声が聞こえる ― I like to break ―
とうの前に日が暮れて、人の行き交いのないオフィス街の通りは、無人の荒野と化していた。たまに通るのも、道を間違えた酔漢か残業帰りの会社員くらいのもの。静かすぎて、革靴が地面を叩いた音にさえ肩をすくめて怯えてしまう。
大通りでさえその調子なのだから、路地裏に至ってはまさに異界。そこは人や獣以外の何かがいようとも、さも変わらぬ奇怪な空気が支配していた。
―――カチャカチャ。ポタポタ。
金属の擦れ合う高い音と、重たい滴が雨垂れのように落ちる音が路地の陰から聞こえてきた。しばらくすると、音は十字路の角まで近づいてきて、その姿を現す。
それは、手入れもさほど入れられていない錆びた古刀の一振り。研ぎ澄まされて極端に薄い刀身は、かつて長い年月帯刀されていたことが読み取れた。
博物館に展示すればさほど目新しさを感じられぬ古刀も、街の中にあるだけで既に異質なもの。それなのに、古刀の妖しさはそれだけに留まらない。古刀は、誰の手にも握られず宙に浮き、刀身は黒と鮮血の血に濡れていた。
そうして十字路の上であてどなく揺れる古刀のそばに、女性が一人立っていた。
「百や二百の猛者を切っても、まだ眠れないんだな。お前」
古刀は凛とした女性の声に導かれて、彼女の方に刃先を向ける。
黒塗りの姿をしている彼女は、暗闇でも映える黒の髪と、髪を束ねるように付けられたヘッドフォンが特徴的な十代中頃の女性だ。古刀から十メートルも離れていないというのに、彼女は泰然自若と落ち着きある様子を見せている。
彼女はもう一度、古刀に語りかける。
「武の魂も無い通行人をやたら切ってどうする。振ってくれる奴がいなくて悲しいのか、それとも血を求める疼きが我慢できないのか。… …いや、違うな。私には聞こえるから分かる」彼女は頭に乗せていたヘッドフォンを、肩にまで下ろす。
古刀の方は彼女の語りも動作も一切無視して、十メートルを一瞬にして零にする。
振り上げられた銀色の刃は、何十年も持ち主に振られ続けた半円の軌跡を忠実に再現し、彼女を兜割にしようと迫る。
それだというのに、彼女は古刀が接近してきた時から両眼を固く瞑ったままだ。
叩きつけられる古刀の一閃に、彼女は身体を横にひねって回避する。
刀身は、彼女の左脇の布をかすめて通り過ぎた。
だが古刀も避けられるのを承知していたかのように、まさに侍が刀を持ち替えて刃を返す様で、動きを百八十度転換する。
今度は避ける余地も残さぬ近距離からの必殺の一撃。
「―――!」
彼女は小さく何かを呻いた後、刃の先端を胸の中心で受けた。
その斬撃は、重要な器官である心臓と肺を確実に捉えており、例え両断されなくとも致命的な傷になるだろう。けれど、いつまで経っても古刀が彼女を貫く気配はなかった。
「お前さ、人を斬ることでどこかにいる持ち主に忠義の意を示していただけなんだな。でも、本当にもうお前の持ち主はこの世にいないんだ。それじゃあ、意味もないだろ」
古刀の斬撃は胸の数ミリ手前で、彼女の手が持つ何かに遮られていた。その何かは役割を終えたとばかりに銀色の塵となって、彼女の手から零れ落ちた。
古刀は彼女の放つただ一撃に沈黙して、力なくアスファルトの上に転がった。
彼女は目の前の古刀を見下ろしながら、哀れみの眼と、それとは対照的な表情を湛えていた。
その顔は笑顔というにはほど遠く、享楽を堪能した悪人にも似た下種で残酷な頬を歪に吊り上げた、嗤いだ。
そう、彼女は嘲りの笑いをこぼしている。
「意味がないなら、壊れた方が良い」
どうして笑っていられるのか、彼女以外の誰かが分かるわけでもなく。ただ、新円の満月が彼女の上に昇っていくだけの夜が、当たり前に流れていく。
そして、彼女が独り満月を仰ぎ見る様は、何故か酷く寂しげであった。
ここは静寂と闇に包まれた空間。そこで座して動かない『私』は孤独で、『私』以外の物共は幾百という爪あとに破壊されていた。
消えまいと瞬いていたはずの裸電球は、ガラスの破片を散乱させて沈黙している。壁紙のない灰色のコンクリート壁も、細かい傷跡を無数に受けてもろくなっている。自重のせいか、たまに粉を散らして重低音が響く。
そして、『私』が頭を垂れて座っている床板のない地面さえ、壁と同じ傷跡によってすぐにでも穴が開いて抜け落ちそうだ。
けれど、これは全て『私』の仕業だ。誰も攻めることもできないし、何故壊したかも知っている。
『私』は物達の声を聞けてしまい。その『私』が物の声を嫌っていたからだ。
物の声とは、すなわち物の価値と同義の存在だ。例えば柱が支えるからこそ価値があり、壁は隔てるからこそ価値がある。物の声は、それを別の形で表現している。
故に物は声を出せなれば崩れ落ちる。逆に言えば、物は崩壊せずに価値を有する限りざわめき続けるということだ。
それは例え空に居ても、地に居ても、『私』の居る地下においても変わらない事実だ。
常に付きまとう物の声は、『私』の鼓膜を湿気の帯びた吐息で刺激する。
『私』はそんな物の声が嫌いでしょうがなかった。でも、声から遠ざかる逃避は不可能。逃げるためには、物の声を消すしかなかった。 だから、『私』の手によって物は声を失い、朽ちた。なんの罪もないのに、『私』の独りよがりだけで… …。
いずれ『私』以外の物共は自壊するだろう。その中で、いずれ『私』は押しつぶされ、絶命に至るだろう。それは当たり前で、必然で、自業自得だ。この場から逃げ出すなんて、倫理的にも『私』の願いにも即さない。
それなのに―――、私を明るく照らすこの光は何なのだろう。
「… …つまり、これは過去の夢か」
本当の私は、まぶたの裏を凝視したまま、綺麗に干され心地のよいベットに眠っていた。
閉じているまぶたに降り注いぐ陽光は、あいまいに塞がれたカーテンの隙間からのぞいている。
私は上に覆いかぶさる二重の掛け布団から這い出すと、上半身だけを立たせて部屋の中を見回した。
今私がいるのは、六畳半のこじんまりとした部屋。小さい割には3LDKが搭載されている上等なマンションの一室だ。そこで私は、ベットの上にポツリと座っていた。
窓の方を見ると、カーテンの隙間から相変わらずの灰色の町が広がっている。空の低い位置にある太陽は、その頭上で退屈そうに漂っていた。
―――私は、まだ生きている。意味など無いはずなのに。
ふとわきあがった疑問は、ふつふつと水面の上に出ては消える小麦のだまのように、浮いては消えていく。起きたばかりで、どうも頭が働いていないようだ。大事な記憶がノドの途中で引っかかって、思い出せない。もしかしたら、最初から何もないのかもしれない。この思考も既に意味の無い行為なのかもしれない。答えの出ない同じ記憶の再生の繰り返しで、そう思えてしまう。
仕方なしに私は無為に湧く議題を無視して、寝巻きを引っ張りつつシャワーを浴びに行くことにした。
その時になって、また頭が奇妙な方向に動いたらしく。気づけば、私は服を脱いでシャワー室に入るかどうかを考えていた。気分の方はバスローブを脱ぐのも億劫だったが、着の身着のまま入るわけにもいかない。私は脱衣所で、薄い布切れ一枚を、備え付けられてある洗濯機の中に放り入れた。
その過程で、私は耳に付いている異物に気づいた。それは、寝ている最中に付けたままにしていた黒のヘッドフォンであった。
このヘッドフォンは、『close myself』と片端の丸に刻印された特注品だ。高周波の雑音遮断に優れた構造は物の声さえも阻むため、私の耳には最適の造りだ。
とはいえ、先程いうように耳にかけたままシャワーを浴びるわけにもいかない。仕方なく、私は滾々と流れる交響曲第四十番の曲調を、優しく耳から離した。
すると、私の耳元に楽曲とは異なる囁きが入ってきた。
「うるさいな」
過去のフラッシュバックで頭を削られたせいもあり、私は苛立ちと共に声が聞こえてくる壁に腕を横薙ぎに振るった。
たったそれだけのことで、穢れもない潔白の壁は押し黙り、同時に岩が崩れ落ちるような破砕音を伴い。脱衣所はあっさりと隣の部屋と開通してしまった。
「うっ……。隣室空き部屋にしてもらってよかった」
問題は壁を壊したことだと、後で自分に気づかされるような嘆息が口を伝って出た。だけど、もし隣に誰かが隣に住んでいたらと考えると、やはり空き部屋にして正解だったと安堵する。
それと同じくらいに、物が声を発せることに苛立ちを覚えてしまう。
いつ誰が話してくれたか忘れてたが、「万有声在」という造語を聞いたことがある。
意味のほうをいえば万有ニ声在リ、全ての物が声を持つようにそこに存在する。という意味合いらしい。だが、私に対しては別の意味となる。
この言葉は、私にとって、私が持つ特異な耳を表現していた。
物の声とは物の価値。生物にしろ無生物にしろ、万物は世を象るのに必要不可欠である。
生物に限っては、生命を持つために命の拍動の音が大きく、物の声は希薄か無音に近い。ただし無生物は、存在価値そのものが心臓の鼓動であるかのように物の声がやたら強く私の耳を刺激する。まるで、自らを言語で主張できぬ赤子のように。
私が行う破壊は、この物の声に起因する。
声を出したくないなら口を塞げば良いように、物の声も口を塞げば出てこない。口を塞ぐと言っても、実際に手や縫い針で閉じ込めるわけではない。物の口を閉じるには、価値と価値をぶつけること。すなわち物の声と物の声をぶつけ合えば済む。そうすれば、口は閉じ静寂の元に帰る
したがって壁を破壊した私の右手もまた例外なく価値を失い。指の先は軟体生物のようにひん曲がったまま戻っていない。
けど、生物の場合は骨折や擦り傷と同じく自然治癒されるため、数週間もすれば元に戻るだろう。
とりあえず言うことを聞かない指先の始末は後にしておこう。
私は正常な形の左手で白い蝶番を引いて、シャワー室の中に入った。右手が使えないので、シャワーの口を高いところに付けたまま、私は蛇口をひねった。始めは身体を強かに打ちつける水滴の濁流は冷たく、厳しかった。そのうち温水が回り始めたのか、身体から徐々に白い蒸気と熱が立ち昇る。
そしてやっと、虚ろに思考する余裕が生まれた。独り言を語る余裕もまた、あった。
「『私』はコトコ・ペオール。『私』は物の声が、嫌い」
焦点の合わない視線を揺らして、一つ一つを詠唱していく。解けない問題を確認するように、つぶやく。
そのまま、次の確認事項も言語に変えて頭の中に刻む。
「私も、コトコ・ペオール。私は意味ある破壊が、好き」
行く当てもない眼球のめぐりが、その言葉に反応してピタリと止まる。眼には、向かい合った鏡でも分かるほどの生気が宿る。
そうだ。私が生きている理由は、昔と同じ挙動を異なる意思で動かしているに過ぎない。何一つとして、悩みなど無用だ。
私の中には、二本の足で立っている理由がまだ残っている。
「行かないとな」
入る時とは打って変わった急な足取りでシャワー室を抜け出し、掻くように身体の水気をふき取る。寝巻きのまま外に出るのは体調に悪いので、脱衣所のタンスから黒い衣服一式を取り出した。
それは、黒いコートと黒のシスター服だ。
私は上と下の下着を履いてから、喪服みたいな黒を纏う。黒い円柱の中に袖を通せば、私を覆う空気が全て切り換えられたように周りの色が変わる。それは極寒の地を思わせるほどピンと張り詰めた緊張感だ。
いつもの、破壊を生業とする私が戻ってきた気がした。さっきまでの気弱な私とは似つきもしない、生々しい生気を持った私が、再びここに居る。
私はヘッドフォンと桃色の小箱を手に持って、いつもの場所に行くために歩き出した。
靴を履いて、鍵を開けて、蝶番を引いて、扉を押す。開けられた戸の隙間からは、朝の淡い光が差し込んできた。
私は、光の中に吸い込まれるように、日常へ足を踏み入れた。
秋の、心身をなで染める冬の寒さもまだ遠い頃。「田所屋」と書かれた看板の店の前は人の姿がまばらにしか見られず。乾いた気候とも世情を襲う不景気ともまた別の荒んだ風が通りを吹き抜ける。
それもそのはず、看板がかけられた店の中には、物好きとしか言いようのない骨董品ばかりが集められている。どれも価値があるとは思える物ではなく、全て埃を被って飾られている。
そして品数の多さのため、木の棚も数が多い。それ故、店の通路は必然的に狭く、棚と棚の距離は非常に近い。もし二つの間に入って振り向けば、棚に置かれた得体の知れぬ土偶と接物してしまうほどだ。
「うーん… …」
店の中に、若い男性の声が響いた。
声の聞こえた店の奥に居たのは、大正時代を思わす鼠色の袴を身につけた中肉中背の黒髪をした青年だ。歳は二十の半ばだが、穏やかな雰囲気は青年の歳を老けて見えさせた。
その点でいえば、青年は時を止めて俗世から離れたようなこの店にふさわしい人物像でもある。
そんな青年の御前には、単一の赤茶に濡れた額に入れられた絵画が横たわっていた。絵の内容は、冬の枯れ木と澄んだ湖畔を描いた油絵であり、つい先日青年が十万を払って手に入れたばかりである。
どうやら、はたと見た時からこの絵画を値打ちものだと決めつけているらしい。青年は絵画の額を持ち上げて、買値の十倍で売られる様を頭の中で何度も思い描く。その顔は、自分の早決な判断に一片の不安も持たぬという自信に満ち溢れ、ニヤついている。形容すれば、過信する小者とも言えなくない。
そんな時、青年の慢心に水を指す、氷を叩くような冷たい声が店内に響いた。
「またそんなの買ったのか。ヨシノリ」
義典と呼ばれた青年は、絵画から目を離して店の正面玄関を覗いた。
開けられたガラス障子の仕切りを跨いで立っていたのは、黒い色水に一晩漬けたような鮮やかな髪の女性だった。頭の上にはヘッドフォンを着けていて、色は髪と同じ色で黒く。身にまとう衣服もまた黒い。その黒の合間に見える肌は、闇に射し込む光のような、見栄えの良い白である。青い双眸は、黒と白の中にあっても写り映えする彩色が輝いていた。
義典はその女性に会釈して挨拶を交わす。
「お早うコトコ。今日は平日だよね。学校は?」
「担任に貸し作ってあるから休みの二・三日は大丈夫だ。それよりもお前が心配すべきなのは自分の貯蓄のほうだろ。知識も大してないくせに、高値につい手をだす癖。止めたほうがいいぞ。店、儲かってないんだろ」
「店じまいするほど不景気でもないよ。現代はネット販売なんて物もあるからね。コトコが不安がるほどじゃないよ」
「別に、心配したわけじゃない。ただ聞いてみただけだ」
コトコは勘違いするなとばかりに目力で威圧して、義典の隣、すなわち膝ほどの位置にある畳に腰掛けた。店のスペースの大半を商品に割いているせいで、必然的にコトコと義典は寄り添いあう格好になる。しかし。そんな事を気にもせず、二人は話し始めた。
「この絵画、コトコが言うような質じゃないよ。色使いも構図も良いじゃないか」
「たいした予備知識もないのに言うね。それじゃあ、私が聞いてあげようか」
コトコは悪戯好きな小悪魔みたいに微笑んで、ヘッドフォン越しに耳をつついてみせた。
もちろん義典はコトコの言っていることが分かる。コトコの耳は物の声を聞き、価値を容易に判別できる。だから、コトコに任せればこの絵画の値段などもすぐに見破ってしまうだろう。
だが、義典はそれを望まない。
「いや、無理に見聞きしなくてもいいよ。コトコは物の声嫌いなんだろ」
「へー、私の気遣い? 違うね。ヨシノリは価値を知りたいけれど、同時に真贋を知ってしまうのが怖い。偽物だと知るよりも、嘘を信じている方がマシだと思ってるんだろ」
「違うけど」
「だったら、躊躇う必要なんて無いな」
そういって、コトコは頭上のヘッドフォンに手をかけた。義典は半ば止めようと静止の手を伸ばそうとしたけど、途中でやめた。
コトコの耳に雑多な物の声が入ってきた。
彼女はそれらの声に神経を尖らせつつも、目を閉じて、絵画の発する一声も逃さまいと慎重に聞き取る。それは砂浜に散る無数の貝殻を一つずつ拾い集める静謐さに近く。簡単にも難解にも見える作業は、絵画が何であるかを導き出す。
そうして全て物の声を聞き終えて、コトコはしょぼくれた視線を義典に送った。
「率直に言うのと、遠まわしに言うの。どっちが傷つきにくい?」
「… …言い方を選ぶってことは、どちらにしろ悪い結果なんだろ」
「ああ、そうだ。こいつは見事に金銭的価値が無い。著名な画家にかかれたわけでもない上に、物の声が聞こえた長さから考えても描かれてから一年も経ってない」
問いに問いを返した義典の応えよりも早く、コトコはすんなり絵画の正体をばらしてしまった。義典は、訊くなら返す言葉を待ってからでもいいよね。と思いつつ、価値なしと知った落胆半分コトコのいつもの調子にあきらめ半分、ため息をつく。
一方コトコはそんな義典の気持ちも知らずに、自分が聞いて得た絵画の素性を事細かに解説し始めた。
「この絵画はな。動きと質感を強調表現していて、写実性がない。いわゆる印象派だな。絵は晴れの日の湖畔を描いているが、実際に描かれたのは雨の日だ。物の声に湿り気があるからな。それに―――」
物の声が嫌いと言う割に、コトコは口数多い評論家みたいに絵画の詳細を喋りだす。一度や二度となく物の声の説明を受けている義典は知っている。これは十分やに十分で済まない。
コトコが物の声から得るのは物の質や製造の手法、含まれる材料の種類に留まらず。物の奥底にある作者の投影した心理や製造過程に至る境遇までもが、物の声のみで判別される。つまり彼女は、一つの物と一人以上の人生の実像の隅々まで掘り起こすことができる。となれば、全てを語るのもまた長くなるということだ。
かつてコトコの鑑定のおかげで一級品の茶碗を得た時の話だ。得難い物を手にした義典は始めの方こそ喜んでいた。それもつかの間の出来事。彼女は、茶碗の受けた茶道の流派から茶碗を手にした茶人の履歴に加え、共に使われた茶筅に茶だく、果てに何時どこで誰が何度回して飲んだかも、言葉にして並びたてた。
義典が半強制的にコトコを止めた頃には、天頂にあった太陽が地平線の彼方に下りていた。それでも、彼女は義典に言い足りなさから来る不満の言葉を吐いたのであった。
コトコが言うには、この絵画は描かれてからさほど長い年月を経ていないらしい。だが既に、彼女の話は長くなる片鱗を見せている。
コトコに失礼と承知でも、義典はそれを聞いていたいとは思わなかった。
「――― ―――聞いているのか。私がせっかく絵画の価値について教えてるのにさ」
だから義則の憂鬱な考えなど、コトコはすぐに気づいていた。
「え、ああ。考え事してたからあんまり聞けてなかったよ」
「それはひどいな。そんなんじゃ幾ら説明したところで無意味だ。意味がないなら、壊れてしまえば良いのに」
コトコは駄々をこねる子供がするような不機嫌な顔を作り、凶悪な言葉を義典に向けて発した。それから、嫌いなものから逃げるようにして、畳の上に転がっていたヘッドフォンを被った。
その時ふと、義典は彼女の身体の異常に気づいた。
「コトコ。右手が… …」
「ん? ああ、そうだったな。朝、壁を壊してそのままだったからな。忘れてた」
「忘れてたって。右手が酷いことになってるじゃないか」
「いいよ、気にするな。数日もすれば治るさ」
コトコはそう言って、関節の外れた玩具で遊ぶようにして、右手を左右に戯れさせた。
それは本当に、どうでもいい他人事を扱うような仕草で、自分を自分のことだと思っていない挙動であった。それに対して、義典は声を荒げた。
「治るとか治らないとか、気にするしないの問題じゃないよ。救急箱持ってくるから待ってろよ」
「おいおい。そんな大ごとでもないだろ」
「大ごとだよ!」
久しぶりに声を張り上げる義典を見たので、コトコは両眼を唐突な驚きで開いたまま硬直していた。その間に、義典は救急箱を取りにさっさと部屋の奥に去ってしまった。
コトコはあまりにも義典が積極的に動いたので、止める術を持たずに、独りだけ店の片隅に残された。
「全く。いつも自分より他人のことを気にしやがって。私なんかの世話を焼いても報われないぞ。… …だけど、そんな事を嬉しく思ってる私が言えた義理じゃないな」
コトコは小さく自嘲してから、物思いの深そうなため息をついた。でも、その呼吸は呆れ気味ではない。逆に、何かに満たされたような様子に見て取れた。
コトコは訳もなく天井を見上げた。
「本当に価値あるものは五感で感じるものじゃない。私を地下から出してくれたあの人がそう教えてくれたように、お前も私に自覚させてくれるのか。ヨシノリ」
自問自答のような吐息は、吸い込まれるように天井の向こう側に飛ぶ。コトコの独り言は、そうして彼女以外の誰にも届かない。自酔している独白なのだから、彼女にとってはその方が良かった。
しばらく暇なので隣に鎮座していた達磨とにらめっこしていると、コトコの耳に物音が入ってきた。
それは、物の声のような小さな音ではなく。木々が擦り切れるようで、空の糸車を回すように乾いている、戸の開く音だった。
「誰か、居ますか」
店内に流れてきたのは、怯えた子鼠が気力を振り絞って出したみたいな、頼りない女性の声。声の主の方も、まるで目立つのを恐れるように、服は地味目な深緑で統一されている。後ろにも前にも長い黒髪は、伏せ目がちな女性の顔を、ちょうど簾のようにして隠している。それらの見た目からコトコの彼女に対する第一印象は、根暗という二文字だった。
とりあえず、コトコは声をかけることにした。
「よう、骨董品店田所屋にようこそ」
その場からはコトコの姿が出入り口から見えないので、身体を傾けて棚と棚の隙間から顔を出してやった。 そうすると、女性はコトコに気づいたようだが、どうにも挙動がおかしい。突然顔を覗かせたコトコに当惑しているのではなく、自分が失態を犯した風に思っている感じだ。
「ま、間違えました!」
女性はすぐさま御辞儀して、きびすを返した。さっきまでの小心者が嘘みたいに、彼女の動きは鮮明にして速い。このまま放っておくと、旋風のごとく店の前から消えてしまいそうだ。
でも、コトコの中にはそんな懸念よりも、一つの心当たりの用事を訊いてみたかった。
「もしかして、呪いの相談?」
その言葉は女性の心を見据えていたらしく、二歩ほど店から出た彼女の足を止めた。どうやら女性は、コトコの方の客だったらしい。
コトコは畳の上に座り直して、女性を正面に捉えた。
そして、コトコは自分の顔を小悪魔が笑みを堪えるようにするようにして、歪めた。まるで、彼女はこれから来る事情全てを知り尽くし、尚且つ地獄の釜口で手招くように待ち焦がれているようだ。
コトコは妖艶に映る二つの唇を動かして、流暢な台詞を語る。
「呪いなら、この破壊魔が存分に壊してやる」
「呪いはな。本質ではなく付属なんだ。ヨシノリ」
私は、義典と依頼主の女性と共に岩壁と見間違うばかりの巨大なマンション群に来ていた。依頼主の住むという団地は割と近い場所に位置していたので、三人とも歩いて来ていた。今は、上へと続く黒塗りの階段を登っている。住人は登校や通勤で出払っているらしく、私は誰ともすれ違うことのできない死んだ世界に入ったような気分を覚えていた。
「さっきの贋作みたいなのは偽物という概念、あるいはそれに準ずる他のニュアンスを持った本質なんだ。付属じゃないから剥がせない。つまり、幾ら壊そうとも偽物のままだ。だけどな、呪いは本質を覆い隠す付属なんだ。分かり易く言えばメッキだな。呪いを解くっていうのは、つまりメッキを剥がすような作業なんだ。私にとっては、ね」
私がそう語ってやると、義典は疑問で低く唸りながら言葉を返した。
「よく分からないんだけど、呪いはお祈りや祈祷じゃなくても消せるってことかい?」
「短絡的に言えばそうなるな。義典には見せたことないけど、それがものを壊すという業だ。言っとくけど、一般的にいう破壊とは違うぞ。私の破壊は、手を振るだけで壁や柱に穴が開くデタラメなものだからな」
そう言いつつ、私は包帯に巻かれた右手を、手負いの蝶のように舞わしてみせた。
「普通誰にでも物は壊せるけど、消せはしない。破壊は所詮、分離と分割の世界だ。塵に化すほど壊せても、消滅は有り得ない。私の破壊行為でさえ閉鎖と隠匿の域を出ない。だが、こいつは大きな違いだ。覆い隠すという手段は、表層上だけでも擬似的な消滅になりうる。声を持つ物自体を全壊させるよりも、口を塞いだ方がより簡単で効率が良いのと同じだ」
「どちらも、口上だけの推論に聞こえるんだけど… …」
「そいつはそうさ。物の声なんて具現できない現象を真に理解できるのは、実際に触れている私だけだ。奇跡と可能ほどの差があるのに、義典が容易く分かる領域じゃない」
「そういう、ものなのかな」
義典はしかめっ面を作って、難解な問いを解きほどくように腕を組んで考え始めた。所詮は戯言程度の話なのに、義典はやたら真剣だ。
私はフェルマの定理に挑戦する凡人をたしなめるように、義典を諭した。
「分からないなら分からないままの方が良い。こんなの、誰に訊かれる知識でも常用する技術でもないんだからさ。それに、理解する次元よりも前に捉えきれない次元の話なんだ。無理する必要はないぞ」
「必要あるよ。コトコは僕の―――だから、コトコが見聞きする世界を理解できないと気がする。そうじゃないと、コトコの傍に居られる資格がなくなるんじゃないかって、思うんだ」
「… …今言うことか、馬鹿」
義典がぼやかした言葉の部分はヘッドフォンのせいで聞けなかったのか、聞かなかったのか知らない。だけど、脇がくすぐられるようなむず痒い言葉を、どうして近くに私とは別の傍聴者が立っている状況で言えるのかなコイツは… …。
依頼人の、小夜子という名の女性は辱めの視線を私に向け、はわわと奇声をほざいていた。私は、彼女の眼差しが私の後頭部を針のように刺して痛いので、ごまかすために小夜子の方へ急に振り向いた。
「ところで小夜子。お前の部屋にはまだ着かないのか」
「うぁ、すいません。もうすぐですから。すいません」
急かしただけなのに、小夜子に何故か物凄く謝られた。私が怒っているとでも思ったのだろうか、小夜子は私と視線を合わせずに俯いている。好かれてはいないのは分かっていたが、こうもあからさまなのは軽く傷つく。
仕方ないので、巣から落ちた雛鳥を抱えるような優しい口調に変えて、一つ訊いた。
「小夜子の依頼は、人形の呪いを解くことだったな」
そう問われた小夜子は、顔を向けずに首をこくりと上下させた。
小夜子の依頼は幼い時より所有している人形の解呪。その人形とは、小夜子が五つも数えぬ年の頃に祖父より贈られたフランス人形の少女らしい。彼女は子供の頃から友達も少なく、他人と遊ぶよりも一人遊びが多かった。よくフランス人形を片手に独り、自宅の居間を遊び場にしていたそうだ。故に、彼女の人形に対する愛情は彼女の孤独の重さに等しく、人形は深い愛により心と感情が芽生え始めていた。
しかし小夜子が歳を重ねるにつれ、自然と彼女に友達ができていった。決して多いとは言えない数であったが、必然的に家にいる時間は減り、遂にはフランス人形もタンスの奥に身を潜める羽目になった。
本来なら、どの人形にも訪れる末路であった。だが、彼女のフランス人形はあまりにも長く、あまりにも色濃く親愛の感情に浸され続けていた。それは人形の金色の髪を研いだ毛の数ほど、貧相な間接を幾千も曲げた回数ほどにだ。
ある種、彼女の分身とも言えるフランス人形の感情が、彼女と同じかそれ以下境遇に置かれれば、生まれるのは当然悲しみと憎悪。フランス人形は恨み辛みを想うだけに治まらず、己の身体を自らの意志で動かし、小夜子の友達に報復したそうだ。
そして、フランス人形の愛憎にも似た呪いは、小夜子に危害を与えずとも、彼女を苦しめている。
「昼ドラみたいな呪いだな。それ」
結局は人形と小夜子の絆は離れるばかりで、どちらも苦しい思いを味わうだけ。呪いは両者の苦しみを自動製造するだけの意味のない価値に成り下がり、物の声は悲鳴に変わる。意味がなければ壊れてしまえと願う私にとって、耐え難い理だ。
今の私も、昔の『私』も物の声は嫌いだけど、決定的な違いは聞く物の声に意味が在るか無いか。『私』が無差別に物を壊す行為から、意味のない物の声を破壊対象にするように変わった。社会に適応するために生んだ理性の一つではあるが、訳は一つでない。
それは、まだこの世界に私が望む価値の形が残っているから、私は破壊衝動を自制できるようにと進めた結果だ。制御は完全ではないけれど、私の壊したくないと思うものは残っている。それだけで、十分だ。
「ここです」
小夜子が指したのは、階段から廊下に出てすぐの部屋から右に二つ行った扉だ。特に他の扉と寸分違わず、鈍く黒っぽい光沢を放ち、立っていた。
「すぐに開けます。すいません」
ことあるごとに謝罪するのは他人に罪悪感を与えるためなのか、と浅い勘繰りをしつつ。私は念のためヘッドフォンを肩に摩り下ろし、桃色のポーチに手をあてて開くのを待った。小夜子は肩に下げた袋からたどたどしく鍵の束を取り出して、何度か鍵口に鍵の先端をぶつけ、ようやく鍵を挿す。私は彼女の稚拙さに喝を入れてやりたいところだったが、耳に入った奇異な雑音がその思考を止めさせた。
「小夜子。お前の人形とやらは今どこにある」
私は周囲を舐めあげるような鋭角の視線で小夜子に詰め寄ったので、彼女は身を震わせて鍵を扉に挿したまま横に逃げた。
「出る前は、奥の間の金庫に入れました。それが、何か?」
「なるほど。なら退いてろ。奴は扉のすぐ傍で呪詛をぶちまけてやがるからな」
壁の向こうで、嘆くとも怒れるともつかぬ物の声は、小さくとも確かに私の耳へ届いていた。私は小夜子の代わりに鍵を捻って、黒い扉をそっと押す。
金属の擦れる耳障りな音を残して、開かれた扉の先に残されていたのは私の予見の通り、人型の無生物。模造の金髪を頭からさげ、一昔前のフリフのついた西洋のドレスを見繕われた女の子の人形だ。ガラス球の双眸は、扉から以外は光の射さない廊下だというのに、猫の目のように爛々と輝いている。それは灯台の光のような生易しいものではなく、鬼火のような怪しさと怨念を漂わせている。そうして奇妙なフランスの人形は、フローリングの床板に足を投げ出した格好で座っていた。
私は人形の両眼に秘められた憎悪に恐れることなく、人形の正面に立った。そして、腰につけていた桃色のポーチから一本の縫い針を取り出した。
余談だが、私の獲物がこんな小さいのは、意味のない物の声だけを正確に刈り取れるように選んだ故の凶器だ。使い捨てなので、家庭で使われるごく一般的な裁縫の道具と変わりない。小細工なども、仕掛けてはいない。
「全くもってうるさい声だ。恨み辛みばっかり言いやがって。あんまし酷いと、私が壊してしまうぞ」
私はそう言い放って、人形の持つ禍々しい空気にも負けぬ針の先に似た威圧を人形に向ける。人形の方は私が居ないとばかりに何の反応も見せず、沈黙を保つ。座して動かず、あたかも先にそちらから来いと挑発しているようだ。
ならば、躊躇いなど必要ない。
私は土足のまま玄関から廊下へ跳躍すると、人形の二歩手前に降り立つ。
着地と共に踏み出した足を軸に、身体を捻り、左手の一撃を整える。
抜かりなく揃えた状況を、一寸の余白も無く行うために、私は全身を軋ませる。
だが、私の攻撃はおろか、私は毛ほども人形に触れられはしなかった。何故なら、戸が開いたままの隣室から邪魔が入ったのである。
私と人形の間に割って入ったのは、形も種類も定かではない使い捨てられた日用品や年季の入った汚物どもだ。役目を終えて捨てられ、壊れて放り出され、小夜子の人形ほどではないが無念の物の声を上げて騒がしい。それらの捨てられた物どもは、洪水のごとく現れた次の瞬間、鉄砲水のごとき勢いで私を飲み込んだ。
私は対処する動作も間に合わず、重々しき声と力の内に襲われ、瞬く間に私の身体は沈み。その際ぶつけた頭部の衝撃は、私を混沌させ、意識を失った。
すすり泣く、声がした。
辺りは暗く、泣き声は重低音の如く腹の底から湧いて聞こえた。声は、自分なのか自分以外の誰かなのかもわからない。ただ、声の音はひどく寂しげなのは辛うじて理解できた。他にも、唯一大切な人を亡くした声だとか、心落ち着かせる場所を失くした声だとか、絆を信じていたのに裏切られた声だとか。何故だか色々分かった。
ほんの少し頭を働かせれば、あたりまえだ。聞こえてくる声の正体が物の声だというだけの話だ。物の声が周囲から余すことなく聞こえることと、薄く開いた瞼の隙間の先で黒い塊が渦巻きながら蠢いていることから、私は先程私を飲み込んだ物どもの渦中にいるらしい。
声が、騒がしい物の声が私の耳をつんざく。悲しいと空しいと、秘かな囁きを漏らして己の業を憎み、全てを呪う。どうにもならぬ|運命≪さだめ≫と己が内に知らされようと、なかろうと。
だが私にとっては気に掛けるべき問題の範疇外、所詮は騒がしいだけである。
「嘆くなら、閉ざせ」
左の|掌≪てのひら≫の中で、まだ縫い針の感触が確かめられる。私はそれをサッと袈裟に振るう。
眼前の黒一色は、私の斜線の一撃によって沈黙に帰した。手にした縫い針もまた、同じように押し黙り、ひび割れて砕け落ちた。
私は素早く桃色のポーチから新しい縫い針を手にする。一本一本握っているのでは数が合わない。一度に数十本の針を握りしめ、前方後方左右にでたらめに振るう。物の声のみを頼りに、なぎ払う。
がむしゃらに、斬って裂いて砕いての単純作業を渾身の力で動作する。十か、五十か、二百かも判断できぬほど腕を振るって、急に抵抗感が失せた。耳に意識を戻してみれば、何も聞こえない。聴覚可能な範囲の物が、全部壊れてしまったようだ。
残されたのは私と、価値を失った物の残骸と、闇と沈黙だけ。それはかつて『私』が望み、身を置いた世界そのものだった。生死よりも声の届かない一人ぼっちを、歪曲しつつも純粋に願い。破滅を待っているだけの虚しい存在になりたかった。私が『私』だった頃。
今も、同じなのだろうか。
「コトコ!」
声のない場所なのに、私の耳に声が届いた。それは人の声だ。聞き慣れたお節介焼きの誠実な青年の声が、私の名を呼んでいた。
「居るのか… …。義典」
惑える私の意志が引き寄せられるように、残骸に邪魔されつつも、私は左手を声の方に差し出す。そうすると、声の方で私の指先と誰かの指が触れ合った。その手は、迷わず私のを握りしめる。私もまた、その腕を握り返す。
「なぁ、私はまだそっちの世界に居てもいいよな。私も声の一つや二つ我慢するから、迷惑かけないからさ。私はもう暗がりの中で独り震えるのは、嫌なんだ」
これが、今の私の答えだ。
私を支える腕は返答の代わりのように強く、私をそちらの世界に引き寄せていく。そして眼に、まばゆい光が射しこんだ。あの時と同じように、私は再び外の世界に救い出された。一人の、正しい道へと確かに導いてくれる彼の手に。
「大丈夫かい。コトコ」
私が這い出た場所は、マンションの廊下の更に上、降り積もった小高い残骸の頂上だ。どうやら物どもに追いやられて小夜子の部屋から弾き出され、遠くに来たらしい。よく見やると、目線の先で少しづつ黒が千切れて廊下に線を作っている。
とにかく現在の状況を知りたい。
「人形は? 小夜子は?」
義典は私の二つの質問に答える代わりに前に視線をやる。私も視線を追って振り向くと、小夜子は開けっぱなしの扉の陰に寄りかかるようにして立っていた。人形のほうは、今まさに部屋の奥から廊下に出てきている最中だった。歩く姿はまさにゼンマイ仕掛けのからくり人形みたいに不安定だが、確実に一歩ずつ進んでいる。
「下がってろ」
義典にそう命じて、私は桃色のポーチの中を探る。感覚を駆使してポーチの中に指を這わしてみたが、残っていたのはたった一本。捨てられた物どもを一掃する際に使いすぎたらしい。無いよりはましなので、あっただけ良いと自分をなだめる。
今度はふらつきもせずに立ち上がり、黒の残骸を降りて、人形から十歩の地点で針を持って身構える。
「仕切りなおしだ」
言葉のとおり、気分は対峙した際と同じ気迫かそれ以上だ。私は眼の焦点を人形に合わす。いつでも跳びかかれるよう、低く猫背の体勢で爪先に全体重を乗せる。
それなのに、人形のほうは身構えるどころかこちらさえ見ていない。人形の両眼に見つめられているのは主人である小夜子だ。小夜子は、人形に睨まれているという事実に身を竦める。
「安心しろ、小夜子。そいつはお前を襲いやしない」
それは小夜子を落ち着かせるための嘘ではなく、本当のことだ。人形の物の声は、小夜子自身を憎んでいるとは一言も零していない。
「捨てられた憎しみも、愛を独占したいという捻じれた欲望もないなんて変わっているな。ただ純粋に小夜子が好きで、独りになるのが怖かっただけなのか。私にもわかるよ。孤独の恐さって奴を」
私は目を細めて人形を見た。私と同じで、愛とか好きだとかを知って孤独を嫌うようになった人形。そいつは物の声で私に語りかけてくる。忘れられたくはない、と。
「大丈夫さ、人形。お前の主人はお前との日々を忘れちゃいないし、嫌ってもいない。その証拠に、私がここにいる」
物の呪いを解くというだけなら、それこそ霊媒師や祈祷師に御炊き上げをしてもらえば済む。しかし小夜子がコトコを選んだのは、物そのものを壊さず残せるという方法にある。大概呪われた物品などは浄化と称して燃やしたり、流したり、埋めたりされるが、愛着のある思い出の品にそんな扱いをしたくない者もいる。小夜子も例外ではなかった。
「小夜子が私を見つけたのは偶然かもしれない。でも、いずれ私の所にたどり着くのは必然だった。だって小夜子は、人形であるお前のことが好きでたまらないんだ」
私は、物好きな奴だ、と文字通りの意味で笑ってやった。
「だからお前の声なんてもう意味がないんだ。後は物の声さえなければ万事大丈夫なんだ。それを、お前は知るべきなんだ」
私は言葉と共に跳んだ。
私が唯一破壊の嗜好を赦せる、意味ある破壊のために。
「その歪んだ想いの捻じれ。この破壊魔が壊してやる」
十歩の距離は二度の跳躍で飛躍的に縮まる。
対する人形は、いつもの緩慢な動作とは比べ物にならない飛躍的な速さで髪を伸ばし、触手のような髪の束を作り上げた。
私は左手を下段に構え、髪の束が届く距離へ肉薄した。
金色の毛は、上と下の二方向から突進してくる。先に来たのは、下からの一撃。
私は駆けるために前へ出した左足で二度地を叩き、身体を浮かして地面を大蛇のごとくすべる髪の束を避ける。
上から来る二撃目は、仰向けに身体を反ってかわす。逃げ遅れた黒のコートを喰い破り、無残に中途で千切れ落ちる。
私はコートの末路など気にすることなく、身体を反転して着地。人形との距離はもう、手を伸ばせば届く距離だ。
左手を、その時になってやっと空に振り上げる。
狙うのは、暗い言葉を吐く左肩の中心部分。
「黙れ」
一喝する様に言って、ためらいもなく縫い針を人形に通した。
人形は、私が通した見えない口の部分で、一際高く金切り声を上げだが、すぐに止んだ。それは人形が物の口を失い、物の声を失くして、呪いとしての価値を失くしたからだ。
丸太ほどの太さを持つ金色の髪の毛は、はじめからなかったように宙で散り、動力をなしに動いていた人形から力が抜ける。
パタリと本が倒れたような乾いた音が廊下に響いた。
私は、呪いを失くした人形と粉々になって雨くずみたいに破片へ変わった縫い針を見ていた。
二つをみる私の顔は魂の抜けたように感情が込められていないが、眺めるほどにある感覚が呼び覚まされてきた。
始めは実感も薄く、それが何か分からなかった。でも少し時が経てば、麻痺した腕が感触を取り戻すように自覚できる。私が感じ取っていたのは破壊衝動を満たしたことによる快感だ。普段なら強迫観念に駆られ戸惑うはずの破壊行動を、意味づけすることで抵抗なく行えた。それに対して私は、心の底から満足している。
時を負うごとに増す感情の高鳴りに耐えきれず、私はガラス細工の心を庇うように、両手で顔を覆う。
私の両手がひたひたと柔肌の顔を触覚していると、私の頬が知らず知らずの内にひきつっているのを見つけた。強張りだした輪郭は、三日月上に裂けていて、そのせいでシワもできている。まるで醜く老いた魔女のようだ。
幸い、顔の形を知れたのは私だけ。義典は死角にいるし、小夜子は人形を優しく抱擁している。それは良かった。もし見られたら、きっと嫌われる。きっと、変な奴だと言われる。
これが、私の生来持ち続ける破壊衝動の末だ。
「だけど止められない。だから止められない」
諦めの言葉か、達観しての言葉かも判らずに、変えられない事実だけを口から零した。小さく言ったのは、 独り言だからだけじゃない。後ろにいる義典の奴が聞きでもしたら、私が泣いているんじゃないかと勘違いしかねないからだ。
その馬鹿で、純真で、報われない義典が近づいてくる足音がする。私を普通の女性だと誤認して、何の警戒も打算もなく接するなんて、ほんとどうしょうもなく馬鹿だ。
だから、そんな馬鹿を裏切って元の顔に戻そう。心も平静と穏やかなものにしょう。それから、心配顔の義典が来たら笑ってやろう。滑稽な、喜劇を観ているような私の顔付きに、義典はどう思うだろうかと今から思案してみよう。それはきっとじゃなく、絶対楽しいはずだ。
そんな想像を頭に巡らせて、義典の方に向き直る。だが意外なことに、義則は私を見て、微笑を湛えていた。楽しみが減って少し不満だが、それ以上の別な気持ちが沸き上がってきた。そのせいで更に悔しく、私はなった。
私は、耳を澄ましてみた。私にとって価値のある、義典と私との繋がりが何であるか聞くためだ。
でも、物の声は深海の底ほどに静かで、一言も聴こえない。価値があると認めている私がいるのにも関わらず、脆く儚くか細い物の声は存在などしていない。
「私にも壊せない価値が、ここには在るんだな」
その事実は嬉しいようで悲しいようで、表現しにくい。はっきりと言えるのは、自分の異能の力で大切な物を壊してしまう可能性が全く無いこと。それだけは、断言できる良きことだ。
私は自分にそう言い訊かせると、前に一歩踏み出した。目の前にいる義典に少しでも近づけるように、遠くに行ってしまわぬように――― ―――。
私は、義典の前に立って、素直に微笑んだ。
End
前作の短編から半年…。時間かかりすぎだろ怠け者と自粛しています。(挨拶と言う名の自虐)
人間はあれですね。努力というのは、人にとって大事なものだと今更ながら思います。毎日本を読んだり、英単語を覚えたり、あーんなことやこーんなことを妄想したりするのもまた努力なのでしょうね。生きるって大変ですね!
さて、声が聞こえる― I like to break ―どうでしたか。今回はライトノベルなるものを目指して書いてみました。ぶっちゃけ、物の声の案はそこら辺に類似作がある類なのですが…。大丈夫ですよね?
元々は、物の声を根本に置いた推理形の話を構築していたのですが如何せん。作者は推理小説の基礎というのが、ミステリーとどのような違いで分類されているのかも分からないようなエセ野郎。猫に三味線を引かせるごとき無理な難題でした。推理小説書ける人ってほんとに凄いね。容疑者Xの献身くらいしか読んでない口ですが、そう思います。
推理小説の他、最近哲学やら法学やらに目覚めている変な作者ですが、ここの所書くというのにどれほどの気力が必要か分かってきた気がします。
そして小説を書いている人も、これから書こうとしてる人に一言。
睡眠はちゃんと取りましょう。(力説)
つか、作者はうたた寝常習犯で先生にマークされてますよ。授業中に授業している夢見るくらいだから、何とかしないとね! 小説書くためにも。
しかし、そろそろ長編書きたいなぁ。