グラナダ紀行
『 グラナダ紀行 』
五十一歳を迎えた時に、思いがけなく、クモ膜下出血という病気に見舞われた。
幸い、抗生物質による治療だけで、開頭手術を行なうことも無く、また、特段の後遺症も無く、二ヶ月ばかりの入院生活の後で、職場に復帰出来たことは幸いであった。
それから、十年ほど過ぎ、会社を無事退職して、今は郷里にUターンして暮らしている。
しかし、還暦を迎え、長年勤めた会社も辞めて無職となっている身にとって、毎日が日曜日となっている日々はそれほど優しくは無い。
企業で品質管理、品質保証という神経を使う業務にかれこれ三十年余も就いた身にとっては、いきなり、毎日サンデーというエアーポケットのような環境に放り込まれた感じで、大いに戸惑うと同時に、どうにも居心地の悪さを感じる日々となっていた。
つまり、ふわふわとした、頼りない感じに囚われ、足がまだしっかりと地に着いていないような気がしてならなかった。
それと同時に、どうしようもない、苛立たしさも感じてしまう。
時代も不愉快なことが多い時代となってしまっている。
明るい展望が一切持てない閉塞感に満ちた時代に対する嫌悪感、貧乏と貧困、共に存在し、段々と落ちぶれていく日本という国に対する倦怠感と情けなさ、ひいては、世界的異常気象がもたらす幾多の悲劇的状況に対する絶望感等、果てしなく鬱病になりそうな危機的要因に囲まれて生活をしているんだという遣りきれない憂鬱さが徐々に心を蝕んでいくのを感じてしまうのだ。
正月、優柔不断な私であるが、珍しく一大決心をした。
旅をしてみよう。
こんな日本を離れ、できるだけ長い旅をしよう。
何か、あるかも知れない。
そう、思った。
まるで、ドン・キホーテのようだ、とも思った。
ありもしない夢を追う、愁い顔の騎士。
幻想でしか、ないかも知れないが。
しかし、私の座右の銘、『備えあれば患えなし』、幸か不幸か、時間だけはたっぷりある、とばかり、三ヶ月の間、旅行の地を選定しては、その地に関する調査研究を行なった。
調査・現状把握・分析という作業に関しては、昔とった杵柄とやらで、御手の物である。
その検討結果、スペインという国に一番魅力を感じ、この国を旅行することに決めた。
五月から六月という初夏にかけて、私と妻はスペイン旅行をした。
ツアーでは無く、車中泊含め二十五泊・二十七日という個人旅行を行なった。
長期の海外個人旅行となると、言葉の問題がどうしても懸念されるものであるが、幸い、 スペイン語という言葉そのものに関しては、二十代の頃、日墨交換留学研修プログラムの研修生としてメキシコで十ヶ月ほど暮らしたという経験があったので、会話程度は何とかなるという自信もあり、スペイン長期間旅行をしようと決めた次第であった。
それでも、還暦旅行と称して、お父さんたちは一体、何回旅行をすれば気が済むのよ、と子供たちから半ば呆れ、半ば白い眼で見られながらの旅行であった。
スペインでは八都市を三、四泊ほど滞在しながら廻った。
バルセロナから始まった私たちの旅は、バレンシア、グラナダ、トレモリーノス、セビリア、コルドバ、トレドと続き、マドリッドが最終滞在地となった。
八都市全て、それぞれ街としての個性があり、失敗も何回かあったが、結構楽しく愉快な旅となった。
中でも、グラナダという古都はアルハンブラ宮殿という豪華絢爛、華麗な建築を有する都市として名高いところで、私は少年の頃から一度は訪れてみたいという憧れを持っていた街であった。
昔、リーダーズ・ダイジェストという雑誌を兄が定期購読しており、その雑誌で私は初めて、アルハンブラ宮殿という存在を知り、少年だった私は胸を轟かせた。
それ以来、いつかはアルハンブラという夢のような宮殿を訪れてみたいというのが、私の昔年の夢となっていた。
以下、平成二十二年五月十七日から五月二十日まで実質三日間の私たちのグラナダ滞在の記録を綴ることとする。
五月十七日(月曜日)
バスは速度を落として、静かにグラナダのバス・ターミナルに着いた。
さすがに、疲れた。
何と言っても、九時間半という長いバスの旅だった。
前日の夜の十一時、バスでバレンシアを発ち、今朝八時半に漸く着いたのであった。
夜行の長距離バスならば、寝ている間に着くだろう、という当初の考えはつくづく甘かったことを思い知らされた。
日本とは根本的に違うのだ。
長距離を走るデラックス・バスとは言え、途中で結構多くのバス停に停まり、運転手も頻繁に替わり、挙句の果ては乗っているバスまで替わり、荷物の入れ替えも行わせられた。
とてもじゃないが、ゆっくり眠れたものでは無かった。
十五分間ほどの、云わば『トイレ休憩』が数回あり、乗客はその都度、バスから下り、トイレを済ませたり、バス停の売店を覗いたりした。
深夜のバス停には、待っている乗客の姿はほとんど無く、閑散としていたが、時々停まるバスの乗客を当て込んで、売店は感心にも開いており、中で店員があくびをしながら所在無げに腰かけに座っているという光景も見られた。
コカ・コーラを飲みながら、ボカディージョと呼ばれる、フランスパンに具を挟んだ一種のサンドウィッチを慌ただしくつまむ乗客も結構見かけるところであった。
周囲の闇の中で、ぽつっと建っている売店の灯りだけが煌々と明るく、その中で、ゆらゆらと揺らめいて動く人影はまるで影絵の人形芝居を見ているようで、縁日の夜の露店の情景を思い出させる、どこか懐かしい、郷愁を誘う風情を醸し出していた。
グラナダのバス・ターミナルに着き、バスから下りた私たちの眼に、朝の太陽が遠慮会釈も無く、飛び込んできた。
眩い光の洗礼を浴びた私は少し苛立たしさを感じた。
明るすぎるのだ。
バレンシアもそうであったが、アンダルシアの太陽は眩しすぎる。
遠い、遠い異国に今居るんだよ、というしっとりとした情緒なんて微塵も無い。
明るすぎる太陽は全ての情緒を干からびさせ、ぶち壊す。
苛立たしく、半ば八つ当たり気味に、そう思いながら、私はのろのろと重いスーツケースを引きずりながら、バス・ターミナルの中のカフェテリアに入っていった。
苛々している私を横目で見ながら、注文を適当に宜しくね、あっ、オレンジ生ジュースは忘れずに必ず注文してね、と言いながら、お気軽・極楽蜻蛉の妻はいそいそと窓際のテーブルの丸椅子に腰を下ろすのであった。
スペインは有数のオリーブ・オイルの産地国として知られているが、同時に、トマトの国でもあるかも知れない。
スペインという国では、トマトは実にいろいろな料理に使われている。
ガスパーチョと呼ばれるトマト風味の冷製スープも有名だが、フランスパンにも載せられ、或いは、塗られて食べられる。
朝食のパンとして一般に食べられているのは、クロワッサンと、バゲット、いわゆるフランスパンの二種類であるが、このフランスパンの食べ方で、パン・コン・トマテという食べ方がある。
薄めに切ってスライスにしたフランスパンを焼いて、その上に磨りおろしたニンニク或いはオリーブ・オイルを塗り、塩を少しまぶした上に、完熟トマトのスライスを載せたり、或いは、トマトをすりつぶすように塗って食べる食べ方であり、パン・コン・トマテ(トマト添えパン)と呼ばれる。
搾りたての新鮮なオレンジ・ジュースで朝の乾いた喉をまず潤した上で、ミルクをたっぷりと入れた熱々のカフェ・コン・レチェ(カフェ・オ・レのこと)をゆっくりと飲みながら、このパン・コン・トマテを、口を大きく開けて、がぶりと食べる。
カリカリに焼き上げたフランスパンと、しっとりと柔らかいトマトのほの酸っぱい風味がオリーブ・オイルと調和して絶品の食感と味を醸し出す。
私たちは、スペインを踏んだ初めての地、バルセロナのサン・ジュセップ市場の中にある簡易食堂で食べてから、以降、この庶民的なパン・コン・トマテに魅せられた。
このグラナダのバス・ターミナルのレストランでも朝食として、これを注文して食べた。
期待以上に、美味しかった。
しかも、安い。
朝食を簡単に済ませた私たちは、タクシーに乗り、予約しているホテルに向った。
広い舗装道路から、くねくねとした狭い街路に入り、坂道を上り、やがて、タクシーは丘の上のアルハンブラ宮殿に隣接した小さな個人邸宅風の建物の前で停車した。
私が日本でインターネットを利用して予約したホテルで、アルハンブラ宮殿の敷地内にある『アメリカ』という名のホテルであった。
スペインという国では、アメリカという言葉の持つ響きは独特である。
冒険と富、という二つの心地よい響きを持っているのだ。
コロンブスという胡散臭く、いかがわしいイタリア人に資金を援助し、インドという新大陸に向け、航海させたのはスペインを統治したカトリック両王であり、彼が偶然発見し、インドであると信じ込んだ大陸に兵士を侵攻させ、征服し、巨額の金銀を収奪させ、太陽の沈まぬ国とまで豪語されるに至った植民地支配経営を徹底し、豊かな国家としたのも、まさに彼らカトリック両王自身であった。
当時、無名の若者が出世する道は三つあった、と云われている。
それは、宮廷か、教会か、海か、という三つの象徴的な言葉で表現されている。
王侯貴族に仕えて宮廷重臣として出世するか、僧職に就いて司教、枢機卿といった高い身分に駆け上がるか、或いは、海を渡ってアメリカという新大陸に行って征服者となり、途方も無い富を得るか、という三つの選択肢が野心を抱く若者に呈示されていた、と云う。
そして、海を渡り新大陸へ、という道を選択したエルナン・コルテスはメキシコで、アステカ帝国を征服し、フランシスコ・ピサロはペルーで、インカ帝国を征服した。
スペインは新大陸発見という功績で自国に無尽蔵の富をもたらしたコロンブスを国家の恩人として末長く感謝した。
彼の業績は高く評価され、バルセロナの港近くにある豪壮な記念塔を始めとして、いろいろな都市にコロンブスの記念碑が建立されている。
コロンブスの棺を、当時スペインを支配統治していた四人の王様が担いでいる、という象徴的な像もセビリア(セビージャと発音される)のカテドラル(寺院)の中には造られているくらいだ。
十時頃、ホテルに着いたが、チェックインは十二時ということで、私たちは荷物だけ預かってもらうこととして、周囲を散歩して時間を潰すこととした。
グラナダにとって、アルハンブラ宮殿はかけがえの無い宝である。
大事に、大事に守らなければならない。
そのためか、アルハンブラ宮殿の中、或いは、周囲には多数の警官、警備員が常時配置されている。
一様に生真面目で無愛想な顔をしているが、挨拶をすると、実に人懐っこい善人の笑顔となり、気持のいい挨拶も返ってくる。
観光地にお決まりの土産物屋も一杯建ち並んでいる。
絵葉書、絵皿、いろいろな模様が施されている装飾タイル、キーホルダー、イスラム風の鋭利なナイフなどが所狭しと並べられ、売られている。
しかし、感心するのは売り子の無関心さだ。
入ってくるお客に対して、品物を勧めたり、愛想笑いを絶対しないということだ。
売らんかな、という営業精神が少しも感じられない。
これは、あまり買う気の無い観光客にとっては、ありがたい態度だ。
観光客としては、気軽に入っていけるし、気軽に見て、気軽に店を出ていける。
お客に媚びない。
これが、スペイン人の心意気かも知れない、と私は思った。
プライドの高い国民気質がそこかしこに窺われるのがこの国の特徴と言える。
私と家内はホテルで貰った地図を片手にぶらぶらと、なだらかな坂を下りて、アルハンブラ宮殿の入場券販売の売り場の方に向った。
売り場には、坂道を十分ほどかけて下りなければならない。
私と同じような観光客がかなり歩いていたが、小鳥の囀りの他は余計な喧騒も無く、朝の森の小道は気持ちよく歩くことができた。
やがて、坂道を下りきり、入場券売り場に続く舗装道路に出た。
一人の男が微笑を湛えて近寄って来た。
上手とは言えない英語で、英語を話せるか、と訊いてきた。
スペイン語の方がいいよ、と私が言うと、その男はニヤリと笑い、快活な口調で話し始めた。
(男)日本人かい/(私)そうだよ/(男)アルハンブラ宮殿を見物するのか/(私)そうだよ/(男)日本人も多いがこの頃は中国人も結構多いよ/(私)そうかい/(男)ここから百メートルほど行ったところに入場券販売所があるよ/(私)うん、これから行くつもりだ/(男)そうか、ところで、あの木、何の木だか、知っているかい/(私)知らない/(男)じゃ、教えてあげよう、栗の木だよ/(私)栗の木かい/(男)そうだよ、栗って、日本語では何と言うんだい/(私)『くり』と言うよ/(男)子供は居るかい/(私)居るよ/(男)何人居るんだい/(私)四人居る/(男)あっ、俺も四人居るんだ、俺たち同じだな、四人の子供を養うのは大変だろう、と言いながら、その男は私の前で跪き、いきなり、私の靴の紐を解き始めた。
あっけにとられたが、靴紐が緩められているので動くに動けず、驚いて立ち竦んでいる私の戸惑いを無視して、その男は肩から提げていたバッグから、靴磨きの道具を取り出し、平然と私の靴を磨き始めたのであった。
磨いている間も、男の口は休まない。
スペインに来て何日になる、スペインはどうだい、スペインの中ではグラナダが一番さ、何と言っても、アルハンブラ宮殿がある、グラナダの後はどこに行くんだい、と際限なく喋り続けるのであった。
私は、やれやれと思いながら、磨かれてしまった以上は靴磨き代として五ユーロ程度はあげないとまずいかな、と心の中で覚悟していた。
この間、妻は少し離れたところに立って、私とその男を見詰めていた。
黙ってはいたが、妻の口元に薄く、笑いが浮かんでいることを私は見逃さなかった。
まずい、後で、何か言われる、と思い、私はちょっぴり憂鬱になった。
結局、磨く必要の無い靴を無理矢理磨いてもらった代償は、十ユーロであった。
四人の子供を養うのは大変なんだ、さらに、十ユーロ払え、というその男の要求を無視して、私と家内は半ば逃げるようにその場を立ち去ることとなった。
足早に歩きながら、妻は咎めるような口調で、私に言った。
あなたはなまじ、言葉が話せるからこのような被害に遭うのよ、私なんか、寄って来られても、ノー・イングリッシュ、ノー・エスパニョル、で押し通すから、むしろ、安全なのよ、と威張って私に言うのであった。
何らかの労働(?)をして、それを口実に法外な請求をするというケースは他にもある。
例えば、善良な地元民を装い、道を親切に案内するようにして、目的地に着いたところで、お金を請求する、或いは、自動販売機で使い方を知らずに困っている観光客に近づき、使い方を教えてお金を請求する、頼まれもしないのに、荷物を運んでお金を請求するといったやり方だ。
旅は学習する場である、今後は十分注意するよ、と私は苦笑しながら妻に言った。
実は、バルセロナでも地下鉄に乗車する際、集団すりに遭いそうになり、愕然としたことがある。
ガウディが造形したグエル公園を見物した帰りの、地下鉄・レセップス駅でのことだった。
私と家内が到着した地下鉄電車に乗り込んだ際、五人ほどの男女が急に割り込んできて、奥に入ろうとした私たちを入らせまいと妨害したのであった。
私たちはドアから一歩ほど中へ入ったところで、立ち竦むこととなってしまった。
私は一人の女に、ズボンのポケットをまさぐられた。
しかし、幸いなことに、その時はポケットの中には何も入れていなかった。
女は舌打ちをして、仲間と共に、電車のドアが閉まる寸前、電車から下りていった。
私と家内は茫然と顔を見合わせたものだった。
話には聞いていたものの、実際に経験したことに私たちは驚くばかりだったのだ。
入場券売り場には長蛇の行列ができていた。
よく見ると、行列は当日券販売の売り場の方で出来ており、入場券を予約している入場者の方の売り場には行列はできていなかった。
私たちは明日の午後の部と、明後日の午前の部を日本で予約をしており、この光景を見て、少し安心した。
入場券売り場の前にある土産物販売の売店に入った。
一般的なお土産の他、アルハンブラ宮殿、グラナダに関する案内書とか書籍も沢山売られていた。
そこで、私はスペイン語版の「アルハンブラ物語」を買った。
スペインに来る前に、私は「アルハンブラ物語」の邦訳版を読んできた。
文庫本で前篇、後篇に分かれ、厚めの二冊という構成であったが、とても面白かった。
アルハンブラ宮殿、グラナダを支配したモーロ人、著者がアルハンブラ宮殿に滞在していた当時の人々の逸話が愛情を込めて沢山書かれており、ノスタルジックな情緒に包まれた傑作だった。
アルハンブラ物語を書いたワシントン・アービングは極めつけのロマンチストだった。
米国の外交官であったが、荒廃していたアルハンブラ宮殿の中の一室に逗留する機会を得て、数か月ほど暮らした彼は、米国に帰って、その暮らしの中で見聞したことがらを一冊の本に纏め、自費出版した。
その本が、「アルハンブラ物語」であり、この本がきっかけとなって、荒廃して浮浪者の住みかともなり、半ば廃墟と化していたこの宮殿は多くの篤志家の寄付によって、整備され、往時の華麗な姿を取り戻すこととなった。
若い頃に恋人を亡くし、生涯を独身で終えたアービングはこの一冊の本によって、グラナダの恩人となった。
そのアービングは当時のグラナダには貧乏人は大勢居たものの、人々の表情は極めて明るかった、とも書いている。
つまり、貧乏ではあったものの、貧困で暗い顔をした人々は居なかったということであり、幕末に日本を訪れた外国人も同様の印象を日本の庶民に抱いたらしい。
貧乏は貧乏としてそのまま認めるが、決して卑屈にならず、明るく暮らしている日本人は素晴らしい、と記録しているのである。
今は、貧乏と貧困、二つとも存在する日本になってしまった。
十二時になるのを待って、私と家内はホテルに戻り、チェックインした。
英語では無く、スペイン語を話す東洋人を見て、ホテルのレセプションに居た若い娘は好奇の目を注ぐと共に、嬉しそうな顔をした。
スペイン人は英語が下手だ。
無敵艦隊を撃破したのが英国であり、心の中でその国の言葉を憎んでいるのかも知れない。
この国に来てから、英語が話せるか、ということはよく訊かれるが、その癖、訊いてきた本人含め、流暢な英語を話すスペイン人にはほとんど会ったことが無い。
英語はスペイン人にとって、あまり話したくない、覚えたくない外国語、昔流に言うならば、敵性外国語なのかも知れない。
娘から部屋の鍵を受け取り、階段を上って、丁度上り口にある部屋に入った。
部屋の中は綺麗に整頓されていたが、少し暑かったので、エアコンをかけようと思った。
壁にエアコンは設置されていたが、肝心のリモコンが見当たらない。
階段を下りて、レセプションに行ったら、年配のおばさんが居た。
エアコンのリモコンが無い、と言ったら、リモコンは無い、という返事が返ってきた。
でも、エアコンはあるよ、リモコンだけ、なぜ、無いのか、と訊いたら、諭すような口調で説教された。
ここ、グラナダというところは、昼間は暑いが、朝・晩はとても涼しくなる、寒いと言っていいほど、気温が下がる、従って、エアコンは必要無いのよ、それに、昼間はほとんど部屋には居ないでしょう、アルハンブラ宮殿をじっくり観て来なさい、と。
言い争う気力は無く、私はすごすごと階段を上り、部屋に戻り、家内に話した。
妻は無邪気な顔で笑っていた。
暑いので、仕方無く、廊下奥の窓を開けた。
窓の下に、パティオと呼ばれる中庭が見えた。
中庭にはテーブルが所狭しと置かれ、どうも、レストランになっているようだった。
付近には、パラドール(国営ホテル)のレストランしか無く、豪華なパラドール・レストランに入らなければ、ここのレストランに入るしか無い。
十二時を少し過ぎた程度で未だ昼食には早い時間であるのに、お客がどんどんこのレストランになだれ込んで来ていた。
インターネット情報に依れば、このホテルは三月から十一月までしか営業されておらず、十二月から二月までの冬季はクローズされているという話だった。
営業しているその期間は、ホテルの宿泊はほぼ連日満員、レストランもほぼ連日満員になるという情報もあった。
いい商売をしている、と思った。
部屋の中を見渡した。
調度品は半ば骨董品的な趣があって良い雰囲気を醸し出していた。
全体的に上品な趣味が感じられる造りとなっていた。
しかし、テレビは無かった。
テレビが無く、エアコンも無い。
テレビ、エアコンなどは標準装備化されているホテルに馴染んでいる日本人の眼から見たら、物足らない仕様の部屋だった。
少し、腹を立てたら、腹が減ってきた。
街へ行って、昼飯を食べようと妻を誘った。
自分自身が調理士免許を持っており、外国料理にも興味を持っている妻に異存は無い。
ホテルを出て、坂道を下って、バス停に行った。
そして、アルハンブラ・バスという小型のバスに乗って、街に行った。
私たちは七回乗車できる『ボーノ』と呼ばれるカード切符を運転手から買った。
カード自体のデポジット料金二ユーロが加算され、七ユーロ払った。
アルハンブラ宮殿からの坂道の終わりは少し広い公園広場となっている。
その広場にあるカフェテリアのテラスのテーブルに座って、ビールを飲みながら、ボカディージョを二、三種類ほど食べて昼飯とした。
トルティージャと呼ばれる『ジャガイモ入りオムレツ』を挟んだボカディージョはなかなか美味しかった。
勘定をしようと思った。
前方を歩いていたカマレロ(ウエイター)と眼が合った。
便利な仕草がある。
右手を少し上げて、鉛筆を持ったような感じで何か書くような仕草をすればいいのだ。
この仕草はおそらく万国共通であり、お勘定、お願いね、という意味の仕草となる。
カマレロが頷き、五分ほど経ったところで、勘定書きを持ってきた。
十二ユーロと少しだったので、十三ユーロをテーブルに置いて、店を出た。
グラナダにはアルハンブラ宮殿の他、見どころとしては、カテドラルと王室礼拝堂といった観光の名所がある。
その二つは隣接している。
地図を見て、カテドラルの方角に歩いていった。
観光客で混雑していたので、カテドラルと王室礼拝堂の見物は明日に延ばすこととした。
スペインのカテドラルはどこも豪華絢爛といった装飾が施された豪壮な建物であり、外観だけでも十分観る者を圧倒する。
裏手に出て、ふと見たら、電気屋があった。
バルセロナとかバレンシアの街の中心にはなぜか電気屋が見当たらなかった。
ひょっとすると、念願の湯沸かしポットが見つかるかも知れない。
私たちはいそいそと、その街角の電気屋に入っていった。
レジのところに居た若い男がジロリとこちらを見た。
どうせ無いだろうと、期待もせずに、湯沸かし器はあるか、と訊ねてみた。
ある、という答えが返ってきた。
あるに決まっているじゃないか、という顔をしていた。
そして、奥から数種類取り出してきた。
正直言って、嬉しかった。
二十ユーロほどで、小型の湯沸かしポットを買った。
これで、念願の緑茶、味噌汁が飲める。
湯沸かし器はホテルには完備しているだろうと思い、日本から緑茶、味噌汁、それに、各種のカップヌードルなどを日本から一杯持ってきていたのだが、バルセロナ、バレンシア、そして、ここ、グラナダのホテルには湯沸かし器などの気の利いたものは一切置いておらず、実は、焦っていたのだ。
湯沸かし器を手に入れた私たちは、近くの雑貨屋で一・五リットル入りのミネラルウォーターを二本ほど買って、ホテルに戻ることとした。
歩きながら、後悔した。
バスに乗れば良かった、とつくづく思った。
アルハンブラ宮殿へ続く登りの坂道はやっとこ登れるといったくらいの急勾配の坂道となっており、おまけにその日はとても暑かったのだ。
汗をだらだらと搔き、これでは、頭の血管が切れてしまう、と思いながら歩いた。
クモ膜下出血は一度で十分だ、二度味わうのは真っ平ごめんだ。
すると、途中で、坂道が切れ、石畳の踊り場となっているところがあった。
少し涼しい風が吹いており、私たちは休憩することとした。
そこに、ワシントン・アービングの銅像が立っていた。
何と言っても、アルハンブラ宮殿にとっては、ひいては、観光地グラナダにとっては、一冊の著書によって、廃墟と化していたアルハンブラ宮殿の存在、芸術的価値を全世界に訴えてくれた彼の功績はとても大きい。
彼の著書によって、アルハンブラ宮殿を知った多くの善意の人々の寄付により、宮殿は崩壊を免れ、現代に甦ったのだ。
文学の力は小さいようでも結構大きい影響力を持つ、時として政治の力より大きな力を持つこともある、と私は銅像を見上げながら思った。
人生は短く、芸術は長し、という格言が私の脳裡を過ぎった。
へとへとになって、ホテルに戻った。
レストランに料理を運んでいた若い女に、息も絶え絶え、擦れる声でルームナンバーを告げた。
ちらりと私を見たその娘は微笑みながら、顎をしゃくった。
取れ、と言う。
レストラン業務で忙しく、立ち働いており、宿泊客の面倒は見切れないといった雰囲気だった。
苦笑しながら、娘の視線の方向を見ると、レセプションの鍵置場の棚の上に私たちの部屋の鍵が載せてあった。
勝手に取ってもいいのか、と思いながらも、少し背伸びをして鍵を取った。
部屋に入って、ベッドに腰をかけて休息しながら、じっくりと部屋を見渡してみた。
部屋は少しクラシックな趣で統一されており、感じが良かった。
十畳程度の寝室と四畳ほどの浴室、そして、浴室の前は細長い廊下となっていた。
寝室の壁は白い漆喰の塗り壁、ゴツゴツとした感じの石壁、焦げ茶色の無垢材を使った板壁と三方の壁が異なっており、茶色のタイル床と調和して、シックな印象を与えていた。
飾りフレームが付いた少し幅広のベッドが二つ、白カーテンに隠された洋服箪笥、小さいががっしりとした造りの木製の椅子と机、座り心地の良さそうなロココ調の椅子が二つ、そして、浴室前の廊下には清潔な白布に覆われたソファーという調度であった。
浴室前の廊下の突き当たりは観音開きの窓となっており、開くとレストランの中庭が見下ろせた。
浴室の中には大きな浴槽と便器、ビデがあり、洗面所には黄銅製の年季が入っていそうな蛇口が取り付けられていた。
便器はシンプルな白の便器で、シャワートイレとかヒーター付きの便座でも無かったが、温水が出るビデがあるので、シャワートイレの代用となった。
浴室の腰板ならぬ、腰壁は全て菱形のタイルが貼られており、白を基調として、水色・青色・緑色・茶色の菱形タイルが少しモーロ風の雰囲気を醸し出していた。
部屋の照明はヨーロッパのホテルでは一般的にそうであるが、全て間接照明であり、決して明るくは無く、文字を書いたり、読んだりするには少し暗かったが、特に不便は感じなかった。
シャワーを浴びた後で、時間を潰せるテレビも無く、仕方無くベッドに寝転がってぼんやりとしていたら、その内、眠り込んでしまった。
バレンシアからの九時間半のバスの旅で、相当疲れていたのだろう。
五月十八日(火曜日)
早く起きて、アルハンブラ宮殿の入場券売り場に行った。
昨日同様、当日券売り場では長い行列ができていた。
予約済みの人には、担当者受付による有人販売の他、自動販売機という便利な入場券販売システムもある。
私たちはそこに行き、係の女性にクレジット・カードを渡した。
簡単な操作で、入場券を入手することができた。
インターネットで予約する場合は一ユーロを予約料として取られるが、現地で暑い最中、長い行列を作って購入するよりとても楽である。
今日の午後の入場券と明日の午前の入場券を入手した私たちは、朝食を摂るため、ホテルに戻った。
昨夜は夕食も食べずにそのまま眠ってしまったので、空腹感を覚えていた。
ホテルの食堂に腰を下ろした私たちに、カマレロ(給仕)が注文を取りに来た。
定番のコンチネンタル朝食を頼んだ。
飲み物を訊かれたので、カフェ・コン・レチェと答えた。
ムイ・ビエン、ムイ・ビエン(結構、結構)と大袈裟に頷き、カマレロが去っていった。
やがて、先程の給仕とは違った、かなり年配の男が重そうなポットを二つ持ってきた。
熱いコーヒーが入ったポットと、やはり熱いミルクが入ったポットだった。
二杯以上は楽に飲めそうな、たっぷりとした量だった。
その後、クロワッサンとフランスパン、洋梨、オレンジジュース、ヨーグルトと言ったお決まりの朝食セットが運ばれてきた。
果物ナイフもセットされていたので、洋梨も剥いて食べた。
熟しているとは言えず、かなり固かったが、結構甘く美味しかった。
クロワッサンは日本で見かけるクロワッサンの二、三倍はある巨大なクロワッサンであったが、温かくてこれも美味しかった。
綺麗残らず完食して、私と家内はかなりの満足感を覚えた。
一般的に、スペイン料理は日本人の舌に合うというか、美味しいものが多い。
ただ、パエージャ(パエリア)はグラナダに来るまで、バルセロナとバレンシアで何回か食べたが、かなり塩辛い味で、それほど美味しいものとは思えなかった。
でも、期待外れであったのはパエージャだけで、その他の料理はどれも私には美味しいと思えた。
ホテルでの朝食の後、アルハンブラ・バスに乗って、街へ下りた。
スペインで感心するのは、建築物に対する執念と情熱の強さだ。
日本人の発想と根本的に異なっている。
とにかく、完成までの年数が極めて長い。
バルセロナのサグラダ・ファミーリア教会は百年経っても、まだ完成していない。
完成までには、あと百年はかかるだろう、ということを聞いたことがある。
しかし、驚くには値しない。
完成までに四百年ほどかかったカテドラルもあるのだ。
このグラナダのカテドラルだって、二百年ほどかかっており、旅行案内書によれば、塔の部分は未完成のままだと云う。
カテドラルを観た後、隣接している王室礼拝堂も見物した。
ここに、カトリック両王として名高いイサベル女王とフェルナンド二世王の遺骸が葬られている。
また、隣には、両王の娘であるフアナと夫のフェリペ、二人の遺骸も葬られている。
フェリペは大層ハンサムな王様であったらしく、仇名をつけるのが好きなスペイン人からは、別名、『フェリペ美男王』とも呼ばれている。
フアナはフェリペを心底愛していたらしい。
その余り、フェリペの浮名を耳にする度に、半狂乱になって嫉妬したと言われている。
挙句の果ては、フェリペが若くして亡くなった時、フアナは精神異常をきたし、とうとう気が狂ってしまった。
その後、フアナは『狂女フアナ』と呼ばれ、狂える女王として亡くなるまで幽閉されたと伝えられている。
半端な期間では無く、数十年という長い期間、狂王として幽閉されたと言うのだ。
本当のことであろうか?
当時の王に退位は無く、死ぬまでは王であり、正気であるにも拘わらず、存命中、狂った女として扱われ、醜い権力争いの犠牲になって幽閉されていた、という説もあるが。
王室礼拝堂を出た私たちの眼に、奇異な光景が飛び込んできた。
前方に若い男女が首をうなだれていた。
その前には、声高々にまくしたてている中年の女が居た。
どうも、アロマ(香草)売りの女に因縁を付けられているらしかった。
アロマは如何、と勧められ、うっかり買うととんでもない事態になる。
その事態とはこうだ。
アロマは如何、とてもいい香りがするよ、という呼びかけの言葉に乗り、買うと、法外な金を請求されるのだ。
五十ユーロほど、請求されるのだ。
冗談じゃない、たかがアロマじゃないか、とてもそんな金は払えない、と断ると、売り子は態度を変え、居丈高になり、払えと喚き散らすのだ。
恐れをなした観光客は十ユーロか、二十ユーロほど払って、退散することとなる。
うっかり応じては駄目なのだ。
触らぬ神に祟りなし、毅然とした態度で無視するか、ノー・グラシアス(ノー・サンキュー)と大きな声で言いながら遠ざかるのが賢明である。
カテドラル近くの土産物屋で、アルハンブラ宮殿の案内書とアルハンブラ物語の英語版を買った。
ぶらぶらと歩いていたら、ビルの壁に一枚の掲示板がかかっていた。
日本語で、日本人情報センターと書いてあった。
観光案内書にも掲載されていた場所であった。
狭い階段を上がり、ドアをノックした。
四十歳ほどの眼鏡をかけた男が姿を現した。
スペインに住んで二十数年という○○さんであった。
グラナダの治安のこと、フラメンコ・ショーのことなど、訊いてみた。
○○さんは能弁に喋り始めたが、私は別なことに注意を奪われていた。
黒猫だった。
しなやかな動きで私たちの目の前をさかんに行ったり来たり、動きまわっているのだ。
無表情に忙しく喋る○○さんに私は何故か猫を感じた。
猫は犬と違って、飼い主にも媚びることは無い。
○○さんも私たち旅行者に媚びず、毅然としており、どこか、猫を感じさせたのだろう。
ギターの勉強に来て、そのままスペインのグラナダという古都に居付いてしまった彼の生計はどのようなものだろうか。
余計なお世話に決まっているが、私は少し気になった。
日本人からはお金は受け取らないようであるが、きっと店からは紹介料として某かのバックマージンは受け取っているのかも知れない。
例えば、ロス・タラントスというフラメンコ・ショーの予約を代行して、某かのお礼をそのショーを開催する店から受け取るとか。
そんなことを思いながら、彼にロス・タラントスのフラメンコ見物を予約して貰った。
送迎付きのミニ・ツアーで、アルバイシンの丘からアルハンブラ宮殿の夜景を見学するツアーだった。
迎えのバスが来る集合場所を私に説明した彼は、念のため、自分も行きますからと言って、私たちを安心させてくれた。
そして、もう一人、日本人の若者も一緒に行く予定です、と私たちに告げた。
日本人情報センターを出て、通りを少し歩いた。
小さなパン屋があった。
ウインドウに各種のパンが飾られており、美味しそうに見えた。
入ってみることとした。
先客が居た。
年寄りの婦人で、あれこれ迷っている様子で、買うパンを決められない様子でもあった。
割り込みは嫌われる。
私たちは辛抱強く待った。
勘定を済ませて去る際、婦人は私たちに、グラスィアス(ありがとう)と小声で言って店を出ていった。
気長に待っていてくれて、ありがとう、という意味に解釈し、私たちはちょっぴり嬉しくなった。
旅先での、何気ない会話で、人は幸せな気分になるものだ。
私たちはシーチキンとチーズ入りのボカディージョ、ケーキを二、三個ほど買った。
外国では、街角の小さな店で何か物を買ったり、スーパーマーケットあたりで食料品を覗いてみるのが良い。
小さな発見が必ずあり、その発見は小さな喜びとなる。
また、地元の人との何気ない会話も、小さな喜びとなる。
パンの袋を抱え、街のアルハンブラ・バス停留所からバスに乗って、ホテルに戻った。
ホテルで少し休憩してから、アルハンブラ宮殿に向った。
目の前をひらひらと綿毛が舞っていた。
ふと見ると、足下の道が綿毛で一面うっすらと覆われていた。
綿雪のようだ、と思った。
近くに居た警備員に訊いてみた。
アラモの綿毛だと云う。
アラモは日本ではポプラのことである。
米国の歴史上、有名なアラモの砦は何のことは無い、ポプラ砦のことなのだ。
きっと、その砦には、砦の中、或いは、周辺にポプラの樹が一杯植えられていたに違いない。
アラモの砦では、西部開拓史上、名高いジム・ボーイ大佐とか、デビー・クロケットといった英雄たちが圧倒的多数のメキシコ軍の包囲攻撃によって、玉砕した。
しかし、この玉砕という悲劇は米国民を団結させた。
強固に団結した国民は力を発揮する。
米墨戦争は米国の圧勝に終わった。
強固に団結して国民は強い、日本はどうかな、と思い、少しさびしくなった。
アルハンブラ宮殿は大きく分けて、ナスリ朝宮殿、アルカサバ、ヘネラリフェ離宮の三つに区分される。
この中で、圧倒的に人気が高いナスリ朝宮殿だけが、混雑を回避するために、入場者が時間毎に制限されている。
ナスリ朝宮殿への私たちの入場は午後五時からであった。
午後二時に入った私たちは、とりあえず、ヘネラリフェ離宮とアルカサバと呼ばれる要塞を見物することとした。
ヘネラリフェ離宮へ続く道は、塀のように刈り込まれた樹木の並木道となっている。
立ち止り、樹木の葉を観察した。
ヒバのような葉の形をしていた。
ヒバは檜葉と書き、檜の葉という意味もあるが、一般的にはアスナロの別称である。
明日は檜になろう、という意味でアスナロ(翌檜)と名付けられたと云われるこの木は何だか悲しい木である。
檜になろう、と思っても、到底檜のような立派な木にはなれやしない。
なれなくっても、いいのに。
ヘネラリフェ離宮の庭園は薔薇の濃厚な香りに包まれていた。
素敵な季節に来た、と思った。
薔薇が真っ盛りの季節だったのだ。
日本に居る時は、別に薔薇の花を見てもそう感動するほうでは無かったのだが、アルハンブラ宮殿の薔薇となると、話は別だ。
ヘルラリフェ離宮のよく手入れされた広大な庭に、薔薇の花は殊の外良く調和し、似合っていた。
富士には月見草が良く似合う、と言ったのは太宰であるが、このアルハンブラ宮殿には何と言っても、薔薇が良く似合う。
赤い薔薇にも、いろいろな赤がある。
スペイン語ではロッホ、或いは、ロッハだが、日本語では、赤、紅、朱、緋といろいろな言葉で表現されている。
さまざまな色調の赤い薔薇、白い薔薇、ピンクの薔薇、紅白の斑模様の薔薇の中に、鮮やかな黄色の薔薇もあった。
紅い薔薇、白い薔薇も良いけれど、黄色の薔薇もなかなか良いものだ、と思った。
何と言っても、黄色い薔薇はアンダルシアの太陽の眩しい輝き、煌めきという芳醇な雫、エッセンスを持っているのだ。
離宮をぶらぶらと歩いた。
どこからか、水の音が聞こえてきた。
サラサラと綺麗な快い音を出しながら、水が流れているのだ。
私たちは耳を澄ませて、音の出どころを探した。
しかし、ざっと見渡したところでは、付近に水が流れていそうなところは見つからなかった。
妻が笑って、ここよ、と言った。
指差したところを見て、私は驚いた。
何と、石の階段の手すりに水が流れているのであった。
手すりに浅い窪みが造られており、その窪みに沿って、清冽な水が流れているのであった。
歩きながら、この離宮の特徴は何と言っても、水であると私は思った。
至るところに水があり、流れているのだ。
水のテーマ・パークかと思い、私は思わずニヤリとした。
それくらい、水が多く目立つ。
アフリカの砂漠から来た民族とされるモーロ人にとって、水は貴重品であり、水をふんだんに使う庭園をつくるというのが贅沢な夢であったのかも知れない。
しかし、この水はどこから持ってきたのであろうか。
今は、水道が完備されており、水の入手は容易いことであるが、昔は?
私はふと疑問に思い、近くで薔薇の手入れをしていた若い庭師に訊いてみた。
庭師は人懐こい笑顔を見せて、遠くを指差した。
私たちはその指の方向を眺めた。
その方向には、まっ白い雪を頂いた山々が見えた。
雲一つ無い蒼い空に、くっきりと白い頂を見せている山々は、その名もずばり、シエルラ・ネバダ(雪に覆われた山脈)であり、山の中腹には、雪解け水で出来たラグーン(湖沼)が何カ所かあり、昔はそこから延々とこの宮殿まで水を引いてきたそうだ。
池の水、噴水の水、階段の脇の手すりを流れる水、水浴の水と、全ての水がシエルラ・ネバダの雪解け水であった、と言う。
水を自由に手に入れることによって、この地を支配した砂漠の民、モーロ人は己が権力の偉大さ、或いは、征服者としての達成感、喜びをつくづくと感じたに違いない。
ヘネラリフェ離宮の建物の中を歩いた。
日本人の美意識には無い美しさがここにはある、と思った。
目を奪われたのは、壁一面を埋め尽くしている細密な漆喰細工であり、幾何学的な模様を織り成しているタイルの見事さであった。
特に、天井まで続く壁面一杯に施された細密な漆喰細工には人を幻惑させ、陶然とさせる魔力があるようだ。
暫く、私は口を開けたまま、見入ってしまった。
さぞかし、みっともない顔をしていたことだろう。
妻が私の顔を見て、笑っていた。
ふと、周囲を見たら、皆私と同じように口を半ば開いたまま、見入っていた。
人は皆同じだ、と思い、私はニヤリとした。
蔓草文様、何とも言えない摩訶不思議な文様が私たちを完璧なまでに酔わせた。
ふと、メキシコのパレンケ遺跡の碑銘の神殿で見た王墓のレリーフが脳裏に浮かんだ。
マヤのレリーフも見事なまでに、濃密な細工が施されている。
まるで、彫刻が施されない隙間は罪悪であるかのように、隙間という隙間は全て稠密な彫刻が施されているのだ。
このような発想は日本には無い。
日本には、何も無い隙間をわざと残すことにより、無限の広がりというものを『余白の美』として感じさせるという文化があり、隙間を埋め尽くすという発想は無いのだ。
しかし、美意識は異なるものの、美しいものは何と言っても、無条件に美しい。
ヘネラリフェ離宮を出て、アルカサバと呼ばれる城塞に登った。
城の頂上に立って、遠方の山々を見ると、白い頂が連なっている山々が見える。
離宮からも見えた、万年雪を戴くシエルラ・ネバダである。
アルハンブラ宮殿の水源であり、大いなる水甕であった山脈だ。
あんなにも遠くの山から、この宮殿まで水を引いてきたのか。
私は信じられない思いで、白い頂を持つ山々を茫然と眺めた。
水を求めるのに、狂気にも似た情熱を注いだ砂漠の民の執念の凄まじさを感じた。
そして、眼下には、グラナダの街並みが広がっていた。
街の色調は統一されている。
このような街は日本には無い。
屋根の色、壁の色が見事なまで統一されているのだ。
薄茶の屋根と白い壁。
窓は四角でぽっかりと黒い口を開けている。
ところどころに、糸杉だろうか、緑の槍のように空に向って鋭く尖り、伸びている。
古都、グラナダは本当に美しい街だ。
決められた入場時刻となり、私たちはナスリ朝宮殿に向った。
アルハンブラ宮殿の中心は何と言っても、ここ、ナスリ朝宮殿であり、アルハンブラの華である。
ヘネラリフェ離宮で味わった感動は更に増大した。
私たちは、片隅に置かれた椅子に座って、暫く、びっしりと漆喰細工に覆われた壁を茫然と眺めていた。
いくら眺めていても、全く飽きない。
その内、私は泣きたくなった。
陶然とした心持ちになり、思わず、泣きたくなったのだ。
このような美があっていいものか、とさえ私は思った。
このような美の空間に、あのアービングは何ヶ月も暮らしたと云う。
私は、アービングに嫉妬した。
アルハンブラ物語という格調高い小説を発表したアービングを心の底から尊敬しながら、私はこのような美を数か月の間、半ば独占した彼に嫉妬していたのだ。
彼は何と言う贅沢で芳醇な香りに満ちた濃密な時を過ごしていたのだろうか。
小柄な太った案内人が私の脇を通りかかった。
グラナダの名前の由来が知りたかった。
それで、その案内人を呼び止め、この地方には、グラナダ(柘榴)が多かったのか、訊いてみた。
違う、と言う。
本来、この街はガルラナタと呼ばれていた。
そのガルラナタがいつの間にか、訛って、グラナダという発音に転化したのだ、と言った。
ガルラナタというのはどのような意味、と私はさらに訊いた。
知らない、と彼は肩を竦めた。
古来からあった言葉か、モーロの言葉だろう、と彼は少し恥ずかしそうな表情を浮かべながら付け加えた。
案内人にお礼を述べて、さらに歩いた。
表札がかかっている部屋の前に出た。
ワシントン・アービングが滞在した部屋だそうだ。
ドアは施錠されており、中には入れなかった。
この部屋を根城にして、アービングは宮殿内を自由に散策して回ったのか。
私は、得難い至福の時を過ごしたアービングという男にまた嫉妬し始めた。
アルハンブラ宮殿を見物した後、アルハンブラ・バスに乗って、街へ下りた。
フラメンコ・ショー見物ツアーの待ち合わせ場所に行ってみた。
待ち合わせのホテルはすぐ見つかった。
少し、小腹が空いたので、早めの夕食を摂ることとした。
ホテルの脇のレストランに入った。
イタリア料理を出すレストランでメニューを見たら、スパゲッティとかピザの名前が並んでいた。
無難なところで、マルゲリータ・ピザを頼んだ。
ビールを飲んでいたら、急にトイレに行きたくなった。
だが、トイレらしいドアはどこにも見当たらなかった。
そこで、カウンターの内側で、グラスを磨いていた男に、トイレの場所を訊いてみた。
ドンデ・エスタ・バーニョ(トイレはどこ)?
その男は無愛想な顔で、少し離れたところの地下を指した。
トイレはそうか、地下にあるのか、と私は了解した。
なるほど、少し離れたところに地下へ続く階段があった。
そう言えば、何かの本にヨーロッパのトイレは目立つところには無く、一般的には地下にあることが多い、という記事を読んだことがあるのを思い出した。
ドアに『アセオス(トイレ)』と書いてあった。
夕食を済ませ、待ち合わせ場所に時間より少し早く着き、所在無げに立っていたら、私たちの方に一人の若者が歩いて近づいて来た。
その若者は日本語を話した。
○○さんが言っていた日本人参加者であった。
この若者と暫く話した。
京都生まれのこの若者は、会社に入って十年目のリフレッシュ休暇でスペインに来たと言っていた。
休暇は一週間しか無いが、バルセロナでサッカーの試合を観た、ここではアルハンブラ宮殿を見物した後、トレド、マドリッドに行くつもりだ、と話していた。
温和な感じの若者だったが、行動力から見て、心は強いのだろう、と思った。
話しながら、私は自然と彼と自分とを比較していた。
私の会社には十年目のリフレッシュ休暇などは無く、十年、二十年は記念品を貰っただけで、三十年目にして漸く、一週間程度の休暇と旅行クーポン券を貰うことが出来た。
その三十年目の特典を利用して、私と妻は懐かしいメキシコを旅行したのであった。
目当てはカリブ海であったが、チチェンイッツァとかウシュマルといったマヤの遺跡も見物してきた。
この若者の年齢の頃は、私は地方の工場に勤務していた。
確か、品質管理課の課長補佐になったか、ならないか、といった頃だったろう。
二十四時間フル稼働の職場で、私と妻は社宅で暮らしていたが、真夜中の呼び出しなんぞは日常茶飯事で、夜は酒を飲むことも控えていたほどだった。
時には、うっかり酒を飲んでしまい、妻の運転で急遽、工場に駆け付けたこともあった。
でも、右肩上がりの経済の下、日本の会社は全て元気であった。
今は、就職留年する大学生も多いとか、本当に元気の無い国になってしまった。
若者とあれこれと歓談しているところに、どこからからか、猫のようにひっそりと、○○さんが現われた。
今夜は、アルバイシンの丘からアルハンブラ宮殿の夜景を観ますが、アルバイシン周辺はガイドでも付いていない限り、危ないところで近づかないほうがいいです、と私たちに話した。
昼でも、夜でも一人では歩かないほうが良い、と○○さんは真顔で言っていた。
突然、背後から首を絞められ、持物を奪われます、ということだった。
その内、迎えのマイクロバスが来て、私たちとその若者は乗り込んだ。
バスはほぼ満員という盛況であった。
日本人、フランス人、米国人と外国人がほとんどであった。
アルバイシンの丘で下りて、路地を巡り、サン・ニコラス展望台まで全員で歩き、そこから彼方に見えるアルハンブラ宮殿の夜景を眺めた。
街を挟んで向こうの丘に、ライトアップされたアルハンブラ宮殿が見えていた。
オレンジ色の灯りは何故か郷愁を誘う。
漆黒の闇に浮かぶアルハンブラ宮殿は幻想的で、歴史の深みを感じさせた。
明日もアルハンブラ宮殿を訪れることとしている私は、大袈裟な言い方ではあるが、何か生きる希望めいた情熱を与えられたような気もしていた。
私の傍で、普段は陽気で賑やかな妻も黙って、じっと前方の夜景を観ていた。
フラメンコ・ショーは『ロス・タラントス』という名前の洞窟ハウスで行われた。
店は原色のけばけばしい色のネオンサインで毒々しく飾られている。
タラントスという名前を初めて見た時、何だか不気味な感じがした。
タランチュラという毒蜘蛛を連想したからだった。
ロス・タラントスという言葉の意味は、フラメンコを踊る人たち、という意味らしい。
そこで、ワインを飲みながら、フラメンコを観た。
フラメンコを踊るダンサーには順番があるらしい。
年齢の順で踊るのかも知れない。
このロス・タラントスでも、若い娘、ちょっと年増、かなり年増の女の順で踊られた。
この順で、フラメンコ自体の踊る技術も高くなっているのかも知れない。
しかし、若い娘には若さという華がある。
踊る体の線もしなやかで崩れてはいない。
とは言いながらも、外国人の場合、花の命は短い。
若くはない年齢になったら、後は、技巧を磨き、現役で居なければならない。
フラメンコにはいろいろと思い出がある。
かなり、甘酸っぱい思い出だ。
中学か高校の頃、地元の市民会館に来たフラメンコ劇団を観たことがある。
それが、フラメンコという踊りを観た最初であった。
粋に踊るマホ(いい男)とマハ(いい女)たち、日本人には到底真似のすることのできない色気を感じた。
その色気には多少は官能的で猥褻な匂いもあったかも知れない。
一遍に、フラメンコが好きになった。
メキシコに居た時分も、アカプルコの劇場で観た。
観客の中に日本人の姿が多かったのかも知れない。
前座で唄ったマリアッチ劇団が、日本人に捧げるとか言って、ウナ・セラ・デ・トキオという懐かしい歌を朗々とした声で唄ってくれた。
その時、日本を離れて半年ほど経っていた私は望郷の念に駆られて、ほとんど涙目になった。
そのようなことを思い出しながら、私はフラメンコを間近で観た。
齢を取るということは、涙もろくなることかも知れない。
人生の凹凸まで凝縮させてしまうように踊るフラメンコの迫力に私は圧倒され、酔い、目頭が熱くなっていくのを覚えた。
ホテルに戻って来た時は、既に午前様になっていた。
タクシーから降りて、空を見上げた。
空はよく晴れ渡り、月と無数の星が綺麗に見えていた。
涼しい風に吹かれながら、自分のこれからの人生のことを思った。
自分で言うのも何だが、自分の人生を愛しいものと思うことが出来た。
滅多に無いことだった。
五月十九日(水曜日)
午前は昨日に引き続き、アルハンブラ宮殿の見物に出かけた。
やはり、美しいものは何回観ても飽きず、美しい。
昨日は、気付かなかったところも二度目となると、結構注意深く見えるようになるもので、細かいところの装飾、文様まで観察することが出来た。
しかし、それにしても、季節なのか、やたら燕が空中を飛びまわっていた。
宮殿の軒下、或いは欄干に巣でも作っているのかも知れない。
空を見上げると、必ず、燕が忙しく飛びまわっている様子が目に入った。
もしかすると、あのアービングもこのような燕の情景を見ていたのかも知れない。
そう思うと、何だか面白くなった。
燕のことを書いていたかどうか、日本に戻ったらもう一度、『アルハンブラ物語』を読み返してみようと思った。
燕はスペイン語では、ゴロンドリーナと言う。
雄・雌の区別は無く、女性名詞で呼ばれる。
そして、メキシコには、ラ・ゴロンドリーナ(燕)という誰でも知っている名曲がある。
ナルシソ・セラデル・セビージャというベラクルス生まれのお医者さんが作った。
日本で言えば、蛍の光。
別れの際、好んで唄われる曲だ。
燕よ、お前はどこに行こうとするのか、そんなに急いで、風の中で行くべき道を見失い、探している温もりに遭えないかも知れないのに・・・、と切なく続く、感傷的な旋律を持つ唄だ。
昔、カテリーナ・バレンテという、『歌う通訳』と呼ばれ、何カ国語も自由に操れた歌姫が情緒たっぷりに、スローな調子で唄って人気を博した唄でもある。
私も、一年ほど暮らしたメキシコを離れる際、空港でこの唄を思わず口ずさんだ。
唄いながら、なぜか涙が零れ、止まらなかったという記憶がある。
その時、私は二十代の多感な若者だった。
アルハンブラ宮殿には、多くの中庭がある。
スペイン語では中庭をパティオと言い、パティオの良し悪しで家の値打ちさえ決まるという話をどこかで聞いたことがある。
自分の家のパティオの美しさを褒められるのが何よりも嬉しい、とスペイン人の主婦は言うのだそうだ。
そして、見ず知らずの人でも、観たいと言う人を喜んで案内するという風雅な習慣を持っている。
風雅な習慣はいつしか文化となり、人の心を温かく包むものである。
パティオには噴水、池、水路があり、必ず水が流れている。
中庭の端にベンチが置かれてあり、私と妻はベンチに腰を下ろし、水の音を静かに聴いた。
その時、手を繋いでいたかどうか、これは覚えていない。
昼食は、街に下り、○○さんが勧めてくれたレストラン、『ボアブディル』で食べた。
このレストランで初めて、カラコル(かたつむり)を食べてみた。
フランス料理で名高いエスカルゴとは違うかたつむりで、なりは小さいが、味は良かった。
一人前を頼んだが、半人前で十分だよ、とカマレロ(給仕)に言われた。
なるほど、半人前でも結構な量であり、パエージャ・マリスコス(シーフード・パエリア)も注文した私たちは十分満腹になった。
満腹になると、人は幸せな気分になる。
美味しかった、この店は○○さんから勧められたんだ、とカマレロに話したら、彼はニコッとしたが、別に勘定はまけてくれなかった。
店の名前の『ボアブディル』はスペインでは有名なモーロの王様の名前だ。
モーロ人が建設し、王城としたアルハンブラ宮殿も、最終的には陥落し、このモーロ人の王様はカトリック両王に降伏し、アルハンブラ宮殿の鍵を降伏の儀式として渡した。
そして、グラナダを去る際、立ち止った峠の上からアルハンブラ宮殿を眺め、その王様は涙を流した、と云われている。
しかし、世の中には、おっかないおっかさんもいるものだ。
めそめそと泣いている息子をこう怒鳴り飛ばしたというのだ。
お前は男のように戦わずに、女のように泣いている、と。
叱られたボアブディルという名の最後の王様が母に何と言ったのかは記録に無い。
ボアブディルという王様は極めて小柄であったと云われており、仇名を付けるのが大好きな当時の人は、ボアブディルをエル・レイ・チコ(ちびの王様)と呼んだそうだ。
ちなみに、グラナダを陥落させ、レコンキスタ(国土回復)を完成させたイサベル女王は、イサベル・ラ・カトリカ(カトリック女王・イサベル)と敬愛されて呼ばれている。
旅の楽しみの一つに、買い物がある。
スペインにはエル・コルテ・イングレスという大きなデパート・チェーンがある。
グラナダにもあり、話の種とばかり、エル・コルテ・イングレスデパートの地下食料品売り場を覗いてみた。
知らない食材が一杯あった。
土産の足しになるかと思い、私たちは缶詰の類を結構買ってみた。
イカ墨で煮込んだイカ、ガリシア風で調理されたタコ、ムール貝の缶詰、蜂蜜、ハーブティーなどを買った。
レジに並んで、お金を払った。
籠から買ったものをベルトコンベアの上に並べ、仕切り板を置く。
コンベアが動き、レジの女が品物のバーコードを読ませる。
精算を済ますと、自分でレジ袋を取り、品物を詰める、といったやりかただった。
缶詰は結構重量がかさむ。
金額はたいしたことは無かったが、結構買ったような気持ちにさせられる重さであった。
買い物を済ませた私たちはアルハンブラ・バスに乗り、宮殿入口のバス停で下りた。
すると、向こうから見覚えのある顔が笑いながら近づいて来た。
リフレッシュ休暇でここに来ている京都出身のあの若者であった。
アルハンブラ宮殿を見物してきたので、これから、ホテルに帰って荷造りをして、夜のマドリッド行きのバスに乗ります、と言う。
マドリッドまで十二時間のバスの旅です、と笑って言う彼と私たちは握手をして別れた。
大学ではラグビーをやっていましたという彼の手はがっしりとしていた。
一瞬、私は彼の若さを妬ましく思った。
私はエル・コルテ・イングレスで買ったものを片手でぶら下げて、ホテルに向かった。
先程、別れた若者のことを思った。
あの若者にとって、旅先で知り合った私たちという存在はどういう存在なのか、と考えながら歩いた。
勿論、特別な存在では無く、海外旅行でたまたま知り合った熟年のおじさん・おばさんといった存在でしか無いだろうが。
ふと、人生というのは、いろんな人と知り合う旅なのかも知れない、と思った。
多くは行きずりであろうが、中には生涯の伴侶、知己となる人も居るだろう。
あの若者の記憶の片隅にでも、私たちという存在が良い思い出として残れば、それはそれで幸いなことなのだろう、と思った。
こんなことを思ったことは今までに無かったことに私は気付いた。
しかし、それはそれで、悪い感じでは決して無かった。
夕刻、私たちはアルハンブラ宮殿に隣接したパラドール(国立ホテル)に行った。
私はカフェテリア片隅のテーブルに肘を付いて、徐々に暮れていく彼方のヘネラリフェ離宮を眺めていた。
離宮に灯りが燈された。
黄味がかった灯りは郷愁を誘う。
このスペイン旅行が終わったら、私たちなりの熟年夫婦が連れ添い、寄り添う生活がまた始まる。
何かと慌ただしい生活の中で、郷愁とか、感傷に浸っている暇なんか無いのだが、異国の旅は人を感傷的にさせてしまうものらしい。
五月二十日(木曜日)
目が覚め、中庭に面している扉を開けたら、小鳥の囀りが耳に飛び込んできた。
チュッ、チュッと綺麗な声で賑やかに囀っている。
未だ、夜明け前だ。
夜明け前に囀る小鳥で有名な鳥はナイチンゲールだ。
きっと、ナイチンゲールに違いない。
私はそう思うことにした。
その美しい鳴き声を聴いている内に、何だか体にエネルギーが満ちてくるのを感じた。
昨夜は自分の今後の人生を思って、随分と感傷的に感じたものだが、今は少し違う。
夜に考えることは、ろくでもないことなのかも知れない。
在るべき希望が委縮してしまう。
じっくりと考えるのは、朝がいい。
朝は希望に満ちている。
あの毛沢東も言ったではないか。
青年は朝八時の太陽である、と。
アルハンブラの想い出、というギターの名曲がある。
甘く、感傷的な旋律を持つこの曲を私は中学の頃、ラジオで聞いた。
今、その曲がひそやかに流れている。
私は、ホテルの食堂でクロワッサンを指でちぎりながら、耳を傾けた。
中学とか高校の頃の思い出が甘酸っぱく甦ってきた。
しかし、過去の思い出は過去の思い出に過ぎない、思い出はつくるものだろう、今回の旅行で一杯思い出をつくり、思い出アルバムを更に充実させることとしよう、と私は思った。
さて、食事が済んだら、ホテルをチェックアウトしよう。
今日は、バスに乗ってマラガに行き、そこから電車に乗って、トレモリーノスに行く。
トレモリーノスはコスタ・デル・ソル(太陽海岸)に臨む明るい浜辺の街だ。
この三日間のグラナダ滞在は私たちにとって意味深いものとなった。
人生ふた山だ、未だ終わっちゃいない、人生を十分味わうこととしよう。
「これから、どこに行くの?」
クレジット・カードの手続きをしながら、レジの若い女が私に言った。
「バスでマラガに行き、そこから電車に乗って、トレモリーノスに行く」
私の答えに大きく頷きながら、コスタ・デル・ソル(太陽海岸)のトレモリーノス、暑いけれど、いいところよ、とその娘は唄うような口調で軽く呟いた。
別れ際、レセプションに居たその若い娘が私たちに言った。
「ブエン・ビアッヘ(良い旅を)」
人生は旅に似ている。
誰かが言った言葉が脳裏に甦った。
娘のその言葉は言わばエールのように聞こえ、私と妻とのこれからの人生を励ましているようにも思われた。
私は、呼んで貰ったタクシーに乗り込んで、バス・ターミナルに向った。
バス・ターミナルの風景はどこも似たり寄ったりだ。
時間待ちのバスが何台か駐車しており、停車スペースと乗客が乗り込むスペースが区分されており、天井は呆れるほど高く、装飾は一切無い。
白と薄緑に塗り分けられたバスが五、六台、所在無げに停まっていた。
私たちは少し早く着いたので、荷物を片手にぶらぶらとターミナルの中を歩いた。
広い待合室の正面に巨大な電光表示板があった。
西語、英語、仏語の順で、『出発』と表示されており、目的地毎に、乗車乗り場、乗車時間がそれぞれ表示されていた。
床はダークグレイでかなり厚めに塗装されており、雨などで濡れると滑りそうなくらい、つるつるだった。
コカ・コーラのベンダーが何箇所かに設置されており、ミネラルウォーターのペットボトルも販売されていた。
日陰に居ても汗ばむくらいの陽気だったので、私たちはターミナルの中にあるカフェテリアに入って、時間待ちをすることにした。
バレンシアオレンジを使った搾りたてのジュースは乾いた喉を優しく潤す。
美味かった。
美味しいものを飲んだり、食べると、人は少し幸せな気分になる。
安上がりなものだ。
搾りたてのオレンジジュースを飲みながら、私は思った。
人生はそれほど悪くない。
このジュースのように、味わい深いものがあるに違いない。
そう思いながら、私は思わず一人笑いをしてしまった。
正面のテーブルに座っていた妻が怪訝そうな顔をした。
私は急いで、笑いを隠し、厳粛そうな顔を装った。
バスでグラナダを発ち、マラガに向った。
バスは風景を未練無く振り切って走っていく。
乾いた白っぽい大地。
一面に広がるオリーブ畑のくすんだ緑。
草を食みながら、のんびりと歩く羊の群れ。
道端のごつごつとした岩肌。
通り過ぎる白い壁の家々。
薄い茶と濃い茶が入り混じった瓦の屋根。
屋根の上には、透き通るような青い空。
雲ひとつ無い空。
背の低い灌木が申し訳無さそうに地面にしがみついている。
これが、アンダルシア。
旅人を詩人にさせる。
バスの窓から過ぎ去っていく風景を見ながら、私の心は静かに満たされていった。
五十歳そこそこで、一度死にはぐった身だ。
面白くない世の中だ、とくよくよ思ってみてもしょうがない。
死ぬまで、とにかく、人生だ。
一度限りの人生だもの、味わい、楽しまなくてはならない。
私はそう思った。
ふと、ドン・キホーテの言葉を思い出した。
『太陽はまだ土塀の上にある』という言葉であった。
夕暮れ近くにはなっておらず、まだ、昼間じゃないか、まだまださ、という意味で使われていた。
還暦を迎え、会社を定年退職はしたが、人生を退職したわけじゃないんだ。
人生ふた山、これから第二の人生が始まる。
今までの人生を引きずる必要は全く無いのだ。
今まで、そう面白い人生では無かったと言って、諦めてはいけない。
それは、現実ではあるが、ただの現実に過ぎない、それ以上でも、それ以下でもない。
六十歳からの人生を十分に味わって、生きればいいのだ。
そして、敢え無く、死を迎えたとしても、このように思えばいい。
『裸で生まれたおいらは、今も裸。失ったものも、得たものも無い』
愛すべき男、サンチョ・パンサの言葉だ。
この覚悟があれば、人生って、それほど悪くない。
前を向いて生きていこう。
ただ一度限りの人生だもの。
私たちを乗せたバスは雲一つない青空の下を疾走して行く。
昨日は昨日、精一杯生きた、今日は今日、精一杯生きる、そして、明日は明日、精一杯生きよう。
完