ビール
夜が好きだ。
特に冬の夜が好きだ。
青くて、青くて、寂しいから。
僕は一人ぼっちでその道を歩いていて、
ポツンポツンとついている街灯の光が、僕の影をつくる。
夜の道を散歩していると、なにかやましいことをしているような
そんな気になる。
そんな風に思って、一人でほくそ笑んだりする。
一人でほくそ笑むなんて、まわりからみたらきっと、
「変なやつだなぁ、不審者かもしれん」なんて、
思われるかもしれないが、
いつものようにこの道には誰一人いないし、ましてや、
人がいたら僕はほくそ笑んだりしない。
つん、とした表情で、凛とした出で立ちで、
携帯でも眺めながら、普通の人と同じように歩くだろう。
いつもそうやって、
なんだかわかんないときとか、夜歩くのが、日課というか、
趣味というか。そういう類のものになっていた。
だから、夜も怖くなかったし、
むしろ、その青さを優しい、親しげなものだと思っていた。
その日までは。
その日というのはつい三日前のことなのだが、
その日は僕はテストが終わったばかりで、
あ、テストっていうのは大学の期末テストのことで、
で、まぁ、テストというやらねばならないことがなくなって、
宙ぶらりんな僕はとりあえず、
久々のなにもない夜を満喫しようと、
夏の夜、午後の二時、いつもみたいに、
歩きに出かけた。
いつものように(その日はなんだか気分が良くて、ビールをコンビニで買って)、それを嗜みながら歩いていた。
一人を謳歌していた。
少しの寂しさと、大きな一人の気軽さと、夏の温いだるさを背負って、歩いていた。
彼女はいた。泣いていた。
最初は、霊的なものかとも思ったけど、時間が時間だしね。
けど、それは一人の生きている女性で、歩道の路肩に座っていた。
おそらく20代前半の、僕と同じくらいの。
綺麗系じゃなくて、可愛い系の雰囲気をした。女。
ビールの爽やかさがさめてきた頃合いで、
僕の機嫌もまずまず良くて、気分はふわっとして、
尚且つ、責務から解放されて、いい気分だった僕は、
話しかけた。
普段なら絶対にしないね、明言する。
僕はなんなら、友達は少ない方で、
軽いとは言われるけど、女には純粋な人間だし、
けれど、デリカシーだってちゃんと人並みに持ち合わせてる。
よって、普段なら、普段ならだが、
こうゆう人には事情があるし、深入りされても困るだろうって、
あたかも見てないような振りして、そのまま通り過ぎるところだ。
けれど、話しかけた。
なぜかなんて聞かないでくれ。
僕にだってわからない。
強いて言うなら運命の悪戯ってやつかな。
「大丈夫?」
いきなり声をかけられて、いや、
声をかける奴がいるってことに、
彼女は驚いたような表情だった。
間が空いて、「大丈夫です、ごめんなさい」と彼女は言った。
泣き顔だった。久しぶりに、女が泣いているところを見た。
中学か、高校かな。いつ以来だろう。
少し僕も動揺して、そして少し、艶やかに見えた。
「夜だから、あぶないよ?」
「はい、ごめんなさい、大丈夫、大丈夫だから」
そう言った。ごめんなさいと繰り返す彼女はきっと、
怯えていたのだろ。
まぁ、夜中の二時にビール片手に話しかけてきた男。
怖いのもわかる。わかるというか、普通に怖い。
「そか、わかった」
「気をつけて帰りなよ?」
そんな感じで間をつないで、
そして、逃げた。
さも、会話が終わったかのようにして、逃げた。
どうすればいいのかわかんなくて、逃げ出した。
家までの道を歩いている。
相変わらず、だるいような温いような暑さだ。
行きに寄ったコンビニにまた寄る。
残ってたビールを飲み干して、缶をゴミ箱にねじ込んで、
過去の、いや、数分前の自分に怒る。
なにしてんだよ。
もっと気の利いた台詞くらい言えねぇのかよ。
てか、なんで話しかけたんだよ。
気がつけば彼女の方に向かっていた。
コンビニで買ったビールをふたつ。ビニール袋に引っさげて。
悔やむ前に、動け。
過去のものになる前に。
そんなことを誰かに言われたな。
誰だろ。高校の先生だったか、母親だったか。
冷えたビールがやけに軽くて、勇気をくれた。
夏の暑さはどこかへ飛んでいったように思えたし、
代わりに違う暑さ、僕の中から湧き出るような熱さを感じた。
なんにもできないけど、話くらい聞いてやれる。
それで少しでも笑わせてやって、そしたら、救われるかもしれない。
なんもしないよりはマシだ。きっと。
大学にはいって感じたことのない、久々の感覚だった。
いつもあるくより少しだけ早足で、僕は歩いた。
結局、彼女は居なかった。
家に帰ったのか、どこかをさまよっているのか。
僕には全くわからなかった。
そりゃそうだ、赤の他人なんだもの。
彼女がなにに悩んでいたか、
なにが起こってなにに悲しんで、
なぜ外で泣いていたのか。
僕には全くわからない。聞くことさえ出来なかった。
夏のぬるさが戻ってきた。
ビールを僕は一つ、あけた。
プシュッ、と爽快な音を立てた。
それは、少しだけ温くて、でも十分ひんやりと冷たくて、
夏の夜にはピッタリのビールだった。
「なにやってやんだろ」とつぶやいて、ほくそ笑んだ。
急に馬鹿らしくなって、急に無力だと感じて、
それから少しだけ、ビールを飲んで、
その暑さに身を委ねた。
彼女が座っていたであろう位置の、少し横に腰掛けた。
路肩のコンクリートは温くて、人肌みたいだった。
夜が好きだ。青い青い夜が。
けれど夏の夜は嫌いだ。
嫌いな僕を思い出すから。