第7回 朝食会。好きで、恋、
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
「おはようございます。」
小さな家の扉をノックする。
今日は家の中に居たらしく、こちらに向かって歩いてくる足音が聞こえる。
開いた扉からキースが顔を出し、出迎えてくれる。
「おはようございます。」
ちらとこちらを見上げる眼差しに険はなく、
無表情だけれど……そう言ってしまえるほどの固さも冷たさも無く、なんだか少し角が取れている。
「今日はバインミーです。パンが続いてすいません。」
何の反応も見せないのは、わからないからか、好みじゃないからか。
「いいえ。今日は鶏団子のスープです。」
家の中に入ると、美味しそうな生姜の匂いがしている。
「バインミーとも合いそうですね。」
籠をテーブルに置く。
「支払いなんですけど、今日もお昼までここで休ませてくれませんか?」
スープをよそっているキースの背中へ訊ねる。
「どうぞ。お昼ご飯はどうしますか?」
「食べてから帰ります。」
「……炒飯でも作りましょうかね。」
独り言らしい小さな呟きだったが、しっかり聞こえてしまった。
「炒飯、楽しみです。」
その言葉に振り返ったキースが気まずそうな顔をしたので、満点の笑顔をお返ししておく。
バインミーのパンは固く、キースはひとくちも小さいため苦戦していた。
それでもうきうきと美味しそうに食べてくれていた。
もう少しパンの外側が柔らかいものを出している店を探そうか。それかパンを替えられるか頼んでみよう。
鶏レバーペーストに、大根とにんじんを甘酸っぱく漬けたなますに、大量のパクチー。
こういう癖のある、好みの分かれがちな味も好んで貰えたことが嬉しい。
キースが作ってくれた鶏団子のスープには、蓮根ともやし、舞茸が入っていて、優しい塩味に生姜と黒胡椒が効いて美味しかった。
コーヒーを淹れてくれるキースの後ろを通り、断りもなく小皿を取り出す。
テーブルへ戻り、その皿へ今日のデザートを出し並べる。
これも喜んでくれるといいけれど。
コーヒーを持って戻ったキースは、皿を一瞥すると神妙に頷き、口をきゅっと引き結んだ。まるで荘厳な何かを拝むよう。
「……フロランタン。」
「どうぞ。食べてください。」
「……いただきます。」
名前を出すくらいだから、見知って慣れ親しんだ食べ物だろうに。
瞳をキラキラと輝かせ、慎重に一本を持ち上げ、口元へ運ぶ。
ぱきりとひとくち分を齧り取り、かりかりと咀嚼している。
久しぶりに見せた小動物らしさに、こちらの頬も緩む。
手ずからお菓子を食べさせたい。どんな顔で食むだろう。フロランタンを持つその指先も甘いだろうか。
前回のキースの発言を勝手に際どく切り貼りしたせいだろう。
そんなことばかり考えてしまう。
マグカップを強く掴み、時折フロランタンを口へ放り込む。
手を伸ばして確かめてみたい。
その衝動を、がりがりと奥歯で強く噛み砕いた。
今日も用意してくれたタオルケットに包まり、ソファに寝そべる。
そこに焦ったようなキースの声が響く。
「ノア!この前のサンドイッチの名前教えてください!」
キッチンで洗った食器を片付ける手を止め、こちらを伺う顔は真剣そのもの。
そんな大きな声も出せたんですね。
「フルーツサンドですよ。」
「……クリームサンドじゃなかった。」
またしても独り言らしいが、しっかり聞こえた。
名前を知らなかったから予想を立てていたらしい。
「フルーツサンド。」
大切な名前をしっかりと自身に刻み込んでいるらしい。
俺の名前を覚えるときも、同じように刻み込んでくれたのだろうか。
今の、名前だけ呼ばれるの、良かったなぁ。
最近では躊躇せずに呼んでくれるようになったのだから、もっと呼んで欲しい。
まだちょこまかと動いているのを見ていたいけれど、満腹で瞼が重い。
お昼ご飯も楽しみだ。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
聞こえるはずのないピアノの音で目が覚めた。
覚醒した耳にも確かに聞こえるピアノの音は、まさか。
だって彼はもういなくなったはずで。
ソファから起き上がり窓を覗くと、そこには礼拝堂を覗き込むキースがいた。
家を出て、静かにそちらへと向かう。
窓を覗くキースの横顔には高揚が見える。
キースの横から中を覗くと、ピアノを弾いているのは一度だけ見かけたことのある彼。
他に男が3人。
「起きましたか。」
忍び寄った俺に一応気付いていたらしい。
三曲を越えて演奏は続くが、その間キースはこちらには一瞥もくれない。
壁に寄りかかり、聞き入るキースを眺める。
「……そんなに彼が好きですか。」
熱に浮かされたように彼を熱心に見つめるキースの横顔に苛立ちを覚え、突いて出た言葉だった。
「……そっか。恋だったんですね。」
擽ったそうなその微笑みを映した網膜が、心臓を押し潰しにかかる。
手を伸ばせばすぐ触れられるほど近い距離に居るはずなのに、ふたりの間にある地面がガラガラと割れて隔絶されたかのよう。
その手はキースには届かない。そんな声が聞こえた気がして、伸ばしかけた腕を引き戻し胸の前で組む。
演奏は続いているらしくキースの横顔は穏やかだ。あの朝、彼に見せた笑顔と同じだ。
触れたい。
けれど俺には何も聞こえない。
触れたくない。
どれくらいの時間が経ったのか、知る術もない。
「私、挨拶に行ってきますね。」
そう言い正面扉へとぱたぱたと向かうキースの背中を、視線で見送ることしかできなかった。
そんなにピアノが好きですか、と聞けばよかった。
俺が恋心を自覚させてしまった。
街を去った奴なんて。
そんな奴より。
血が止まるほど強く握った拳は、ぶつける先を見つけられなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
アル君と、連れの3人に挨拶を終え外に出るとノアは居なかった。
少し早いけれど、起きてしまったのだからお昼ご飯にしようか。
そう考え家へ戻る。
けれどそこにもノアは居なかった。
今朝持ってきた籠はまだそこにあるのに。
ノアはどこへ行ったんだろう。
家中探しても、見える範囲の森を捜索してもノアの姿は見えなかった。
そのうち戻るだろうとお昼ご飯を作り終えても、食べ終えても。
何回目かの朝ご飯を食べ終えても、ノアは戻らなかった。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
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