壊れる
「えっと、あとでね」
と彩芽はストラディゴスとエルムに言って、その場を離れるのを少し寂しそうにしながら大食堂を後にした。
その姿を見送りながらストラディゴスは、まだ固まっていた。
彩芽がオルデンの賓客となる事自体は、喜ばしい。
地方を治める力ある領主は、下手な王よりも力がある。
マルギアス王国の海路の大動脈と、貿易の半分近くを事実上掌握している商業都市ネヴェルを治めるヴィエニス・オルデン公爵はマルギアス王家の血も引いており、その影響力は王国内でも五本指に入る実力者であった。
その人物に理由はどうあれ認められた時点で、魔法使いとしてのエルムに相談するのに金が無いなんて問題は、解決したも同然である。
カードゲームは、彩芽が勝てば好。
オルデンが勝てば彩芽をもてなし、ストラディゴスが勝ってもエルムが勝っても、借金の動きがあるぐらいで、彩芽にはオルデンの一言で、エルムは相談に乗らざるを得ない。
つまり、カードはオルデンの介入によって、ただのお遊び、お客様をもてなすだけの物に意味を書き換えられたのだ。
魔法を刻んで言う事を一つきかせる権利にしても、何でも命令できる訳では無い。
言うなれば、お願いを一つすると相手がききたくなってしまう強力な暗示に近い。
そして、その暗示は、言う事をきけば簡単に解ける。
つまり、暗示を利用する両者の信頼関係が無いと、使用後に関係が破綻する事間違い無しの罰ゲームなので、これもやはりオルデンの庇護下に置かれた彩芽には、下手な事は願う事が出来なくなる。
もちろん、オルデンにバカな頼みをする事はエルムもストラディゴスも出来ない。
オルデンが悪用する事も無いとなると、彩芽だけが不確定要素となる。
それらの事は、彩芽がリスクを負わずに、帰る方法を探せる事にもつながるので、良い事の筈だった。
しかし同時に、ストラディゴスは強烈な不安を隠しきれない。
彩芽がもし、オルデンと二人きりで、あの爽やかな声を耳元で囁かれ、優しい言葉を浴びせられ、甘いマスクで迫られるなんて事になりでもしたら、そんな想像をしてしまう。
仕える主が彩芽を気に入る事は嬉しい。
だが、彩芽が気に入られ過ぎては、今のストラディゴスにとっては大問題である。
「……なんか、なんだ。残念だったな! 飲むなら付き合うぜ?」
ワインまみれにされながらも、エルムは巨人に優しく声をかけた。
まるで、一つの初恋が終わったのを、目の前で見たように。
「なあ、みんな! 一緒に飲むだろ!」
兵士や騎士達は、エルムの言葉に「朝までだって飲みましょう!」「付き合いますよ!」と返事をしてくれる。
独身の大貴族が、若い女性を特別扱いするのに、そう多くの理由は無いと、皆が思っていた。
オルデンが恋敵になったのなら、一介の騎士は素直に身を引くしか無いのは、誰の目に見ても明らかだ。
今回ばかりは、いつもストラディゴスに意地悪をするエルムでも、さすがに同情するしか無い。
「どした? ストラディゴス? おい? 生きてるか?」
「フワァッーーーーーーーー!!!?」
「副長が壊れた!!?」
ストラディゴスの中の、騎士と恋焦がれる男、二つの立場が求める相反する結論。
一人の巨人が矛盾に挟まれ、処理出来ない感情が生まれた事で、悲壮感漂う謎の叫びとなり大食堂に響きわたった。
興味津々だった周囲の者達からの普段では絶対に無い同情的な視線が集まり、これ以上優しくされたらストラディゴスは立ち直れないと思いながら「取り乱した。頭を冷やしてくる」と言って、フラフラと大食堂を出ていく。
誰も、それを追う事も、止める事も出来ない。
カードに勝ってエルムの嫌がらせを回避する必要が無くなった代わりに、もっと大きな問題が発生してしまった。
廊下の窓から夜空を見上げる。
分針の様にゆっくりと動く赤い月が、空に静止している大きな月にジワリジワリと近づいているのが見えた。




