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メロディは手のひらに隠して  作者: アフタヌーン朝寝坊
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これから、ここに、



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



小さな農村の入り口。


綺麗な三揃いのスーツ姿の男がふたり。革靴にリュックを背負っている。


ひとりは細身で綺麗な顔立ちの、黒髪に眼鏡の繊細そうな男。


もうひとりはすらりと背が高く鍛えられた身体つきに甘く野生的な顔立ちで、茶髪。人好きのする笑顔を見せる軽薄そうな男。


洗練された服を身に付ける見目のいい男がふたり並び立つにはあまりにも場違いなそこは、商店を商う家々が数軒並ぶだけのメインストリート。


乗合馬車を降りたところで、ふたり以外だれもいない。


太陽が頂点に向かう手前で、村人はみな畑仕事の真っ最中。商店も開いていない。


雲一つない晴天の下、雪が積もる季節は他の村との行き来も大変なんだと言いながら、ふたりはメインストリートを抜けてゆく。


メインストリートの先にも外周にも見えている農耕地は、村の入り口から扇型に広がるなだらかなすり鉢状。その景色のなかにぽつりぽつりと見えるのは家々と畑仕事をしている人の影。


メインストリートのその先、ずっと先には小さな丘。そこで視界は空と大地で二分される。


その丘へと続く道を、ふたりの男は眩しい日差しにも関わらずジャケットを風に旗めかせながら、淡々と進んでゆく。


革靴で歩くには不安定な馬車の轍を避けるように脇の草地を歩いたり、木陰で涼んでみたりしながらのんびりと進む道は快適には程遠い。それでもふたりは何やら楽しそうに言葉を交わし合っている。


そんなふたりが丘の麓へ差し掛かった途端、丘向こうから黒く暗い雲が立ち込める。


ごろごろごろ。


彼らの行く先、見上げた丘の上は夜が来たように暗い。


慌てた軽薄そうな男は、後ろを振り返る。今通ってきたそちらは、さっきまでと変わらない晴天。


急な雷雨を齎しそうな雨雲へ目を凝らす。


彼らの周囲には雨宿りをできるような家も木立も無い。


頂上へと続く一本道を一歩登るごとに丘から吹き下ろす風圧も増しているようで、軽薄そうな男は片腕を顔の前に出し視界を守りながら足を擦り出している。


嵐の前の静けさに、ばさばさばさとジャケットが風に煽られる音だけが響く。


軽薄そうな男は、心配そうに繊細そうな男を振り返る。


ところが繊細そうな男は風に煽られることもなく、軽やかな足取りだ。


そこで初めて軽薄そうな男の乱れた姿に気付いた繊細そうな男は驚き立ち止まる。


軽薄そうな男の髪の毛は、風に梳かれて後ろへ撫で付けられ、吹き付ける強い風に呼吸も苦しそうだ。


その様子に繊細そうな男は、気遣わしげに手を伸ばす。


ピシャン!


その手が届く寸前、丘の上に雷が落ちた。


轟く雷鳴と閃光に慌てたふたりは揃って頂上を見上げた。


「レジィ!」


繊細そうな男が嬉しそうな声を上げた。


それを怪訝そうに見つめる軽薄そうな男。


それもそのはず。丘の上に居るのは雷神。


仁王立ちで雷撃を背負い、憤怒の形相で眼下を見下ろしている。


躊躇いもなく近寄って行く繊細そうな男を必死に引き留めようと、軽薄そうな男が腕を掴んだ途端。


ピシャシャン!


またしても雷が落ちた。


大きな音に驚き掴んだ手を離してしまった軽薄そうな男。そんなことなどお構いなしに頂上を目指す繊細そうな男。


あの雷が見えないのか、そちらへ行ってはだめだと引き留めるようとする声も、伸ばした手も突然横から吹いた風に掻き消され流された。


ごうっ。


頂上へと歩みを進めてしまった連れの行く先を確かめようと見上げた丘の上には。


竜巻を背負う風神。


絶対零度の氷雪吹き荒ぶ形相で眼下を見下ろすもうひと柱。


「ヘンリ!」


着々と頂上へ近付きつつある繊細そうな男を風神の巻き上げる風が取り込むと、ひとり取り残された男の声も願いも、もう届かない。


風神と雷神の元に辿り着いてしまった連れを、情けない声で呼び続ける男の声が聞こえるものは他にはいない。


「「兄さん、会いたかった。」」


兄さんと呼ばれた繊細そうな男に左右から抱き付く風神と雷神。


銀髪から覗いた切れ長の目、繊細そうな男よりも上背のある風神。長い黒髪を靡かせたのは繊細そうな男とよく似た顔立ちの雷神。


「ヘンリ、レジィ、久しぶり。私も会いたかったよ。」


風神と雷神の頭を撫で回す繊細そうな男。


風神と雷神は、もっと撫で給えと頭と身体を擦り寄せる。兄と呼ばれた男はふんわりと穏やかに笑み、それに両手を忙しなく動かしては嬉しそうに答える。


「「家に帰ろう?」」


「うん。」


徐に丘の下を振り返る兄と呼ばれた男。


「ノア!大丈夫?」


ごうごう、ピシャシャン!


「ノアーッ!」


ごうっ、ピシャン!


共に村を訪れた男は道半ばで立ち竦んだまま。頂上からの声は届いていない。


「ちょっと迎えに行ってくるね。」


風神と雷神を引き剥がし、引き返そうとする兄と呼ばれた男。


「兄さん、誰もいないよ?」


「兄さん、ひとりで帰ってきたでしょ?」


風神と雷神には眼下の情けない男は見えていないらしい。


「ノアを連れて行かないと。来た意味がないでしょ?」


自分には連れが見えていると訴える兄と呼ばれた男を、行かせてなるものかと羽交締めにする風神と雷神。


「兄さん、俺には何も見えないよ?あそこに落ちてるのはゴミだよ?たぶん苗床の黒いビニール。飛んできちゃったんだね。」


「兄さん、私たちに会うこと以外、意味も理由もないでしょ?あそこに落ちてるのは、たぶん牧草ロール。転がってきちゃったのね。」


引き留めようとする風神と雷神を引き摺るように丘を下り始める兄と呼ばれた男。


「あれは、ちゃんとノアだよ?」


目配せをして引き摺られていくことを容認した風神と雷神は、お互いに兄と呼ぶ男の2本ある腕をそれぞれ一本ずつ選び、しがみつく。


風神はいつの間にか、繊細そうな男のリュックを背負っている。


「ヘンリはノアに会ったでしょ?忘れたの?」


「うん、兄さんしか覚えてない。」


「もう。ノアは君たちの2つ年上だから敬ってね?」


「敬うかどうかに年齢は関係ないのよ。兄さんか、それ以外か。」


「もうレジィまで。仲良くできなくてもいいけど、苛めないでね?」


「「ふんっ。」」


ふたり揃ってそっぽを向く。


「仲良くしてくれたら一番嬉しいんだけどなぁ。」


「「ぐっ。」」


ふたり揃って胸を押さえて呻く。


ごうごう、ピシャシャン!


丘の下の草地に膝を付いている軽薄そうな男は俯いていて、近寄る3人に気付いていない。もしくは気を失っている。


「ノア、どうしたの?」


身動きしない軽薄そうな男に駆け寄りたがる兄と呼ばれた男を決して離さない風神と雷神。


声を掛けるだけでこの男の正気は戻るのだろうか。


「…………やめて、帰ろうか?」


だらしない男に愛想を尽かしたのか、繊細そうな男が悲しげに訊ねる。


「ふたりには会えたし、またいつか、ずっと先でもいいよ。」


だらしない男に聞こえるか聞こえないかの小さな呟き。


ふたり揃って、憤怒の形相に戻る。


ごうっ!ピシャン!!


大気を揺るがす大きな音にびくりと我に帰っただらしない男が、繊細そうな男が目の前までやって来ていたことに気付く。


「……帰ろう?」


優しく諭すような繊細そうな男の声。


「帰りません。」


ぐっと膝に力を入れ立ち上がろうとする軽薄そうな男。


「でも、


「帰りません。」


しっかりと二本の足で立った軽薄そうな男は、怒気が籠った真剣な眼差しを繊細そうな男とその両脇に控える風神と雷神に向ける。


「絶対、帰りません。」


「そっか……ノア、妹のレジーナと、改めて弟のヘンリーです。」


「ノアです。妹さんははじめまして。弟さんは二度目まして。」


「「ふんっ。」」


「ふたりは人見知りなだけで、態度は悪いけど悪い子じゃないから仲良くしてね。」


両腕にしがみつくふたりを愛おしげに見ながら紹介する繊細そうな男。


「俺はもちろんそうしたいですけど、永遠に人見知りは直らない気がします。」


「さらっと永遠に兄さんと一緒にいるって宣言してんじゃねぇ。」


腹の底に響くような大地を揺るがす声を聞き取れたのは、雷神と軽薄そうな男だけ。


「兄さん、ヘンリーはあの人と話したいみたいだから、先にふたりで帰りましょう。」


怒りのあまり兄と呼ぶ男の腕を離してしまった風神の隙を付くように雷神がその両手を掴む。


「やっぱり。覚えてないとか意地張るところもヘンリの可愛いところだよね。」


「ね、兄さん、私の可愛いところを数えながら家まで帰りましょう?」


風神と軽薄そうな男のふたりに背を向け再び丘を登り始めるふたり。


「永遠なんてさらっと終わるんだよ。どうすれば来世でも会えるか教えてくれよ。」


胸ぐらを掴まれた軽薄そうな男が、風神に頭突きをするように睨みを効かせる。


「来世でお前に会うことはあっても、その時にはもう俺と永遠を誓った後だ。」


掴んだ胸ぐらから手を離し、どんと拳で叩きつける風神。


兄さん待って!喋る牧草ロールが怖いから俺とも手を繋いでよ!と風神は先を歩くふたりに走って追いつき、空いている片方を繋ぐ。


またしてもひとり取り残された軽薄そうな男は、リュックを背負い直し、今度はしっかりとした足取りで彼らの後を追う。


冷たい風が吹き下ろしては、雷撃が耳を突く。それらを振り払い、振り払い。一歩一歩着実に頂上を目指す軽薄そうな男。


頂上で立ち止まり、最後のひとりを待つ3人。


「ノア、ここが私の実家だよ。」


やっとで合流した最後のひとりに手を広げて見せたのは、丘の向こう。


見下ろした先に広がるのは青く澄んだ空と、青々とした牧草地。そして家と羊。遥か先には森らしい濃い緑色の隆起も見える。


びゅおう、と吹いた風が草と土の匂いを運んでくる。


「キースみたいな、ところですね。」


質素で堅実、優しく厳しく、美しい。その小さな呟きを拾った風神と雷神は目配せをする。


今度は道を下り、家を目指す一行。


そこへ疾風の如く駆けつけた白黒の生き物は風神と雷神にそれぞれ体当たりした。


「お前たち、この人がうちの長男だぞ。言うことを聞くように。」


「お前たち、これはただのビニールよ。後で存分に遊んでいいわ。」


風神と雷神に上下関係を教えられながら周囲を飛び回っては尻尾をぶんぶんと振る2匹は、気が済んだのか再び弾丸のように羊の群目掛けて風のように去った。


繊細そうな男が眼鏡を胸ポケットに仕舞い込む。


「ただいま。父さん、母さん。」


風神が開けた扉の先、家の中で待っていたのは屈強な身体つきの銀髪の男と、忙しなく料理を準備する愛嬌のある細身の黒髪の女。


「おかえり。」


「おかえりなさい、キース。ノアさんも、いらっしゃい。どうぞ入って。」


3人で手を繋いだままでは入れないでしょ?と母さんと呼ばれた女に溜息を吐かれ、しぶしぶと手を離して家に入る風神と雷神。


そのふたりを見送ってから軽薄そうな男の背を家に押し込む、繊細そうな男。


「お邪魔します。ノアです。今回はご自宅への訪問の許可をくださりありがとうございます。」


邪魔なのがわかってるなら帰ればいいのに、なんで許可したの、と呟く風神と雷神。


「わざわざ許可なんか取らなくても、こんなところで良ければいつでもどうぞ。父のハリーです。」


「いつまででも居てくれていいですからね。母のレイラです。」


「ありがとうございます。これからは年に一度は来たいと思っていたので、そう言って貰えると助かります。2泊3日お世話になります。」


年に一度って言った?毎年兄さんに会えるの?と、こそこそと言い合う風神と雷神。


「ノア、そんなこといつ決めたの?私聞いてない。」


不満があるのか複雑に歪めた顔で繊細そうな男が訊ねる。


「馬車は3日後の昼って頼んだでしょ?」


「そっちじゃなくて、年に一度の方。」


「すいません、さっき決めました。」


「そんな、勝手に決めるなんて。」


「弟さんも妹さんも、キースのこと大好きでしょ?もちろんご両親も。だから年に一度でも会った方がいいです。それに、俺がここに来たいんです。」


言い合うふたりを温かく見つめる2対の瞳と、悔しそうに見つめる2対の瞳。


「毎年、こんな連休が取れるかなんてわからないのに……」


「留守番に来てくれた神父さんが言ってましたけど、あの教会の臨時勤務は希望者が多くて壮絶な戦いの末、今回の勤務をもぎ取ったって言ってましたよ。」


「え、なにそれ、知らない……」


「俺は普段から平日休みで、今回も閑散期に連休を当てたので、むしろ周りからは有り難がられてるんです。土日も繁忙期も絶対居るので。」


「そうなんだ……」


「ノアさんが居てくれてよかった。じゃなきゃキースはまた10年とか帰って来ないつもりだっただろうから。」


「ハリーさん、敬称は要らないです、呼び捨てにしてください。さすがに10年は長すぎますよね。」


「ノア君、キースは家を出てから今回が初めての帰省なんだよ?15年だよ?」


「ノアちゃん、本当にありがとう。生きてるうちに連れてきてくれて。」


「父さん、母さん、やめてよ、私が悪いみたいに言わないで……」


「次からはちゃんとした楽な格好で来なさい、ふたりとも。」


「「はい……」」


微笑む3人と、拗ねるように口を尖らせるひとり。それを悔しそうに見つめるふたり。


「じゃあこの服を着ているうちに。キースと家族にしてくださり、本当にありがとうございます。」


深く頭を下げた軽薄そうな男に倣って、繊細そうな男も頭を下げる。


「律儀だなぁ。もう籍だって移してあるのに。これからもキースをよろしく頼むよ、次男坊。」


頭を下げたままのふたりの肩を叩き、笑い声を上げるのは父さんと呼ばれた男。


「さぁ、ご飯にしましょうねぇ。」


嬉しそうに微笑む母さんと呼ばれた女は目元を拭いながら、料理の準備へと戻った。


それを手伝いに行った軽薄そうな男と、点数稼ぎだと騒ぎ立てながらその背中を追いかける風神と雷神。


「良い人を選んだね、キース。」


「私は見つけてもらっただけ。ノアは本当にすごいんだよ……」


がやがやと準備なのか戦闘なのかわからない騒ぎを起こしている台所を眺めながら、静かに話すふたりは、お互いに見つめる先は違うけれど温度は同じ。


銀髪の男はすぐ隣の黒髪を。その黒髪は台所の戦闘の渦中にいる茶髪を。


兄さんの隣には座らせないと風神と雷神に両脇を抑えられ、噛み付かれながら食事を進めるノアと呼ばれた男は、豪快な食べっぷりだった。


「さっきふたりが、喋る牧草ロールが丘向こうに転がってるって言ってたけど、大丈夫?私には見えなかったんだけど。」


賑やかな3人を眺めながら、父さん母さんと心配そうに訊ねるキースと呼ばれた男。


それを気まずそうにしながらも笑って聞き流すふたり。


「お昼食べたらみんなに会ってくるね。」


キースがふたりに告げるのを聞いていた風神と雷神が目配せをする。


「お前は小屋の掃除な。」


それを快諾したノアは、やり方が分からないから教えてくれと丁寧に頼む。


ほくそ笑む風神と雷神に、困ったような目を向けるふたり。


「引き離すことばかり考えてると、自分たちが兄さんといる時間も奪われるわよ。」


小さい声で雷神を嗜める母さんと、しかと頷く雷神。


その教えの賜物か、小屋掃除をするのは風神とノア。羊たちに挨拶をして歩くのはキースと手を繋いだ雷神。


掃除の手を度々止めては、悔しそうにそれを眺めるふたり。


「ポケットの中身、教えて貰えたのか?」


「あぁ。死ぬかと思った。」


「だろ。」


「ポッケって言わせてるのもお前たちだろ。」


「いいだろ?」


「まぁな。」


「神父服の兄さん、すごく良かった。」


「だよな。写真送ろうか?妹さんは見たことないってことだろ?」


「いや、まだ教会本部で働いてた時に妹も見てる。でも送れ。」


「任せろ。」


その夜は、風神がキースと風呂に入ると言い出す事件しか起きなかった。


ずるいと騒ぐ雷神に、そこで名乗りを挙げられないながらも必死でひとりで入るように説得するノアとの戦々恐々とした戦い。


それを制したのは風神。


ふたりを渋い顔で見送るノアと雷神、生温かい目で見送る父さん母さん。


ベッドではキースを真ん中に風神と雷神が眠ることで、言い争いは起きず、ノアはひとりで広いベッドを占領できたのでこれは事件ではないだろう。


年頃の娘が寝ている部屋に入ることもできなかったノアは、朝早くひとりで顔を洗っているところを父さんに慰められていた。


仲良しすぎてごめんなさいねと母さんには謝られていた。


そして事件はその日、夕方に起きた。薪割りをするノアとその監視をする雷神。


キースと風神は羊を小屋に押し込んでいて、ここにはいない。


「…………もう、シたの?」


気まずそうにしながらも、聞かずにはいられないという様子の雷神。


カコン、カコン、という乾いた音の合間に聞こえてきた問い掛けに唖然とするノア。


「そういうこと聞いちゃうの?」


「いいじゃない、気になったのよ。兄さんは、ほら、あんな感じだから。」


随分と淑やかに訊ねる雷神に唖然とするノア。


「……シてないよ。」


かしゃん。


ガラスの割れた音の聞こえた方を振り返ると、いないはずのキースと、風神。


「ノア、私たち、してないの?」


割れたグラスを見つめるだけで顔を上げないキースの涼やかな声が通る。


「キース!違う!したよ!」


キースの方へと駆け寄り、弁明するノア。


「どっちなのよ!」


そこに背後から噛み付く雷神。


「そっちはシてない!だから黙ってろ!」


振り返り雷神に噛み付くノア。


「キース、これは


した、してない、論争の結論が相手によって変わることに気付いたキースは、ノアが背を向けている間にそそくさと踵を返して立ち去っていたため、すでにそこにはいない。


立ち去るキースの背を追うのは、にんまりと笑った風神。ノアに向けて指を差し、声には出さず口を動かす。来るな。


「兄さんが言う、した、は何なの?」


申し訳なさそうに訊ねる雷神。


「たぶん、結婚式……」


茫然と立ち尽くすノア。


「うん、兄さん安定の可愛さね。」


ぐっと拳を握る雷神。


風神はキースを追いかけ数歩後ろを歩いていた。


ぐすっ。


鼻を啜る音にすぐさま正面に回り込み肩を捕まえる。


ぽろぽろ、ぽろぽろとキラキラとした小さな雫が目から零れ落ちるのを風神はじっと眺めていた。


そのキラキラを袖で拭うキース。


「兄さん、たぶん勘違いだよ。きっと違う話をしてたんだよ。」


その慰めを頭を振って否定する。


「……したの、結婚式、でも、違った、勘違い、してた。」


苦しそうに喘ぎながら辿々しく言葉にする。


「でもふたりは結婚したんだから、もしそれが勘違いでも、これからすればいいんじゃない?」


ゆっくり頭を振るキースの鼻の頭が赤くなっている。


風神が片手を挙げる。


向こうでは雷神が片手を挙げる。


「とりあえず兄さんを泣かせたから殴ってくる。ここで待ってて。絶対、ここからは動かないでね。」


目元を覆いながらも、こくりと頷いたのを確認する風神。


キースの横から走り出し、たんっと地を蹴り宙に浮く。


振り上げた拳と共に重力に引き落とされる全体重、それが全速力で駆け寄ってくるノアの右頬にめり込む。


ごすっ、どんっ。


「兄さーん!」


大声で兄を呼ぶと、あまりの衝撃音に振り返ったキースは、口をあんぐりと開けている。


「やっつけたよ!褒めてー!」


笑顔でキースに手を振る風神の片足は、伸びたノアの腹の上。


「ノアーッ!」


駆け寄るキースの必死の形相。


風神の片足を退ける余裕もないキースは、ノアの顔や頭や眼球を検める。


「やだ、ノア、死なないで!」


胸元に縋りつき、顔を埋めて泣き出すキースを捉えようとするのはすでに生命活動を停止したノアの腕。


「勝手に殺さないで。」


ノアの死体が動いたわけではなく、ノアは死んでいなかった。


「よかった。ヘンリ!めっ!殴っちゃだめ!」


一度胸元から顔を上げ、風神を睨み付ける。


「殴ってない。そいつ手で受け止めて自分で後ろに飛ばされた。」


叱られたことが応えたのか、しゅんとなった風神。


「ヘンリーずるい!」


そこに遅れて合流した雷神が風神の胸ぐらに掴みかかる。私もめっ!されたかった!と激しく揺さぶられる風神の首は千切れそうだ。


「キース、結婚式、しましたよ。誤解させてすみません。さっき妹さんに聞かれてたのは別のこと。あれは後にも先にもないくらい完璧なふたりだけの結婚式でした。でも結婚式は一回だけって決まりはないですよね?毎年やります?それとも毎月?キースは毎日がいいですか?」


「よかった……ノア、痛いところない?」


「ここが痛い。」


キースの手を持ち上げ、左胸に置く。


「し、しぬの?」


ぴゃっと涙を飛ばしながら狼狽えるキース。


「キースが泣いてると、ここが痛いです。」


「し、しなない?」


「キースを残して死にませんよ。」


「うん、絶対だよ?約束守ってね?」


横たわるノア、胸にしがみつくキース。


その横にしゃがみ込み、観覧する風神と雷神の目には涙。


「こいつが約束破ったら、俺がまたやっつけてあげるから、兄さん泣かないで。」


「兄さん、こいつ、あれだけど、こんな可愛い兄さんを見せてくれたから感謝してるの、だからこっそり始末することは止めるわ。だから泣かないで?」


薪割りの時、背中と首筋がガラ空きでいつでもいけるなって思ったけど、やめたげる。そう雷神が言葉を続けたけれど誰の耳にも聞こえてはいない。


ノアの胸に凭れる頭を撫でる3本の腕。


「ぐすっ……別のことって、なに?」


びくりと止まる3本の腕。


「それは、ちょっと、俺にもわからなかったんですよねぇ……」


「レジィ、別のことって、なに?」


「兄さん、たぶんこいつ頭打ってないけど、頭打ってると思うわ。でもきっと家に帰る頃には思い出せるんじゃないかしら。」


「そんな、やっぱり死ぬの?」


「ううん、兄さん、こいつは殺しても死なないから安心して。まぁ死んでも俺がいるから安心して。」


「ヘンリ、ありがと、でも殺さないで。」


「「兄さん、お家に帰ろう?」」


兄さんに向けて4本の腕を伸ばす風神と雷神。


出された手にそれぞれ片手を乗せふたりに立たせてもらったキースは泣き疲れたのか、ぐったりとしている。


そして手を繋ぎ家に帰る3人。


「あいつら……」


ノアは取り残されがちだ。


ひとり身体を起こし、上体を確かめる。


胸元には涙で濡れた跡。


お腹には3つの足跡。


片方の手で濡れた胸元を押さえる。


「ヘンリーのやつ、2回も踏みやがって。刑務所に入っても処刑されてもご馳走だったか。わからなくもないけど、俺にはこれが限界だ。」


ここだけ切り取って保管しよう、と呟きながら汚れた尻や背中から土や草を払いながら灯りが点った家へと戻る足は弾んでいた。


その夜も3人とひとりに分かれて眠り、朝を迎え、あっという間に馬車の迎えの時間になる。


三揃いのスーツも革靴も帰りは身に付けてはいない、笑顔のふたり。それを見送る泣き顔のふたり。


「あのふたりを連れて来れなくてごめんなさいね、ノアちゃん。たぶん馬車を壊そうとするから、危なくて家から出せないの。」


「あぁ、やりますね、あいつら。」


「ノアちゃんのことも気に入ったみたいだから、世界が2回終わりそうな絶望感なのよ。」


「それは、違う気もしますけど、俺もふたりのことは気に入ってるので、少しだけ、本当にほんの1ミリくらいは寂しいです。」


「ノア君、次ここに帰って来るまで一年あるから、父さん母さんって呼ぶ練習、しておいてくれ。俺たちも、その、ノアって呼ぶ練習しておくから。」


「…………。」


「父さん、母さん、本当にありがとう。身体に気をつけて元気でいてね、あと家に着いたら電話するから。」


「あぁ、気をつけて帰れ、息子たち。」


「御者さん、よろしくお願いします。」


ハンカチで顔を覆った母さんが、馬車を出すように告げる。


カタ、コトと走り出す馬車の窓から手を振るキースは笑顔だけれど目は涙でキラキラと輝いている。


途中から腕で顔を隠したままのノアは、頭を下げるだけだった。


「ノア、よしよし。」


最近ノアはよく泣きますねぇ。と頭を撫でてやりながらキースは笑う。


「ノア、別のこと、思い出しましたか?」


びくりと肩を震わせたノアは体勢を変えずに頭を振る。


「まだですか。本当にあと2日で思い出せるんでしょうか……心配ですね。もし思い出せなかったら診療所に行きましょうね。」


がっくりと前に身体を倒して、両手のひらで顔を覆うノア。


口の端から、あいつ…と憎しみの籠った声が漏れ聞こえたけれど、それはキースには届かなかった。


「次は、ノアのご家族への挨拶ですね。」


がっくりと項垂れたノアから今度は呻き声が聞こえてくる。もう泣くことはやめたらしい。


「結婚して半年……1回のフレンチキスで腰が抜ける人に、どうやって……」


「出会ってから2年ですね。瞬く間に過ぎたような、人生をもう一周したような……」


呟きの前半しか聞こえていないキースが、ノアに身体を凭れる。


「これからも一瞬を重ねて人生を何周もしましょう。」


キースの手を取り、丁寧に指を1本ずつ絡ませてゆくノアは軽薄そうな男ではなく、繊細そうな男を愛おしいと見つめる男だ。


「うん。ノアが痛みを好む人でよかった。」


「うん、全然違います。好んでません。」


「でも痛めつけられてなかったら、出会ってなかったと思うから。」


「それは、そうかもしれません。でも、偶然は必然、みたいな言葉もありますよ?」


すぅ。


「すぐ寝ちゃうんだもんなぁ。」


寝入ったキースを詰るその顔は、これ以上ないほどに眦が下がり、口元はふにゃふにゃと締まりがなく、だらしない顔付きの男になっていた。



◇ ◆ ◇ ◆ ◇



お読みくださりありがとうございます。


次話より、この日を迎えるためのふたりの日々がはじまります。お付き合い、よろしくお願いします。

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