トイレからこんにちは! トイレのハナコさん 完
その夜、俺とピンク髪美少女のハナコさんは丸いちゃぶ台の上で夜ご飯を食べた。
「はー、とってもおいしかったです」
「自炊した白米にしょうゆかけただけだよ」
「それでも、とってもおいしかったですよ。こんな見ず知らずの私に親切にしてくれて、なんとお礼を言ったらいいか……」
「ありがとうございますご主人様って言えばいいよ」
「え」
「お礼なんかいいよ。俺はもうハナコさんがいるだけでいいんだ」
「……! それって、どういう……」
ハナコさんが顔を赤らめている。駄目だ、俺は夜テンションになってしまっている。
落ち着け。いくら夜に俺の部屋にあり得ない程の可愛くて純粋で素直で性格もよくて最高な美少女がいるからって、あまり出過ぎたことを言うと、また恐がられてしまう。せっかくここまで俺に心を開いてくれたんだ、これからもこのまま楽しく過ごしていきたい。
そんなことを考えていると、俺は急に用が足したくなってきてしまった。
「ごめん、俺、トイレに行ってくるよ」
「はい、行ってらっしゃい」
ハナコさんが座ったまま俺に柔和な笑みを向けてくれる。
もしもハナコさんが俺と結婚してくれたら、こんなやりとりが毎日出来るのだろうか。
そう思いながらも、俺は用を足すためにトイレへと向かった。
そして、それは唐突に起こった。
トイレにつき便座をあげると、そこはいつもの便器とは様子が違っていた。
直感でわかる。これは、そう、人1人が通れる空間。その向こう側にも水が流れているが、それはトイレ水とは明らかに異なる色合い。まさしく濁った川のような色だった。
突然の事態に、俺は狼狽する。
あまりに早すぎる現実に直面し、俺はハナコさんを呼ぶことを躊躇う。
俺が今すぐハナコさんを呼べば、ハナコさんは元の世界に帰れるかもしれない。
だがもし、俺がこのことを黙っていれば?
今開いているゲートは待っていればその内閉じてしまうのではないだろうか。
ドクンドクンドクンドクンと心の音が早打つ。
俺は心の底でそれを望んでしまっている。ハナコさんともう少しいたいと願ってしまっている。
決断の時が迫っている。考えている猶予はない。こんなに早く開いたんだ、また明日も開くに違いないと悪い俺が言っている。この開いているゲートが最後とも限らない。だが、最後じゃないとも限らない。
そうだ、このゲートの先がハナコさんのいた世界だとも限らない。別の世界に通じているかもしれない。
どっちにしても、呼ぶべきではないのだろうか。
俺は呼ぶと言ったんだろう。
なら呼べ。そう思うのに、口が言うことを聞かない。
俺は悪いやつだ。自分の欲望を優先しようとしている。息が苦しい。こんなにも時間が長く感じる。早くゲートが閉じてしまえば、諦めもつく。だが、まだ開いている。これは俺を試しているのか?
俺が、呼ぶのか、呼ばないのか。
……。
「ハナコさん、来てくれ! 今すぐに!」
俺が叫ぶと、ハナコさんは変な声を上げて慌てて俺の元へと駆け寄ってきた。
「え……」
ハナコさんは俺の視線の先を見て、言葉を失った。
俺と美少女のハナコさんが共に言葉を失い、便器の中を見つめている。
不思議な光景とはこのことだ。
「ハナコさん、この先って、ハナコさんのいた世界かわかる?」
「えっと、これは、間違いなく私のいた川です。色も、匂いも同じですから」
「そう……」
俺はそれを聞いた瞬間、なにもかも吹っ切れ、目に涙が溜まった。
ハナコさんの姿を見て、この人は俺のいる世界にいるべき人じゃないことを悟ってしまった。
そしてこんな俺なんかとはまったく釣り合わない、高嶺すぎる美少女だったということも。
あの楽しいひとときは、神様が俺に与えてくれた人生で一度きりの幸福だったのだろう。
俺はハナコさんとお別れしなければならない。短すぎる間だったが、とても幸せだった。
「ハナコさん、お別れだね。あっという間だったけど、とても楽しかったよ」
「そんな……お別れだなんて……」
「……」
「……」
ハナコさんは最後まで優しかった。
ここがどこかもわからない世界で、自分の方が不安なはずなのに、俺に気を遣ってくれている。
だから俺は、もう迷わないことにした。
「じゃあね」
「そんな……」
ハナコさんは悲しげに、しかし俺の冷たい態度に諦めたように、トイレに足をつっこんだ。
ハタから見たら、あまり綺麗な光景ではないだろう。当事者から見てもそうなのだから。
「あ、服、返さないと」
「いいって。じゃあね」
俺はハナコさんの思い出したような提案を突き返すと、手を振った。
「私、少ない時間でしたけど、ハルキさんといられて幸せでした。本当に幸せでした。このことは、一生の思い出として取っておきます。絶対、取っておきます」
ハナコさんは最後に俺を振り返って悲しそうに笑うと、ざぱーんとトイレの中に飛び込んでしまった。
俺はもうゲートは見ず、すぐに居間に戻って部屋の明かりを消すと、ベッドに飛び込んでむせび泣いた。
完