1.
あたしの職場には、ウィル・ロームという名の魔王がいる。
「確か私は、昨日までにこの書類が欲しいと言いませんでしたかね? それにこちらに記載されている箇所が間違っているようですが、どういうことですかねぇ。貴女は書類の一つもまともに作成できないのですか? それに期限にも遅れるとは、随分といい加減な仕事ぶりですね」
提出した書類を突き返しながら、神経質そうに眼鏡のフレームを押し上げつつ、椅子に座ったままのヤツはあたしをアメシストのような毒々しい瞳で見上げてくる。見下ろしているのはあたしの方なのに、なぜか見下されている気分になるのが腹立たしい。
おまけに書類を突き返された時に、ヤツがつけてる香水の匂いが鼻について、顰め面になりそうになるのを必死に堪えるはめになった。
「……申し訳ございません。ここ最近、ランメに近い町にて魔獣の被害が出ているとのことで、警備課が応援に駆り出されておりまして、彼らからの書類の提出が遅れてしまいました」
ギリギリと歯噛みしそうになるのを我慢しつつ、なるべく平淡な声で言い返すと、眼鏡の奥の紫色の瞳がギラリと光ったような気がした。
「魔獣被害のことは魔術管理局の私たちの方が、より多くの人員を割いていますが、決められた通常業務を怠るような局員は誰も居ませんがね。この程度で書類の作成が遅れるなど、あなた方警備課は無能揃いなんですかね」
この野郎、好き勝手に言いやがって! そりゃ魔獣や魔物に関しては魔術省管轄のアンタ達の方が詳しいでしょうよ! でもね、アンタ達は魔獣や魔物を討伐して、「ハイ、おしまい」で終われるでしょうけど、あたし達治安維持局はその魔獣や魔物の遺体の回収やら、周辺地域の治安維持やら、とにかく細かな仕事が山のように課せられてるのよ!
そもそもねぇ、アンタ達は余程強力な魔獣や魔物が出ない限りは、この陰気でカビ臭い部屋から出ようともしないじゃないのさ! そりゃあたし達よりも、よっぽど楽に通常業務をこなせるでしょうよ。この変人どもが!
「なにか反論があるのなら、口に出して言ってはいかがですか、イアリーナさん」
「イエ、ナンデモアリマセン」
あたしの酷い棒読みに対し、皮肉げに口角をあげた目の前の男は、もう用は済んだとばかりにあたしから視線を外して書類に目を通し始めた。あぁ、あたしよりもサラサラで綺麗なプラチナの髪を持つ目の前の男の頭髪が、ウチの課長並の頭髪になる呪いを掛けてやりたい。
「まだ何か?」
書類から目だけを上げてあたしを見る男は、邪魔だどっかに行けよというオーラを隠しもせずに言ってくるから、あたしは突き返された書類を握りしめながら、「お邪魔しました」と形式だけの礼をして部屋を出て行った。
無駄にだだっ広い廊下を歩きながら、あたしはやり場のない怒りに叫び出したい気分だった。そんなことしたら、確実に上司へと報告されそうだからしないけどさ。
にしてもあの男は毎度ながら、何様のつもりだ。会う度会う度、必ず嫌味と皮肉を織り交ぜてでしか会話できないのかよ。あんな嫌味男が局長、しかも超花形の魔術管理局の局長だなんて、世も末だわ。
そりゃね、アイツの中身云々よりも、あの外見が大きく関係してるってのは分かってるさ。初対面の時、あまりにもの美しさに、暫くの間言葉が出なかったからね。この人本当に人間なの? 天使の間違いじゃない? とか思った昔の自分をぶん殴りたい。
アイツの本性に気付いていない職員(特に女性)とかは、キャーキャー騒いで格好いいだの恋人になりたいだの言ってるけど、容姿だけしか知らないからそんなこと言えるんだよ。
女神フラーシェが直接その手でお創り給うたと言われる美しすぎる顔、紫水晶のごとく透き通った瞳、光を放つ絹糸のような白金の髪。背だってウチの課員に負けないほどには高い。
でもあの嫌味男、ひょろいからね。もやしだからね。あたしのパンチ一つで死んじゃいそうな、ヒョロ眼鏡だからね!
なによりあたしの苛立ちを増長させるのが、なんといってもあの香水の匂い! 甘ったるさとウッディさと、なんだかよく分からない匂いが混ざった香水の臭いこと臭いこと!
とにかく、そんな容姿と才能(魔術の天才らしいけど、実際目にしたことなどない!)に恵まれた嫌味男だから、中身が最低でも近くにいる人間しかそれを知らないから、みんなあのヒョロ眼鏡に夢中だ。馬鹿じゃないの?
この前なんて、鑑識課の女の子があたしに「イアリーナさんは、しょっちゅうローム局長とお話し出来ていいですね」なんて可愛らしい笑顔で言いやがったよ。だったら君が行けば良いんじゃないんですかね! そんでヒョロ眼鏡の本性に気付けばいいさ! あの嫌味男は天使じゃなくて悪魔――いや、魔王だからさ!
……いや、駄目だ。あの鑑識課の女の子、会うと結構な頻度であたしに手作りのお菓子を恵んでくれるから、あんな魔王に会わせるわけにはいかん。魔王の毒牙にかかって、あの美味しいマドレーヌが食べられなくなるのは耐えられん。
バンッ! と怒りとともに警備課の扉を開け放つと、近くに立っていた課員がビクリとしてあたしを振り返る。
「おう、アン。なんだ怖い顔して」
「元からこんな顔ですよ!」
お、おう、と怯むムキムキマッチョマンな課員を押しのけて、あたしが向かうのは勿論この警備課の責任者である課長の机である。
課長はあたしがあの魔王にネチネチグチグチと嫌味を言われていたというのに、自分は呑気にティータイムですかそうですか。残り少ない髪の毛、邪魔なんであたしが全部抜いて差し上げましょうか?
「課長!」
あたしの鬼の形相を目にした途端、ティーカップを持ったまま逃げの体勢に入りかけた課長の肩を押さえつけ、無理やり席に座り直させた。
そして突き返された書類を机に叩きつけながら、課長を睨みつける。
「な、なにかな? アン」
「何かな? じゃないですよ! また書類に不備がありましたよ!?」
バンバンと課長の机を叩くと、机に置かれていたペン立てやらインク壺やら書類やらが一緒にバウンドする。
「わたし何度も言いましたよね? 絶対に書類に不備が無いよう、隅から隅まで確認してくださいって、わたし言いましたよね!」
「そ、そう……だったかな? いやぁ、近頃なんだか物忘れが酷くて」
「そうですか、物忘れが酷いんですか。あっ、実はわたし衛生省に知り合いが居ましてですね、最近記憶障害に効く薬を開発したそうですよ。良かったら頼んで取り寄せてもらいましょうか? あぁ、でもその薬、副作用もキツいらしくて、体中の毛という毛が抜けるらしいんですよ。でもそんなの、些細なことですよね? だって毛なんかより、大事なことを忘れてしまう方が、よっぽど危険ですよね」
冷たく課長の頭皮を見下ろしながら言ってやると、課長は持っていたティーカップを机の上に置いて端に寄せ、そのまま頭を机に擦り付けんばかりに下げると、「すまなかった」と謝った。ちなみに薬のことは全くのでっち上げだ。衛生省に知り合いがいるのは本当だけど。
「謝ってなんでも許されるなら、治安維持局なんて要らないんですよ! そもそも首都の平和と安全を一手に担う治安維持局の警備課の課長が、そんなんで許されるとでも思ってるんですか!」
元の世界でよく言われたことだ。「謝って住むなら警察は要らないんだよ」の異世界バージョンだ。異世界ってなんのことだって? あぁ、その説明は後でいいや。
「まぁまぁ、そのくらいにしといてやれよアン。ほら、これ以上課長を責めたら、課長の残り少ない大切な髪が全部無くなっちまうだろ?」
私の肩を叩いてなだめてくるのは、副課長のオリヴァさんだ。警備課に所属する者ほとんどに言えることだけど、日々首都の治安維持のため働く彼らの体格は言わずもがな、非情に立派なものである。
その中でも一際筋肉質で大柄なのが、この副課長のオリヴァさんだった。白いものが混ざる暗めの緑色の髪と冷たい灰色の瞳を持ち、一見すると非情に威圧的な風貌に見える彼だけど、話してみれば存外気さくで親しみやすい。
「副課長は課長のこと甘やかし過ぎなんですよ! そのせいで、いつも被害を被るのはわたしなんですからね」
ギロリと課長を睨みつけると、あたしの視線から逃れるように課長は視線を何もない空間へと彷徨わせた。
ちなみに課長の容姿を例えると、闘うことが出来なくなった、老後のジェイソン・ステイサムって感じだ。素材は悪くないはずなのに、気が弱すぎるのが難点だ。
「第一、皆さんが書類を提出する前に、一度でも良いから書き損じや間違いなどがないか、確認してくれるだけで、わたしの負担も減るんですよ!」
今度は室内にいる課員全員を睨みつけると、彼らは大きな体を小さくさせて、あたしからすっと顔を逸らせた。
「いやぁ、分かってるんだがなぁ。どうにも机仕事は苦手でな。それにアンが最終的には全部手直ししてくれるから、ついついな」
副課長がゴツゴツとした手で自分の頭の後ろを掻きながら苦笑する。他の課員達からも、小さな声で「そうだよ、そうだよ!」などと同調するように言ってくる。
「ついついじゃないですよ! そもそもわたしにも限界があるんですから! 皆さんの書類だけをチェックすればいいってものじゃないんです」
警備課の事務仕事なんて、他の省に比べれば楽なもんでしょ、なんて以前あたしに言った総務省の職員が居たが、ヤツはこの仕事の大変さをまるで分かっていない。あの時はヤツのたるんだ腹にグーパンを叩き込んでやりたいほど腹が立ったものだ。
そもそも、首都の治安を守ると言っても、その仕事は多岐に渡る。大きな犯罪から小さな犯罪、果ては市民同士の小さな小競り合いから、屋根から降りられなくなった子猫の救出まで、何でもやれと言われるのがあたしの勤める治安維持局警備課の仕事なのだ。
そして対処した事案は全て書類に書き込み、上層部へと提出させられる。そう、ただそれだけならあたしもここまで激昂したりしない。
問題は、警備課だけで対処できない案件、ぶっちゃけて言えば魔術を使った犯罪や、魔獣や魔物による被害などに対しては、どうしても魔術師たちとの連携が必要になってくる。
普段彼らは、あの妙にジメッとした薄暗い地下の部屋に篭って、魔術に関する事柄についてなにやらしているらしいが、そこは腐ってもこの国で一番のエリート集団と言われる魔術管理局、魔術関連の事象にはめっぽう詳しい。
だから警備課はかなりの頻度で、魔術管理局との協力を強いられる。別に魔術師が嫌いってわけじゃない。そりゃあ、中にはいけ好かない奴もいるけど、あの嫌味で陰険なヒョロ眼鏡に比べたら、他の魔術師の「ワタクシたち、特権階級ですのよ、そこんとこ気をつけてくださる?」と言わんばかりの態度など、あらあら仕方ないわねぇウフフフ、と一笑に付してしまえるほどだ。
勘違いエリート脳を相手にする時は、仕事としてドライに割りきって対応できるけど、あのヒョロ眼鏡、もとい魔王だけは別。
あの魔王はとにかく少しのミスも見逃さず、こちらの言葉や態度を隅から隅までチェックして、嫌味と皮肉をゲロのごとく吐き出し、少しでも反論しようものなら何億倍にもして返してくるという、もはや人を口撃してないと死んじゃう病気にでも罹ってるの? と疑うレベルの男である。
だがしかし、そんな歩く自動嫌味吐き出し機、腹立たしいことに仕事だけはできるのだ。だから誰もあの魔王に反論しないし、できない。あたし? 最初はしたさ。だけどね、今はもうただひたすら黙って耐えるのみだね。内心で延々と呪詛を唱えながらな!
そんなわけだから、魔王の責め苦に合わないための対策と言えば、ヤツにこちらを責める機会を与えないこと、即ちミスをしないことだ。だけどあたしだって人間だ、毎日山のような書類を捌いていると、どう頑張ったって完璧にミスをなくすなんて不可能なのだ。
「アンには悪いと思ってるよ。でもね、彼を前にしても平然としていられる人って、なかなか居ないんだよねぇ」
のんびりとした口調で言う課長に殺意が湧く。このあたしのどこが平然としていると言えるのだ。現在進行形で、こうやって課長の頭皮に呪いをかけながら激怒しているじゃないか。
課長の頭皮を睨みつけていると、警備課の扉が再び開く音がし、それと共にガヤガヤと数人の課員たちが部屋に入ってきた。
「ただいま戻りました」
集団の先頭に立っていたオレンジ色の髪の青年が、爽やかな笑顔とともに言った。副課長が「見回りご苦労」と労っている。
すると爽やか笑顔の青年があたしと課長のただならぬ空気を感じ取ったのか、不思議そうな顔をしながら近づいてくる。
「あれ、どうしたんですかアンさんに課長」
副課長よりかは幾分低いが、それでも普通の成人男性よりもはるかに長身で逞しい体つきをした青年――アランがあたしに目線を合わせるように屈んでくる。
思わずあたしは後ろに飛び退いた。バクバクと痛いほど心臓が早鐘を打っている。くっ、いつもながら自然にあたしの心臓に負荷をかける男だ。
急に黙りこむあたしを見た副課長は、ニヤニヤとイヤらしい笑みを浮かべながら告げ口する。
「それがな、また魔術管理局の局長に、なにやら嫌味を言われたらしいぞ」
「またですか? それで今度はどんなことで?」
男らしい精悍なアランの顔が僅かに顰められる。課長は書類を捲りながら、問題の箇所を探しだす。
「あぁ、ここだ。あ、ここは……」
アランに書類を見せながら指摘した課長の顔が、気不味そうに歪む。アランも「あっ」と小さく声を上げた。
「すみません! これ、俺が書いた箇所です」
思わぬ事実にあたしは再度ぐっと息を呑む。そんなあたしをどう思ったのか、アランは男らしい顔に情けない表情を浮かべながら、あたしに謝ってくる。
「本当にごめんなさい。俺がもっとしっかりと見直してれば、アンさんも嫌な思いをせずに済んだでしょうに……」
大きな体を小さくさせて、しょんぼりと肩を落とすアランを見たあたしは、場違いだと思いながらも可愛い、と不意に思ってしまった。
「も、もう済んだことだから、それ以上謝らなくてもいいよ。ただし、次からはもっと気をつけてちょうだい」
「はい! 俺頑張ります」
そう言って、爽やかに笑うアランに、あたしは頬に熱が集まりそうになるのを必死に耐え忍ぶ。他の課員たちが「アランにだけアンは甘いよなー」などと言って冷やかしてくるから、ギロリと睨みつけると、一瞬にして黙りこんだ。
課長が小声で「はぁ、よかった」などと呟くのが聞こえたけど、今だけは見逃してやろう。
夜勤以外の課員が帰宅した警備課の室内は、シンと静まり返っている。夜勤組は今見回りに出たばかりだから、あたし以外の課員は誰もいない。
ちょうどきりのいい所でペンを置くと、窓の外から鐘の音が聞こえてきた。朝昼夕と三度鳴る鐘は、時計が一般市民には高級品なこの国では、時間を知る貴重なものだ。
凝り固まった肩をほぐしながら窓に近づいて外を見ると、首都ランメが茜色に染まっている。季節はもう直ぐ炎天の月――いわゆる夏に近づいているから、日に日に太陽が暮れる時間が伸びているのが分かる。
あたしの勤めている職場は、中央管区ルーチェと言い、国を動かす各省が寄り集まった場所だ。
元々はグランデ城という城だったらしい。今は共和国となっているけれど、以前は君主制の王国だった。
だけど色々とあって、今の共和国になった時、国を動かすための機関を次々と生み出したのは良いけれど、じゃあどこを主軸に国を動かすかってなった時、やはり色々揉めた後、結局は城だったこの場所を各省が分けあって使うことになった。
王国だった時の名残で、この首都ランメは北側に城、もとい今は官庁と大統領が住む区画があり、南側が公共地区や商業地区、そして居住区などに分類されている。
そしてそれらを守るようにして、円形に高く分厚い壁に覆われている。
首都に初めて来た時、あたしが最も驚いたのは、街の中を蜘蛛の糸のように水路が走っていたことだった。その水の出処は首都を囲む壁の外にある堀であり、その堀の水の供給源は首都の北側にそびえ立つ山嶺なのだ。
あたしがこの世界に生まれ落ちて育った場所は、こことは比べ物にならない程の辺境の地だったから、首都ランメの理路整然とした町並みを見て、思わず絶句したのを今でも鮮明に覚えてる。
よくよく考えれば、あたしが前世で目にしていた都会の光景のほうが、よほど凄いものなのだろうけど、二十年野生の動物と魔獣や魔物くらいしかいないような森の中で育つと、感覚がおかしくなるのも当たり前の話しだと思う。
そして当たり前のように魔術やら前世やらと言ってきたけど、この世界はあたしの生きた世界とは全く違うのだ。地球の、日本とは。