2.
あたしがこの世界、いやこの星に産まれ落ちたのは、今から二十――いや、年齢なんて今はどうでもいい。
とにかく、ありえないほど鮮明な前世の記憶を生まれた瞬間から持っていたあたしは、とある老夫婦に拾われ育てられた。
アンフィーと名付けられたあたしは、養父母に時に厳しく、時に優しく、そして愛情いっぱいに育てられた。
前世の両親と比べても同等か、下手したらそれ以上の愛でもってあたしを育ててくれた。
別に前世の両親に恨み言があるわけじゃない。ただ実際に、拾った赤ちゃんを無償の愛で育てるというのは、前世の記憶を持つあたしには到底真似できないと思ったからだ。
まぁ、そんな感じで辺境の地の、森の奥深くで育ったあたしは、前世の記憶を持ちながら生活していても、なんら問題なく過ごしていたわけなのだ。
だってあの場所じゃあ、前世の記憶なんて、シューマイの上に乗ってるグリーンピース並に役に立たないから仕方ない。
そりゃあ、生活に関しては不安はいっぱいあった。自給自足とはいえ、あたしを拾った時点で既に老いていた養父母の将来を考えると、介護のことはどうしようだとか、彼らが死んでしまった後はどうしようだとか、それよりも病気に罹った時はどうすればいいのだろう、とかね。
幸いというか、養父母もあたしも非情に健康で頑丈だったので、目立った怪我も病気もなく生きてこられた。でもやっぱり何の保障もなく生き続けるのは、元地球人のあたしには不安以外の何ものでもなかった。
しかし森から出て行くという、選択肢が思い浮かばなかったのも事実だ。
だってあたしは養父母以外の人間と、ほとんど接触したことがなかったし、外の世界ではどんな危険が待ち受けているか分からなかったからだ。
安寧と現状維持を何よりも愛するあたしは、まぁいざとなったらあたしの”チカラ”でどうにかなるんじゃないの? どうにかならなきゃ、あの無駄に光りまくる女神を呪い殺してやると思ってた。
そうやって不安から日々現実逃避していたあたしに、養親であるおばさんが言ったのだ、「アン、あなたももう直ぐ成人するのだから、そろそろ自分の生きる道を模索しなさい」と。
ちょちょちょ、え、なに? あたしもしかして邪魔? この家に居たら邪魔だった? 一応毎日畑の世話もしてるし、家事も一通り手伝ってるし、狩りだっておじさんに付いて行ってしてるんだけど、それでも駄目だった?
一人で恐慌状態に陥っているあたしに、おばさんが苦笑しながら首を振った。違うのよ、あなたには、きっと成すべきことがあるはずよ。だってあなたには女神様から与えられた素晴らしい力があるじゃないの、って。
ちょっと涙目になっていたあたしは、あのいい加減な女神を思い出し、いやいや、そりゃないでしょうと思って涙も引っ込んだ。
前世で恥ずかしい死に方をした後、勝手に魂らしきものを拉致されて、勝手になんか力を与えられて、勝手にあたしはこの世界に放り出された。
女神はあたしに世界を救えだの何だの言ってたけど、当時十九歳だったあたしは、生まれてからずっと世界の危機なんて感じたことすらなかった。
いくらあたしの育った場所が辺境の森の奥深くと言えど、本当にそんなに切羽詰まった状態なら、あたしの住む場所にも何らかの影響が出ていて当然でしょ?
だけど森は平和で――魔獣や魔物や野生の動物が闊歩しまくるというのを差し引いても――じつに平穏でのんびりとしたものだった。
勿論、幼少の頃に初めて話しができるようになった頃、拙い言葉で養父母に聞いた。「せかいはあぶないの?」ってさ。
そしたら養父母は目を丸くしながらも、「大丈夫よ、あなたは何も心配しなくてもいいのよ」って言ってくれたさ。
なのに成人する直前になって、大いなる力は何かを成すために、なんてアメコミのヒーローに対して言うように言われても、納得できるわけないじゃない。
やっぱりあたしはこの家に居たら駄目なんだ、でもあたしを傷つけないために、あえて遠回しな言い方をしているんだ、なんて酷く落ち込んだ。
だからあたしは一日中、部屋の中に引きこもって悲劇のヒロインぶってたら、いつも笑顔で優しいおばさんがブチ切れて、魔術を使って扉を破壊され、無理やり部屋から引きずり出された。凄いね、この世界に生きてたら、絶対引きこもりになれないよ。
それからは延々と説教タイムに突入だ。勝手な解釈で変な誤解をするな、私達が言いたいのは、このまま森の中で生活していても、あなたの為にならない。この場所で一生を終えるつもりか、あなたの力を小さな事にしか使わない気でいるのか、世界の役に立てるかもしれないだろう、云々。
段々スケールの大きくなる説教に、あたしは今の生活で充分満足しているし、あたしの為になってるから問題ないと言い切ると、おばさんは老いてもなお美しい顔を修羅に変形させた。ちなみにおじさんは、激怒したおばさんを恐れて、隣の部屋の扉の隙間からあたし達を覗き見していた。
「とにかく、一度でもいいから、あなたは外の世界を見て来なさい。そして暫くそこで生活して、それでも自分のやるべきことが見つからないというなら、ここに戻って来なさい」
決然と命令するおばさんに、あたしがどう抵抗できただろうか。激怒したおばさんは、魔術などろくに使えなくても平然と魔獣や魔物と渡り合うおじさんよりも、よっぽど強くて恐ろしいのだ。
それに一度こうと決めたら、天地がひっくり返ろうが、あの適当女神が頭を下げようが、おばさんは絶対に意思を曲げないだろう。
あたしは渋々、おばさんの言葉に従うことになった。
慣れない都会ぐらしを想像してビクビクしながら、あたしは森から出て近くの町(と言っても辿り着くまで6日は掛かった)に出て、首都ランメを目指して馬車に乗った。
そして目にした巨大要塞。やっぱ帰ろう、あたしにはもう都会ぐらしなんて無理だわ、そうしよう。なんて回れ右しそうになったけど、おばさんの般若顔を思い出し、ぐっと堪えて要塞――いや首都ランメの門をくぐったのだった。
田舎から出てきたお上りさん状態にならずに住んだのは、おばさんの教育と前世の記憶の賜物だろう。
あたしはやせ我慢しながら、必死になって働き口を探し回った。お金はおばさんから持たされていたけれど、そう多くはなかったから、直ぐにでも働く必要があったのだ。
そんな中、ようやく見つけたのは大衆食堂の給仕の仕事。前世で大学生だった時、カフェでアルバイトした経験しか無かったから、正直接客業に不安があったけれど、贅沢なんて言ってられない。あたしは藁にもすがる思いで食堂の扉を叩いた。
幸い、小難しい面接もなく、あたしは呆気無く採用され、次の日から働くことになった。そしてそこで一年半ほど働いた後、あたしは今の職場に奇跡のように就職できたのだ。
言っておくけどズルはしていない。あたしの持つ”チカラ”なんて使わず、正々堂々と筆記試験と面接で、今の職を勝ち取ったと断言できる。これも養父母のお陰だと思った。
おばさんはあんな森の奥で住んでるのが勿体無いほど頭がよくて物知りだったし、おじさんも普段肉体派のくせに読書家で、読み書きが得意だった。そんな二人から施された教育のお陰で、あたしは首都ランメでより安定して生活できるようになったのだった。
ちなみに首都で生活し始めてから、やっぱり一度もあたしの耳には世界の危機なんて入ってこなかったし、危険な話しだって、「どこどこの町に魔物が出たらしい」だの、「あそこの村のあの畑が魔獣の被害に遭った」だのという、小さな危機しか聞かなかった。あの女神、自分の世界のこともよく知らずにあたしを送り込んだに違いない。
そんなあたしが、各省の中で、女性がもっとも寄り付かない治安維持局を何故選んだのか。
答えは簡単だ。倍率が低かったのと、筋肉に囲まれて仕事ができると知ったからだ。変態じゃない、あたしは断じて変態じゃない。
前世からあたしは体格のがっしりした人が好きだったし、あたしを育てたおじさんも、洋画に出てきそうな典型的なマッチョだった。いや、それ以上の筋肉ムキムキマンだった。嗜好が偏るのも仕方ないよね。
だからあたしはこの職場は天国だと思った。前世で事務職だったあたしは、書類仕事も慣れれば早くこなせたし、事務仕事をしてくれる人材を欲していた警備課の人たちも、あたしが来たことを喜んでくれた。
なにより、公的な機関で働いてるから、給料も身分も安定している。最高じゃないか、安定、職あり、筋肉。
しかし、あたしの喜びも、働き出して約一年で打ち砕かれた。魔王の登場だ。
あたしが警備課に勤めて一年ほど経った頃、魔術省の魔術管理局の局長が変わった。何やら凄い人らしい、と人伝に聞いたけど、魔術に興味が無かったあたしは右から左へと聞き流していた。
だが人の噂がどんどん大きくなり始め、新局長が来てから違法魔術や魔術具使用の規制化がより明文化されただの、魔獣や魔物による農作物の被害を抑える画期的な方法を編み出しただの、魔術だけで解決困難だった難事件を解決しただのと、周りが騒ぎ始めたのだ。ていうか、難事件を解決ってなんだよ、魔術管理局の局長はいつから探偵になったんだよ。
ここまでくると、さすがにあたしも少しだけ、新局長がどんな人なのか気になってきていて、まるでその考えが誰かに知られていたかのように、あたしは新局長と対面する機会を得た。
そして結果は言うまでもなく、今の状態になった。
だってあの魔王、初対面でいきなり「随分と野暮ったい人がここで働いているのですね。この場所は国を動かす重要な場所だと思っていたのですが、貴女のような人がいるとは」って、謎の超上から目線で言い放ちやがったのだ。鼻で笑うというおまけつきでね!
だから思わず言い返してしまったのだ。「あなたの方こそ、人を見た目でしか判断できないような能無しなんですか?」とね。
言った後、しまったと思ったがもう遅い。あの魔王は何故か嬉しそうに口角を吊り上げると、流暢に長々と、あたしに対して嫌味と皮肉をぶつけてきたのだった。
それからはもう会うのもごめんだ、なんて思っていたのに、悲しいかな、あたしの所属する警備課はどうしても魔術管理局との連携を密にせざるを得ない部分があり、そうするとあの魔王と接する機会も増えてしまう。
悲惨なことに、警備課であの魔王に対して耐性があるのは、今のところ副課長とあたしくらいしかいない。課長? 日和見主義の課長なんて、放っておいたらホイホイ相手の言いなりになるのが目に見えている。
警備課の課員たちの名誉のために言っておくけど、決して彼らがあの魔王に弱気になったり怯えたりしたわけではない。むしろその逆で、血の気の多い人が多いから、魔王に嫌味を言われて口で言い返す前に手が出そうになったのだ。
結局冷静に話し合いができる者がいなくなり、重要な要件があるときは副課長自らが魔王に会いに行き、そうでない場合はあたしが行くことになっている。例えば今日みたいに、書類を渡しに行く時とかにね。
こうなると、警備課と魔術管理局との関係が最悪になるんじゃないかと思われたが、不幸中の幸いというか、いや不幸に変わりは無いんだけど、どうやら魔術管理局の職員にさえ、あの魔王は責めの手を緩めることがないらしく、ヤツの部下たちは皆が皆、ヤツの魔王の如き振る舞いに困憊しているようで、彼らとあたし達の間には、奇妙な連帯感が生まれていた。下手をすると、ヤツが来る前のほうが、よほど彼らと仲が悪かったんじゃないかと思えるほどだ。
あぁ、あたしは職場選びを間違えたのだろうか。でも魔王さえいなければ、本当に最高の職場なのに。
眼下に広がる街並みを見下ろしながら、あたしは深すぎる溜息を吐いた。
あたしにとって重要なのは、存在すらも感じられない世界の危機ではなく、むしろ毎日のように遭遇する魔王に、どう耐え忍ぶかなのだ。
おばさん、あたしの”チカラ”は、あの魔王相手では、なんの意味もありません。
茜色に染まるレンガ造りの建物たちを見下ろしながら、あたしは故郷の養母へと思いを馳せたのだった。