18.
「魔人がいずれ人の支配する大陸にやってくるのは、もう確定してる。それは理解できるか?」
「理解できても理由が分からない。ちゃんとその辺りを説明しなさいよ」
「まったく、さっきまでびーこら泣いてた女のセリフとは思えねぇな」
魔王の言葉にカッと頬が熱くなる。いまだに鼻水はズルズル出てくるし、目元も腫れぼったいけど、気にしたら負けだ。
「魔人の中でも、自分たちの生活を維持しようって穏健派と、世界を我が物顔で闊歩する人に恨みを持つ過激派の二つに分かれてる。まぁ、大雑把に言えばな。それ以外の奴らもいるけど」
「それで、アンタはその穏健派だって言いたいわけ? 躊躇いもなく、自分の仲間の胸に穴を開けるようなアンタが?」
「拘るねぇ。こうは考えられねぇのか? オレのお陰で命拾いできたって」
まるで正論のように聞こえるけど、アイツらに向かってコイツは確かに言ったのだ。自分を探しにきたんじゃないのかって。となると、あたしが命を落としかけた原因は魔王であるコイツのせいなのだ。
それを指摘すると、ヤツは面白くなさそうに鼻を鳴らした。
「アイツらは勘違いしてやがんだよ。オレが人の大陸に来たことで、ようやく人類を攻め滅ぼす決意をしたんだろうってな」
「勘違いじゃなくて、事実でしょうが」
「阿呆かお前は。オレがその気なら、とっくにこの国どころか世界が滅んでるっつーの」
すっかり冷めた紅茶を顰め面で飲み干して、魔王はカップをソーサーに静かに置いた。
「じゃあ一体なにしにココに来たってのよ。まさか暇だから遊びにきました、とか馬鹿なこと言わないでよ」
「その馬鹿なことが理由だけど、なんか問題あるか?」
こてん、と首を傾げても、可愛げなんて全く感じられない魔王にこめかみが痙攣するのを感じた。
「嘘つけ! アンタねぇ、あたしと取り引きしたいってんなら、もっと真面目な態度を取りなさいよ!」
「オレは真面目に言ってんのに、お前が勝手に喚いてるだけだろうが」
「どこの世界に、遊び目的で人の世界にやってくる魔王がいるってのよ! 本当のことを言え!」
ダンッ、と強く机に拳を叩きつけると、ヤツは行儀悪く頬杖をついた。
「だーかーらー、本当のことだって言ってんだろ。お前はどうしてそんなにオレを悪者にしたいわけー?」
「自分の過去から現在までの行いを振り返ってから、そのセリフを言え!」
あたしの言葉に魔王が指先を額に当てて、うんうん唸りだした。
「オレほど清廉潔白で仕事に真面目な人間もいねぇじゃん? スゲェ完璧な人間じゃね?」
「あれだけあたしのみならず、周りに毒を撒き散らしておきながら、どこが清廉潔白だ! ていうか、アンタ人間じゃないでしょうが!」
「オレは非効率で非生産的な仕事場を快適になるように手助けしただけなのに、その言い方傷つくわー」
駄目だ、言葉が通じない。
いや、しかし。コイツが局長になってから、以前より魔術絡みの犯罪が減り、効率のいい魔術システムができていったのも事実だ。だがそれは何となく認めたくない。
「もっと本質を見ろよアンフィー・イアリーナ。オレがこの国で働き出して、なにか悪さした証拠でもあんのか? ただ真面目に働いてただけじゃねぇか。むしろオレよりお前のほうが、よっぽど悪さしてたじゃねぇか」
ニヤニヤと薄笑いを浮かべながら、魔王がテーブルの上に放置したままの魔術具を指差す。さすが魔王、人の弱みに付け込むのが上手すぎる。
「そ、それは……でもアンタがいるから魔人が来るってことなら、やっぱりアンタはいないほうが良いじゃない」
「残念ながら、もう手遅れだね。昨日のことは既に他の魔人たちにも伝わってんだろうし、遅かれ早かれ他の魔人も人の大陸にやってきてたはずだ。さっきも言ったろ? 人を滅ぼしたくてウズウズしてる過激な連中がいるってな」
魔王はあたしが魔力をこめたままにしてあった小石を手に取り、掌の上で弄び始めた。
「だったらアンタが魔人たちをどうにかしなさいよ。それが一番手っ取り早い方法じゃない」
「ヤだね。オレは誰の味方にもならないって決めてんだ。魔人にも人にもな。オレはオレだけの味方だ」
どこまでも身勝手な魔王に呆れて物が言えない。自分で招いた事態なのに、なんでそれを人のあたしに押し付けようとする。
「まぁ、それ以前に、オレがもしどっちかに着いてみろ、それこそ魔人と人との全面対決は避けられねぇ事態になる。魔人たちには、オレが人の大陸に来てることは知れ渡っちまった。昨日のでな。で、それなのに何もしてねぇ――あらら? ボクタチの魔王様は一体なにをしてらっしゃるのかな? もしや、人の味方につくつもりなの!? 許せなーい! よし、ボクタチの魔王様を誑かした人類を滅ぼしてやろう、そうしよう!」
掌の小石をポーンと放り投げると、小石は重力に逆らって、そのまま宙に浮いた。
「もしくは、こうか? どういうことだ! あの伝説の魔王が我ら人の大陸にいるではないか!? いきなり魔王がやってくるとは、なんと大胆不敵な! これは魔人たちが我々を侵略するつもりだな! 許せん、これは人の総力を結集して魔人たちを滅ぼさねば、我らが滅ぼされるぞ!」
芝居がかった口調と仕草で魔王は言い切ると、宙に浮かんだ小石がパキン、と粉々に弾けてテーブルの上に散らばり落ちていった。
あたしは粉末状になってしまった元小石の成れの果てを見てから、顔を上げて魔王を見返した。
「そもそもアンタがあたしを強くするとかって時点で、魔人たちを裏切ってるのと同じじゃない」
「そこはほら、バレねぇように上手いことすんだよ」
ヒラヒラとおざなりに手を振る魔王に、あたしの眉間に皺が寄る。
「意味がわからないんだけど。なんであたしが強くなる必要あるわけ?」
「そりゃあ、お前が襲い来る魔人の脅威に立ち向かうためだろうが」
「なんであたしが立ち向かわなきゃなんないのよ」
「おいおい、オレはどっちの味方にも付かねぇって言ってんだろ?」
魔王の無責任な発言に、再びこめかみが痙攣する。
「全部アンタの責任でしょうが! なんでアンタの尻拭いをあたしがしなきゃなんないのよ!」
バンッとテーブルを叩くと、下で大人しく座っていたクロタが吃驚したのか、きゅんきゅん鳴き始めた。
魔王はテーブルの上に散乱する魔術具を手に持ち、見せつけるようにして喋り始めた。
「いやー、無名の魔女の魔術具が、どうしてこんな所にあんだろうなー。あ、オレ魔術具取締課を管轄する魔術管理局の局長だったわー、こりゃあ見逃せねぇ。今直ぐにでもルーチェに持ち帰って、摘発に乗り出さなきゃなんねーわー。あー、大変だわー」
酷い棒読みの魔王に、あたしは口を噤むほか無かった。この野郎、いつか見てろよ!
下卑た笑みを湛える魔王を前に、あたしは切れそうな血管を正常な状態に戻すべく深呼吸をする。高血圧で死んだら、絶対コイツのせいだわ。
「もしも、アンタの正体が誰かにバレたら、アンタはどうするつもり?」
あたしの問いに、魔王は先程とは打って変わり、それはそれは、吐気がするほど美しい笑みを見せてくれた。
「その時は正体を知ったヤツ全員を速やかに消すしかねぇな」
天上に住まう人のように美しい外見をした男の中身は、悪魔のような性格をした最低の男だ。あぁ、悪魔じゃなくて魔王だった。
「そうならないためにも、お前はお口をしっかり閉じて、オレの正体を言わないようにしなきゃな」
「あたしが不可抗力で正体を言ったら?」
「正体を知った相手は、この世からオサラバするしかないな。もしくはお前が相手の記憶を魔法で操作するとかな」
言われて吃驚する。そんなことまで出来るの? あたしは物理的なことにしか”チカラ”を使ってこなかったから、そんなことが出来るとは知らなかった。
それが顔に出てたのだろう、魔王はまた溜息を零した。今度は本当に呆れた顔で。
「計算高いくせに、変なところで純粋すぎて頭痛くなってくるわ。マジでその歳までよく生きてこられたもんだわ」
魔王の感心したような、馬鹿にしたような態度に、顔に今日何度めかになる熱が集まる。
実際、あたしは成人するまで養父母以外の人と、ほぼ接触してこなかったのだ。田舎者どころの話しじゃない。前世の記憶のお陰で何とか社会に溶け込んでいるけれど、魔王の言うようにあたしは自分の”チカラ”のことさえろくに分からず生きてきたのは事実だった。
「……それで、アンタはあたしが取り引きに応じれば、絶対にあたしの大切な人には手出ししないって誓えるの?」
「”あたしの”ってところが、実にアンフィー・イアリーナらしくていい。”人類を守るため”じゃなく、自分の振るえる正義の範囲を理解してるトコロは嫌いじゃねぇ」
「アンタに好かれても嬉しくないんですけど」
「こんなに優雅で美しいオレに好かれて嬉しくないなんて、お前の美的感覚はどうなってんだ? ま、それより取り引きに応じる気になったってわけだな」
「まだよ。アンタがあたしを強くするって言ったけど、強くなったらアンタが困るんじゃないの? あたしが力を付けた時、真っ先に自分がどうこうされるかもって思わないわけ?」
魔王が机に散らばったままの小石の粉末に視線を落とすと、粉々になったそれらが生きて意志を持っているかのように動き出し、そして次第に一つの塊になったかと思えば、また元の小石の姿に戻っていく。
「お前は自分のハンデを理解してねぇな。魔法を今よりもっと効率よく使えるようになったとしても、お前にはオレを越えるだけの魔力の貯蔵量がねぇ。それこそ人類魔人、あと魔獣に魔物に動植物、それらすべての魔力を吸い取って、ようやくオレと渡り合える程度になるってとこだな」
コロコロと元に戻った小石を整った指先で、テーブルの上を滑らせながら魔王が言った。
あたしは考える。コイツを超えるための魔力を集める方法を。知ってる人から知らない人、果ては魔人や魔物や魔獣の魔力を片っ端から奪い取る? どうやって? 勿論、口からだ。
その光景を想像した瞬間、あたしはサッと血の気が引くのを感じた。
無理だ。絶対に無理。ファーストは非常事態だったとしても、セカンドは絶対に心に決めた人としたい。これだけは何がなんでも譲れない。それ以前に、あんなのをファーストだとは認めない。ノーカウントだ。
「強くなるだけじゃなくて、アンタの言うことを聞くってのが引っかかるんだけど」
あたしを強くする、コイツの正体を黙る、そしてコイツの言うことを聞く。改めて考えなおすと、あたしにとって不利な条件の方が多いじゃないか。
「まぁ、そう警戒すんなって。誰も跪いて足を舐めろなんて命令しねぇからさー」
するつもりだ。コイツ絶対命令するつもりだ。
「言葉だけじゃ信用できない。書面で契約しなさい」
あたしは立ち上がって戸棚の真ん中の引き出しを開けた。そこから何も書かれていない少し黄ばんだ用紙とペンを取り出し、魔王の前に叩きつけるようにして置いた。
「ココに、書くのよ。”私はアンフィー・イアリーナと本人の大切な人に対して、危害を加えないこと。本人の納得しない命令をしないこと。以上を守ります。守れない場合、この身が再起不能になるまで傷つくことを誓います”」
魔王はあたしの言葉を聞いて半眼になった。
「本当にお前は見た目に反してえげつないことを思いつくよな。オレよりよっぽど魔王に向いてんじゃねーのか?」
「書かないなら、あたしは取り引きには応じない。それが気に入らなくってあたしを殺したいって言うなら、どうぞご自由に。ただし、あたしも死に物狂いで抵抗してやるから、そのつもりで」
腕を組み魔王を見下ろして宣言する。魔王は用紙を手に取って、興味深げにそれを裏返したりかざしたりし始めた。
「この契約の書はお前が作ったのか?」
「そうよ。文句ある?」
魔王はフッと笑って用紙をテーブルに置き直した。
「いーや、ねぇよ。それより誰から契約の書の作り方を習った」
「おじさんの本にそんな感じの記述があったのを真似ただけよ。でも効果はあるから魔法? を使って誤魔化そうとしないことね。虚偽の内容を書こうとしても、用紙には何も書けないようにしてあるから」
魔王は何がおかしいのか、くつくつと低く笑いながらも、ペンを手に取り用紙に近づけた。
「お前さ、この契約の書は絶対に他所で使うんじゃねぇぞ。これ、市販で出回ってる契約の書の威力なんざぁ、足元にも及ばねぇほどの強力な魔法が掛かってっからな」
「え、本当?」
驚くあたしを構う様子もなく、魔王は流麗な文字でさらさらと最後まで書き終えると、署名をしてペンを置いた。
「このペンもお前が作ったんだろ? 自動でインクが補充される仕組みは、斬新だよなぁ。まぁ、一般人には到底手が届かない値段だけどな。まったく、無名の魔女様は商売上手でいらっしゃる」
ケラケラと笑う魔王の手元に置かれた用紙に異変が起こる。書かれていた文字が蠢き始め、テーブルに置かれていた魔王の指先へと這いより、袖口から覗く手首へとスルスルと登っていくのが見えた。
契約の書は簡単な作りの魔術(いや、あたしの場合はもう魔法なのか?)を用紙に掛けたものの事を指す。
そこに書いた内容を反故にするような真似をした場合、何らかの罰が署名した本人に与えられるようになっている。
この前ピチェーレさんの店で書いた用紙も、契約の書だ。ただし、あれはあたしが作った物じゃない。多分普通の既成品のはずだ。
「さて、これで満足して頂けたかな、アンフィー・イアリーナさん」
魔王がヒラリと契約の書をあたしに渡した。そこには文字を記入する前と全く同じ状態で、なにも書かれていなかった。
あたしはしっかりとそれを確認すると、再び戸棚に用紙とペンを直してから席に戻った。ちなみに引き出しには、あたし以外の者が触れても開かないように魔術――じゃなかった、魔法を掛けておいた。魔王がさっき魔術具を仕舞ってある戸棚を無遠慮に開けたのを見たせいだ。
「このオレがここまでしてやったんだ。今更取り引きは嫌だとか言うなよ?」
「あたしはアンタと違って、約束は守る質なの。馬鹿にしないでちょうだい」
「へーへー。そりゃご立派なことで。じゃあ今度はオレの番だ。単刀直入に聞く。アンフィー・イアリーナ、お前は一体”どこから”やってきた?」
魔王が目を眇めて尋ねてきた。あたしは何と答えようかと、返答までに間が空いてしまった。
「故郷の森から来たけど、それがなにか?」
「誤魔化すなよアンフィー・イアリーナ。オレの言いたいことはそうじゃねぇって、分かってんだろ?」
捕らえて離すかと言わんばかりの視線を投げかけられ、あたしは思わず目線を魔王から外して下を向く。そこには真っ黒な毛を持つ狼モドキのクロタが、行儀よく床の上で寝そべっていた。クロタめ、順応力高すぎじゃない?
「無名の魔女ことトーコ・オーツカ。この名前の由来はなんだ? この世界で耳にしたことのねぇ類の名前だ。それにお前が昨日森で喋った、奇妙な言葉。あぁ、さっきもだったな。お前はどう見てもこの世界の人間とは思えねぇ」
あたしの中を探るように、紫色の魔王の瞳が射抜いてくる。あたしは動揺を表に出さないように努力する必要があった。
「アンタが自分のことを包み隠さず全部言うのなら、あたしも自分のことを話してあげる。それが出来ないなら、あたしは自分のことをアンタには絶対に話さない。無理に口を割りたければどうぞ。さっきの契約の書が、どう発動するのか見ものだわ」
早くなる鼓動が、目の前に座る魔王に聞こえやしないかと、内心ひやひやしていた。
あたしが作った契約の書が、いったいどれほどの拘束力があるのか、作ったあたし自身がよく分かっていないからだ。
コイツはとんでもない物だと言ったけど、あたしよりも魔力もあって魔法とやらも使いこなせてるコイツに、契約の書の力だけで何とかなるとは思っていない。きっと、コイツがその気になれば、なんだかよく分からない”チカラ”(魔法? 魔術? まったく、違いがなんだって言うのよ!)を使って契約の書の内容を破棄するくらい出来そうだ。
ジッと黙りこむ魔王を睨み返してあたしも口を閉ざしていると、魔王の表情がフッと和らいだ。
「ま、そこまで今は興味ねぇから、お前が誰だろうと別になんでもいいや」
魔王は立ち上がると、眼鏡のブリッジを押し上げた。
「じゃ、オレはそろそろ帰るとするわ。おークロタ、お前も元気でな」
「わふっ!」
クロタの身体を無遠慮にワシワシと撫で回しながら魔王が言った。その言葉にあたしが硬直する。
「ちょっと待て。クロタをここに置いていくつもり!?」
「そうだけど、なんか問題あんの?」
「問題しかないわ! こんな狭いアパートで、クロタが飼えるとでも思ってんの? ていうか、この子が誰かに見られたら、大変なことになっちゃうじゃない!」
クロタがまるであたしの言葉が分かっているかのように、悲しそうにキュンキュン鼻を鳴らし始めた。胸が痛むけど、この部屋で動物を飼う余裕もないし、リスクも負えない。
「だったらバレねぇように、お前が魔法でなんとかすりゃあ良いじゃねぇか。そのためにも、オレがしーっかり魔法を教えてやるって言ってんだしよぉ」
「直ぐに実行できないでしょうが! それに餌とか散歩とか、どうすればいいわけ? 日中はあたしだってアンタと同様、働いてるのよ? その間、クロタは誰が面倒見るってのよ」
あたしの言葉に、ますますクロタが哀れを誘うように鳴き始める。吠えはしないかと、今更になって冷や汗が吹き出してきた。
「クロター、お前のご主人様は薄情な人ですね~。魔力を根こそぎ奪われた上に、無責任にもお前を放り出すつもりだぞぉ? 可哀想に、今更森で生きていけなんて言われても、この姿をもし人に見られたら、それこそ今度は殺されるって、お前のご主人様はぜーんぜん、分かってないみたいですよぉ~」
魔王の言葉にグッと喉が鳴る。そんなこと、まるで思いつきもしなかった。ただあたしは、森で静かに生きてくれたら良いなって思ってただけだ。だってあたしの故郷の森で魔力を貰ってた魔物や魔獣は、みんなそうしてたから。
でもクロタは違うのかもしれない。あの魔人たちに飼われてたみたいだったし、それをいきなり野生に帰りなさいなんて言われても、どうすれば良いのか分からないだろう。
ぐるぐると悩むあたしに、なおも魔王は言い募る。
「人に見つかるだけじゃなくて、他の魔物や魔獣に見つかった時もどうすりゃ良いんですかね~。前みたいに魔力を使えないから、抵抗できずに無残に殺されるだけだよねぇ。あぁ、可哀想なクロタ。でも我慢するんですよぉ? お前はもう冷血なご主人様から見放されたんだからなぁ? 仕方ないよなー」
「わっ、分かったわよ! 飼えばいいんでしょ! 飼うから黙りなさいよ!」
クロタの耳を左右にビヨーンと引っ張っていた魔王が、あたしを振り返って微笑んだ。
「そうですか、それは良かった。ではこれからしっかりと、クロタの面倒を見てくださいね、イアリーナさん」
もう魔王ではなく、ウィル・ロームに戻ったヤツが立ち上がりながら言った。
「ちょっと待ちなさい」
すっかり帰る体勢に入っているヤツは、引き止めたあたしを不思議そうに振り返った。
「ずっと気になってたんだけど、あたしの事をフルネームで呼ぶの止めなさいよ。メチャクチャ気持ち悪いし鬱陶しい」
コイツが本性を出してから、人目がない時はずっとあたしを「アンフィー・イアリーナ」と呼ぶのが気に入らない。コイツに名前を呼ばれると、あたしの名前が穢される様な気さえする。
「人が親しみを込めて呼んで差し上げているのに、身勝手な人ですねぇ」
「余計なお世話っていうか、そもそも親しみなんて全くこもってないでしょ。むしろ蔑みしか感じない」
「仕方ないですね。では、アンさん、そろそろ失礼致しますね」
「違う! やめろ、そうじゃない。もういい、とにかくフルネームはやめて。気軽に略称でも呼ぶな。いつもの『キモイ』くらい丁寧な呼び方でいい」
言ってから、ハッとまた我に返る。案の定、魔王の口角がニュッと吊り上がった。
「『キョーヒ』ってなんですか、イアリーナさん? まったく、その年になって言葉遣いがなってませんねぇ」
今日分かった。この世界にはまだ「キモイ」って言葉に相当するものが無いってのが。これからは気をつけて、コイツを罵る時には丁寧に「気持ち悪いです」と言おう。
整った顔に優美な笑みを浮かべる魔王を見ていて、あたしはフッとあることを思い出す。
「そう言えば、アンタの本当の姿ってどっちなの? というより、なんであの時地面から黒っぽい液体が出てきたわけ?」
あたしが尋ねると、魔王は顎に手を上げて勿体ぶった口調で言う。
「イアリーナさんは、この姿とあの姿、どちらがお好みで?」
「どっちも好みじゃないし。質問に答えなさいよ」
嘘である。ぶっちゃけあの化け物じみた姿は、あたしの「萌え」をくすぐる姿だった。だけど絶対にコイツには言わない。自分から弱点を晒すわけにはいかない。
「そうですねぇ、簡単に言えば、この姿を保つための魔力をイアリーナさんに吸い取られたせいですかねぇ」
意味ありげに首を傾げられ、あたしは咄嗟に俯いてしまう。バカか! こんな態度取ったら、まるであの時のことを気にしてるみたいじゃないか。いや、もうさっき盛大に泣いた時にバレてるんだけどさ。でもノーカン。あれはノーカンだから。
「それって魔力が弱くなると、あの姿になるって言いたいわけ? アンタの魔法とやらも知れたもんね」
精一杯強がりながら言ってやると、魔王はくつくつと低く笑った。
「違いますよ、その逆です。抑えつけていた魔力を取り払われた状態になると、あの姿になるだけですよ。要するに、この姿が本来の魔力を抑えるための防壁みたいなものですかねぇ」
あー、そうですか。またオレ強いアピールですか。なんなの、その少年漫画みたいな説明!
ギリギリ歯噛みするあたしに対し、魔王はおもむろにこちらへと近づいてくる。思わず「殺る気かコイツ!?」と距離を取りかけるあたしを予測してか、それよりも素早く魔王が近づいて来た。
「なっ、なによ」
ムカつくくらいに綺麗な顔を近づけてくる魔王に、ドキドキと胸が早鐘を打つ。乙女心的な意味ではなく、己の生命の危機的な意味でだ。
「なんならもう一度私の魔力を奪ってみますか? そうすればあの姿になって差し上げられますよ」
非常に魅力的な申し出に思えるあたしの脳みそは、昨日あの魔人に頭を踏みつけられたせいで、多分どこかの脳神経がおかしくなったのだろう。
隆々とした筋肉を包む真っ赤な肌には所々が鱗に覆われていて、下半身は獣のような形をしていた。ゴツゴツとした醜悪な顔に耳元まで裂けた口をしていて、そこから覗くのは鋭く不揃いな牙と紫色の口内が見えて、こんなに理想的な化物がいるのかと思わず見惚れそうに――
思い出すだけで不整脈になりそうなどと思っていると、魔王の人外じみた美貌が直ぐ目の前に迫ってきて、思わず真顔になる。相変わらず香水の匂いが不快極まりない。
「今すぐ離れないと、張り倒す」
「そういうのは、やる前に言うべきなんじゃないですかねぇ。本当に恐ろしいほど暴力的ですね、イアリーナさん」
ほぼ無意識で右手を振り上げていたあたしに対し、魔王は苦もなくそれを避けてから言った。
危なかった。思わずコイツの口車に乗るところだった。あの姿の魔王から魔力を奪うならまだしも、この姿のコイツから魔力を奪う気は毛頭ない――って、いやいやいや、そもそも前提がおかしい。あたしは二度もコイツに口付けるつもりはないし、昨日のアレも無かったことにしたはずだ。
あたしの好きなタイプは誠実で、筋肉質な人。あたしは普通、普通なんだ。よし、落ち着いてきた。
「もういい、早く帰りなさいよ」
落ち着くと今度はどっと疲れを感じて、犬を追い払うようにシッシッと手を振ると、ヤツはキモ……もとい、気持ち悪いほど優雅で完璧な所作でお辞儀をしてから、来た時とは違って玄関から出て行った。
あたしは直ぐ様ドアに近寄り、急いで鍵を掛け、その上に自分以外の人間が通れないように結界を施しておいた。それでも安心できないから、部屋全体に同様に結界を張り、ついでにクロタが鳴いても周りに聞こえないように、防音の結界も張っておく。防音の結界はあまり使用したことがないから、上手く張れてるかどうか自信はないけど、ないよりマシだ。
ホッとようやく溜息をつき、あたしはいつも座る揺り椅子に腰掛けた。
クロタが伺うようにあたしの太腿へと頭を乗せる。真っ赤な瞳は普通の獣とは違うけど、美しい色をしていた。
「ごめんねクロタ。あたしが考えなしに魔力奪っちゃって。癪だけど、アイツの言うとおり、あんたの世話はあたしがしっかりするからね。でも、上手く出来るかどうか分かんないから、間違ってたら教えてね?」
あたしの言う言葉を理解したように、クロタは控えめに「ばふっ」と鳴いた。言葉は通じないけど、あたしはそれが肯定の意を示しているのだと何となく感じられたのだった。




