ブルンディシウム
サージュたちは長く滞在したフィオレンティアから離れた。
北西への街道を通り、ジェヌア(Genua)を目指す。
ジェヌアからはブルンディシウム(Brundisium)行きの船が出ており、ブルンディシウムからはアレンタに街道が通じていた。
街道には荷車や隊商が行きかっていた。
サージュはフィオレンティアから出たとき、サヴォナローラの一件が頭から離れなかった。
サヴォナローラは活発な経済活動を、即、虚栄と見なした。
フィオレンティアは商工業で栄えていたが、それが人々の幸せに直結するものではないとサージュは思った。
フィオレンティアはすばらしい都だったが、同時に矛盾を持っていた。
それがサージュにフィオレンティアへの冷たいまなざしを持たせた。
どれだけ物質的に繁栄しても、満たされないものがある――そういうことだろう。
サージュたちはジェヌアに到着すると、船に乗った。
ジェヌアからブルンディシウムには三日かかる。
そのあいだサージュたちは船の中で過ごした。
「ねえ、サージュ。どうして何もしゃべらないの?」
「そうですね。口が重いようですが」
「いや、サヴォナローラの事件を考えていたんだ」
サージュが重い口を開いた。
「あの事件は下手をしたらフィオレンティアの体制そのものが転覆されていた。サヴォナローラがどういう統治をしたかはわからないけれど、反動的なものになったことだけは確実だ。でも、それはフィオレンティアそれ自体に矛盾があったからじゃないか?」
「フィオレンティアの矛盾ですか?」
「それって、どれだけ商業的な利益を上げても満たされないってこと?」
「それはなんでそんなことをしているんだろうってことさ。利益の追求に走れば走るほど、その理由がわからなくなるんじゃないだろうか……利益の追求それ自体が自己目的化するというか……リエンテならよくわかると思うんだけど……」
サージュはリエンテに話を振った。
「そうですね。わたくしから見たら、それは虚しいことだと思います。わたくしには物質的に満たされたいという欲求はありませんから」
「それは私も同じよ。私は南の村で育ったから、あんまり商業的幸せってわからないのよね。村では物が少なくても十分だったから」
「さて、アレンタにはどれくらいで到着するかな」
サージュは話題を変えた。
「アレンタはアスカニア共和国の首都で魔法と科学の都市ですわ」
「リエンテさん、よく知っているわね」
「このくらいの知識なら朝飯前ですわ」
「アスカニアか……」
サージュは船から水平線を見つめた。
目の前には大海原が広がる。
「サージュ、どうしたの?」
「あいつは、イシャールは言った。アスカニアにいると……あいつは何者なんだろう?」
「そうね。アスカニアにいる……そう告げて消え去ったから」
「お二人とも、何の話ですか?」
リエンテが尋ねた。
「闇の魔道士イシャールのことさ。俺たちは何度かあいつと出会って戦った。もっとも、俺は一度も勝てなかったけれども……」
「そのイシャールが言っていたの。アスカニアにいるって」
「闇の魔道士がアスカニアにいる、ですか?」
「ああ、あいつはいったい何を考えているんだろう?」
「そうですね。闇の魔道士なら、なにか悪しきことを企んでいると思います。闇の魔道士がアスカニアにいるのなら、気をつけたほうがいいでしょう」
そのうち船はブルンディシウムに着いた。
ブルンディシウムは港町であり、アスカニア半島における海の出入り口である。
サージュたちは船を降りると、その日はブルンディシウムの宿に泊まった。
宿では三人は夕食を取った。
「ねえ、リエンテさん。人間と竜は何が違うの?」
イーシャがリエンテに尋ねた。
相変わらず、リエンテの食べ方は上品だった。
「そうですね……うまく説明するのが難しいのですが、一つのたとえがあります」
「一つのたとえ?」
イーシャはリエンテに聞きよった。
「はい、これはわたくしが白竜から聞いた話なのですが。一本の邪魔な木があるとします。竜はそれをそのままにしておきます。竜以外の動物や怪物も同様です。人間だけがその木を切り倒し、道を作る、と」
「う~ん、確かにそうかもしれないわね」
イーシャはたとえを聞いて納得した。
「そうですね、それ以外にわたくしたち竜は都市や町、村を作りません。竜は自然に加工したり、手を加えたりしないのです。全き自然、それが竜の本性であり、本質なのです。それが竜の生き方です。わたくしたちはただ自然と共にあるだけです」
「じゃあ、人間のしていることはどう見えるんだ?」
「竜は地上最強の幻獣ですが、同時に動物でもあります。人は自然から分離している存在です。人は自然に手を加え、加工して仕立て上げます。農耕を営む農民や職人がその代表と言えるでしょう。わたくしたち竜は基本的に自然に手を加えません。竜には都市や町は必要ないのです。しかし、人間は違います。人間は道だけでなく都市や町、村などの共同体を作ります。その中で人間は生きていくからです。サージュさん、イーシャさん、人は一人だけで生きていくことができるでしょうか?」
「そうだな……正直、一人だけで生きていくのは難しいと思う。自分一人だけでは必要なものをすべて用意できないからな」
「私もそう思うわ。不可能とは思わないけど、基本的にはほかの人といっしょに生きると思う」
「人は他者を必要とします。そうすることで、取引をしたりして、生活していくからです。それが人の営みだとわたくしは思います。竜は他者がいなくても生きていけるのです。中には群れを作る者もいますが、それは一部の例外です。竜は人間より、動物に近いからです。人は他者と共にあり、他者と共に生きていきます。それが人の生き方だと、わたくしは思います」
「人の生き方と、竜の生き方の違いか……こうしてみるとずいぶん違うんだな……でもそれがどうして対立になるんだ?」
「人と竜の対立はまず領地で起きます。人が竜の領地を侵犯した場合です。次にあるのは竜の中でも領土的野心や支配欲を持つ者がいること。それ以外には人間を世界にとって有害な存在と見なす者がいるということです。残念ですが、竜の中にも人に危害を加え、摩擦を引き起こす者がいるのです」
「それは確か……」
「皇竜ルブリウスと邪竜フォルネウスの存在です。ルブリウスは竜の国に住んでいます。彼は自らの帝国を打ちたてるという野心を持っています。竜の国はアスカニア領の北東に広がています。ルブリウスは人と竜の戦争を仕掛けようとしています。わたくしは何度か彼を説得しようとアプローチを試みましたが、すべて拒否されました」
「フォルネウスというのは?」
イーシャがリエンテに聞いた。
「フォルネウスは竜の中でも最も危険なことを考えています。人間を地上から、世界から絶滅させようとしているのです。フォルネウスは人間は自然に反する存在であり、竜族の敵とみなしています。フォルネウスは空中庭園『ニネヴェ宮』に住んでいます。フォルネウスにとって人間の絶滅は自然の浄化であり、一種の掃除だと考えているようなのです」
リエンテは竜族の現状について長く語った。
「フォルネウスも、説得には応じないでしょう。フォルネウスの考えにはほかの竜王たちは誰一人として賛成していません。ルブリウスは人間を奴隷と思っているので、絶滅させようとは考えないからです」
サージュとイーシャは沈黙した。
「わたくしは人間を愛しています。わたくしにとって人間は良き隣人です。わたくしは人間を信じたいのです。ですが、人と竜について、人間側が必ずも理解しているわけではありません。竜の側でも、人間との戦いを主張する者は多いのです。今のところ、わたくしのしていることが実を結んだとはいえません……」
リエンテは力なく笑った。
「いいえ、違うわ。私たちはリエンテさんの友人よ。それだけでも違うと思うわ。だってこうしていっしょに旅をしているじゃない」
「イーシャさん……」
「そうだな。俺たちはリエンテの友人だ。だから決してリエンテを見捨てたりしないさ」
サージュが言いきった。
「サージュさん、ありがとうございます。わたくしは幸せです。今はまだ小さいですが、未来への希望が、見えた気がします。今はまだ、人と竜は接触すべきではないのでしょう。まだ、距離感がしばらくは互いに必要なのでしょうね」
サージュたちは会話を終えると、それぞれの部屋で眠りについた。