第1回 夕食会。ぬるぬる、すいません、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
昼に食べたブランデーケーキで酔っ払い、あのままうとうととし始めたキースをソファに誘導し、俺も少し寝ようと隣に座る。
キースはソファの背もたれに頭を凭せていたはずなのに、俺が隣に座ると肩にこてんともたれ掛かってきた。
その可愛い頭を撫でる。
それに反応するように頭を肩へ擦り寄せる。
肩に不安定さを感じたのか、腕にしがみつき、暫くすると寝息が聞こえてくる。
テーブルで眼鏡を外させておいてよかった。
久しぶりに会ったキースは目に見えて移ろう感情に釣られているのか表情がよく動いて、よく喋って。それだけでも十分可愛かったのに。
自分の気持ちを認めてしまうと、こんなにも大量に流れ込んでくるものなのか。
凭れる頭に頬を寄せ、目を閉じる。
あぁ、愛おしい。
可愛いの破壊力と、満腹感と疲労に耐えきれず隣で眠りに落ちた。
目を覚ますと外は薄暗くなり始めており、隣にいたはずの可愛い生き物は居なくなっていた。
大きな欠伸をひとつ。
キースは仕事をしているだろうから探さなくてもいいかと思いはしたけれど、存在を確かめずにいられなくなり家を出る。
廊下の扉を開き聞き耳をたてるも、静まり返った空気の音しか聞こえない。
居るとしたら教会の方だろうと、礼拝堂の中を窓から確認しながら正面へ向かう。
初めて開ける正面扉は、大きく重かった。
薄暗くて外からではキースがいるかどうかがわからなかったけれど。
「キース?」
礼拝堂に並ぶ椅子の前列の方に座る聖服姿の背中に声を掛ける。
がんっ!ごんっ!
「大丈夫?」
急に掛けられた声に驚いて飛び跳ね、膝を前列の椅子に強かに打ち付け、それに驚いて再びぶつかる音。
「だ、だいじょうぶです。」
「痛かったでしょ?見せて?」
「いえ!ぜんぜん!痛くないです!」
近くへ回り込むと、何故か距離を取るように椅子の向こうへ行ってしまった。
「すごい音でしたよ?家で冷やしましょ?」
「わ、わわ、全然、全然、なんともないですから!」
再び近寄ろうと椅子を回り込むと、走って礼拝堂を駆け抜け外へ出て行ってしまった。
少しすると礼拝堂の窓から家の方へ走って行くキースが見えた。
「……なにそれ。」
早く後を追い、まだ隠しているらしい可愛さと膝の怪我を確認しなくては。
一応ズレてしまった椅子を戻してから礼拝堂を出る。
しかし、家に入ってもキースが居ない。
自分の部屋か浴室だろうと考え、先に浴室を覗いたが居なかったので、部屋へ向かう。
扉をノックするが返事がない。
「……開けますよ?」
念のため声を掛けてから開ける。
俺が貸してもらった部屋と違うのは、大きな本棚と蓄音機があること。
そして部屋にも居なかった。
どこに行ったのだろう。念のためトイレや他の扉を開けて中を覗くも見当たらない。
リビングへ戻り、窓から外を見る。
もうすぐ辺りは暗くなる。
もし森へ入っていたら。
「……森か?もうすぐ暗くなるのに。」
リビングを横切り、扉に手を掛けようとした時だった。
「い、います!森に行ってないです!」
後ろから声がした。
振り返るも姿は見えない。
扉を閉め、ゆっくりとキッチンへ向かう。
扉から死角になるカウンターの陰に、蹲っているキースを見つける。
森に行っていなかったことに安堵し、溜め息が溢れる。なんでこんなところに。
「キースは、かくれんぼも上手なんですね。」
正面にしゃがみ込み顔を覗き込むも、顔ごと目を逸らされる。
「膝、痛いでしょ?冷やしましょう?」
「は、走れたから大丈夫です。」
「まぁ、歩けなくなってたら診療所に行かなきゃいけないので、それは安心ですけど。……血は?出てないですか?」
「わからないですけど、大丈夫です。」
「じゃあせめて浴室で確認して来てください。熱を持ってるようならシャワーで冷やして来てください。」
それに頷くも立ち上がる素振りを見せない。
「やっぱり痛いですか?」
立ち上がる手助けをしようと、立ち上がり両手を差し出す。
しかしキースはその両手の下を潜り抜け、パタパタとリビングを出て行った。
「ドジっ子と恥ずかしがりを隠してたのかな。」
表情は固かったけれど、隠せない耳は真っ赤だった。
キースが戻る前に、と冷蔵庫の中を検める。
なんとか今晩の納豆スープなるものを回避するための手立てを模索しなければならない。まだ諦めてはいないのだ。
「なんでこんなに……」
そこに詰め込まれた目を疑いたくなるほどの納豆の整列に、今夜のスープは不可避だと悟った。
せめて何か美味しく食べられるように工夫してもらうしかない。
俺が項垂れているところへキースが戻ってくる。
「大丈夫でしたか?」
「はい、お騒がせしてすみません。」
頑なにこちらを見ないけれど、耳から赤みは消え、むしろ顔は青褪めているように見える。
「夕飯、作りますか?」
「はい、納豆スープ、作ります。」
「キースは納豆が好物なんですか?」
「いえ、普通です。」
「すいません、勝手に冷蔵庫見ました。好物じゃないなら、なんであんなことになってるんですか?」
「ノアが、いつ来てもいいように、店に行くたびに、買い込みました。」
恨みはきっと愛情の裏返し。俺はきっと愛されている、そう思い込むしかない。
「……何かおかずを作ってもいいですか?納豆以外で……」
「お願いします。あるものは好きに使ってください。」
納豆を使わないことに許しが出たことに心の底から安堵する。
キースがスープ用の鍋に水を張り、納豆を冷蔵庫から取り出してゆくのを横目に眺めつつ、冷蔵庫を物色する。
簡単にできるもので、納豆を払拭できるもの。
豚肉、かぶ、ズッキーニ、きのこか、炒めよう。
シンプルにオリーブ油と塩胡椒だけで十分美味しくなる。失敗しようがない。
そしてテーブルに並んだのは、昼に作った納豆炒飯、納豆スープ、炒め物。
納豆炒飯は昼に食べたから、もう慣れた。
問題は納豆スープ。
すり潰された納豆が澱みのように底に沈んでいる。
先にこちらを片付けるべきだな。
納豆の澱みの中に紛れ込むのは鰹節だろうか。
そして表面に浮くのは辣油。
中身を掻き混ぜるもすぐに澱む、それ。
キースが作ってくれたもので今まで美味しいと思わなかったものはない。キースの手腕を信じるしかない。
冷や汗を流しながら対峙する俺を、じっと見守る……いや、見張るキース。
そっとひとくち啜る。
わかっていたことだけれど、納豆しか感じない。鰹節と辣油の存在はどこへやら。
一気に煽って飲み込めずに噴き出す可能性を考慮し、少しずつ時間をかけて確実に消費してゆく。
そして全てを飲み干し、一旦炒め物に平穏を求める。
飲み切った。よく頑張った。
そこで見張り役のキースに完食を告げようとしたが、すでにこちらを見ていなかった。
「納豆スープって、結構強烈ですね……」
「え……キースの定番レパートリーじゃないんですか?」
シャツの袖でおでこに浮かんだ汗を拭う。
「えぇ、初めて作りました。」
俺が寄せていた信頼はどこかへ旅に出ようとしている。
「もう、納豆のレパートリーは、炒飯だけでいいんじゃないですか?」
旅に出るなと必死に肩を押さえ込む。
「納豆ご飯と炒飯だけでいいことにします。」
「納豆ご飯……」
「このスープに比べれば食べやすいですよ。納豆にかける醤油の他に芥子、山葵、青じそ、海苔、辣油、なんかを混ぜるので、そちらはレパートリーが多いので安心してくださいね。」
「全然安心できない……」
安心と信頼のキースの手作りご飯は、そっと肩に乗せた俺の手を外し、その手を握り別れの言葉を告げる。頑張れ。
キースは、自分で頑なに作ると言ってきかなかった納豆スープとの戦いの最中で、俺の嘆きは届かない。
「これはデザートが必要ですね……」
それには頷いたキースだけれど、今日はブランデーケーキしか買って来ていない。
また酔っ払ってみせてくれるのだろうか。
それで一緒に寝ましょうとか甘えてくれる可能性もある。悪くない。
お互い何も言わずに最後まで残しておいた炒め物を突く。納豆の後遺症に悩まされた箸では上手くかぶを掴めず、文字通り突く。
シンプルな味付けが、かぶとズッキーニの本来の甘さと、柔らかくなったそこに染み込む豚肉の脂の甘みを引き立てる。
それを引き締める黒胡椒に、香ばしさを足してくれるきのこ。
炒めただけだけど、良い出来だった。
キースも美味しそうに食べてくれた。
「ご馳走様でした。俺が洗い物しますよ。」
「……大丈夫ですか?納豆でぬるぬるの食器や鍋、洗えますか?」
「……拭き上げを担当させてください。すいません。」
「いえ、私は慣れてるので大丈夫です。気にしないでください。」
そう言ってふっと笑った顔に、歳上らしい頼もしさが見える。
頼もしさの無駄遣いに申し訳なさが募る。
食器を重ねないようにシンクへ運び、布巾を持って皿を洗うキースの横に並ぶ。
「明日の夕飯は俺が作ってもいいですか?」
「……いいんですか?」
「もちろん。大したものは作れないので期待しないでいてください。」
「何を作るんですか?」
「カレーは、どうですか?」
「いいですね。楽しみです。」
満腹だろうに明日の夕飯を思い微笑んでくれる。
俺が作ったもので瞳を輝かせているところが見たい。
今はまだ料理は最低限しか出来ないけれど。
ご飯よりもお菓子を作れるようになった方がいいだろうか。
明日本屋でお菓子作りの本も見てみよう。
「そうだ、明日どこか行きたいところはありますか?」
「朝ご飯のお店以外で、ですか?」
「えぇ、レコードを置いてる本屋には行きますけど、どこか他にあれば。」
「食料品以外は、考えていませんでした。」
「じゃあ歩きながら見て寄りたいところがあれば言ってくださいね。」
「はい、レコードも楽しみです。」
皿を受け取っては拭いてゆく。
「朝起こして貰えないですか?」
「いいですよ。何時頃がいいでしょう?」
「普段ここで朝ご飯を食べる時間には、街に着いているくらいの予定で……その逆算で。」
「わかりました。起きて30分もあれば出られますか?」
「余裕です。」
「わかりました。」
よし、明日の予定もしっかり捩じ込んだ。明日の夜も泊まるつもりでいることに、キースは気付いただろうか。
「朝、寝惚けて襲ったらすいません。」
前回と違い、明日の朝は確信犯。しっかり予定を立ててある。
それなのに。
「……背後にも立たない方がいいですか?」
抑えた声と、きりっと鋭くなった眼差し。
それは小説に出て来る殺し屋の話だろう。
「さぁ、どうでしょう?」
その返事にハッとし神妙に頷いてみせるキース。
隙を見せたら襲いかかりたいという気持ちはあるけれど、そんな下心を蹴散らしてしまう、この清らかさに勝てる気がしない。
惚れた弱味。惚れたら負け。
先人の教えは、こういうことなのだろうか。それとも違うのだろうか。
皿を拭き上げる手を動かしながら考える。
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お読みくださりありがとうございます。