃくちゃえろかった。絶対誘ってると思ったのに。


思い出しては苛立ち、届く範囲で手当たり次第にキスをする。


弄ばれるのも悪くない。けれど今の経験値が消滅した俺では心臓が持たない。ラッキースケベのスケベが度を超えている。


帰って来い経験値。


世界の各地に飛び散った経験値を取り戻す旅に出て、手掛かりもなく姿形もわからないそれを血眼になって探すけれど、とうとう見つからず諦めて戻った頃にはキースが他の誰かと幸せになっている。


そんな夢を見た。


夜中に目が覚め、変わらず腕の中にいるキースに安堵し再び眠りに落ちた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



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