第1回デート。絶対、食べたい、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
かららんころろん。
見渡す限り所狭しと立ち並ぶ本棚には、天井までずらりと本が並ぶ。
更に平積みにして並べられた本もある。
2階で流しているレコードの音色が微かに店内を揺蕩うほどに静まり返っている。
天井までの高い本棚を見上げ、薄らと口を開けているキースの耳元へ口を寄せる。
「好きに見てください。」
こちらを一瞥もせず、しっかりと頷くキースはすでに本のタイトルを目で追っているようだった。
やはり耳は弱くないらしい。
今朝も少しだけ期待して囁いてみたけれど、耳が弱い人はそれらしい雰囲気の時じゃなくても無条件に反応してしまうものだから。
カテゴリーの書かれてあるタグや、代表的な作品は背表紙ではなく表紙が見えるように並べられているため、そこに並べられた本がどんなジャンルなのかは割とわかりやすい。
集中しているキースの邪魔にならないよう手を離し、ゆっくりと少しずつ前進するのに合わせてついてゆく。
平積みされた本から徐々に視線を上げてゆき、天井に辿り着いたらまた平積みへ戻る。
その動作を纏められたカテゴリーごとに繰り返してゆく。
暫く同じ位置に縫い留められる視線を追っては、その先にあるどれがキースの興味を引いているものなのか推理をする。
このままいくと、店内の全てのカテゴリーを確認するのではないだろうか。
たくさんの書籍に囲まれてそれらを熱心に眺める様は、眼鏡を掛け理知的な雰囲気のキースから一層知的な色気を引き出している。
美味しいものを食べている時とはまた違う、真剣な眼差しは知識欲を湛えた輝きを見せてくれる。
時折り腕を組んだり、さらに顎に指先を当てたりするたびに張ったシャツが胸や二の腕、肩や肩甲骨を顕にしてゆくのを舐めるように見つめる俺の眼差しが湛えているものは。
腰に手を当てた時にわかる脇腹の厚みに、昨晩は腰やお腹には触らなかったなと後悔しては今晩も一緒に眠るための策を練っているのだから、知的探究心に他ならないだろう。
ふっと和らいだキースの目元に、次は何の本を見ているのだろうかと目を向けた先にあったのはレシピ本。
当初持っていた目的のひとつを思い出し自らも本棚と向かい合う。
もしキースにお菓子を贈るとしたら、チョコレートは外せない。
初心者でも挑戦しやすく、チョコレートを使うお菓子、そこに的を絞りタイトルから予想を立て本を引き抜いてはページを捲り、材料、道具、手順を確認してゆく。
何冊か中身を検めたうちの1冊を持参している籠に入れ、少し離れてしまったキースの隣へと戻る。
結局キースは全ての本棚を確認しただけで何も選ばなかった。興味を惹かれた本は何冊もあったようだけれど、どれも表紙や背表紙をじっくりと眺めるだけで手に取ることもしなかった。
「……お待たせしました。」
「じゃあ2階に行きましょうか。」
ちょうど真ん中あたりに会計のためのスペースと2階に上がる階段がある。
そちらへと先導し、ゆっくりと階段を登る。
「ノア、お菓子を作るんですか?」
数段下からキースが籠の中に入れられた本に気付き訊ねてくる。
「作ったことはないんですけど、これから上手になろうと思ってます。」
足を止め、振り返る。
「作ったら食べてくれますか?」
それに倣って足を止めたキースは、不思議そうにこちらを見上げている。
「……いいんですか?」
「もちろんです。」
あなたに食べて貰いたいから作るんです。
「美味しく出来るかわからないですけどね。」
美味しいと喜んでくれるものを作りたい気持ちはあるけれど、それに実力と結果が伴うとは限らないから付け加えておく。
「……きっと美味しいですよ。楽しみにしていますね。」
優しく慈愛に満ちた微笑みと共に向けられる言葉には神父らしさが滲んでいた。
1階の半分ほどの広さしかない2階のフロアは、半分はレコードが並べられ、もう半分には蓄音機が並べられている。
レコードがぎっしりと並べられている棚は1階の本棚とは違い天井までではないけれど、それでも俺の身長でギリギリ最上段に届く程度には高さがあった。
音楽のジャンルごとに棚を使い分け、その中で更に作曲家、演奏者、歌手に分類されていた。
「普段はどんなジャンルを聴いてるんですか?」
キースの部屋に入りはしたけれど、本棚をじっくりと見る時間的な余裕はなかった。
「ピアノソロが多いです。ノアはどうですか?」
「俺は歌が入ってるやつですね。舞台とか歌劇で気に入った曲があれば買いに来るって感じです。」
「舞台や劇ですか……」
「前はたまに行く機会があったので。でも最近は全く行ってないです。」
口早に弁明してしまったが怪しまれていないだろうか。
流行り物が好きな恋人や、仕事の一環として客の付き添いで行ったことしかない。それをキースには知られたくないと無性に思ってしまった。
「住む世界が違いますね。」
なぜか眩しそうに目を細めてこちらを見るキースは小声でそう言った、と思う。
深掘りされることを避けるためにその呟きは聞こえなかった体を装い、レコードに目を走らせる。
「あそこにいる店の人に頼めば、試し聞きさせて貰えるので気になったものは頼むといいですよ。」
「それは助かりますね。」
そう言ってキースはピアノソロがありそうな棚へと歩いて行った。
その背に付いて行きたい気持ちを未だ残る気まずさが引き留めるため、好きな歌手の新しいレコードが出ていないかを確認することにする。
好きな男性歌手がいる。陽気で力強い曲を艶っぽく歌う人で、初めて聴いた時にたちまち好きになってしまった。しかも曲調が変わっても何故かどの曲も気に入ってしまう。
その人のレコードは店にある全てを買ってある。来るたびに新譜がないか確かめているため置かれた場所も把握済み。
向かった棚には目立つように表紙を向けて置かれたレコードがあった。一目で新譜だとわかるそれを一枚を取り出す。
予期していなかった収穫にほくほくで、行儀が悪いけれど収録曲や紹介文を読みながらキースの元へ向かう。
「何かありましたか?」
レコードを持っているキースに声を掛ける。
「いえ、曲のタイトルを聞いておけばよかったです……」
聞く相手は言わずもがな。
ほくほくしていた気持ちに差し込む冷たい隙間風。
けれどその言葉から、会話の糸口になりそうなそんなありふれた話題でさえふたりの間には出る機会が無かったのだと曲解することで優越感をなんとか保つ。
「この中から気に入ってる曲を探し出すのは苦労しそうですね。もしそれが有名な曲なら、あの店員に聞けばわかるかもしれないですよ。」
「いえ、やめておきます……」
名残惜しそうなキースには悪いけれど、彼に繋がるものを自ら手放そうとしている姿に満足感を覚えてしまう。
「俺は一応試し聞きをお願いするやつがあるんですけど、キースはありますか?」
「好きな作曲家のレコードがあったので、それを聴いてみたいです……」
そう言い棚から引き出したレコードを受け取り、店員の元へ向かう。
「すいません、この2枚の試し聞きをお願いします。」
カウンターに居た店員は同じくらいの年頃の女性だった。
「どちらから聞きますか?」
キースが選んだ方をすかさず指差す。
「こっちで。」
袋から取り出し蓄音機にセットするのをじっと見守る。
キースが好きな作曲家はどんな人なんだろうか。どんな曲を作る人なのだろう。
店内に聞こえるように流していたレコードの代わりに流れ出した音色は、淡く繊細に煌めいているような曲だった。
キースの聴き惚れる表情も、曲に負けないくらいに綺麗だった。
試し聞きは2、3分程度。
交換の間の空白の時間を挟み、次に流れ出したのは俺の好きな歌手の、柔らかくゆったりとした低音の歌声。外国語で歌われているから内容はわからない。それなのにバラードだと確信してしまうほどの甘やかな囁き。これもやはり出だしを聞いただけで気に入ってしまった。
「贈り物ですか?」
女性店員が音量を抑えた声で、意味ありげにキースへ目配せをしつつ訊ねてくる。
それに促されちらと目を向けた先のキースは自分の選んだレコードの紹介文を熱心に読んでいるため、こちらには全く気付いていない。
「いえ、そういうわけではないですけど……」
彼女に合わせこちらも声を抑えてしまう。
「今回は翻訳された歌詞カードが入っていますから。」
目付きを一層険しくし、抑えた音量なのに脅すような凄みを滲ませる女性店員に助言される。
「は、はい……」
袋に入れ直したレコードを手渡されるのを及び腰になりながらしっかりと受け取る。
「……ありがとうございました。」
キースが目線を向けた途端、彼女はつい先ほどまでの猛禽類のような目付きを引っ込め微笑む。
「お買い上げ、ありがとうございます。またどうぞ。」
この女性店員に会ったことはないけれど、他の店員にも俺はまたどうぞなど言われたことがない。
キースの手からもレコードを受け取り籠へ一緒に入れ、空いた手を握り会計を目指す。
ここでもまたキースは気に入られたらしい。男女問わず好ましく思われる外見と人柄なのは同意だけれど、会う人会う人全てに好かれていては俺の気が休まらない。
他に階段を使う客が居なかったのをいいことに、手を繋いだまま横並びで階下へ降りる。
1階は手を繋いで歩くのは難しい通路幅だったので、会計を済ませ外に出るまで握れないことに舌打ちをしたくなる。
かららんころろん。
「いいお店でした。教えてくれてありがとうございます。」
外に出るとキースが満足げな柔らかい表情でお礼を伝えてくれるけれど、そんな可愛い顔を他の誰が見ているともしれない場所で無防備に晒さないで欲しい。
「次も、一緒に来ましょうね。」
俺が抱く危機感など気付きもせず頷き返すその魅力的な笑顔も他の人に見せて欲しくない。
可愛すぎて攫われてしまうかもしれないので再びしっかりと手を繋ぐ。
「串揚げ、行きますか?」
「……はい。」
繋いだ手とは反対の手に籠を持っていなかったら頭と頬を撫でたかった。串揚げに浮かれる顔はそれくらい可愛いかった。
「トマト、アスパラ、ナス……」
歩きながら小声で呟くのが聞こえてくる。
「にんにくと、うずらの卵も美味しいですよ?」
「にんにく、うずらのたまご……」
頷きだけを返しメニュー決めに戻ってしまう。
「エリンギ、シイタケ、こんにゃく……」
「海老と豚も美味しいですよ?」
「えび、ぶた……」
「そんなに食べられますか?」
「あさり………」
「にんにく、うずら、あさりは数が多いので半分にしましょうか。」
「いか………」
「食べ切れない時は持って帰りましょう。」
「かぼちゃ……」
「また来ればいいんですから。」
「チーズ……」
返って来ない返事と増え続けるメニューに堪えきれず笑い声をあげてしまう。
「揚げ物好きなんですね。」
「…はい。でも自分では、作らないので…」
俺が上げた笑い声にはっと我に返り、やっとで会話をしてくれる気になったらしい。
「じゃあ俺が作ってもいいですか?」
「えぇっと、たぶん……」
歯切れ悪く、可とも不可とも言わなかった。キースは思わぬところに地雷があることを思い出し、理由を聞くことは止めておいた。
串揚げの屋台でキースが選りすぐったメニューを全て買い、すぐ側にある飲食スペースのベンチを占拠する。
「トマト、にんにく、たまごは中が熱いので少しだけ置いたほうがいいですよ。他のも熱いので火傷しないように気をつけて食べてくださいね。」
屋台で紙のパックに入れられたそれらには、すでにソースも掛けてもらってある。
更にパックの隅にタルタルソースも詰めて貰った。これでソースに飽きても味を変えることができる。
キースが手に持ったものと同じものを真似して取る。
火傷に気をつけてと忠告したせいか恐る恐る口に入れていた。
はふはふ、うまうまと次から次へと腹の中へ収められてゆく。全てがひとくちサイズに切られているため、ひとくちが小さいキースにも食べやすそうだ。
時折り、合うかどうかを試すようにタルタルソースを付けては、満足げに頷いたり首を傾げたりしながら食べ進めてゆく。
「どうでしたか?気に入りましたか?」
「…ご馳走様でした。どれも美味しかったです。……タルタルソースも。」
「前に食べた白身魚のフライが挟まったパン、フィッシュバーガーって名前なんですけど、あれにも欠かせない存在でしたよね。」
フィッシュバーガーを思い出し、タルタルソースと揚げ物の相性の良さに恐れを成したらしく渋い顔で何度も頷いている。
「タルタルソースを作った人は天才です。」
「同感です。」
ティッシュで指先と口元を拭いながらタルタルソースへの畏敬の念を示す。
「あとは、飴とドーナツですね。」
「揚げ物を食べ過ぎたので、ドーナツは見るだけでいいかもしれません……」
「なんか、弱気ですね?」
最もな言い分だけれど、甘いもの大好きなキースの口からそんな言葉が出たのが意外だった。
「夕飯、カレーですよね?それまでにお腹を空かせないといけないですし、胃がもたれたら困りますから。」
これは絶対に美味しいカレーを作らなければいけなくなった。この期待に応えなければ。
「じゃあ見るだけにしておきましょうか。さっき買った袋詰めのお菓子もありますしね。」
「……忘れてました。」
さっきまでの寂しそうな顔をぱっと明るくした。
本屋と串揚げに夢中になりすぎたからだろうと思えば、可愛さに頬が緩む。
「じゃあ飴を売ってる果物屋も近いので、ドーナツと飴を見つつ食料品を買いに行きましょうか。」
食べ終えた串の入った紙パックをゴミ箱へ捨てようと、ベンチから立ち上がる。
それに倣ってキースもついてくる。
すぐ目につくところにゴミ箱を見つけ、そこへ投げ込む。
そしてすぐ後ろにキースがついて来ていることを確認し歩き出す。
「手、繋がなくても大丈夫ですか?」
その言葉に立ち止まり振り返る。
こちらを見上げるのは純粋に心配する眼差し。
まさか玄関で放った咄嗟の方便があったから、さっきまですんなりと手を繋いでくれていたのだろうか。
自分の下心とキースの純真さとの落差に、開いた口が塞がらない。
今は、汚れていないとは言えゴミを持っていた手を差し出すことが憚られ、手を握れなかっただけなのだけれど。
開いた口を隠すために口元に寄せいた腕をゆっくりと下ろす。
籠を持つ手を替えれば済む話じゃないか。
「……お願いしてもいいですか?」
さっきまで籠を持っていた手をキースに差し出す。
「えぇ、任せてください。」
任せられるほどこの通りに慣れておらず、美味しそうなものにすぐ吸い寄せられ視線を奪われるのに。そんな自覚は無く、さっきまで俺を介助しているつもりだったのだろうか。
ふと、弟が覚えたばかりの御使いの道のりを、自慢げに俺に教えるように手を引き、ぐんぐんと歩いてゆく、あの時の笑顔と後ろ姿が思い出された。
顔に熱が集まる。
幼い頃の弟を見ているようで可愛らしいと思っただけなのに、なぜかどんどんと顔が熱くなってゆく。
純真無垢なキースに握られた手にじわりと汗が滲む。
「ちょっと、すいません、一瞬手を離して貰ってもいいですか。」
籠を持つ腕で少しだけ顔を隠しお願いすると、不思議そうにするもすんなりと離してくれた。
その手を半袖の前身頃やズボンの太腿部分に擦りつけ急いで汗を拭う。
「すいません、お願いします。」
その手を再びそっと握ってくれるキースは何も気にしていないようだった。
なんで俺の顔が赤くて、手に汗を掻いているのか、理由が気になったりはしないらしい。
もちろん繋いだその手を引いて少し前を歩くのは自分。
これはあどけなさなのだろうか、可愛さの理由を考え始めると再び熱が集まりそうな予感に、思考を止めざるを得なかった。
カフェで聞いた大体の場所を目指して通りを進む最中にも、やはりキースは鉄板で大量に焼かれるにんにく臭い餃子や、蒸篭の中に並べられた饅頭に気を取られている。
地上に降り立った天使が、初めて目にする人間の食べ物を興味深そうに眺めているようにしか見えない。
そのあまりの可愛さに気持ちと口元が緩み、へらりと笑いそうになる締まりのない口元を必死に引き結ぼうとするたび、むぐむぐと口が動いてしまう。
棒ドーナツよりも先に辿り着いた、棒じゃないドーナツの屋台。
大きな鍋の中に浮かぶのは黄色味がかった色と少し濃い茶色の丸いコロコロとしたドーナツ。
「黄色い方がプレーンで、茶色い方がチョコレートみたいですね。あとは追加であのバットに入ってるやつを付けてくれるみたいですね。」
「……粉砂糖、黒砂糖、シナモン、ココナッツ……全部で10通りも……」
今にも涎を垂らしそうなこの表情から、今度お土産に買って行く時は全種類買うべきだと把握する。
「今度一緒に食べましょうね。」
釘付けになっているキースの気を引くために軽く繋いだ手を揺する。
「……絶対です。」
目線は寄越してくれないけれど声は届いたらしい。
「さ、次は飴を見に行きますよ。」
その場から動いてくれそうにないキースの手を軽く揺すりながら、気が済むのを待つ。
「1日中見ていられますね……」
油の中で泳ぐドーナツを見つめるキース。
「俺も1日中見ていられます。でも見るだけでいいんですか?」
ドーナツを見つめるキースを愛でる。
「食べたいですね……今日は我慢しますけど。」
油から揚げられた熱々のドーナツに熱い視線を送るキース。
「俺も食べたいです。今は我慢しますけど。」
ドーナツを見つめるキースに惚ける。
揺すっていた手をぐいんと強く引かれる。
「行きましょう。」
まるでドーナツなど見ていなかったようなキリッとした顔つきになったキースが立ち退きの許可を出す。
「大丈夫ですか?無理してません?」
「……大丈夫です。カレーが待っていますから。」
「……ひとつの半分なら、いいんじゃないですか?」
繋いだ手をぎゅっと強く握られたかと思うと、それきりキースは何も言わなくなった。
「……飴ってこれのことですよね?」
「……はい。今度食べます。行きましょう。」
一時立ち止まったものの、すぐに手を引き店に向かって歩き出すキースの表情は固く真剣だった。
カレーを優先し、そのために調子を整えようとしてくれるキースの思いやりを無碍にするようなことを言ったことで、怒らせてしまったのだろうか。
夕飯を楽しみにしてくれていることはすごく嬉しかったけれど。
自分とは違う行きつけの食料品店に着くと、自然に繋いだ手は解された。
店の籠を手にすたすたと店内を進むキースの後を追う。
その籠にカレーに使う野菜や肉を見つけては入れる。そのたびにキースの顔色を伺うけれど、その表情は熱を失ったまま。
「コーヒー豆、買いましたよ?」
コーヒー豆の棚の前で立ち止まったキースに声を掛ける。
「……忘れてました。」
「米、買いますか?」
会計のすぐ近くにあった米が目に入り、家にどのくらい残っているのかわからず訊ねる。
「あ、はい、お願いします。」
米の入った紙袋を持ち、会計でキースと合流する。
会計を済ませて、下ろしたリュックに詰めてゆく間もキースは黙り込んでいた。
最後に米を首の後ろに当たる他とは別の仕切りのところに詰め込み、リュックは満杯になる。
店を出たところでそれを背負い易いように肩紐や腰紐を調整する。
「さっきの果物屋のところに戻ってもいいですか?」
持参した籠を持ち調整が終わるのを待ってくれているキースに訊ねると、軽く頷きひとりで先に歩き出してしまう。
今度は手を繋いでくれなかった。やはり怒っているのだろうか。でもそれならば一緒に家に帰らなくていいと、突き放せばいいのに。中途半端に優しくされると余計に苦しくなる。
ひとり先を歩くキースに不埒な輩が近寄らないよう周りに目を光らせながら、二歩ほど後ろを歩く。
キースが立ち止まったので横に立ち並ぶ。
そこは果物屋ではなくドーナツの屋台だった。
「ノア、苦手なものはありますか?」
「……いえ、無いです。」
「チョコレートドーナツのココナッツをひとつください。」
先程までの熱を失った顔に少し赤みが戻っているようにも見えるけれど。
「ありがとうございます。」
店主から熱々のドーナツの包まれた油紙を受け取ったキースがこちらを見上げ、精悍な顔つきで頷く。
「果物屋さん行きますよ。」
またしてもひとり先に行く背中を追いかける。待って欲しい。
「キース、水分補給しましょう。何の果物がいいですか?」
果物屋の前で飴を眺めるキースに訊ねる。
「……え?」
「ここ、その場で果物を絞って果汁をジュースにしてくれるんですよ。ちなみに野菜のミックスジュースもあります。見えてる果物ならどれでも作ってくれます。候補は?」
「いちごか、もも……」
「いちごとももをひとつずつ、ジュースでください。」
その注文にキースが驚き見上げる。
「ノア、」
「俺もそのふたつで悩んでたので、どっちも一緒に飲みましょう。」
「……ありがとうございます。」
申し訳なさそうにこちらを見るので、静かに頭を振って応える。
気を遣ってキースが飲みたいものだけを頼んだと思い感謝を伝えてくれるけれど、ただの下心ですから必要ないですよとは訂正せずに優しく微笑んでおく。
店主からストローの刺さったジュースの容器を受け取り両手に持つ。
「……帰りましょうか。」
「はい。」
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お読みくださりありがとうございます。