第1回デート。抱きしめて、開けて、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「ドーナツは森に入ってからにしましょうか?歩きながら食べれますか?」
「……森に入ってからにします。」
喧騒から少しずつ遠ざかってゆく。
「……キース、さっき怒ってました?」
「……怒ってないですよ?」
横並びで歩く俺を見上げ首を傾げる。
「ずっと……最初にドーナツの屋台から離れた時から黙り込んでたじゃないですか。」
「……あ、それは、すいません……」
「何か考え事でもしてたんですか?」
すぐに返らない答えにキースを盗み見ると、視線を足下に落とし悲しそうにしている。踏み込まない方が良かったかもしれない。
「……言いたく、なかったら……」
「……ドーナツ、」
ふたりの言葉が重なる。待って欲しい。
「キース?……ドーナツ?」
「……ドーナツ、どれにしようか、悩んで、ました。」
待って欲しい。あの瞬間からずっと10択に悩まされていたのか?それであの冷え切った表情だったのか?
悲しそうな顔だと思ったけれど、今は恥ずかしそうに俯いている。本当に待って欲しい。
なんで森があんなに遠いんだ。
こんな往来では抱きしめられない。
森に入ってから聞けばよかったと、深い後悔を長く重い溜め息に乗せる。
「……、はぁーーーーーっ」
「態度悪かったですよね、すみませんでした。」
「……尋常じゃない。」
尋常ではない可愛さが理性の許容値を超えそうで溢れないように頭を振る。
「ノア、ごめんなさい。」
逆に今度は俺が怒っていると勘違いし、眉を下げ縋るような悲しい顔で見上げてくる。その表情も非常に唆られるので、使うのはもう少し……森まで待って欲しい。
「謝る必要はないです。それに俺は怒ってませんよ。でも、ただじゃおきません。」
そうは言ってみても、やはり怒っていると解釈したらしく、しゅんと項垂れ懇願するのもやめてしまった。
森まで走って行きたい気持ちを抑えるのにいっぱいいっぱいだ。
やっとで辿り着いた、往来からの人目も届かない程度に森へ踏み入ったところで立ち止まり、両手に持っていたジュースを一旦草地に置く。
キースが手に持っていたドーナツを受け取り籠へ一旦入れてから草地へ。
「……抱きしめてもいいですか?」
我慢し過ぎたからか指がわきわきと動く。
向かい合うように立ち、今までよく耐えたと自分を褒める。向かい合ったキースは悲しげな表情のまま状況が飲み込めずに首を傾げる。
了承を得られたわけではないけれど、抵抗もされなかったので勝手に両腕でしっかりと抱え込む。
抱きしめた身体は、咄嗟のことに少しだけ強張った。
ずっとドーナツのことを考えていたことを告白し、恥ずかしそうに俯いた天使を愛でる前に。
「さっきは、怒ってるって勘違いしてすいませんでした。嫌われたかもしれないって思ったら不安で。今後もし怒らせてしまった時には、怒ってるって言葉で教えてくれませんか?」
強張っていた身体から力が抜け、少し体重を預けられたように感じた。
「……わかりました。」
抱きしめ返してはくれない両手は自身のズボンを握り締めている。
キスがしたい。
腕を緩め、少しだけ身体を離した。
顎を掬い上げようかと手を伸ばすより先に、徐にこちらをキースが見上げた。
その表情に居ても立っても居られず、強く優しく抱きしめた。
そしてゆっくりと頭を撫でる。
さっきのように恥ずかしがるように照れた顔をしているとばかり思っていた。その表情をさらにキスで崩してやろうなんて悪巧みをしていたのに。
どうして寂しさを取り繕うように笑ったんだろう。
キスで有耶無耶にしてはいけない、丸め込んではいけない何かがあった。
「俺が居ますよ。」
脈絡も無くそんなことを口走る。
「………ドーナツ、食べましょう。」
もう一度ぎゅっと強く抱きしめてから解放してやる。
草地に置いた籠を腕に掛け、そこから取り出したドーナツをキースに手渡してからジュースを両手に持つ。
「まだ温かいですね。先に食べてください。」
「……はい。」
キースはドーナツを手で半分に割ろうと苦戦している。
「齧り付いた方が、ココナッツを落とさずに食べられると思いますよ。」
適当なことを言ったのに、それを疑わずに齧り付いた素直なキースの瞳が途端に輝き出し、さっきまでの表情はドーナツに上塗りされてゆく。
男の握り拳の半分ほどもあろうかという大きさのドーナツを小さな口で3口。
半分食べましたよと告げるようにこちらを伺う。
「あとひとくち食べてください。」
これは半分よりも多くキースに食べさせるための作戦で。
素直にもうひとくち齧り、飲み込んでから再びこちらを伺うので、口を開ける。
口元に差し出されたドーナツに普段よりも小さく齧り付く。
「もうひとくち食べてください。」
キースに食べさせて貰うための作戦で。
自分が齧った跡をキースに食べさせるための作戦だ。
さらに小さくなった最後のひとくちを再度口に運んで貰う。
このために手を繋ぐのを我慢し、ずっとジュースを両手に持っていたのだ。
「ジュースはどっちから飲みますか?」
「じゃあ、いちごで……」
いちごのジュースを手渡し、ドーナツの包み紙を受け取り籠に仕舞う。
キースがひとくち飲むのを見てから自分も桃のジュースを飲む。
いちごジュースに満足げな表情を確かめてから口元に桃のジュースのストローを差し出す。
ゆっくりとした歩調であっても飲み辛いのか差し出した手を捕まえてからストローを食む。
桃のジュースにもご満悦のご様子。
キースもそれを真似ていちごジュースを差し出して来たので、手を捕まえるところから真似させて貰った。
ジュースの美味しさよりも作戦勝ちに心が満たされる。
ただの間接キスに必死になりすぎている自分が格好悪くて笑える。
ゆっくりゆっくり飲んでいたジュースも家までの道のり半ばで無くなってしまう。
「ノア、今日はすごく楽しかったです。」
「俺も、楽しかったです。」
「……ありがとうございました。」
教会が小さく見え始めてきたけれど、家に着くまでがデート。
「……手、繋いでくれますか?」
「いいですよ。」
家に着いたら、残りの半日はお家デートのつもりでいるけれど。
「今日も泊めてくれますか?」
「いいですよ。」
いとも簡単に、あっさりと許可が下りた。
「今日も一緒に、寝ていいですか?」
「いいですよ。」
あと何回、一緒に寝たら意識してくれるようになるだろうか。
一緒に寝るたび、ピアノの彼への恋心が薄れていけばいいのに。
「私もリュック買おうかな……」
独り言らしい呟きもしっかり拾う。
「買わなくていいですよ。」
「……え、どうしてですか?」
聞こえていると思っていなかったらしい。
「これがあるじゃないですか。」
背中を目線で示す。
「……貸してくれるんですか?」
「はい、使っていいですよ。だから俺が居ない時は好きに使ってください。でも、次も一緒に行きます。」
キースの買い出しの日には今後同行するつもりだ。今日の半日で独り歩きさせることに不安を覚えた。
「えっと、ありがとうございます。じゃあ、またノアがお休みの日には一緒に行きますか?」
「休みの日じゃなくても大丈夫です。」
「それはだめです。ちゃんと休まないと夜のお仕事に響きます。」
「……それなら、待ち合わせしませんか?」
「待ち合わせ?」
「はい、今日くらいの時間にカフェで。それで一緒に朝ご飯食べて、買い物して、帰ってきて、夜まで休ませて貰えれば仕事に響かないと思いませんか?」
「それなら、いいのかな?でも街で解散した方が休めるんじゃないですか?」
「それだと心が休まらないんです。」
「そうなんですか?」
「はい。心配で眠れません。」
「それなら、いいのかな?」
「はい、そうしましょう。」
キースはあちらへ首を傾げては、こちらへ首を傾げている。俺が居ない間にどこかの誰かがキースに近寄りやしないかと心配でならなち俺の気持ちが理解できないらしい。
言葉にしない気持ちを理解のしようもない話ではあるけれど、強引に次の約束も取り付けたところで家に着く。
とりあえずキッチンのカウンターにリュックと籠を下ろし、荷解きは後回しに手を洗いうがいをするキースの真似をする。
荷解きをするキースを手伝いながら、どこに何を収納しているのか把握してゆく。
「ノアは重いもの背負ってくれたので疲れてます。休んでください。」
手に水の入ったグラスを持たされ、ソファへと追いやると、キースは部屋へ行ってしまう。
「ノア、開けてください!」
着替えでもするのだろうか、と水をちびちびと飲みながら戻るのを待っていると扉の向こうからキースの声がした。
慌てて立ち上がりグラスを持ったまま扉を開けると、キースが両手に蓄音機を抱えていた。
それをソファ横のミニチェストの上へそっと設置した。
これを取りに部屋に行ったのか。戻る時には両手が塞がっていることに予め気付かなかったのか、癖で扉をきちんと閉めてしまったのか。どちらにせよ可愛いな。
「レコードを聴きながらひと休みましょう。ノアのレコードからでいいですか?」
「いいですね。聴きましょう。」
籠に入れたままだったレコードと本を取りに行く。
キースのレコードと本はテーブルに置き、丁寧に袋を開ける。
ターンテーブルや針を調整してくれているキースのところへ指に乗せたレコードを慎重に運び、セットする。
キースの分の水がないことに気付きキッチンへ行く。
本来グラスを置くべきサイドデスクが蓄音機に占領されてしまったため、ソファの後ろにある窓台にグラスを並べて置く。
テーブルに置いた本を持ち、セットを終えたキースが先に待つソファへ掛ける。
最初の曲は店で一度聴いているので特に衝撃は無かったけれど、やはりいい声だ。
「包容力のある、素敵な歌声ですね。」
キースが褒めてくれるのならば歌の練習だって厭わないけれど、外国語がわからない。
「気に入ってくれましたか?」
「えぇ。初めて聴くのに、メロディも耳馴染みが良いのが不思議です。」
「気に入るのは曲だけにしてくださいね。」
「ん?」
この歌手を好きになられたら堪らない。色気たっぷりでチャーミングだと話に聞いたことがある。
今回のレコードに収録されているのはバラードばかりらしい。ゆったりまったりと続き、欠伸が出る。
朝も早かったし、たくさん歩いてたくさん食べたからなぁ、とキースを見るとすでに目を瞑り背もたれに頭を預けていた。
太腿と太腿が触れるように身を寄せ、背もたれに預けた頭を肩へと移す。
キースが見ていないところで読もうと思っていた歌詞カードを本の隙間から抜き取り開く。
思った通りバラードばかりで、12曲も入っているうちの1曲目から順番に歌詞に目を通してゆく。
“出会いは偶然でも、恋に落ちるのは必然”
“それは私だけの法則なの?”
どうりで曲の雰囲気が今の気分に合っているわけだ、と苦笑する。
そこにふたりが結ばれたことを意味する言葉はない。
けれど歌声に悲壮感は全く無かった。現状の自分の気持ちを揶揄うような、陽気で甘くしっとりとした歌声だったのに。
今流れているのは4曲目。
別れた恋人を忘れられずにひとりで恋心にもがく愚かしさを、ずしりとした力強い低音で歌っている。
その盛り上がった曲の余韻のように静かに流れ始めた5曲目は、子守唄のように優しいメロディと囁くような柔らかい歌声。
“可愛い人、私を愛して”
“愛しい人、私を求めて”
“深くどこまでも私で満たされて”
“私の全てをあなたのものにしてほしい”
羞恥で顔に熱が集まる。まるでキースに寄せる想いを代弁されてしまったよう。いくら強気で攻めているつもりでいても、その根本はこんなにも。心を裸にされたようで、ただただ恥ずかしくなる。
はぁ。
「贈り物ですか?」
あの店員は目線でキースに贈るのかと訊ねた。なんで彼女に俺の気持ちがバレているんだ。心の声が聞こえるのか。
この歌詞カードは見られないように隠しておこうと決意し、本に再び挟み込む。
そのまま本を閉じ、肩に乗せたキースの頭に凭れ頬擦りする。
この歌詞カードをもしキースが読んだならと想像し、思い起こす相手が自分ではないのだと気付き、上がっていた熱も次第に下がってゆく。
キースの片手を取り、そこに指を絡める。
恋人繋ぎと呼ばれるこの繋ぎ方を見て、キースの思考を少しでも揺さぶることはできないだろうか。
絡めた親指でキースの手の甲を摩る。
目を閉じ、優しいメロディに誘われ眠りに落ちてゆく。落ちた先も柔らかく温かかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
お読みくださりありがとうございます。