第1章3節 「水の国、旅の潤い」
第1章3節 「水の国、旅の潤い」
私は先程、ここ「かたつむりの噴水」広場で飲料水を買った。この場所は当国の中央部に位置するラムール街の中の大きな広場だ。広場内の各所には深海カタツムリのモニュメントが飾られていた。モニュメント付近には多数の長椅子が設置してあり、私は椅子に腰掛けて小休止を、・・いや、長めの休憩を取っていたのだ。
休憩を終えた直後に、近くを売り子の少女が通った。このアントレ国に入国してしばらくすると、古い商店が立ち並ぶ広い道に差し掛かる。そこの商店では飲料水購入用の丸蓋瓶を買うことができるため、私は450㍉L型の物を二本手に入れており、売り子からは丸蓋瓶二本共に並々注いでもらった。売り子の少女はしきりに甲高い声で、瓶の水滴を拭うのに重宝しますよと手ぬぐいの購入も勧めてきた。なかなか商売上手な売り子だなと思ったりもしたが、どうやら少女の姉が手縫いの裁縫専門店を営んでいるらしく、広場で売り子をやる時にはそのお店の商品もついでにお客さんに勧めてきてくれと頼まれているらしい。裁縫店の宣伝にもなるからと、少女は少し面倒くさそうな顔をしたりもしたが、割と熱心に手ぬぐいの勧めを押してくる。その手ぬぐいには表生地はバラを模したような柄が散りばめられていて、色は暗めの赤色だが裏生地を引っくり返すと水色一色だ。表生地の布の角には薄い水色でお店のロゴが縫ってあった。しばしそれを凝視する。不思議と目を引くデザインのような気がする。瞳の形、かな?まつ毛がピンと反っているデザインを見るに、女性の瞳だろうか。なにか、艶っぽさを感じる。麗しい瞳、謎めいた瞳、魅惑の瞳・・、このロゴには一体どんな思いが込められているのか?女性の瞳を形づくるロゴが聞かずにはいられないどうしようもなさを私から引き出した。私は売り子の少女に半ば演技がかったような静かな口調で、秘密の暗号を探るかのように問う。
「この女性の瞳のロゴ、立案者はキミのお姉さんかな?この不思議な魅力、このロゴには一体どんな意味が込められているんだい・・?」
私は少女の視線を逃さず回答を仰いだ。彼女もまた、私の方を見る視線を強めた。一瞬の沈黙が生まれる。彼女が起こした無言の無音状態、発生源があまりに狭い目前だったために、まるで私と少女の視線間における距離がどんどん縮まっていくようだ。質問への回答は、彼女の右目の瞬きの後、すかさず開始された。
「ロゴ?ロゴってこのマークのことね。そうよ、お姉さまが布の端にこのマークを付け始めたの。」
やはりそうだろう、少女の姉が考えたのだ。そして何か特別な意味を縫ったはず。続いて少女は質問の確信に答える。
「このマークの意味も知りたいの??意味は無いわ、だってこのマークは昔うちで飼っていた犬の瞳よ」
少女は真顔に近い表情で答えた。飼っていた犬?私の強ばった首筋の緊張が一段、弱まる。犬?女性の瞳ではなく?
「昔飼っていたペル子っていう雌がいたのよ、まつ毛がとにかく長くてピンピン跳ねているのが可愛らしくてね。私もペル子のお目目は好きだった。お姉さまはもっと好きだったと思う。ペル子のまつ毛を毎日の様に櫛でといていたし」
ペル子・・?いや、私は聞き返しはしない。彼女は飼っていた犬の話を語っているだけなのだから。
「お客さんはペル子の名前の意味を知りたいのだったかしら?」
いや違う。そもそもペル子の名前は今知ったのだし、というよりはペル子自体を私は今初めて知ったわけであるし、いやいやもっと違うな。彼女はもう回答の初端に意味は無いと言ってしまっている。なんだ、私は回答を得ているじゃないか。ならばなぜ、私はペル子の名前の意味を知ろうとする立場に置かれているのだ?疑問の縫い目があまりにも雑な気がする・・。
「ちょうど1年前にペル子は死んじゃったの。お姉さまずっと泣いていた。私も悲しかったけど、お姉さまの方がもっともーっと悲しくて寂しかったのだわ。だって、急にペル子の瞳をお店のマークにするって言い出したのだもの。」
ある日から、少女の姉は大好きだった飼い犬の瞳を模したマークを仕上がった商品に縫うようになったらしい。そして、そのマークがお店のロゴとしてあるようになっていったと私は聞かされた。
「お姉さまね、このマークを縫っている時が一番心が落ち着くんですって。ペル子が見つめてくれているようで安心するのって言っていたわ」
ある意味ではこの瞳のロゴに隠された秘密・・?という解釈にしておこう。
「売り子さん、キミもこのマークを見ると安心したりするのかい?」
少女は私の問いかけにため息を返してくれた、もちろん返答も一緒に。
「しないわね。生き物が死ぬのは当たり前の事なのよ。お姉さまはそれが分からないの。私は何度もそれを教えてあげたのに。ペル子は死んだからもういない、それだけのことを分からないお姉さまみたいには私はなりたくないの。だからこのマークを見てペル子を思い出すのは嫌い。」
発言の印象として、 別に冷ややかな少女とは私は全く思わない。ただ彼女は分からないだけのだ。生き物の死を当たり前のものとして受け入れたくない者がいることを。そしてその者は、受けいれられないその証に、“形”を欲しがるのだと。決して受け入れないために。
私は手ぬぐいの購入は控えた。私が当初持ち合わせた勘ぐりはあまりにも大股すぎたため、とても恥ずかしい気持ちを捨てきれなかったから。そのロゴが、製作者が持つ“形”であることを知ったことで瞳のマークの背景を知れたわけだが、それでも私の小っ恥ずかしい気持ちが手ぬぐいの購入を阻んだのだ。自分の第六感を信じるな。私は旅人ではない、ただの観光者ということに今この時だけそうしておこう。売り子の少女は機嫌を損ねる様子もなく、立ち去っていった。
喉の潤しが済んだ所で、私はそろそろ広場を抜けた街路への移動をしなければと歩き出していた。広場の出口に辿りついた時、立ち止まって遠くの眺めを仰ぐ。長椅子で休憩を取っていた時にもそうだったが、ここでもあの 主要水源管理施設の建物がよく見える。建物に塗装されている太い水色と細い白色の縦縞ラインがとても水々しい風景に溶け込んでいるかのようで、あの建物は水の要塞とも名付けるべく様相を呈しているのだ。
この国の主要水源管理施設は、大陸の中でも最高峰の水質管理能力を誇っている。もともと湧き出る水質の良さはあるが、徹底した不純物の除去や高レベルな水質保全を行うことは技術力の向上でしか成し得ない。七大陸どの国の水源管理施設よりも管理能力・処理能力が高いため、他国からの水質管理技術者の見学が後を絶たない程である。しかし、国の保有する施設として重要度が高ければ高いほど、様々な外的要因や内部要因による事故や攻撃を受けた際、国のダメージはあまりに大きいものとなりうるわけだ。そういったリスク管理への意向は近年、アントレ国内の有識者達によって強まった。水源管理施設の分散化、それに伴うテフタリボックの解体、分散化された各管理施設の簡素化と地中化、これらの計画は総称して「ローカライズ計画」と呼ばれ、計画の進捗率はまだ4%しか進んでいない。
計画の進行を達成できない一番の理由は、テフタリボックの解体反対派による活動が早い段階で広がってしまったことにあるようだ。市民皆同派や第三労働階級派、そして民族防衛戦線などの3つの会派が結託して、抗議活動の拡散を行っている。確かに、テフタリボックの解体は、アントレ国の象徴的存在を無くしてしまうような寂しさを私でさえ感じる、ならばなおさら当国の人間が複雑な思いに立ち、そこから感情的な行動に駆られていくのも理解の範疇だと私は思う。だが、事は容易に見て取れない気もする。反対派は反対派で、幾年にも渡って自分たちが吸ってきた甘い何かがあり、その甘いモノを絶たれる事を危惧した上での行動の決起となったのではあるまいか。思惑は多面的に転がっていたりして、どの面が本当の土台なのかはしっかり掴み取ってみなければ分からない。転がっている時ほど多面的に見えるものだ。さて、私の浅い考察も停滞させておこう。どの国にも抱えている事情はあるわけだ、この国の住人でもない私がこういった知ったかぶった詮索は無用である。
それにしても、この広場で抗議活動の呼びかけがあったりもするらしいが、今日はそういった場面に私は出くわしていない。首を傾ける仕草を行うかどうかの矢先にふと思い出す。ああそうか、今日は青誕祭の日か。アントレ国の伝統ある祭日であるから、今日この日においては活動家の人間達も自粛をしているのかもしれない。今夜あたりは国中が賑やかになるだろう。となると今夜は早々に手頃な宿屋を探す必要があるな。早めに部屋で荷を解いて、一息ついたら街に繰り出してみるか。安い酒でも飲めるお店を確保できたならば、夜半頃まで居座ってみるのも名案だ。目的の村を目指すのは、明日でいいだろう。少しばかり辺境の地にあるその村だが、馬を借りれば難儀なく着くはずだと私は自分に言い聞かせた。旅とは、いかに疲れた体を癒すか、という、まるで観光者のような謳い文句を付け加えて。
街路の両脇には水色の旗章が掲げられ、道行く人々に風の音を伝えていた。
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